今日も自動化について。
 先日、オカネモチーになることを自動化するシステム構築の環境整備の自動化、というもの(オカネモチー・プログラム)について記述した。
 
 自動するシステム構築を自動化する、というのは、たとえば自動運転する自動車のプログラミングを自動化するようなものだろうか。
 そのプログラミングの環境整備を自動化する、というのは、プリセットされたプログラムの更新インストールに始まり、既存プログラムの問題点の抽出と対応プロジェクトの構築から落とし込み、果ては改善要望の抽出からプログラムへの組込みまでの自動化も含む包括的な恒常性を構築することにある。
 
 恒常性のないシステムは、片手落ちどころか根本的に問題がある。
 僕はそう思っている。
 自動するシステムについてその構築や改変すら自動化されるならば、システムの改変(そこには根幹からの、あるいは全体的な改廃や破棄も含まれる)そのものも自動化されてしかるべきである。
 そうしたマクロな自動メカニズムを構築することで、ときおりわずかな外力を与えるだけで軌道修正できるようにするのが自動化の基本だと思う。
(よぐわがんにゃいひとは、パンドラプロジェクトという古いゲームでもしてみるといいんじゃないかな)
 
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 人体でも、複数の小器官が、さまざまな機能を内包しつつ、相互に影響することでより大きな集合としての機能を成している。
 この、半永続的に反復する階層構造を持つ恒常的な組成について(生命個体はより大きな組織や体系に属している)20年ほど前に考えたことがある。
 
 僕にとって、もはや何も珍しくないその視点は、自分自身さえ多くの要素に分解され、また同時により大きな要素の部分として並列に認識されるものである。
 その階層様の構造を、自分の肉体や意識が中心になるとしても、上下ともに2レベル程度は意識していると、たいそう落ち着くのである。
(僕などはこれが、宗教とそれにまつわる人間の認識世界に発生する様相の原始的構造モデルなのではないかとさえ思っている)
 
 ときどき「自分のことなのに他人事みたいにいうよね」などと非難される私であるけれど、それはこの視点がなかなか外れないためである。
 僕の思う客観的な視点(あるいは客体としての意識)というのは、この自身の視点から観察される自身の構成要素および属する集合についての認識から再認識される自分の視点や意識と、そこから再構築される全体像の再認識ループを指している。
(抽象的なことを書き続けていると、ポストモダン(笑)みたいになってしまうが、れむれむの登場人物の寝言だと思えばだいたい許容できる気もする。この一行を読んで理解する人がいるとはあまり思っていないからまぁいいか)
 
 そこでは圧倒的に多くの人が実感している(ように観察される)「自意識」あるいは「自己」の存在が、希薄になってしまう。
(自分を含めた個体の生死に対する意識も、どことなく希薄なのはそのためだろう)
 だってそうではないか。
 自分はいくつかの要素の集積体であるとなれば、いったい自分の主体や、意識の中心や、意図の根源は、何なのか。
 多くの人は(それこそ漠然と、かつ抽象的に)「自分がそう思っている」と感じているものだけれど、自分の肉体や記憶や思考や価値観のごく一部が中核になっていて、そのありようを自分で認識できる場合、それは「自分の中の要素がもたらしている意識作用」という客観的現象になってしまう。
 だから他人に「何を考えているの?」などと問われた場合に、
「○○というように考えているようです/考えがちです/考えていると観察されます」というような表現になってしまう。

 

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 こうした階層構造を意識することは、そのまま自動化のシステム構築を自動化する環境整備を自動化する、といういささかメタっぽい様式を体現するのに必須ともいえる。
 なぜといって、自動化されていると人間が思っていることのほとんどはさほど自動化されておらず、その手動のシステムを稼働させるために、人間は多くのリソースを消費していて、にもかかわらずそれに気がつかない。
 まぁ、それだけ人間の脳が多機能で優秀だと言ってしまえばそこまでかもしれないが、それでもそろそろ、人間の脳の情報処理限界が近付いている。運用環境の情報量が過大になったためだ。
 
(毎度おなじみに話を逸らすが)たとえば「ながら運転」による交通事故や社会的な暴力事件(幼児虐待だの性的暴行だのパワハラだのセクハラだの)といった背景に、少なからず脳の情報処理限界が作用していると僕は考えている。
(説明すると長くなるからメカニズムは説明しな~い)
 さらにマスメディアとそれの取扱う情報の浸透(浸透、なんて意識しないくらい浸透してしまう背景)、日本の集団特性などが情報処理のパターン化/硬直化を促進しているようにも感じる。
 
 むつかしいことを考えている、言っているふうの人(たとえば僕のように)であってもそこにはパターン化が見られる。
 
 実のところ、パターン化と自動化は、似て非なる方向性である。
 パターン化というのは、定型化された手動作業なのだ。
 だから、それをしている本人は、少なくとも「何かしている」(場合によっては、すごいことをしている)つもりになっている場合が多い。
 多いのだけれど、実のところ、新しいことは何もしていない。
 だから予期せぬ状況が発生すると、対処しきれない。
 自動化の場合は、不定形の自動化が理想的である。
 千差万別の状況に対して、臨機応変に対応できる仕組みが自動的に整えば、何もしないで物事が処理される。
 そこにあるのは、パターンを最小単位に分解したり、こまめな割込み処理の発生や例外処理に対する適切な事前準備を自動化するというシステム構築なのではある。
 
 たとえば映画を見たりするのはある意味でパターン化されたアクションになる。
 一方でTVゲームなどをするのは、自動化されたアクションになる。
 実際に、ゲームの多くは(入力に対する対処を)自動化できるし、僕たち人間がプレイヤーになる場合も自身の中の自動化をどこまで最適化できるかがゲームの上手い/下手を分ける決め手になる。
(僕はゲーマーだけれど、だいたいそういうことを考えながらプレイしている。もっとも、ゲームをプレイするという自動化はやがてパターン化に変わってしまうという欠点をもっているのだけれど)
 
 話を戻して、自動化と階層認識とパターン化についていうと、自動化だと錯覚していて単なるパターン化であるものがいくつかあって、それが最終的には人間の情報処理リソースを浪費しているということを書いた。
「考えなくてもいい」状況を社会が作り続けている結果、考えない人間(「考えさせられている/考えていると錯覚している」だけの人間も当然含まれる)が増えて、リソースが空費されている。
 
 自動化というのを一個人にもたらす場合、手動の動作も客体も含めて高度に自動化することが必要であり、割込みや例外処理も含めて最適化しなければ達成しえない。
 そしてモテとオカネモチーも、個人にそれをもたらすのであれば(当然に、組織にもそれを適用することは可能であるが)、同様のメカニズムの解析からモデルをデザインすることができる。
 
 ただ、ここまでざっと流し読めば分かるとおり、構築手法はもちろんのこと、構築するための概念や環境に対する解析が狂気的である。
 シロウトニハオススメデキナイ。
 
 
 
 
 
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