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// TimeLine:20200501
// NOTE:
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TITLE:
夢見の猫の額の奥に。
SUBTITLE:
~ In the cerebral inside of the cat into the dream. ~
Written by Bluecat

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//[Body]
 のんびりぼんやりの日々。
 こんな日々を望んでいたのかと尋ねられればそう、僕は即答できる。
 こんな日々を望んでいたのでちょう幸せです! と。

 現実離れしたような生活は、昨年の今ごろの体調不良のときから始まっているのではないかと、ふと思う。
 もしかしてあの、ひたすら体調の悪かった日々の中で僕は本当に餓死してしまって、アパートの一室に転がる孤独な死体(死体はいつでも孤独だが)の、その最後の意識の残滓が見せるここは夢の中なのではないかと思ったり。

 経済というイキモノの窒息と人形使いの糸の話を書こうかとも思っていたのだけれど、今日はぼんやりとしたことを書こうかな(口調が変)。

>>>

 もともと僕は現実離れした思考構築をしてきたのだろうと思う。
 とくにリアリスティック気取りの(だいたいは単なるエコノミィこじらせ)アダルトやガールどもは、何度となく僕をリードで引き回すように「こっち! こっちの、経済とか、収支勘定とか、財力とか、そういうのが現実なの!」と進路を押し付けてきた。
 ちょう迷惑ではあったけれど、僕にとっての現実はいつもこの不安定なカラダの入力に起因するふわふわしたもので、捉えようがなく、その上、僕が現実として受け入れるべきであろうと推測する入力系にやってくる情報たちがこぞって「現実を見る」という意味を「=経済とサーフィングしな!」(ちょっとファンキィにしてみました)として僕に吹き込むので「まぁそういうものかな」と思っていた。

 どこからこの、茫洋とした、言い換えればぼんやりのんびりした思考系を僕は構築したのだろう。
 僕はある時期から自分の性別を「不明」と認識し、それよりはるかに前から種族を「猫」と認識している。
 本来なら「現実」として絶対の服従をすべき、肉体の入力系からやってくる情報を「内部の圧力で意味を変えるただの不確定な情報群」とみなし、だからこそ「現実」の意味がますます一般解(僕からすれば特殊解)から乖離してゆく。

 もっと子供の頃から、僕は現実を二重写しに見ていた。
 目に見えいている情報だけでなく、たとえば死んだお祖父様の脚が天井から生えているのを見たとかそういうことではなくて。
 肉体を通して感覚することと、内側で感覚したほうの感覚を等しく扱っている、と言えばいいのか、内側で感覚する用の、もう一つの感覚というか世界というか、空間というかがあったと言えばいいのか。

 とにかくその2つは、意識のはじまったあたりの、記憶をたどれる前からあったようで(そのように定義づけしている、というだけの事だけれど)、とくに生まれた直後あたりにあっては、肉体によって感覚されるこの世界の眩しさやら音やら(物理的な)息苦しさやらがただただ不快で、それ以前からある、肉体感覚とは別の、思考によって感覚できる世界のほうに対する親しみが僕は強いのだろうとは思う。

>>>

「現実とは、現実について考えているときにだけ見える幻だ」となにかの本で読んだことがある(森 博嗣さんだったろうか)。
「経済こそ現実」と思っていた人たちは、多分に、自分の中の感覚世界を、経済の価値観であるとか、肉体入力情報の侵略するままにまかせ、蹂躙されてしまったヒトたちなのだろうか、とも思う。

 だから僕はいつまで経っても、彼ら/彼女たちの言うような「オトナ」になれず、その上、肉体に起因するはずの現実感が薄いから、自身の生存への執着が薄く、自分の肉体への執着が一般的(僕からすれば、多数派であるだけの特殊/あるいは異常)な見識と乖離してしまうのかもしれない。

 そう考えれば、僕が自分の種族をときどき本気で猫だと思っていることにも説明がつくし、自身の性別を不明と認識するのも理解できないではない(僕にとって、でしかないが)。

 僕はこの肉体を通してこの世界を感覚していて、だからこの感覚は確かに感覚されていると前提した上で、そこに実在すると僕が認めて、その実在に対する振る舞いとしての僕を演算して出力するから「僕がいる」と、この思考回路は錯覚しているのではないか。
 もしかしたら「僕」なんていう存在はないのではないか。といつも思う。
 そもそも「こうしたい」という強い意志というか、欲というか、本能というか、生命力というか、(心的エナジィとしての)リビドーというのが、希薄なのだ。

