劣等感、というのが、どうも僕にはあまりないらしい。
劣等感は段差に起因している。
心理的段差は、個人の感覚によっているため、客観的事実とは異なることも多い。
物理的/肉体的段差は、その心理的段差の主原料のようだ。
周囲をざっと見まわすと、なんらかの劣等感(劣等コンプレクス)を抱えていて、消化できない人が、いる。
どうして消化できないのかは分からない。
たぶん自身の記憶や価値観をうまくコントロールできないのだろうとは予測する。
この劣等コンプレクスを消化できない場合、年齢を重ねるごとに、症状が悪化するように観察される。
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僕の知っているある男性は、学がない、知識がない(と自分のことを思っている)ことが劣等コンプレクスになっていた。
ちょっとした拍子で、たとえば彼が知らない事を僕に質問して、その回答をしている時に、僕がちょっとしたジョークを織り込んだり、あるいは僕が「分からないという人は多いから気にする必要はありません」と微笑みかけたりしたら、突然怒り出した。
手に持っていたものを放り投げるほどの怒りっぷりで、自分でもその激昂をコントロールできない様子だった。
その後の話で、僕が、馬鹿にして笑っているのだと勘違いしたらしい。
僕にとっては寝耳に水である。
けれどもそういう男性はときどきいて、僕とはコミュニケーションのルールが違うので、分かった時点で疎遠にするようにしている。
おそらくだけれど、知らない事と知っている事の段差を過剰に意味付けしていて、その意味付けによって自分の位置が低いと勘違いしているのではないかと推測する。
たとえ何を知っている人であるとしても、この世界のすべてを知っているわけではない。
その意味で(非常に大雑把だけれど)すべての人は「何かを知っていて、何かを知らない」ことになる。
これはすこし視野を広げて考えればすぐにわかる、自明のことだ。
彼我の差は、たいしたものではないと僕は思う。
たとえば僕はポトフの作り方を知っているけれど、裁縫であるとか、茶道や華道、建築物の構造種類や力学計算の手法などについては知らない。
それらを知っている人のすべては、ポトフの作り方を熟知しているだろうか。つまり、ポトフの作り方というのはポトフ以外の技術や知識における下位互換性を持たされているのだろうか。
そんなことはないだろう。
誰だって得手があれば不得手がある。
ポトフの作り方を知っている人が、それを知らない人を、ただそれだけの理由で嗤えるのだろうか。
嗤える、と思っている人は、だからこそ他者が嗤うと怒り出す。
結局のところそれは、その人自身が誰かに対して優越感を覚えると、相手をして嗤う、ということにはならないだろうか。
そういう価値観を持っているから、他者が笑いかける意味を誤認して、馬鹿にされていると勘違いするのではないだろうか。
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彼らの価値観が間違っているとは、特に思わない。
ただ、僕にはその劣等コンプレクス的価値観を持つことができない。
条件反射的な書き込みをすることは可能だけれど、そんな価値観に意味を見いだせないから持ちたくない。
その価値観を持っていた場合、疑心暗鬼に拍車がかかる。
(近年の僕は、以前に比べて、まったくといっていいほど他者に対して関心も、希望も持たず、信頼も寄せない)
笑うという行為の意味付けが複雑になる(他者の感覚を読み取るのが苦手な僕にとっては致命的だ)。
結果として心持ちが悪くなる。
(一定以上の知性を持っていて知識も備えていること、心持ちが豊かで良い方向に向かっていること、貧困ではないこと、がよい人間の資質だと僕は思っている)
その価値観を持たない現在、僕は劣等コンプレクスをうまく理解できない。
持てる者と持たざる者の段差において、上にいるものが下にいるものを嗤うというのは、どういうことだろう。
優越感を持つのは、まぁ仕方ないかもしれない。現状認識をした上で、他者と比較したその段差によって愉悦を感じるタイプの人は少なからずいるからだ。
たとえば平日にたまたま代休が発生して、自分だけ温泉に行ってのんびりしつつ、今頃あくせく働いている同僚に思いを馳せる、なんていうのも優越感ではある。
ただ逆の立場を考えたとき、この程度のことで劣等感を感じるとは思えないし、運送業やサービス業に従事したことのある人であれば、平日休みや自分だけ休みの有利/不利という感覚は特別なものではないだろう。
視野を広く持ったり、視座を高めに設定していたりすると(そして、自分自身のことすら他人事のように認識する能力があると)、劣等コンプレクスの元凶になっている段差は、階段の段差と変わりがない。
階段の上にいる者が、下の者を嗤おうと、手を差し伸べようと、それはそれでその人の意志であり自由だとは思う。
ただ、段差は段差でしかない。
劣等感を感じる理由が段差にあるならば、段を上ればいいだけだ。
手も足もなければ仕方ないけれど、手段があるならばそれを実行すればいい。
手段がないならそもそも無理なのだから、今いる場所から上らないのは適切である。
仮に上らない/上れないとしても、なぜ劣等感を感じるのだろう。
高い場所は、そんなに素晴らしいのだろうか。
行ったことや見たことがないのに? あるいはだからこそ羨ましい?
