自分を性同一性障害だと思っていたことがある。

 なにぶん、自分のまわりには女性しかいなくて、男性のサンプルはわずかに父上だけだった。
 僕の子供時代の世界は、女ばかりで構成されていて、見るもの聞くもの話すこと、すべてが女性というフィルタを通さざるを得なかったのである。
 
 僕が自我を持ち始めたのがだいたい3歳の頃だったと思うのだが、このときの僕の世界は人間の女性10人ほど、男性2〜3人(すべて成人男性)、犬2匹、猫4〜6匹、鳥1〜2羽という、家族とペット、家にやって来ている従業員によって構成されていた。
 実に人間と動物はほぼ同数、人間に限れば女性が男性よりもはるかに多いということになる。
 親族や従姉妹も、女性が多い。
 おそらく、そういう家系(ラーメンの話ではないので、ここでは「かけい」と読もう)であると想像する。
 
 当然そうした環境において、男性というのはマイノリティだった。
(女性が男性に対して支配的である、ということではないが、場の雰囲気は大きく異なると僕は思う)
 それに僕の両親や姉は「男らしくなさい」とか「女の子なんだからこうしなさい」という教育や指導、しつけをしなかった。
 姉たちはよく、僕に女物の服や下着を着せて遊んでいたし、妹は僕をママゴトの相手に重用し、気に入らなければ階段から蹴落としたり、背中を噛んだりしてきた。いずれも僕は無抵抗だったし、とくに悪いことをしたわけではない。
(当時のことをきちんと記憶している彼女によれば、無抵抗の僕に暴虐をしたのは、理由があってのことなのだが、いずれも自他共に認める理不尽な動機である)
 
 姉たちは僕が小学生になる頃には月経と生理用品などについて教えてくれた。そういうものが当たり前の環境だった。
 TV番組や本、家事や生活、人間関係にいたるまで、さまざまな「女の子文化」がそこにはあって、それと並列して、たとえば機械いじりであるとか、プラモデル作りであるとか、その他の木工や鉄工工作が(主に長女と父親の趣味として)存在していた。
 
 両親は、姉妹間やよその家の子と我が子とを比較することで競争させもしなかった。
 もちろん当事者同士の心の中には、不公平感があったようだが、僕は3歳で自分の要求を最優先にしてもらうことについては諦めていたから、妹がどれだけ可愛がられていても(そして彼女がどれほどの悪魔っぷりを発揮しようとも)それを微笑ましく眺めていた。
 
 僕は小学生になるまで幼なじみの女の子や姉妹といつも遊んでいたのだけれど、両親はとくに気に留めていなかったようだし、たまに男の子の遊びに混じって、競争やケンカで負けて泣いていても「うるさいから/男の子なんだから、泣きやみなさい」とか「負けたら勝つまでやり返せ」なんてことも言わなかった。
 僕は気が済むまで泣くことを許されていた。
 おそらく両親には、特段の教育方針などがあったわけではなく、単に忙しくてかまけていられなかったのだとは今にして思う。
 
 いずれにしても僕は、てっきりその環境の中のマジョリティ、すなわち主流かつ多数側たる女の子であろうと思っていた。
 いつかは身体も成長して、月経が始まって、仕事をしたり、結婚して子どもを産むかもしれない、と考えていたのである。
 もちろんときには(たとえば温泉や公衆トイレなど、公共で性別が明確な施設などで)「男の子だからそっちに行ってね」と言われることはあったが、それでも自分は女であり、あるいは女に「なる」ものだとてっきり思い込んでいたのではある。
 
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 ところで自我とは何だろう。
 簡単に言ってしまうと「自分が自分であるという感覚」のことだ。
 こだわりや自意識、欲なども強く関わるのではないかと僕は思っている。
 それにしてもこの「自分が自分であるという感覚」は不思議なものである。
 