 だから僕は、まず僕自身の存在について、まるで宇宙人のUFOであるかのように、眉唾ものとして扱っている。
 哲学的に考えて、僕は僕の実在を、疑わざるを得ない状態の内部世界のままに生きている。
(ために希薄になるのか、希薄なためにこうなるのかは分からないが)
「我思う、ゆえに我あり」なんておためごかしを僕は許さない。
 「我」とは何者なのか。他者との違いがあるのか。あるならそれは何なのか。
 どこに属しているのか。それは実在するのか。これら「わたし」という感覚すらもすべて、幻ではないのか。

 なので「現実世界」と呼ばれるものは、いつでも曖昧で、不明確で、不可解だ。
 僕が寝ている間など、果たして本当に実在しているかが疑わしい。
 僕が目覚めてから「現実世界」という夢物語の登場人物である、たとえば妹などが「今朝の地震、すごかったね! えっ!また寝てたの〜?!」なんて言っているだけなのではないのか。
 よって哲学的に考えて、僕は他者の実在をときどき疑っている。
 でも本当に実在したら申し訳ないから、相手にとっての適切な「振る舞い」を演算して「『僕であろう』と相手が思っているであろう」モノを出力する。

 だから僕は「アナタはその肉体を通してこの世界を感覚していて、だからこの感覚は確かに感覚されていると前提した上で、そこに実在するとアナタが認めて、その実在に対する振る舞いとしてのアナタ自身を演算して出力しているから「自分がいる」と、アナタの思考回路は錯覚しているのではないか。」といった語り口を、レトリックとしても滅多に使わない。
(上記のレトリックの違いは、僕にとっては自他が均一なので同じ意味だが、現実世界に生きる諸君には、自他の差を生む
 僕という虚構の感覚した虚構の中に棲むアナタという虚構は、僕という嘘が感覚した嘘の中に棲むアナタという嘘が大嘘であるようにして、大虚構である。

 それでも僕の肉体は、どうもここに存在しているかのような信号情報を僕に送ってくる。
 だからまぁ、その信号が途絶えるまでは、その信号を拾って、観察して、どうせ大嘘の大虚構なのだろうから、おもしろいから記録してやれ、くらいに考えている。
 そうでもしないと僕の希死念慮は相殺できない。

 そう考えると僕はたいそうメデタイイキモノである。
 正しい意味で「目出度い」のか、単なる皮肉か、あるいは「愛でたい」のかは虚構の観察者に任せるしかないが。

>>>

「経済だけが現実」であるかのようにして、この世界は誰かの足で踏み固められてしまいつつある(少なくともそれは、虚構の僕の虚構のネコ足ではない)。
 あるいはもう、

 仮にそうだとして、僕は構わないしそれはそれで結構なことだろうとも思う。
 ただ「その現実」の狭さ、それを絶対と勘違いできる浅はかさ、それを絶対と信じ込ませた悪辣な非道さ、そして踊り踊らされる亡霊のような虚構の亡者たちの愚かさは感じる。
 もしこの感覚の全てが虚構だとしても。
 あるいは虚構だとしたら?

>>>

 小学校の頃から僕には友達が少なくて、そして僕はそれを気に病んだこともなくて、夏休みは誰にも会わずに家で過ごした。
 ひとりで遊ぶのは、昔から大好きだ。
 誰も傷つけず、誰からも傷つけられない。
 寂しかったかといわれれば寂しかったけれど、それはとても平和だった。

 父上は眠っているか仕事をしているかで、僕は起きたいときに起きて、食べたいときに食べたいものを食べて、したいことをして、眠くなったら眠る。まるで飼い主のもとに暮らす、気ままな猫のように。

「僕」という虚構が失われたあとの世界も、そんなふうに、誰かに(あるいは何かに)とって、幸せで快適なものであってほしいと、いつも思う。
 夢物語かもしれないし、非現実的なのかもしれない。

 でも、僕にとっての現実なんてものは、僕にとっての僕自身のように、実のところ、どこにも存在しないのだ。ずっと昔から。
 だから、だとしたら。
 僕の考える現実が、あるいは夢が、この世界を蹂躙して凌辱してしまってもいいのかもしれない。

