まだカタチになっていない、曖昧な、抽象的な、感覚によったことを書く。

 かれこれ1年ほど、会社員をしていない。
 それまで勤務していた会社は解散してしまったし、介護もあった。

 経済という潮流があるとすれば、僕は漂流者になったのかもしれない。
 いや、流れにさえ乗っていないのだから、沈没した格好だろうか。

 経済というのは不思議なもので、それそのものから自由になるためには経済を必要とする。
 たとえば日本の税金から全力で逃れたい、と思ったら、財産を捨て、社会保障も捨て、国外に行かなくてはならない。
 経済活動を抑えるために、自給自足を目指したとしても、結局、土地は必要になる。
 畑を耕したり木を育てたり、魚のいる川や池まで所有しようと思ったら、文字通りタダではすまない。
 そして税金はかかる。

 物事の大半は、その対象から自由になる方法が比較的明確である。
 まず、その対象に捕われないこと。
 不自由というのは、相手がこちらを捕えて、あるいはこちらから進んで囚われることによって発生する。
 中には、不自由というのは絶対的な必要悪だと信じて疑わない人もいる。
 確かに何かから自由になれば、何かが不自由になる。
 しかしその選択をする根本的な自由はどこにあって、誰が持っているのだろう。
 それを考えない人が多いようで、与えられた範囲、認識できる範囲の中で勝手に不自由に囚われて、他人を批判して生きているように観察される。

 何者にもとらわれず生きるのは簡単ではない「かも」しれない。
 少なくとも、家庭/家族という関係性の中で育った人が多い以上、そうした関係性の中からの視点しか持たない人が多くなるのは仕方ないことかもしれない。
 つまり人間は、子供のうちはどうしても環境にとらわれるのだ。そうしないと大人になれないといってもいい。
 最初から、捕われているし、囚われてもいる。

 では大人になったら、その囚われを客観的に認識できるだろうか。
 もしも比較するべき価値観や物的存在に対する認識を白紙化して、現在の認識と照らし合わせることができるなら(多くの人間は矛盾を嫌うロジックを持ちやすいため、ここでも拒否反応を示すことが多いが)自分自身のとらわれから、自由になれるかもしれない。

 このように「とらわれないこと」と「とらわれていた場合、距離を置くこと」が、対象から自由になる上では重要な技術になる。
 物理であっても、たとえば火傷をしたくないなら、火には必要以上に近づかなければよい。
 ただし寒い屋外で焚火をしているなら、ある程度の距離にいないと利便を受けられない。
 これをコントロールすることが自由であり、焚火をしないで別の方法(たとえばベッドで誰かとくっついていてもいい)で暖を取れるならそれでもいい。
 熊に遭遇した時も、そのまま捕らえられるのを待たず、距離を置けばいい。
 最初から距離が近くならないように予防するのも非常に有効だろう。

 ところが経済は、そうではない。
 経済から離れ、自由になり、あるいは独立するには、経済にどっぷり浸かって、経済そのものに対してみかじめ料を払うしかない。

 喩えていうなら、もはや空気や水のようなものである。
 逃れると、自然の摂理で死にかねないといった具合に。
(少なくとも通常は、そういった暗黙の忌避感を植え付けられていると思う)

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 ところで僕は「経済から自由になりましょう」なんてプロパガンダをしたいわけではない。
 単純に(人間が作ったもののくせに)仕組みが複雑化し、不明瞭になりつつあるから整理しているだけである。
 だから僕自身も含めた誰かがこれを読んで「ふーん、なるほど」なんて発見はないかもしれない。
 ここは自分でも、さっぱり予測できないところである。

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 経済は、人工的な産物であるがゆえに、不自然な存在である。
 自然言語も不自然な存在ではあるが、そこから自由になるために「オレは今から言葉を使わないけんね」と宣言することもできる。
 人間の作ったほとんどすべての道具について、それは人工的であるがゆえに不自然な産物であり(「自動車のなる木」とかがあったら面白いが)、その道具と距離をどう保つかは各個人に任せられている。

 経済はどうだろう。
 もちろん、自身の意思でどっぷり経済活動に浸っている人はいいのだけれど、僕のように「いや、それほどでもないッスよ」と思っている人もいるはずで、その傾向は以前より広い範囲で確認されるようになってきている気がする(主にネットの作用で)。

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 僕個人に限っていえば、お金そのものは嫌いではない。
 だからといって、偏執するほどのものでもないとは感じている。
 欲しいモノのほとんどが、お金で交換できるから便利なのであって(大量に持っていても腐らないし)、お金そのものは焚き付けやメモ、オモリにしか使えない。

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 社会としては、経済ありきで動いている。
 つまり社会は完全に人工的なものになったということだ。
 旧来、自然発生した人間の社会は(ある程度以上、人工的ではあったと思うが)、物理的な国土を完全に埋め尽くすほどの実態を持つには至らなかったはずだ。
 だからその社会に属さないものは自然に存在していた。

 しかし人工的な機関に置き換えられた社会では、自然な(社会に属していない)個を不自然とみなす。
 ベン図的にも論理式的にも分かりやすいだろう。
 A = not ( not A ) である。

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 人口の減少に伴って、経済は本来、個々人にとって飽和しうるものだろう。
 たとえば先の、水や空気のようなものだとしたら、池の中の生き物の総数が緩やかに減少するとき、水や空気は(循環作用を度外視して、単純な容積内の飽和量を考えた場合)、各個体にあり余ることになる。

 不思議なことは、社会(あるいはそれを先導する役の人たち)が、そうは思っていないことだ。

 社会というイキモノにとって、細胞が多いほうがよいのはわかるし、細胞が多ければ器官が増えるのも自然である。
 では、社会を生かすための経済であり、経済を生かすための個人なのだろうか。

 個々人にとってのリソース(経済や、それを消費して作られたインフラ、社会そのものなど)が飽和に向かうとき、社会そのものは酸欠に向かう。

 なぜなら人間社会は人工的で、放っておいても恒常性によって苔の量が保たれたり、水の汚染度が一定の範囲に収まったりはしないからだ。

 池の苔の呼吸する二酸化炭素を一定以上にするためには二酸化炭素を吐き出すイキモノが必要で、イキモノが減って二酸化炭素が減っているから、苔は酸欠してしまう(実際の苔は、しないだろうが)。

 二酸化炭素が経済で、イキモノを人間と考えれば、酸欠しているのは経済そのものかもしれないとも考えられる。

 人口減少はどうあっても免れないだろうし、これまでが多かったのだとも考えられる。

 細胞たちは O2 を CO2 に変える。
 運動して経済を生む。
 社会というイキモノは、その運動によって動く。
 CO2 の飽和は、細胞とイキモノを殺す。

 どうなんだろう。
 まだよくわからない。

 いずれにしても人工的なものだから、恒常性は人の手を介して保たれている(これまでもそうだったし、これからもそうだろう)。
 代替できる呼吸系や代謝系を、社会は獲得するだろうか。できるだろうか。