言葉を信用していないわけではない。
 ただ、言葉を記録することや、記録された媒体や、その媒体から復号される意味を考えるとき、すごく恐ろしくなる。

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 数年前のことだけれど、当時の恋人に、日記を読まれたことがある。
 Webではない、IRL( in real life )上の、紙媒体に書かれた日記である。
 日記は、僕のプライベートな空間の、プライベートな書架に、鍵を掛けられることもなく置かれていた。
 なぜならそこは借家とはいえ僕だけが暮らしていた部屋で、僕のひとり暮らしは当時の段階でも20年近くになっていたから。
 携帯電話も容易にアクセスされることになった。
 折り悪く当時の僕は、簡単な暗証番号によるロックさえも解除していた。
 落とすことなく、置き忘れることもなく、たいていの場合、肌身離さず2台持ち歩く(職業柄、それは必要だった)ことが習慣になっていた僕にとって、携帯電話へのアクセスを高速化するメリットは、万一のリスクを放り捨てるくらいには魅力的だった。

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 遠い昔に書いたことがある。

 いったい言葉を使ってどれくらい、自分の考えを、充分に、あるいは完全に、表現できるのだろうかと。
 さらにいえば、言葉を使ってどれくらい、それが伝わるのだろうかと。
 言葉は、効率的に情報を伝達し、あるいは記録することができる。けれども。
 復号された情報は、もともとの情報にはとうてい追いつくことはない。

 けれども、僕には、僕のようなイキモノには、言葉しかないのではある。
 軽度の相貌失認をはじめとした視覚系の認知/記憶能力の制限や、にもかかわらず五感の過敏さや、あるいはどこまでも執拗に、他者との関わりを絶ってまで自分独自の認識世界に潜り込んでしまう気質も含めて。
 他人とのコミュニケーションによって手に入れられるのは、だから、安心よりも不安が多い。
 差異を感じて、一般認識とのズレを都度都度感覚して、表面上の認識や概念が、大きく逸脱しないように、自分自身の表層の思考を調整する。
 なに、なんのことはない。
 仕事や浅い付き合いの知人などと付き合う上での、ちょっとしたエチケットではないか。

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 プライバシーを物理的に侵されることを、僕は10代の頃にも経験している。
 僕は為す術もなく、目の前でそれを読まれ続けた。
 もちろん、無理矢理ひきはがしたりすることは選択肢としてはあると思うけれど、親しい人間にそうすることで、万が一媒体を破損したり、あるいは親しいはずの人間に怪我をさせたりすることを考えると、何もできなかった。
 ある程度、満足するまで彼女はそれを読み続けて「無理に取り上げたりしないんだね」と言って、静かに日記を返してくれた。

 それでも僕はそれから5年以上、一切の日記を書くことができなくなった。

 何月の何日に、どこに行って、誰に会って、何をどう思ったか。
 何を素敵だと思い、何を好きだと感じ、どんなことを見て嬉しくなったり、あるいは悲しくなったりするのか。

 僕にとって、日記を書くこと、心の中に生まれる複雑に絡まってしまいがちな思いや考えを言葉にして整理することは、自分との対話の中で、表面に置く必要のない自分の考えを整理して分類する、大事なことだった。
 他者にとっては複雑怪奇で理解不能であっても、あるいはだからこそ、僕が僕の中でそうした認識や感覚をきちんと受け止めておくべきで、そうした言葉はそのための受け皿だった。
(僕はわざわざそのために、僕が使っている言葉のための辞書を作ろうとしたことさえある)
 だからそれらの言葉たちは、表面上に取り繕われた概念や認識の様式とは違って、とても親密で、あたたかくて、自分を支えてくれるもののはずだった。

 けれどもそれを勝手に暴いてゆくタイプの人たちは、そこに記された文字列から、勝手な意味を付随させて独断する。当然だ。メディアはコンテンツを記録するためのものだし、記録されたコンテンツは、それが文字情報ならば等しく文字から意味を復号されなくてはならない。
 そして厄介なことに、言葉に含まれる意味はそれこそ複雑怪奇で、接続を少し間違えただけで「食事中に洗濯したままポケットを石に仕舞った」だとか「とても美味しい僕を作ったベーコン」といったような、意味不明の文字列が出来上がってしまう。
 独自の言葉遣いをする(一般にはそう受け止められることが少なからずある)僕にとって、そこに羅列した言葉を「詩」以外のものとして認識されるのは、ときに危険でさえある。
 ありもしない思想を持っていると思われて反感を買ったり、思ってもいない感情をくすぶらせていると嫌疑を掛けられて引き出しの奥まで探られたりする。

 それはそうだろう。
 表層にいる取り繕われた僕は、外の世界とのバイパスの役目しか果たしていないのだから。

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 人は、ガラスケースの中に充填された孤独に浸かって生きているのではないかと思うことがある。
 単なる比喩ではあるけれど、心は誰にも見えないものだし、一方で、肉体や、その存在そのものはおよそ必ず目に見えるものだし。
 だから、本当の意味では、心を通わせるだとか、触れ合わせるなんていう芸当は誰にもできない。
 触れたように感じる、触れられたように思いこむ。それだけだろう。

 ガラスケースの中でパントマイムやジェスチュアを駆使して、なんとか自分の思いを伝えるしかないし、他人のよく分からないアーティスティックなそれを見て、勝手に判断するしかない。
 言葉は、そのよく分からない阿波踊り的なジタバタのカタチにしかすぎない。
 本人が、果たして本当には何を思って、何を感じたかなんて、どれだけ詳細に書いたところで、それを読む自分に完全に復号できるだなんておこがましい発想は、僕にはできない。