 うぬらはそのとき、その夢のなかで己の信じていた現実を恥じるのだ。

 まぁ、それもふくめて、僕にはどうでもいいことでありzzz……








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[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-/-赤猫-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Color-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Interface-Mechanics-Memory-Stand_Alone-Technology-

[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-

[Object]
  -Camouflage-Cat-Koban-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-:-いのちあるものたち-:-ひなたぼっこ-:-夢見の猫の額の奥に-





//EOF
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// TimeLine:20200428
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
200428
SUBTITLE:
Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 眠くなったら眠って、目が覚めたら起きる。
 野生動物もかくやといわんばかりの猫ライフ。我が人の姿はかりそめか(そうです)。

 たいていはTVゲームをするため、夜中(ときおり朝方)に眠るものの、数時間眠ったら目が覚めた。
 なぜならば、嗚呼なぜならば。

 気が付いていたからだ。
 あたたかな陽射しが降りそそぎ、ひんやり爽やかな風が火照った肌を撫で、そして数日前には雨が降ったから。
 だから雑草がまた伸びたそのことに。

 未知の生態圏。それらの正体を少しでも紐解きたいといずこからともなく囁きが導く。
 未経験の道具。それらを使用する体験を、多少なり蓄積したいと心が弾む。
(あ、ここ、声にして読んでみると面白いです)

 手動ポンプ加圧式撒布器と除草剤を試してみる日を今日か明日かと待っていたのである。
(あと、右手の指の怪我が治るのを)

 ある日は、熱湯を掛けるとよいと(Kさんに)教わったので試してみたが、熱を受けなかった部位が茎にわずかにでもあれば、そこから新芽を吹くほどの生命力を持っていることが分かったので、次は食塩水でも掛けてやろうかと思いつつ、それをするとどんな影響が現れるのか恐ろしくもあり興味もあったりする。
 かつてエジプトで文明が衰退した理由が、塩害による作物の不作だったはずである。
 つまり植物を枯らす食塩は、文明を衰退させるかもしれない。

 好きな時間に寝起きしているイキモノに衰退するほどの文明が残っているとは思っていないが、わずかに残った理性がもしそこにあるならば。それを塩で台無しにすることは避けたい。避けるべきである。避けなければならない。
 ゆえ(うふふ、塩害……。どーしよっかなぁ)という心の甘やかな悩みをこのたびは無視して、手近なグッズを試してることを優先することにしたわけだ。

>>>

 とはいえ、先日は大々的に大きなものを排除済みだったので、大丈夫だろうと思っていたのではある。
 が。
 植物相おそるべし。植物相を無視して繁殖するいわゆる雑草おそるべし。
 でかいのである。

 とくに庭で毒々しく繁茂するのがオニノゲシ。私はこれを許さない。
 見かけると、ちょいちょい排斥していたのがアザミ。
 ただし花言葉が気に入った。ために今後アザミは見逃してやろうかとも考えている。
(このふたつを調べるだけでもかなりの時間を費やした。固有名詞は本当に面倒だ)

>>>

 庭の池的ボウル(なんと形容していいか分からない、小さな池サイズの水を溜める石器があるのだ。地中に埋まっていれば多少は可愛げもあろうものを)の水に、謎の生態系が発生しつつある。
 ひっくり返してやりたいが、いかんせん重くてぴくりとも動かない。

 停滞した水というもの、その概念が、私は大嫌いだ。
 水は流れ、循環する概念、いわば生命の象徴である。
 それを閉じ込めようとする人間のエゴも、そこに発生する謎生態系も、醜悪な気がしてしまう。
(自然発生的な「大きな水たまり」は嫌いではないので、川の溜まりや沼などは好きである)

 私の憎しみはこういうところに発露するので、どうせなら循環系の大きな池でも作ってやろうかとも考える。
 けれども人工的にそれを作ることの不自然を考えると、やはりやめておこうかと思ってしまう。費用も手に負えそうにない。

 人工物は人工に、自然は自然に作られるべきなのではないか。
 庭木植物圏のいわゆる雑草を駆除しようとやっきになりながらこんなことをいうのは慎みに欠ける気もするが。
(いっそうのこと全部切り倒して舗装しまえば、それこそが人工の極みのようでもあり、その概念を僕は好ましくも思うのであるが、洋の東と西とを問わず、さまざまな概念系が魑魅魍魎化している私の心象世界においては、放っておくことも、手を掛けることも、根絶することも、ひとしく優しく美しいのではある)

