あまり身に覚えはないのだけれど、若い(だいたい10代の)頃から「変態」もしくは「変態っぽい」という評を受けることがある。
あまり、と書いたが、正直、まったくといっていいほど、これっぽっちも、身に覚えがない。
もしかしたら貌の造り、あるいは表情のパターンがそういう認識をさせるのかもしれない。
けれども僕は変態ではない。
ただいずれにしても、特に否定したことはない。
わざわざ否定することでもないと思うし、否定しなかったとして何か問題があるだろうか。
「変態」もしくは「ヘンタイ」と認識されていることを自覚するのは、決して楽しいものではないし愉快でもないとは思う。(昨今は、ある種の領域内に存在していることを指す敬称として使われることもあるようだけれど)
生態的に見れば、変態によって新しい機能や能力を獲得するわけだから、良いも悪いもない言葉のはずなのだけれど、こと人間に対してつかわれる場合はどうも落ち着きの悪い形容である。
どちらかというと、常態の反語としての意味合いが強い蔑称として使われることが多かった経緯からかもしれないが、これは単に猫(や人間)をはじめとした多くの哺乳類が、変態をしない(直接発生する)生物だからと考えれば、自分の中に微かに発生する違和感にも説明がつく。
さらにショッキングな事には、恋人の一部にも「顔つきが変態そうだから」という理由で僕の恋人になることを決めた人もいるようで、種々相予測のつかないものばかりである。
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一般に人間における変態性とは、概ね性的な嗜好としての意味合いで言われることのように観察される。
ところで僕に分からないのは、前提として存在するはずの「性的な常態」である。
なにそれ? って思うのは僕だけでしょうか。
仮に、変態的な性的嗜好を「eccentricな~」と考えた場合、偏心、つまりは中心から外れて、ということになる。
したがって、常態すなわち中心、main stream (主流)に該当する概念があるということになる。
(ちなみに、eccentric の対義語は concentric だったと思うが、同心であるという概念は、main stream の概念とおよそ等しいようにも感じられる)
もっとも、性倒錯については perversion という語が用意されてあり、これは perversity(正反対)というラテン語を語源にして発生し、(キリスト教義上における)「背信的/邪教的」という意味も含まれているように見えるから、ある意味インディジョーンズの映画みたいなものでしょうか。
「be fruitful、and multiply、and replenish the earth」の和約で一般に広く知られているほうはいささか下品に過ぎると思うが、それを性行為的に解釈したものを正道であると仮定するならば(すでに暴言)、先進国におけるほとんどの性行為は邪道的=変態的とはならないだろうか。
さて、このように考えを広げたところでふたたび本題に戻りたい。
いったい全体、多くの人の呼びならわす変態とはどこからどこまでのことであろうか。
あるいはどこから先の無限遠の広がりのことであろうか。
そして常態とは、それが性的嗜好であった場合、どこからどこまでのことであろうか。
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とまぁ、このように考えると、変態だろうが常態だろうが「なんだかテキトーなことをこの人は考えて人のことをとやかく言っているんだろうなぁ」と思えるようになってくる。
事実として、性的なことに限って言うならば、僕には常態も変態も特にない。
僕には性的自意識が欠如している(機会があれば、いつか書くかもしれない)ので、そこから始まって、どうしようもないのである。
中心のないものに偏心などない。
ゆえに相手の望む範囲で、たとえば首輪とリードを着けさせるだとか、梱包資材で梱包するとか、叩くとか、首を絞めるとか、刃物で切るとか、ちょっと変わった身体へのアクセスをすることに、特段の抵抗はない。
ほかにも本来適合しない場所で、適合しない行為をする(させる)というのも同様である。
下世話になるが具体的な例を挙げるとすると、湯を張った浴槽内で服を着たまま食事をするとか、そういったようなことである。
排泄行為を、不適切な場所や方法で行う(させる)ことにも抵抗はない。
(キャンプ、あるいは野宿の延長線上と考えればどうということもない)
食べ物を身体に載せる、塗る、などの行為も特に抵抗はない。
