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TITLE:
SF小説だと思っていたら、SF小説のようでもありそうでなくもあった
「火星に住むつもりかい?」
SUBTITLE:
~ Miss reading to "life on mars?" ~
Written by BlueCat

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::「僕、そういうのがよく分からないんですよ」
「そういうの?」
「だって、寄付にしろ何にしろ、たとえば、お金に困っている人に援助したら、偽善と呼ばれたりするじゃないですか。少なくとも、偽善っぽい、とか」
「それは、さも善意で援助しているように自慢していたのに、実は、見返りと要求していたとか、そういう場合じゃないのかな。困っている誰かのために何かをしたら、それがむしろ、相手を困らせた、とか」
「でも、今はそういう意味ではなくて、ただ単に、いいことをして目立っただけで言われてしまいますよ。たとえば、川に落ちる子どもを見た人が『ここで助けたら、俺はヒーローになるかもしれない』と思って、飛び込んで救出するのは偽善なんですかね」




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//[Body]
 数年前、どういうわけか僕はとてもお金が無くて、買いたい本を一冊買うことさえできなくて、自由に使える時間もなくて、まるで汚れた酸欠の水槽に放り込まれた金魚のようだった。
 もはや野良猫の食糧にさえならないような。

 そのとき、書店でこの本を見かけた。
 表紙のイラストが、僕の使っていたCGソフトのレンダリング結果に酷似していて、気になったのがきっかけだ。
 その「レンダリング結果」をどのようにすれば的確に表現できるか、というのが少々むつかしい。
 現在、カバーに描かれているそれは、表記上は「カバー写真」ということになっていて、もしかしたらこれはCGではないのかもしれない。
 仮にCGであったとしても「酷似」しているのは、モデルではない。だから僕は「この表紙のモデルデータは私の作ったものに似ている」といっているわけではない。
 ライティングと背景が、そのアプリケーションのデフォルトの雰囲気に似ているのだ。
 だから僕はその「カバー写真」を(あらためて今見ても)その3DCGアプリケーションのレンダリング結果なのではないかと思っている。

 そのソフトはMODOといって、僕はそのアプリケーションが大好きだった。

 いつものとおり、本の中間あたりのページを、無造作に開く。
 僕は本を買うときは、最初から読んだり解説を読んで決めるということはない。
 中間の、どこともつかない部分を、およそ偶然にまかせて開くのである。
 いささか非科学的で迷信じみているとは思うが、僕の中でのちょっとしたジンクスである。
 そうして開かれたページに、意外にも自分にしっくりくる文が書かれていることがある。もうそうなったら、それはその本との運命の出会いなので、すぐに買う。
 誰が書いていようと、どんなジャンルのどんな本であろうと。

 だから気になった本はとりあえず手に取るし、手に取ったら勘(というより運)に任せて適当に開いて、数行、場合によっては1ページほど読む。
 興味を持ったらさらに別のページをめくる。
 2回試せば、その本がどのくらい自分に寄り添ってくれるかが分かる。
 2回中2回なら、もう買って読むしかない。
 2回中1回なら、とりあえず買う候補にはなる。もう一度ページをめくって、2/3回になった「運命の出会い」か「凡庸な出会い」かを決めることもある。
 2回中0回になる前に、僕はその本を棚に戻す。
 だいたい付き合う女の子もこの方法で決める。大事なのは運に身を任せることであり、無作為であり続けることである。手練手管に弄してもろくな事にならない気がする。まぁ、無作為でありすぎることで時々ろくでもないことになったりするのだけれど。

 この本「火星に住むつもりかい?」は、果たして、ひと目惚れにおよそ等しかった。
 だから僕はこの本を買いたかったし、読みたかった。のだ。のだけれど。
 どういうわけか僕はとてもお金が無くて、買うことができなかった。
(もちろん、どういうわけなのか僕は知っているし覚えてもいるのだけれど、知らず覚えていない方が精神衛生上よろしいこともあるわけで)

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「正義と悪」における悪と「善と悪」における悪の違いを明確に言い表せる人は、ざっと見渡したかぎりであまり多いようには思えない。
 もちろん「正義と善」の違いも然り。よって「正義の対極に位置する悪」が善に繋がる現象であるとか、「善の対極にある悪」が正義になる状況であるとかを、あまり想像できないようだ。
 一方で、僕の観察する範囲において(つまり極めてローカルな範囲だと信じたいのだが)、人は「正と誤」に関しては過剰なまでに敏感なように思える。
 日本人らしい生真面目さの現出だろうとは思う。
 それが美徳の範囲に収まっていればいいけれど、価値観が多様化して、善と悪の境界が曖昧になってしまうともうそれで混乱してしまうようだ。
 映画などを見ていると「どっちが正しい側なのか」みたいなことに終始してうるさいタイプの人間がいる。
 正しい側の味方でいたいのだろうし、自分自身が常に正しくありたいのだと思う。
(だから「正しくない自分」なんて認められない人が少なからずいる。本人も知らずして苦しいのだろうけれど、巻き込まれる側はもっと苦しいので近づかない方がいいと僕などは思ってしまう)