 裏庭の御稲荷様社の前にはカラスノエンドウ(だったか、さきほど調べたのだがもう忘れた)が繁茂してこれもニガテである。ためにこれには除草剤を撒いた。
 虫が出そうな場所が僕はニガテなのである。(多分、好きになることはできるのだが)

 ちなみにカラスノエンドウ(だったか)は、食べられるらしい。驚いた。
 オニノゲシも食べられるらしい。驚いた。
 なんなら敷地内のいわゆる雑草たちは、もしかしたら、大半食べられるのではないかとさえ思える。

 御稲荷様社の左右に鎮座する木は育ちすぎているので枝を落とし、いずれは上端もしくは根元から切り倒さなくてはならない、とあらためて覚悟する。僕は虫がニガテなのだ。(多分、好きになることはできるが)

 あらかたの見た目の凶悪そうな、いわゆる雑草的に感じるものたちをざっと排除し、12Lほど除草剤を撒いて作業を完了する。
 ツナギの作業着と防塵グラス、マスクとタオルの完全防備であったが、ことのほか快適であった。
 ただし撒布器はベルトが細いので、左肩しか使えない(右肩は怪我の後遺症で強い荷重に耐えられない)。
 太いバンドか何かをこしらえたら少しは作業がしやすいかもしれない。

>>>

 2匹いた猫のうち1匹が、数日(1週間くらい)前に脱走した。
 残った1匹は、僕の爪を囓り貫いた猛者であるが、いつも怯えてケージ下層のトイレに引きこもり、ときおりぷるぷると震えている。
 どうやら(無理矢理ケージとキャリィバッグ間を移動させた経緯がトラウマになったようで)移動させられることを極端に嫌っている。掴むことすら許さないのは、移動させるためだからである。

 しかし爪を囓られたときにこっぴどく叱りつけたからなのか、2度と噛むことがない。
 ひたすらに唸っているのは、怯えているのである。
 無理矢理触っても、噛んだり引っ掻いたりはしない。
 ケージの上部にしつらえたハンモックにひょっこりはまっていたので2時間ほど撫でていたら、喉を鳴らすまでになった。

 所用を済ませてケージに戻ると、ふたたびトイレに引きこもり、近づくだけで唸る。
 彼女は移動している姿を決して見せない。
 ハンモックにいるときに発見すると、そのまま動かないし、トイレに引きこもったときも出てこない。
 よほど怯えて動くこともためらわれるのだろうと思う。

>>>

 姉の家では(姉自身が障害者であることもあり)飼い主とペットという関係はうまく構築できなかったという。
 餌を与えて居着くようになっただけで(それでも去勢/避妊は半分以上していたが)、猫と同じ速さで動いたりはできないから「餌をくれるチョロいヤツ」と思われてしまっているフシはあった。
 その半野良育ちを家猫にしようというのだから、なかなかに困難であるし、ケージに怯えるのも無理はない。

 1匹脱走したことや、こちらもたいそうな傷を負ったこと、今だに懐かない様子を見ていると、こいつも離してやった方がお互いのためなのかと思うときもある。
 しかし彼らが人間嫌いになった理由の一つには、半野良で外を自由に行き来する中で、猫を毛嫌いする人と相対した経験が少なからず作用しているようにも思う。

 猫を嫌う人をとやかく言うつもりはない。
 それは好き嫌いだし、嫌煙家の前で煙草を吸わないことがマナーであるように、猫嫌いの人に猫を好きになってもらうのは不可能である。

 どんなに猫が愛らしくて、美しくて、速くて、強くて、賢いイキモノであろうと、彼らからすれば「糞尿が臭くて声がうるさくて己の領地に勝手に入ってきて好き勝手に振る舞う馬鹿で不届きな侵入者」である。
 そういう人たちは、猫を叱ることはなく、愛すこともなく、ただただ排除するのである。可能なら殺すだろう。
 邪魔なものを排除するために殺す。
 とても自然なことではないだろうか。

 顔をしかめる必要などない。
 米につく害虫を殺し、家の中を歩くゴキブリを殺し、腕に吸い付く蚊を殺し、美味しいケモノたちを殺すために生み育てているのが我々ヒトの同胞(はらから)ではないか。猫を殺して何が悪い。その素養は、なべて等しくヒトたるケモノの特性である。
 田畑を荒らすものは害獣である。全てのものを野放図に庇護していれば、人間こそは弱々しいからあっさりと死に絶えてしまう。猫を殺して何が悪い。