 こんな意識はなくても、自分は自分なのである。
 どこかで僕以外の誰かが「私が青猫工場の工場長、青猫です」なんて言い出したりすることはまずないだろうし、生年月日や住所といったパーソナルデータを複写記憶しても、僕という個人のコピーにはなり得ない。
 仮にそういう個体が現れたとしても、僕は僕の肉体に呪縛されている限り、僕でしかないのである。
 
 自認しようとしなかろうと、他者がどのように評価しようと、自分の肉体に宿る意識がある限り、それはその肉体に紐付けられた、その人の人格なのではある。
 たとえ自覚のない人格があろうとも、自我に意識のある限り(あるいは意識に自我が宿る限り)現象としての自我の実在を視認できなくても、それは水晶振動子のように、もれなく内在してパルスを発振している。
 
 ところで自我は何に備わっているのだろう。
 おそらく、この身体だろう。
 少なくとも、この身体の外にはないように感じる。
 肉体の死後に、仮に意識がどこかにあれば、その意識は自我を持つかもしれない。
 しかし意識しかない存在というのは、流れる導体を持たない電気のようなものではないだろうか。
 まして「自我しかない」存在なんて、なかなか想像できるものではない。
 彼ら(その、自我だけのナニカ)は、肉体もないのに自我だけがあることになる。
 もしかしたら、意識もないのに自我だけが残っているのかもしれない。
 そんなことを言い出したら、草木どころか石や川のせせらぎにさえ自我があるかもしれないと疑う必要が出てくる。
 いや彼ら非生命的物質や運動体(せせらぎは、川ですらないから水ではない。音であり、空気の振動だ)は、意識があって自我もあるのにそれを表現し、疎通する手段を持たないのかもしれない。
 これはよく考える必要がありそうだ。
 自我は、意識という基盤の上に流れる弱電のようにも思える。
「自分が自分だ」というのが感覚であれば、その感覚を受容する意識が必要なのではないだろうか。(肉体なしの意識なんてものが存在するからどうかは別問題として)
 
 意識があるならば、自我は自律的に発生する可能性が高いといえるだろう。
 
 しかし彼我の差そのものが存在しない領域で、意識は芽生えるだろうか。自我は自我を自認するだろうか。
 そもそも非生命と考えられているものたち(先の石や川や、そのせせらぎなど)は他者を感覚することができるだろうか。
 外界を認識しうるセンサのないところに、他者を認識する可能性があるだろうか。
 おそらく、ない。
 他者を認識できない領域で、自己を認識できるだろうか。
 仮に意識があり、自我が発生したとしても、他者を認識できないそれは、おそらく我々が通常に認知している自我とは異なるものにはならないだろうか。
 
 仮に、非視覚的存在(放射線や重力、音波などのほか、たとえば定型的/定量的に完全な再現性を持って測定しうる類のオカルティックな存在)が、光学的にも熱量的にもかなり限定的なスペクトルにしか存在しない(宇宙的には控えめに言っても)比較的ミクロで、(素粒子的には控えめに表現しても)比較的マクロな我々人間を、どのように感覚しうるのだろう。
 
 仮にあったとしても、量子力学的な領域にならないと、彼らは意思を表現する手段を持たないだろう。
(箱の中の猫が、もしかしたら生きていたり死んでいたりする、アレである)
 仮に意識があり、量子力学的にでも意志を表現しているとして、いったい今まで誰かが、そこから意志を汲み取って、疎通したことがあるだろうか。
 あるいはこの先数千年後に、可能になるだろうか。
 可能になったとして、我々は、いったい何を疎通するのだろう。
 明日の天気? ガン細胞組織の発達の兆候? 遠い星での出来事? 
 