 けれどもどういうわけか、言葉は完全に復号できると思っている人間もいて、おそろしいくらい、勝手な認識をしてそれを押しつけてくる。本当に怖い。ストーカのようなものではないか。

 そして僕は、IRL上の、たとえば紙媒体の、あるいはオフラインコンピュータの中にも言葉を書くことが恐ろしくなった。
 まだオープンスペースの方が、いくぶんかはましだ。
 誰にでも曝かれるという緊張感が常にある。誰でも曝くことができる状態を維持することは、僕にとってはある種の安心を生む。
 そして僕以外の誰も復号できないような、難解で意味不明な文字列を感覚的に並べて、その上、核心には絶対に踏み込まないようにしておけば、自分にだけは分かるような、オープンで意味不明な文章ができあがる。

 もはや誰にも理解されない個体なのだろうと僕は自分を悲しく思うこともある。
 もちろん誰かに理解されたところでいいことは特にない。だから理解されなくても問題ない。
 一方で、他人を理解できるだけのコモンセンスや個別の認識を多く持っていれば他者を理解するのに苦労することは少なくなる。
 だからオープンスペースに日記を書くときには、外堀だけ作って、中は何も直接明示しないという手法に出た。
 結局のところ、それは、自分の中の気持ちを、自分自身から隔離することにしかならないのだけれど。
 なぜならそれは、単純に外堀だったり塀だったりでしかなく、その中を明示できないという潜在的な緊張感をナイフの切っ先のように自分自身に突きつけることだから。
 結果的に僕は自分の中で断絶される。僕自身の手と言葉によって。

 たとえば入浴に2時間もかかるなんて異常だ、とか、一日に食事が一回で済むなんてまともじゃない、とか、そういうことはこれまでも何度となく他人から言われた。
「となりのトトロ」で僕が涙を浮かべるシーンは比較的序盤の「家族で入浴しているシーン」で、それを説明するとこれまでのところすべての人が「理解できない」という表情で僕を見る。
 そりゃそうだ。家族の入浴シーンで泣けるってどういうことだと「表層の僕」も笑うだろう。

 ただ、僕は単純に「母親が不在の家庭で、父親と姉妹が仲良く、楽しそうに入浴している」ということにすごく安心して、それが懐かしくて、羨ましくて、だから泣いてしまうのだけれど、そういう感覚はおそらく僕の内面に留めておかないと、誰にも理解されない類のことなのだ。
 誰かが不在の関係というのは、少し緊張感がある。
 父親と2人の娘だけの引越しは、だから、最初から、なんとなく不穏な空気がある。
 でも、そこにいる3人には、きちんと親密な関係ができあがっていて、きちんとお互いが守られている関係に安堵する。それが僕にとってはあの入浴シーンに集約されて認識される。
 別に母親は死別したわけではなく、父親の浮気や暴力で入院しているわけでもなく、2人の娘は虐待されているわけでもなく、父親は母親から憎まれたり疎まれたり娘から無視されるような関係でもないことに、僕は安堵する。
 メイは無邪気で、ために意味不明な部分があっても、それをみんなが受け止めてくれて馬鹿にされることもない。
 お父さんはぼんやりのんびりしている人間だけれど、それを咎められることもない。
 そういう人間関係があることに、懐かしさを覚え、安心する。
 そしてそれが嬉しくて、少し悲しくて、涙が出る。
 僕にとっては実に自然な感情の表れである。
 そしてそれを正直に言っているのに、およそ間違いなく「はぁ?」と言われる。

「入浴のシーンが泣ける」ということを分かりやすく説明するだけでもこのざまである。
 僕にとってしごく当たり前のことを、それを理解できない人に理解しやすい文脈で示すことはそのくらい苦労する。
 だからせめて、自分のためのプライベートな日記は、僕だけが読む場所に眠らせておきたい。
「人間に選択的自死は必要だろう」なんて当たり前に言い出してしまう僕なのだから。

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 プライベートな領域に人を招くことはある。
 そう。プライベートな領域というのは、招かれた範囲にのみいるべきであって、勝手に侵入したり曝くものではない。
 プライベートな領域の情報やメディアも同様だろう。
 勝手に曝いて、勝手に意味づけするべきものではない。
 いかなる理由があっても、それは正当化されるべきではない。

 しかし勝手に曝く人間がいて、勝手に意味づけされる環境があれば、やはり何も記録しない方がよいことになってしまう。
 何も言葉にしない方が安心だし、何も考えなければ安全だろう。
 何も感じなければそれで周囲との関係性に風波を立てないで済むだろう。
 突き詰めて考えると、わたしという存在がないほうが、他ならぬ私にとっていいのではないかという結論に到達する。

 もちろん私が自死を選択するとわぁわぁ泣きわめく妹だの姉だのがいるし、Web上で予告して自死されることの後味の悪さも経験があるので、そういうごく少数の人間や自分自身の記憶にピンされて僕は自分を存えることを選択しているわけだけれど。

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 ただ僕は、他人とのコミュニケーションをさほど必要としないぶんだけ、自分自身とのコミュニケーションを必要とする。
 僕は、多くの他人にとってそうであるように、他ならぬ僕自身にとっても意味不明で複雑怪奇で理解困難だ。
 だからせめて自分自身くらいは、たとえ理解できなくても、きちんと自分のことを受け止めていたい。
「そうだよね、そういうこと、あるよね」「そういうとき、そんなふうに感じるよね」と同意していたい。
 ナイフの刃に囲まれた暗くて狭い独房にいるような、不安と恐怖を、なんとか消したい。
 僕だけは、僕の味方だと、伝えたい。

 いつか、僕が言葉で、僕からそれを聞いていたように。
 いつか、僕が言葉で、誰かにそれを聞いていたように。
 いつか、僕が言葉ではなく、誰かにそれを伝えられるように。