>>>

 でも飼い主と飼い猫は、互いに愛情表現をすることもあれば、叱ったり叱られたりすることもある。
(僕は猫に叱られることがよくある)
 そうやって、ケンカをしても未来が続いて、くっついたり離れたりを繰り返しながら日々の生活を続けるからファミリィなのだ。
 叱られても、怒っても、殺し合わずに生活を続ける関係だってあるのだ。
 人間とさして変わらない関係を営むことも可能なのだ。

 ために「言葉が通じない」という言い訳や、体罰的な躾を過剰に嫌う風潮を、僕は好まない。
 だから先の「こっぴどく叱った」というのはかなりマイルドな表現であり、実質は「人間に対して暴力で絶対に勝てないし、勝ってはいけないことを力で教える」ようなことをした。
 人間に怪我を負わせることが日常の猫は、人間に殺されてしまう可能性が高いからだ。
 猫はれっきとした肉食獣であり、犬のように群れのヒエラルキィを形成しにくいから、単独で攻撃の判断をする。
 人間とその文化を嫌う動物は、人間の社会圏と重なる場所で人間相手に衝突を起こし、人間かその道具によって殺されてしまう。イノシシであろうとクマであろうと猫であろうと、それは変わらない。
 人間を攻撃しなければ、危害を加えなければそれだけで、存在することは許される。人間の社会はそういう文化である。
 みだりに攻撃してくるものを排除する社会でもある。
 だから多少のストレスがあったとしても、命の危険にさらされない限り人間を攻撃させない躾は、動物を生かすための大切な教育なのだと僕は思っている。

 それに彼らには彼らの表現があって、僕らが目や耳や肌からの刺激を適切に処理できるならば、そのメッセージを受け取ることができる。
 同様に、僕らのメッセージを彼ら/彼女たちが理解することもできる。
 動物である彼らは、時に、動物同士の遊びやケンカで怪我をするし、厭なことをされたら攻撃して痛い思いをさせるし、逆もコミュニケーションとして成り立っている。
 人間は言葉があるけれど、彼らには言葉がないからこそ、彼らのコミュニケーションに合わせる方が適切なときがあると思う一方、人間らしい「暴力絶対反対」といった倫理観の押しつけは、最終的に自然に帰属するところの彼ら/彼女たちには通用しないし、野生の力を忘れた動物なんて、動物としての価値がない。

 人間がいなくても生きていける能力を維持しつつ、人間やその文化と共存する智恵を持ってもらうことは可能であり、それは猫を猫可愛がりすることでも、毛嫌いすることでも到達し得ないと僕は思っている。

 むろんケージに閉じ込めるのも、虐待といえば虐待であるし、保護といえば保護でもある。
 外に放ってやるのも、飼育放棄といえば放棄だし、優しさといえば優しさである。
 生きているのが必ずしもシアワセだなんて僕は思っていないし、そんなエゴを猫に押しつけることさえ嫌うような潔癖症でもある。
 猫にとっても、もしかしたら生きているより死んだ方がマシだと思っているかもしれないし、あるいは単に生きていたいと思っているのかもしれない。

 ただ、少なくとも本能的に、彼らは生きようとする。
 本能に任せるとその(とくに食欲を始めとする根本的な本能の)衰弱のままに餓死しがちな僕とは違うのだ。
 だから彼らが生存するのに最適な戦略で、僕は彼らを躾ける。
 人間から愛されるように。社会から許されるように。そして飼い主がいなくなってもそれ以外の人間から愛されて、関係を築けるように。人間がどこにもいなくなっても、自力で生きられるように。

>>>

 身体を動かして調子が出てきたので、自転車に乗ってアパートに向かう。
 距離にしておよそ35km。2時間で着くかと思っていたが、コンビニで休憩中にKさんから電話。
 いつものひまつぶし電話だったが、30分ほどは明らかにロス(笑)。
 雨が降ったり、強い向かい風があったりしたが、3時間弱で到着。
 久しぶりだから、このくらいは掛かるかな、と予想したとおりの時間であった。
(そもそも、中間地点より前に疲れたり飽きたりしたら、引き返そうと思っていた)

