オカネモチー・プログラムというのを以前、考案した。
 これは、より以前に考案したモテ・プログラムと同じ原理で、お金儲けを自動化する仕組みを作る機能を自動化するという、オートメーション機能構築の自動化という自動化ループの入れ子構造になっている。
(モテ・プログラムもモテを自動化する仕組みを作る機能を自動化するための、主にソフトウェアを中心にした自動化ループ構造である)

 モテを自動化する時と同じ設計思想で構築したため、完全なワンオフであり、僕以外の人間にはおそらく役に立たない。
(個々人、得手不得手をはじめ、さまざまな個性があるわけだから)
 直接お金を作る仕組みを自動化してコントロールするのではなく、その仕組みをさらに自動化するための仕組みを作る環境を整える仕組みを自動化するための構想を考えて現実化するという、はっきりいってバカの禅問答みたいなことをするので、まともな人は考えたくもないだろうし、出来あがるものはだいたい荒唐無稽で、役に立つかどうかわからない、まじないのようなものである。

 モテのときにできあがったメソッドも、それはそれはロクなものではなかったのだけれど、この「外堀の外堀を整備する仕組みを自動化する仕組みあたりから自動化する」という手法は、あまりにも遠回りで実用性からは程遠いように観察される半面、同様のことをしている人はほとんどいないため、障害が少ない。
 普段の行動さえリソースとして活用しつつ、ぐうたらで自堕落な性格を保持し続けるという矛盾を抱えたまま動作するようにしたし、運の要素も多分にあったのだけれど、なんとか動作が安定したように思う。

 そのようなわけでモテを全振りでやめて、お金持ちになることに全振りしていたので、そろそろ思考配分をフレックスにしようと思う。
(オカネモチーとそうでない人は、思考回路も違うし、視点も着眼点も違うから、見えるものも違えば、仮に同じものを見ても感覚することが違う。結果として出力が違い、その出力がオカネモチーをオカネモチーの場所へ運ぶのである)

 モテの時もそうだったけれど、実現させてしまえば僕にとっては特別興味のある問題でもない。
 ただ自動化するシステムの構築を自動化できるかどうか、なにもない所からソフトウェアの影響力を中心にして現象に影響を与えられるかが観測の主要な目的であるし、その目的は達成された。
 バタフライ効果的な作用を多分に含む経済現象というストラクチャは、規模が異なれば予測される影響力も違うので、もし、もっと大規模な構造に対する実験を行うとすれば(しようと思えばできるのだろうけれど、どうだろう)それはそれでまた新しい発見があるのかもしれない。
(直径50mm規模のクモの巣と、直系5km規模のクモの巣を考えた場合、材料の性質から違うものであることを理解できなければ到底実現できない)
 モテ・プログラムに適用すると、恋人の人数上限は、今度は256人にしなければならないことになる。
 年の2/3は毎日違う恋人とデートをしつづけることになりかねない苦行である。

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 当初の予定通り、僕はさほど長生きしないので、現在の予定では50歳になるより前に、一般的な賃金対価の就労行為を終了する予定である。
 そこから長くて20年、早ければ10年ほどで死ぬ予定だ。
 65歳で定年を迎えて再雇用をしてもらい、10~20年後に死ぬ人と比べて(終点からの時間を比べれば)さほどの差があるようには思わない。
 社会に貢献しない僕のようなイキモノが早く死ぬことは、社会にとっても有益であろう。

 もっとも公的年金のシステムが長生きをするほど得であること、にもかかわらず不明瞭な原理や基準で動作を続けていること、かつ一般的に平均寿命が伸び続けていることを考えると(世間一般には)短命とされる(段階で死ぬであろう)僕の生涯は、その行動様式や思想も、到底理解されるものではないかもしれない。

 多くのメカニズムには、設計があり、設計には必ず思想がある。
 設計(デザイン)とは、その対象の有形無形を問わず、また思想の方向性の単一性や多様性を問わず、目的なしには成立しない。
 目的があり、目標があり、それを達成するための仕組みを構築することが設計だ。
 だから目的や目標を設定すること自体が、たとえば要望や欲求といった心理的ソフトウェア面も含めた思想の現れになる。

 自分以外の多くの人が自身の生命を何に使うか、どう使おうと考えているかということにまったく無頓着なのが僕の特徴であるが、すなわち相容れない。
 他人にそんなに注目していないし、他人から注目されるとも思っていない。
 僕には他者の生存思想が理解できないのであるし、同様に他者は僕の生存思想が理解できないのである。
 なかにはおおよそ無目的な目的を掲げて遮二無二生きている人もいる。
 猪突猛進といえばカッコもいいのかもしれないが、わき目もふらず、他者のことなど考えることもなく目的を急ぐ姿は、正直にいえば下品で浅はかだ。