 そんな奇想天外な予測を立てるよりは、彼ら非生命(物質やエネルギィその他もろもろ)に仮に意識があったとしても、私たちのような「中途半端にミクロでマクロ」な存在と意識のありようや価値観そのものが異なっていて、意志が疎通できないと考える方が自然だろう(今まで基本的にはいないことになっていることだし)。
 
 ゆえに意識は「他者の存在を知覚しえて、かつ、意識を持つに足る肉体」にのみ発生するのではないだろうか。
 さらにいえば、その意識の存在を他者たる我々が認知するために「他者に対して知覚できる表現/体現能力を有すること」が必要だろう。
 だから生きていて、指先だけでも動く人には意識があることが想定できるし、死んでいる人には意識がないと判断せざるを得ない。
 
 そしてこれらの事実から、自我は意識の流れが発生する場所に自発的に自覚として発生し、意識は肉体が一定以上の生命活動を行っている場合に、その肉体にのみ発生すると考えるのが合理的だろう。
 ゆえに、自我は肉体に存在するとここでは結論する。
 
 そのため学校に遅刻しそうになって、トーストを咥えて走っていた美少女が曲がり角でぶつかった転校生(♂)と自我人格が入れ替わったりはしない。
 目が覚めたら違う体に納まっていましたイモムシだなんていやだどうしよう、とかいうこともない。
 
 意識は、固有の肉体という地形に流れる川のようなもので、自我はその流れという運動そのもの、位置エナジィや運動エナジィに等しいものだから。
 川の水だけを取り出して、他の地形に流しても、違う川になってしまうし、川が流れなければ、水の位置/運動ポテンシャルは発生しない。
 
 自我は、もしかしたら幽体やら霊体やらエーテル体やらなんやらといったいわゆるスピリチュアルな、あるいはオカルトなものに起因して、付随して、発生するのかもしれない。
 しかし、そうしたものが仮に実在するとしても、再現性はいまのところさほど高くない。
 誰でもが霊的な自己を自覚し、認識し、コントロールできるわけではない、にもかかわらず自我については一定以上の理知性と、その基盤となる肉体の持ち主ならば当たり前に持っているように感じられる。
「自分は」「自分が」というのがあまりに当たり前で、その前置詞を省略するのがもはや当然になる程度には。
 
 だから、肉体があって(貧弱でも)理知性を備えていれば、その意識の主体には「自己がここにある」という主体的主観が発生するのだろう。
 
 そして「向こうに見える誰か」と「ここにいる自分」は明らかに違うものだと判断できることになる。
 そう。自我が濃ければ濃いほど、自他の区別は明確になる。
 そして自我が薄ければ薄いほど、彼我の差は、さほど認められないことになる。
 そして自我の濃度は、本来任意に変更が可能だと僕は思っている。
 古典的心理学者の作り出した心理モデルでは、なんやかやややこしいものが付随して登場する。
 やれ超自我だのEsだのえるしっているかだのがそれだが、それは考案者の主観が大幅に作用していると僕は思う。
 無意識まではまぁ分かるし体感できるけれど、超自我ともなると、単なる躾や学習の結果として発生する人格作用でしかないように思われる。
 
 もちろん何もないところから人間は倫理観や道徳観、協調性を発生させたのかもしれない。
 けれどもそれは「他者と協力したほうが有利である」とか「弱者を守らないと自分のコミュニティが崩壊して不利益を被る」という損得勘定からも導き出せる。
 一定以上の理知性を備えれば、他者を生かしておいたほうが自分にとっても有利であると理解できるのである。
 社会性を持つ一部の動物でも、その程度の思考能力は持っているようだから、これは本能そのものではないようにさえ思える。
(実際、躾をしていない動物は、きちんと躾けた動物に比べて「超自我」的には劣っている)
 
 ゆえに超自我なんてものは最初からは存在せず、たまたまそこ(考案者の経験や感覚)にある現象に名前を付けただけだろうと想像する。
 たとえば川が流れていて、その川に名前をつけるようなものだ。
 最初からその名前があって、名前があるから川を流しましょう、ということにはならない。
 地形という環境があり、水という物質があり、流れという運動があって初めて川になる。
 
 その川が、どのような水質であったり、流れのカタチを持つかは、環境にも、流れそのものにもよる。
 うねりの大きな川もあれば、小さな川もある。
 うねりや名前が先にあるなんて川は、人工的に設計されたものだけだろう。
 
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