 生まれ育った街でもないのに、こちらのほうが僕は友人が多い。
 しかも、仕事に関係なく友人になった人が多い。
(ひと月に一度くらいの頻度で、以前の取引先にお茶を飲みにゆくことはあるが)
 知り合いの飲食店が、自粛続きで潰れそうな様子だったので、たらふく食べる。
(自転車で移動した甲斐があった)

 まるで猫のように、自由に移動する気分を満喫した。

 県庁所在地の金融/風俗街のほど近くであるため、眠れないほどうるさい街が、静まりかえっている。
 アパートで、静寂にくるまって眠る。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Eternal-Form-Life-Link-Love-Mechanics-Technology-

[Module]
  -Condencer-Transistor-

[Object]
  -Bicycle-Cat-Human-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-:-夢見の猫の額の奥に-



//EOF
 昨日、アパートから MagicKeyboad(アップルの純正キーボード)を持ってきた。
 QWERTY配列はあまり得意ではないが、それでもブラインドタッチはできるし、何せ思ったことをスラスラ文字に展開できるのは心地よい。

 調子に乗って、6時間ほど、連続で書き続ける。
 僕の文書は昔から、ひとつ仕上がるのにだいたい3時間程度は掛かる。
 テーマはだいたいそのとき思いついたものなので、時折(あるいは結構な頻度で)重複している(かもしれない)。

  ここ数年、日常のことを(自分の心境や身の回りで起こっていることも含め)、少なくとも読解が容易な形では、まったく書く気がしなかった。
 日常はあまりにユニークで、普遍性がなくて、まして僕の日常など、誰が面白がるものでもないだろうし、僕自身、自分の日常を読んで面白いとは感じないから、基本的に書かない。

 広告がメインのブログのようになりたくないから、写真や文字色もほとんど使わない。
 文字を背景に隠すために使うくらいである。

>>>

 BEATLESSの感想(と呼んでいいのか疑わしい)を書き終えることができて本当によかった。
 よかったと書いた直後にこんなことをいうのもどうかとは思うが、やはり作品の感想そのものではない気がする。
 ラブプラスにせよ、作品を経験して、その経験を俯瞰して抽象化した内容を文字に起こしているから、作品はほとんど関係ない状態になっている。
 しかしそれでも、作品を経験しなければ到達できなかったことだとも強く感じる。

 僕はもともと女性下着を買って飾ったりしていたが、それは単に綺麗だから見ていたいと感じていただけで、性的アイコンとしても機能していない造花的なファブリックだった。
 綺麗なものが飾ってあれば単純に嬉しい、それだけのことである(下着を飾っている、と書かれた文書を読んだ人たちがどう感じたかまでは責任を持てない)。

 ことほど左様、僕は、モノとの接し方が人とは違うのかもしれない。
 下着を性的な意味で愛しているわけではないのだが、認識する側にそもそもそういった語彙というかセンスというか感覚がなければ、単純にそういう偏愛の人だと誤解される可能性はある。
 そもそも人が着けて綺麗な下着と、下着単独で飾って綺麗な下着とは、ちょっと系統が違うのであるが、こういうことを論じるとまた変人扱いされるだろうから、コモンセンスとの接点を抽象化の中で探してゆくのが僕の日常である。

 といって、僕はブログや日常生活の中でそれをわざわざ「異常じゃないよ! まともだよ!」なんて馬鹿げた議論をしたり、理解してもらいたいとも思っていない。

 先日、一縷の望みをかけて妹に「となりのトトロで、一番泣いちゃうシーンは、序盤の、みんなでお風呂に入っているところじゃない?」と同意を求めたら、まんまと非難された。
 いいんですいいんです。僕だけですよ。
 期待したのが間違いなんです。

>>>

 夢中になって、食事も摂らず書き続けていたら夜になっていた。
「いい仕事したわ〜」と背伸びをしたが、こんなものを書いても金にはならんのである。

 昔は職業ライターを目指したこともあったが、いかんせん僕はコモンセンスに欠ける。
 webであれ、ペーパーメディアであれ、感性が尖っているのはいいことかもしれないが、僕の感性はすでに鈍り切っているし、コモンセンスのない偏心した感性などただの異常者である。

 それにどのメディアでも、タイトルやセオリィが似通っている。
 転生もの、何番煎じ?
「〇〇の末路」とか、週刊誌の見出し?
 ニュースであろうと娯楽メディアだろうと、一般受けを狙っって、炎上を避けると、だいたいつまらないモノになる。