 お金持ちになろうが、友達(あるいは恋人)を100人作ろうが、職務のスキルを拡大しようが、大きな家に住もうが、有名人と知り合いになろうが、それはそれで結構なことだとは思う。
 ただ、ときどき「誰かに見せたい自分」を構築するのに躍起になっている人がいるのは否定できない事実だ。

 すぐに下火になるとは思うが、SNSに「映える」ことを目的としたコンテンツ(画像や映像などを中心に、行事や人脈をこれ見よがしに垂れ流しているもの)は、「誰かに羨んでほしい」という目的で作られているように見える。
 もちろんそれ自体を否定するつもりはないが、「自分が羨む自分の姿」については不在になっているのではないかと僕などは思ってしまう。
 自分がなりたい自分というのが、ないのかもしれない。
 メディアに氾濫する情報の中から「ああ、これはいいな」と思った姿に自分が憧れでもしたのだろうか。
 誰かを注目していて、つまりはそういう行動様式や文化背景があって、だから自分も注目を集めたい、と思うのかもしれない。
 特定の個人に長い期間注目するなどできないし、注目をなるべくなら集めないでいたい僕の指向性とは異なるから、よくわからない。
 みんなの人気者になって、いったい何の得があるのだろう。
 デメリットしか思い浮かばないのだけれど。

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 もともとセルフプロデュースというのは女の領分だと僕は思っている。
 もちろん時代が変わってきたことは事実だし、セルフプロデュースを領分としうる女という定義がまた面倒だ。
 今では国の要人ですらSNSを使って自分の考えを公表している。
 僕も、猫であると公言しているし、それを引っ込めるつもりはない。
(これもセルフプロデュースである。猫のフリをしているのか、人間のフリをしているのかは、ご想像にお任せするが)

 しかし誰かからの評価や羨望を集めたい、という理由によるセルフプロデュースというのは、やはり元々は女たちの専売特許だったように思える。

 なぜかといってオトコという生き物にとっては元来、農耕民族と狩猟民族とを問わず、その個体の評価などというものは勝手にあとから付いてくるものであって、あらかじめ用意しなくてはいけないようなものではなかったからだ。
 結果を見れば自明であり、ためにごまかしが利かず、評価が構築されれば欲しくもないのに羨望が集まるようなことだってあっただろう。
 技術や能力というのは、そういうものではないだろうか。

 しかし、実際は結果がなくても羨望を集めることが可能だし、羨望を集めることそのものが目標になればそれが評価に変わる。
 完全な逆転現象ではあるが、価値があるから評価されて羨望を集めるのではなく、なんでもいいから羨望さえ集めればそこで評価されて価値が生まれるような仕組みであり、これこそセルフプロデュースのなせる業ではあろう。

 個人的に、つまりは一般的にどんな評価や価値が付加されているか僕にはよくわからないのだけれど、価値がないものでも話題になっていれば価値が出る(あるいはそのように錯覚される)というのは、先進国における商業/広告/メディア情報至上主義においては普遍化してしまった手法ではある。
 ただし普遍化したとはいっても、それ以外の価値の見方を知らない人間が多いのもおそらくは事実で、実に多くのものが、得体も知れないまま有用であるかのように流布することがある。

 情報が、向こうからやってくることに、我々は慣れている。
 自分から情報を集めるといっても、せいぜいそこに置かれている情報を、何らかの方法で(たとえばインターネットを通じて)入手するのが関の山ではないだろうか。
 そういう、自分で実在を確認していない「情報」に我々は慣れ親しみ、つまりはセミ=ヴァーチャル化した情報と実在をイコールで結び、場合によっては、実在の上にヴァーチャルな情報を投影して見る。

 たとえば芸能人が、実際にどんな人となりで、どんな生い立ちで、どんなことでメディアを騒がせることになったか、僕たちは本当に知っているのだろうか。
 もちろん知るはずがない。
 でも、メディアから飛び込んできた情報によって、僕たちはその情報をセミ=リアルなものだと思い込み(それが前提の社会になっているから)、万一本人を見た場合には、それまでの(実証されたわけでもない)情報が表面に投影されて見えることだろう。
(ブログでオフ会をしたときに、僕に対してめっちゃ距離を取る人が多いのもそのせいだろう。「そもそも青猫氏、ねこじゃねえ?!」という、その気持ちは、分からないでもないが)

