// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20180907
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:

SUBTITLE:
~ The chatter in the lie. ~
Written by BlueCat 


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 嘘も方便、とはよく言うものだが、方便というのはもともと仏教の用語である。
 一般に嘘というと、誰かを欺くもの、偽りによって利己を満たすもの、というように思われあからさまに嫌われるように観察される。
「あの人は嘘が上手だ」とか「あの人の嘘は気持ちがいい」などと言われる事は稀ではないだろうか。
 しかし実のところ、多くの嘘がこの社会を覆っているのも事実だ。
 オブラートのように口当たり良くコーティングされているのは、良薬か、はたまた毒薬か。
 翻って僕個人に関しては、嘘というものに関して悪いイメージがあまりない。

 嘘というのは、言葉の使われかたの一形態を指し示すものである。
 情報が故意に偽られていた場合、その情報そのもの(あるいは使われた形態)をさす名詞である。
 名詞として存在しているから、その名にもたらされた意味が俗悪なものになっているように感じることはある。
 実のところ、嘘という言葉をして人は動詞と捉えているように観察される。
「それは嘘だ」と誰かが言う場合、「そこにある言葉(文章)は嘘ですね」という額面どおりの意味ではなく「その発言をした者は嘘をついた」という意味の方に重きを置かれているケースが多い。
 すなわち文脈上、「それは嘘だ」=「それは発言者が虚偽を発信した(かつ受信した者を欺こうとしている)のだ」となる。

 さらにいえば、嘘を指摘することは、そのまま相手を断罪することにさえ使われる。
 第二人者の発言に対して「それは嘘です(ね?)」という場合、「(あなたは私に)嘘をついて欺きました(ね?)」という意味に使われることが多く、強調した確認の語尾がつく場合、その時点でかなり強い断罪の意思が感じられる。
 要するに(嘘だとしたらただじゃおかないぞ)という意味である。
 多くの人はこの「嘘だと定義することが、嘘をつくという行為を指摘することであり、非難と同時に断罪になる」という用法に違和感を感じないだろうし、改めて考えたこともないだろう。

 しかし名詞を冠して定義するだけでこれだけの作用をもたらす言葉も少ないのではないだろうか。
 たとえば「それはペンです」という発言が「あなたはそのペンで誰かを刺しましたね」という意味になるということだ。
 ふつう、そんな意味にはならない。そんな意味で使う人がいたら、むしろその人が異常者扱いされるだろう。
 まぁ、もちろん、嘘というのは言葉を発するという行為によって発せられた情報に冠せられる名詞だから、状況が違うのは事実だけれど。
 行為の結果物の名称は、それと名指しした時点で行為に関する悪質性を断罪される性質があるのかもしれない。
 たとえば欠陥住宅、おとり広告、絞殺死体、ペペロンチーノ、などなど。
「これは欠陥住宅ですね?」なら、それなりの断罪意図を感じる。
「これは絞殺死体ですね?」ではあまり感じられない。
「これはペペロンチーノですね?」ともなると、まったく感じられない。そもそも料理という行為は悪質ではないから。

 欠陥住宅と絞殺死体の違いは、質問を投げかける第一人者と投げかけられた第二人者に対する対象物が人間である(あった)為(「モノ」と認識する上で倫理上のフィルタがかかっているから)なのかとも思うが、直接利害関係がないから、と考える方が妥当だろう。
 直接利害という意味で考えると、「私は絞殺死体ですね?」とすれば、少々のシュールさも手伝って、相当にインパクトのある断罪の意図を含ませることができるようにも思う。

>>>

 真を知りつつ偽るのは、そしてそれによって他者を欺き利己を満たそうとするならば、確かにその欺瞞は悪であろう。
 しかし真を偽ることのすべては(表面上他者を欺く事にはなるかもしれないが)利己にだけよるとは限らない。
 まして真を真として知ること、それを認識し理解し記憶することがどれほどむつかしいかを考えた場合、時系列的に真を知らず、結果的に虚偽の発言が嘘としてみなされる事もあるだろう。

 少なくともそう考える僕にとって、嘘というのは言語を介したコミュニケーション上の現象やその解釈にしか過ぎず、重要なことは利己心によって利益を得ようとし(他者が損失を被ること=他者に損害を与えることが前提の場合はそれを秘匿し)働きかける目的であったかどうか、すなわち詐取に当たるかどうか、ということのように思えるのである。
 つまり利己心なく、他者の害の有無も知らない場合は、それは嘘にもあたらない。
 なぜといって、真実事実に該当しない事そのすべてを嘘としてしまえば、極端な話、当らなかった天気予報さえ嘘になってしまう。
 もちろん、雨だと予報されて晴れたときに「気象庁はアテにならん」などと不平を言う人も中にはいる。
 でも「気象庁は嘘つきだ」とまで言うとしたら、それはさすがに苦笑をもって聞くよりほかにない。

>>>

 以前、ある取引先を訪ねたときのことである。
 今まで見かけぬ社員の方がいらしたので「社長、新しい方をお迎えになったのですか」と尋ねたのである
 そうしたら「いや、気が付いたらそこに座っておって」などと冗談をおっしゃる。
 それにしてもひどい冗談で、聞いているこちらですら返答に困った。
 言われた社員の方は、いったいどう思っただろう。

 またその社長は、以前に別の社員が入社した時にも「しばらく人を入れる予定など無かったのだけれど、彼がどうしてもと言ってきたので仕方なし、入れてやった」などというのである。
 それぞれ他に聞く者のない部屋であればまだしも、当人の耳に入るような至近の場所である。
 こころなし眉をひそめることになったのはいうまでもないし、それを聞いた社員の方の心情や推して知るべし、である。