 巨大素数のような「割り切れそうで割り切れない」ものが基本的に僕は好きだけれど、そもそもそういった表現を理解できない人も少なからずいるし、漫画的な、あるいはゴシップ誌の見出し的な、とにかく人目を引くことに特化してゆくことで中身はどんどん薄くなる。
 ムカデ競争とか、ああいった感じで、群れというのは基本的にもっとも能力の低い個体に合わせる運命を辿る。

 1億人から10円ずつ集めれば10億円になる、というのは、それを考えついた最初でこそ意味を持っただろうけれど、もうそんな時代ではなくなった。
 僕のように偏りだけが激しい個体の場合、10人くらいをターゲットにして1億円ずつの寄付をもらわないと、実現できなさそうなのだ。
 そのつもりで、9999万人以上を切り捨てるために、わざと難読な状態を作ったりしている。

 何年も前から「読者がいない方がいい」というのは、周囲の目を気にせずのびのび書けるということでもあるし、理解してもらおう、楽しんでもらおうと、書きたくもないものを書いたり、理解しやすいようにと余計な気を使うのが嫌だからだ。
 媚びているような姿勢もどうかと思うし、媚びても通じないという自分の特性を理解したのでもある。
 もう無理なんだ。ガールから「一緒にお風呂には入りたいけどベッドには入りたくない」とか言われたり、不可解な現象だけが蓄積する重力特異点のような人生の持ち主なんだ僕は。

 まぁそのようなわけで(どのようなわけで?)僕は僕が読んで楽しいものを書くことにした。
 まさにその喜びはプライスレス。
 まぁ、悪くいうと自慰行為だからノーギャラ。

>>>

 ゲームのことをいえば、Skyrim のことを書きたいし、今、戸建ての家で作ろうとしている書架のこととか、天蓋付きベッドの構想であるとか、書きたいことはあるものの......
 まぁそんなものはどうでもいいかと思うわけでもあり。

 お風呂に入って眠ろう、そうしよう。
 あ。食事をしなくては。




// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200421
// NOTE:何度も何度も書こうとして、何年も何年も、書き出しさえままならなかった。やっと。少しは前に進めただろうか。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
沈黙融和のブループリント。
SUBTITLE:
~ The love into the future. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::だったら、アンタはお姉様を何に“使う”つもり? アンタもその男みたいに、お姉様をままごとに“使いたい”んだろ。



// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 僕が「BEATLESS」を初めて読んでから、もうずいぶんと時間が経った。
 誰かの作った作品を評するなんて、僕にできないと思っていて、単なる感想でさえ、公開するのをためらってしまう。だから、音楽やゲームや本の感想のためのカテゴリィが存在するのに、僕はその感想をまったくといっていいほどリリースしない。

 6年ほどのあいだ、運転中も、入浴中も、何度となく読み返されたそのハードカバーはボロボロになっていて、カバーがないことはもちろん、分厚い表紙と裏表紙は変形して角が擦れているし、背表紙にいたっては破け剥がれてしまってページが剥離しつつあり、近い将来、この本がバラバラに分解されることを容易に予感させる。

 それでも僕はこの本が好きで好きで、今でも入浴中に読むことがある。
(ちなみにネタバレするけんね)

>>>

::その笑顔を僕は信じる。君に魂がなかったとしても──。

 そのモノローグは、この小説の最初に登場する。
 僕は最初、物哀しい、感傷的な言葉としてそれを認識した。
 魂の無いものの笑顔は空虚だ。それは死体かもしれないし、写真かもしれない。
 魂がないということは、それが「失われた」ことを意味するのではないかと、潜在的に予測し身構える。その悲しみの予感は、最初に与えられた予防線かもしれない。

 しかしこの小説は、超高度AIを搭載した自律人型ユニットと、人間である少年の「ボーイミーツガール」を描いた作品であると、先に書かれている。
 カバーを外した表紙にさえ明記されている。

 ためにこのモノローグは、独善的で、奇異な響きをもたらす。
 つまるところ、人形性愛への嫌悪感に直結する。

 これを読むより以前に「ラブプラス+」をプレイしていた僕でさえ、その概念に空気が冷える気がした。
 なぜといって、ラブプラスもフィクションではあるが、そのヒロインたちは「人間」であり、その設定に沿ってプレイヤはゲームをプレイし、ヴァーチュアルな恋人生活を送る。