まぁ、行ってみたことがなければ羨ましく感じるかもしれないし、あるいはそこに立てたならばそれをして段差の下を文字通り見下すような感覚を持つ人もいるのかもしれない。
しかしいずれも貧相ではないか。みすぼらしいではないか。貧乏くさいではないか。
それに、どの位置であれその立場に立てば相応に利もあれば苦労もある。
ところがどういうわけか、そういった公平な視点を持たない人もいるのである。
だから僕は、苦労や貧困の果てに成功をつかんだという話を得々とするタイプの人間を信用しない。
(話は信用できても、人間を信用できない)
また、そういう話を美談に仕立てて吹聴するタイプの人間や、伝記の類も信用しない。
(話は信用できても、その価値観は信用できない)
苦労の末の成功というのは、要は段差を上って高い場所に至ったというだけのことでしかない。
上らない人(あるいは落ちるだけの人)より、たしかに優れているとは思う。
けれどもそれは自分で居丈高に自慢するようなことだろうか。
あるいは他人が褒めそやすほどのことだろうか。
高い所に上ろうとして上ったのであれば、ただ己の欲求を満たしたに過ぎない。
能力が高いことは素晴らしいことかもしれないが、能力が高いことと、居場所が高いことを混同すべきではないように思う。
それに高低差を利用して優越感に浸るだけならまだしも、他者に劣等感を植え付けるなど品性下劣である。
もしも己自身、劣等感を感じていたことが原動力であったとするならば、それはそれで相応に愚かしい動機であり、ましてどんな高みに上ったところで、渇望も劣等感も不安も怯えも、おさまることなどないだろう。
それは自分の足元の位置認識ではなくて、他者の感覚認識の問題だから。
よってたとえ資質や能力、知見が優れていても、自分がどれほどの高みに至ろうとも、自分が段差によって(より低いものより)優れていると勘違いし、(自分の段差の高さを)ひけらかすようでは、結局は段差が低い(と感じる)者となんら変わらない意識の持ち主なのである。
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これは曖昧な精神論ではなくて、単純なエンジニアリングである。
どうでもいいような劣等コンプレクスは、最終的にその個体はもちろん、その個体を含む集団/接する個体になんらの利ももたらさない。
仮に、劣等コンプレクスによる精神的圧力を原動力(いわゆる「バネにして」と呼ばれるもの)にして、段差(社会的/経済的階層や能力といったポテンシャル)を高めることに成功したとしても、その個体の価値観が変容していないがゆえにその集団は不健康な状態を形成する。
なぜならば、成功者は(自分がその道を辿ったという記憶を持つがゆえに)己の手法や思考に固執しがちであり、ために劣等コンプレクスはポテンシャルエナジィとして有用であるという勘違いを続け、場合によっては故意に(そして過度に)他者の劣等感を煽る事さえあるだろう。
体育会系的メソッドを僕があまり好まない理由もこのあたりにある。
もちろんもちろん。
個体差はあるわけで、当然に劣等コンプレクスが有用になる個体も存在するとは思う。
しかし、劣等コンプレクスそのものがポテンシャルを発揮するわけではない。
劣等感なんてものは能力でも技術でも資産でも志向性でもなくて、単なる感覚の癖にすぎないのだから。
その感覚の癖を引きずって、他者はすべて悪意を持っていると誤認し、また自分自身がその悪意の僕(「しもべ」であって「ボク」ではないが、「ボク」でも面白いだろうか)になり果てて、本来的な(能力/経済/社会的)位置エネルギーを履き違えて、位置エネルギーをもたらした本当の能力とその源泉に気が付きもしないなら、そんな愚かな人間に、僕はなりたくないのではある。
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たとえば僕はモテだったけれど(そして今でも一歩間違うとモテになりそうなので、制御しているけれど)、恋人が27人いると公言している時から、モテない人をバカにするつもりはまったくなかった。
モテるからといって、それがそんなに素晴らしいことだとは思っていなかったし、今も思っていない。
だからモテないように制御したり、あるいは単純に異性や同性や動物にモテなくなったとしても、たいして気にしない。
そんな位置エネルギーは作れるものであり、そこに自分を運ぶための技術はあるのだから。
モテることとモテないことがそうであるように、たとえばオカネモチーであったりなかったり、顔つきの美醜であったりも、結局のところ技術さえあれば作れる(運動エネルギーと交換できる)位置エネルギーなのである。
たとえば顔つきだって、とくに30歳以降ともなれば、それまでの自分の心もちが、多少は顔に出るだろう。
ぱっと見た感じ醜女であっても、かわいらしいガールを僕は数人知っているし、顔つきはいいのだけれど10年後の顔は相当ひどいと予感させる美人も知っている。
年齢も顔つきも、その程度の価値しかない。
それらは位置としてのエネルギーは持っているかもしれないが、運動エネルギーと交換(あるいは再還元)する技術を知らなければ、結局何の意味もないものなのだ。
表情や、雰囲気や、立ち居振る舞いや、背景や、人間関係は、自分の手で作って、選ぶことができるし、それによって自分自身を作ることができる。自明のことではないだろうか。
段差の持ち腐れをするのは勝手だけれど、単なる段差に価値などないという事実を理解しているのとそうでないのとでは、自分という運動体を制御する上で雲泥の差をもたらすだろう。
[要修正]