 もとよりそういう性質の人というのはいるものだ。
 特に後者の説明など、見ようによっては「それだけ自社にはブランド力があり、自身は懐が深いのだ」と言わんとしているとも考えられる。自己顕示欲の表れである。
 無論、昼行燈につとめている僕などは一切コメントせず、無視したが。

 仮に、自社に頭を下げて入社した社員がいたとしても(いかなる場合でもその程度の挨拶はするものだと思うが)、きちんとしたリーダならそんな紹介はしないものだ。
 プロジェクトに直接関係している人物であれば、彼を呼びつけるか、あるいは様子を覗ったうえで直接間に入ってかは別にして、紹介して下さるものだろう。
 そのときも「私が目をかけて入社してもらった非常に優秀な社員なので、取引の際に彼が担当になるときには、私のときと同様にお願いします」といったあたりが適切ではないだろうか。
 仮に彼が見習い中であろうと、つまりは実際の能力はいかほどであろうと、そのように紹介されて厭な思いをするだろうか。過大な評価に萎縮して仕事ができなくなったりするだろうか。そんなことはあるまい。

 会社や社員を卑下するだけならまだしも、それにかこつけて自身を虚飾しようなど、本当にみすぼらしい発想なのではないかと、あのときは背筋が寒くなったものだ。
 実際に数年後、かの会社にいたその二人は、時期は違えどそれぞれ独立されていた。
 他の社員も、ある程度まではいられるようだが、気がつけばいなくなっていることが多かった。

 従える者をただぶら下がる後塵としない点において、独立心を養う土台として、彼のやり方はひとつの才能といえたかもしれない。
 しかし当の社長は、優秀な社員が次々立ち去って能力的に痩せ細った会社を、裸の王様然となるべくしてなった自身のことを、どう思っているのだろうかと考える。
 会社という存在を考えるならば、自分の部下は(仮に自信がないとしても)自信たっぷりに紹介してやってしかるべきだろうし、そうできるように育てることを社員教育と呼ぶのではないだろうか。

 少なくとも今まで見てきた中で、有能な経営者やリーダは、組織の末端にいる人間をとても重要視しているように振舞っていた。
 新しいお客様に対しても、部下に勝手に名乗るように促すのではなく、自分が間に入って紹介していた。
 場を取り仕切るというのはそういうことではないだろうか。
 なに、内実はどうでもよいのだ。
 こいつは顔がいけ好かん、とか、給料泥棒め、とか、いまいちぱっとしないんだよな、なんて思っていてもそれはそれで大いに結構。
 道具の欠点を把握できないリーダが組織を動かせるはずもない。
 まして、組織を組織として生かすことよりも、自身のお飾りに使おうなどという下賤な精神の持ち主にあっては、生きた組織も窒息するだろう。

 嘘から真ともいうように、相応に扱っておけば、道具も人も相応になるものだ。
 有能な素地を持つ者にはその素地の素晴らしさを明確に褒め、忌避すべき慣習を持つ者にはその改善を暗に誘導するのが教育ではないだろうか。
 どんな高級な道具でも、手入れもしないでぞんざいに扱えば早々に傷むものだし、廉価の道具だって大切に使えばよく働くものもある。
 とはいえ、素養は大事だ。
 材質の悪い道具は、所詮、材料相応の役しかこなせない。
 そして同時に、どんな高価な道具であっても、使う人間の技術が素人であっては、どのみちモノになりはしない。

>>>

 いつだったか、聖杯伝説の話をある人から聞いたことがある。

 キリスト教にも、岩に刺さった剣を抜いて王になった男の話にも、まったく詳しくない私なのではあるが、聖杯というのは「それを探す者には見つけることができず、手にすることもできない」と聞いて惹かれた。
 聖杯を探し求める数多の者は「聖杯を探す」という目的を持っているがゆえに絶対に見つけることができないのだと。
 聖杯を知らず、聖杯のありかを知らず、聖杯の意味を知らぬ者だけがそれを手にするのだと。

 仮にその聖杯とやらが、宗教上の価値だけでなく、魔術的な価値さえも有しているならば、あながち信じられない話でもない(魔術そのものが存在するかは別として)。
 ではその至宝に、いったい誰が近寄ることができるというのか。
 一体何者であれば、それを手にすることができるのか。

 真実価値のあるものとは、そのように、直截(ちょくせつ、と読むものである)に手に入るものではないのではないか。
 いかなる美徳も、現実世界ではそう生半に達成できるものではない。
 ましてひとり二人ではなく、数百、数千、数万人の規模ともなれば、時にそのうちの数%を窒息させることでよりよくなることもあるだろう。
 たとえば人体が新陳代謝をして、古い細胞を排泄するように。
 あるいは社会が犯罪者(とみなされた何者か)を処刑して、健全な社会を維持するように。

 件の聖杯のエピソードとその真偽を知りたくてWebで調べてみたものの、まったくそれらしいものが見つからなかった。
 それどころか時代の流れか、探求した場所(媒体)が悪かったのか、FXやら仮想通貨やらがいまや「聖杯」の名を冠せられている。

「神~」といった用法で、神様もずいぶん安っぽくなったものだが(神対応ってなんだろう。神様はそんなに親切だったか?)、聖遺物も相当に安くなったようだ。
 それとも昔から、人間にとって都合のよいものが「神」であり「聖」なるものだったのか。
 そうだとしたら、ずいぶん俗なものだったのかもしれず、人は崇高さを偽って、何かを誘導していたのかもしれない。
 もっとも迷える羊たちがどこに行こうが、誰知らぬというのも昨今の風潮ではあるのだけれど。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Human-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]


//EOF