 僕はエンジニアでもあるから、善悪や正誤や正義と悪についてはかなり境界のゆるいイキモノだ。猫だから仕方ないのだけれど。
 もっとも子どもの頃は「正しいこと」に固執するタイプで、頑固であり独善的だったように思う。
 自分の基準や境界条件だけで成立する、とても狭い世界にいるかぎりは、それでも良かったのだろう。
 僕は他人と生きる上で、それらのルールを持ち歩くことが最終的に苦しくて仕方なくなったのですべて手放した。
 自分の考える正義や善良なんて、正しさなんて、この世界を生きる上ではたいした役に立たないと思っている。
 とくに他人と生きていく上ではどうにもならない。
 人は、どうにも自分に都合の良い「正しさ(正義や善良さや正確さ)」を振りかざして他人に何かを強制したり、あるいは脅したり、攻撃したりする。
 かと思えば、同じ正しさの基準に基づいて、逃げたり隠れたりもする。正しさという基準そのものが、自分の立ち位置で意味をすり替える。
 もちろんそれは、正しさという基準が揺らがないということでもあるのだけれど、その人の中で揺らぐことのないその基準が、他者と比較すればそもそもの位置から異なっていたりする。
 だから正しさは個人に由来して誤差がある。
 厳密にしようとすればするほど、正しいこととそうでないことの境界は曖昧になり、中間領域を許せない人たちはそれ自体を悪と見なすだろう。

 浦沢直樹さんの「二〇世紀少年」の中で、主人公である遠藤ケンジは「悪者になるのは苦しくて大変だ」といっているが、僕が思うにそれは「正しくあらねばならないという病気を持っているから」だろうと思う。
 とりたてて善も悪もないような人間にとっては、そのときそのときで最善や正義の意味は変わるものだし、それが普通だろうとさえ思える。
 正義と悪だって、僕のように流動的なものとして捉える人が(まあ最低でもひとりは)いるように、そうではなく絶対のものだと(ときに病的に)思っている人がいる。
 それ自体「正しい/間違っている」という二元論になってしまいがちだから、正しさにこだわる人はどんどんそれに固執するし、僕のように「正しさなんてどうでもいいや」と思っている人はどんどん譲ってしまう。
 柔軟なようでいて厄介なこの僕の性質は、ときに「正しさ(の境界線)を譲ってしまったがために悪者になる」という状況を生み出す。
 もっとも法的にアブナイことは何もしていないので問題はないものの、人間関係であるとか、人間ならではのささやかな機微の部分で、どうも悪者になりがちである。
 まぁ勝手にすればぁ? とは思っているが。

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 ちなみに僕は、読書感想を書くときに、作者がどうだとか、別の作品で「作者が」こう言っていたとか、そういう風には思わないし書かない。
 だから必要ならば登場人物やあらすじも書くかもしれないけれど、そんなことは感想とはまったく無関係だったりするのでまず書いたことがない。
(少なくとも僕にとって読書の感想というのは、ある程度以上抽象化されるので)
 あるいは個別に、このシーンがぐっときた、というようなことだって当然あるものの、そんなことを書くと小学生の読書感想文のように「○○が鉄パイプを握るあたりはどきどきした」といった程度の、幼稚で書くにも読むにも値しないようなものになってしまう。

 もちろん他の人の読書感想文がどうこうというのではない。
 単に同様の書評というのが、僕にはできないというだけだ。
 同じ作家でも違う作品やテーマにおいて、得手不得手があったり、技術的な変遷があったり、あるいはスタイルに矛盾が発生することもあるかもしれない。
 けれども作者の技術をどうこういうのは、それこそ(素人だろうとプロだろうと)僕以外の評論家に任せておきたい。
 僕は単純にそれを読んで、何を感じて、何を考えて、それがどう変化したか(あるいは明文化されたか)を書く。
 あくまで主体は自分自身だ。
 作品の構成がどうだとか、作者の文学的技量がどうだとか、伏線の回収がどうだとか、ドラマツルギーとしてそのシーンや事象や登場人物の要否であるとか、そいうものにはまったくといっていいほど興味がないし語る資格もないと思っている
 つい最近、Webニュースで「半分青い」(だったか)というドラマ作品の悪評をいくつか見ていて思った。  どうして人は見たくもないと思うものをわざわざ見て批判するのか。
 僕には理解できないメカニズムがそこにはある。ただまぁ僕はそれほどヒマではないのでそんなメカニズムについて解明したりはしないけれど。
 しかし「登場人物の○○が死ぬ必然性が分からない」とかなんとかいう一文を見たときはさすがに苦笑してしまった。
 どうして科学番組を見ないでドラマを見るんだろう。算数の問題集でも解いていれば、少なくともそんな不満を抱いたりはしないだろうにと。
 ちなみに評判が余りよくなかったというそのドラマ、ほぼ毎日会社で見ていました。もちろん楽しみながら。

 かように人の「正しい」なんて感覚は、本当に個人的な正しさによるものがほとんどで、まぁそれは我々ひとりひとりがひとつひとつの身体に準拠して存在している以上、仕方のないことだとは思うのだけれど。
 その「自分という個人は肉体準拠であり、その正しさも個体準拠である」という事実は明白なのだから、もうちょっと自分の信じる「正しさ」について謙虚でもいいんじゃないのかと、僕は思ってしまったりするんですけれどぉ。








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::「だからって、正義の味方が現れたことを、僕の責任にされても困りますよ。それを言うなら、そもそも、薬師寺さんが平和警察の制度を推し進めなければ、こんなことにはなりませんでしたよ」
「馬鹿なことを」
「それと一緒で、僕だって無関係ですよ。どこまで原因を遡るんですか。すべての犯罪は、この世に人間が生まれたから! とだって言えますよ。だとしたら、裁かれるのは誰ですか? ああ、畏れ多い」




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[出典]
~ List of Cite ~
 文頭文末の引用は、
「火星に住むつもりかい?」文頭部(p.166)/文末部(p.271-272)
(著作:伊坂 幸太郎 / 発行:光文社文庫)
 によりました。






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