 つまりそれこそ商業至上主義の末路ではあるが、良いものを作れば売れる、というのではなくて、作ったものを良いものだと錯覚させられれば、つまり売ろうとすれば売れるのではある。
 ヴァーチャルな情報を、セミ=リアルに投影すれば、よほどの凹凸がない限りはごまかしが利くのだ。

 この古い原理手法に則って作られた多くのキャッチコピーがWeb上にも散らばっていると思う。
(僕はTVも見ないし、Web上の広告を可能な限り排除しているのであまり分からないが)

「中身もないのにメディア映えをしようとする人」もそれと同じように思えて、いささか情けなく思うのである。
 もちろんある程度若いうちならば、そういう乱痴気騒ぎに興味を持ったり、経験するのもいいかもしれない。
 若さそのものが価値を持つ(あるいはそう勘違いさせられている)年代なら仕方ないともいえるだろう。
 けれどもある程度以上の、まして(性差別をするつもりはなく、社会的機能上質実堅剛をよしとされるはずの)オトナのオトコが、それをしているともなれば、他人ごとでも恥ずかしいのである。
(本体はねこだ、と言っている人がこれを書いています)

 僕は自分のことをナルシスとだとは思っているが、品のない自己愛は好みではない。
 他人にただただ愛されたいという自己愛は、文字どおりの意味でいえば向こう見ずであり、ブーメランのようで少々あぶなっかしい。(ドッヂボールもあぶなっかしいが)
 なにより他者の存在が前提であるにもかかわらず、実際は他者が不在であり、なおかつ本来的に不要なあたり不気味ですらある。

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 セルフプロデュースさえ、自動化は可能だ。
 一生懸命SNSに、自分がいかに素晴らしい人間で、周囲に愛されていて、充実した毎日(という実在の定義がむつかしいが、とにかくそれ)を送っていることを、アッピル(誤字はわざと)することだって自動化できる。
 しかし、他人の羨望を集めること(それが目的なのだから仕方ない)を自動化して、いったい何が得られるのだろう。
 他人の羨望は、熱や運動が観察されるわけではない。
 まぁせいぜい、ページビューが増えるとか、「いいね」ボタン(まだそんなvote機能が有用なのだろうか)のカウントが増えるとか、そういう指標を利用するしかない。
 あるいはコメントが増えるとか、リンク/被リンクが増えるとかいうこともあるかもしれない。
 では、そうした指標が増えたからといって、どうなるというのだろう。
 面倒なだけではないのだろうか。と僕などは感じてしまう。

 誰が羨んでいようが、蔑んでいようが、とにかく観察者というのは面倒なものなのだ。
 観察者がいるだけで不自由になると僕は常々感じている。
 無駄なやっかみが増えることもあるし、いらぬ怨念を背負うこともある。
 以前「恋人が27人いる」と公言したところ、「絶対嘘でしょう」「本当は何人なの?」としつこく聞いてくる五月蝿いガールがいて参ったことがある。
 とくに僕に惚れているとかそういうわけではなさそうで、単に暴きたい様子であったから、適当に「はいはい嘘です本当は3人です」などと適当なことを言ったら「ほらぁ」などといいながら、付きまとわなくなった。
 特に確証となるものを与えたわけでもない。
 要は当人が納得する数値におさまったから、それで(理由は分からないが)納得したらしい。
 実際の恋人の数などどうでもいいのであれば、最初から人数を尋ねる必要など無いとは思うのだが、それを勝手に疑ったり、勝手に暴きたいと感じたり、暴いたと思って納得する人は少なからずいる。
 僕のような一般人に対してすら、そうした謎の義務感を感じるタイプの人がいるわけだから、他人の注目を浴びるというのは害の方が多いように僕は認識している。

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 最近考えるのは、そうした「(おそらく一定割合で)阿呆が発生するメカニズム」である。
(阿呆と断じて申し訳ないが、利もなく理もないのに勝手に暴いて勝手に納得するあたり、阿呆だと僕などは思ってしまう)
 8:2の法則に則って、僕などは2割方の、つまりは組織でも平時は真面目に働かないタイプの人間である。
 しかし「自分でまともにものを考えないし、考え方を知らない」タイプの人間がそれなり以上の割合で存在するなんていう可能性を、僕は考えもしなかった。

 けれども、それは思った以上に存在している。
 一定割合を占めていて、自分で考えているようなフリをして実のところ何も考えていないのである。
(つまりはそういうメカニズムを潜在させているといえる)

 もちろん、そういうメカニズムに働きかける気などはさらさらない。
 ただ、多少なりそのメカニズムが分かれば、迷惑な他人と関わる確率を下げる方法がわかるような、そんな気がしている。

 もちろん、それも自動化できる。




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