(大きな食肉や鳥獣魚類を捌いたり、その現場を見ている人間には、生き物と死体である食肉とのギャップにも抵抗は少ない)
抵抗がないということは、従って、その行為に格別興奮するというわけでもない。
着衣入浴&食事は排泄行為を含まない限りは後片付けも比較的簡単だし、ひとりでも(性的な興奮が伴うかは別問題で個人差だろうが)なかなか楽しいと思うので、試してみることをお勧めする。そのときは照明も、蝋燭や懐中電灯などを使えば普段と違う雰囲気で楽しめるだろう。(端的にいえば、キャンプのときの土砂降りに似た楽しさだと僕は思っている)
とはいえ人体を細い紐状のもので縛ったり、皮膚を刃物で切ったり、針のようなもので刺したりするのは、叩いたり首を絞めるのと同様、非常に危険な行為だ。
他にも、食品を(性的に)取り扱う場合は衛生管理だけではなく温度による人体への影響も考慮する必要がある。
たとえばアイスクリームを人の体に塗りたくるべきではないし、人の背中はステーキ皿にも灰皿にも適していない。
糖分は、一部の粘膜で悪性の菌類を繁殖させる原因になることもあるかもしれない。
どうもエキセントリックな行為そのものに興奮してしまう人は、興奮のあまり危険度の判断を誤ったり、あるいはあらかじめすべき警告をうっかり(場合によっては故意に)忘れたり、注意すべきポイントを見誤ったりするようだ。
外傷を伴う場合や食品を扱う場合は感染症の危険があるし、道具による圧迫によって血流が阻害され、血管や筋肉、神経系が傷つくこともある。無理な体位を維持するのは筋肉組織や骨格への過負荷が発生することもある。これらは長期にわたる後遺症や、場合によっては死に至る可能性もないとはいえない。
相手が生きている人間かどうかさえおろそかになるような人間は、まぁ、それこそエキセントリックだとは思うし、人形性愛にでも落ち着いていた方がよいとは思うのだけれど。
そういった短期/長期的な危険を予測しながら人の体に力を加えるような状況下で性的に興奮できる人がいるとすれば、僕など足元にも及ばないくらいの相当な変態だと思うがどうなのだろう。
そしてそういう嗜好を個人的には持っていないにもかかわらずどういうわけか、そうした本当の意味でのエキセントリックな人たちを差し置いて(差し置いて?)変態のレッテルを貼られるのである、僕は。
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おそらく、常態と変態を(厳密にであれ曖昧にであれ)自身の中に境界を持っている人の方がおそらくはまとも(つまりは常態)なのだろう。
よって、僕のように性的なことに関して特に常態も変態もないと思っている人の方が、おそらくは変態なのだろう。
なぜなら、境界があれば分別がつく。
分別がつけば「まとも」なフリも簡単にできる。
よって境界がなければ分別がなく、分別がないから「まともでない振る舞い」に抵抗がない。
それが周囲をして僕を変態と認識させるのかもしれない。
嗜好品もそうだけれど、病気なども、免疫を持たない人の方が症状が重くなる。
ありとあらゆる差別的思考も、そのほとんどは考えたことすらないという、食わず嫌い的な理由によって始まっているケースがほとんどだ。
僕はあまり、そういった「良識(と一般に呼ばれる曖昧なもの)に基づいた判断基準」の境界が曖昧というか、存在しないようなのではあるし、そう心がけている。
あるいは厳密に定義しようと試みるうちに、良識そのものの定義が曖昧になる為に、境界が曖昧にならざるを得ないのである。
人々の良識による判断基準などというのは、クレヨンで機械製図をするようなものだと常々僕は感じている。
もちろんそのクレヨンの直径たるや、個々人の思想によって大きく変わるものでもあるし、そもそもの線引きにあたっては個々人の体力や視力によっても大きくズレが発生するようですらある。
なるほど厳密に定義しようとすればするほど曖昧になる基準(物理でいえば量子系に顕著な現象ではないだろうか)において、僕のような人間が変態に分類させるのは至極当然のようにさえ思える。
定義できないものを「定義できない」と言ってはいけないのが、宗教じみた(あるいは文系じみた)善悪の世界なのだろうから。
彼らは単に自身にとって容易に理解できるものを潜在的に「常態」として考えており、それに除外されるもののすべてが「変態」なのである。
こうして考えれば変態が蔑称として機能している理由も、僕が変態を定義できない理由も説明がつく。
何のことはない、要は好みと知性の問題ではないだろうか。
[要修正]