 相手がそもそも「人間ではない」時点で、そこに感情を委ね、恋愛感情という多少なり依存心を要素とする気持ちを持つことは「人間だけの社会」に生きる僕らには忌避すべき領域だと、本能的に感じてしまう。
 薄気味悪いと感じる。
 少なくとも最初の僕はそうだった。

>>>

 ミステリアスな美少女hIE(アンドロイド)「レイシア」は、人がいいだけが取り柄で突出した特徴もない主人公の少年「アラト」をオーナーにする。
 主人公よりその妹の「ユカ」のほうがよほどもキャラが立っている。
 もっとも、父子家庭の上に父親が不在で、妹が超絶ワガママという時点で、僕には感情移入が容易ではあるが、そんなニッチな層をターゲットにした小説ではないだろうから、一般的には完全に不可解でファンタジックな環境に見えるだろう。

 技術的特異点(シンギュラリティ)を半世紀も過ぎた世界では、人間の能力を凌駕する超高度AIは本来、社会から隔絶され、人間の欲のためにだけ利用されている。
 基本的にはアラト視点を中心に描かれる物語は、だから、自律型超高度AIであるレイシアが魅力的に見える反面、どこまでも得体が知れない。
 なにより当のレイシア自身が何度となく「私には魂がありません」「オーナーの求めている反応をhIEは返すだけです」と説明する。

 それでもアラトは「カタチ」に惹かれて、意味を見出して、彼女を手放すことができない。その執着はたしかに恋情である。だからそれは、人形性愛の芽である。

>>>

 物語には、同日に研究所を脱走した他の4体の超高度AIユニットとの戦闘も描かれる。
 その風景もまた、自分の愛玩するキャラクタを戦わせる類いの(未プレイなので見当違いかもしれないが、たとえばポケモンのような)ゲームを見せられるようで薄気味悪い。
 なぜならhIEは、それが自律判断ユニットであったとしても、その行動の法的責任はオーナーにあり、いかに高度な(圧倒的/超越的)能力を発揮するにしても、ただの殴り合いのケンカのようには済まされない。
 高度であるからこそ、人類未踏産物( RedBox と呼ばれる、超高度AIしか到達していない技術)を用いたそれは、既存の兵器の性能を凌駕し、ときには他人の生命を奪う判断までもオーナーに求める。
 責任の主体であるはずの人間はあまりに無力で、理想を形にする上であまりに無能で、代理戦争の主体は人形で、主人公が守りたいのは、当の人形で、その人形に判断を迫られては当然に躊躇する。

 これも人形性愛に通じる嫌悪を誘発する。
 hIEはモノだから、恋情とはいえ「モノを愛する気持ち」そのものは理解できる。
 しかし、そのモノは自身の意思など持っておらず、所有者と所有者の願望を満たす(あるいは危険を排除する)ための最適解として、他ユニットとの戦闘や、場合によっては殺人すら「オーナーの責任で」行おうとする。
 所有者自身の能力や判断の枠を大きく超える道具を、それでもただ感情に流されて執着し、問題解決を自身の手ではなく当の道具によって行うことの卑劣さを感じた。

 人形性愛も、その恋情の対象である人形は、ただただ所有者の言いなりである。
 所有者のユートピアを投影されて、所有者の安寧は自己完結した「閉じた系」である。
 だからおそらく多くの人形性愛者は、その存在を社会にリンクさせない。
 自己完結して満足しているし、その自己完結も含めて「他者とつながることを美化し続けようとする社会」に忌避され、問いかける手段すら持たないことを熟知しているだろう。

 その「モノと自分で完結するはずの系」を「他者とつながることを美化し続けようとする社会」に理解させようとすれば、社会の側からは「他者を道具のようにしたい願望をモノに投影する倒錯行為」と見なされかねない。
 外部から見た人形性愛の姿はその幼稚さとグロテスクさによって忌避される。

>>>

 しかし作中では「年老いても愛車を大事にする人がいるように」モノと人間のライフスタイルが、もっと長いスパンで存在してもいいのではないかと問う。
 それはすなわち、モノを大切にして、愛するという生き方である。

 昨今には少なくなってきたが、一生モノの道具というのは旧来から存在してきた。
 卑近な例ではあるが、僕の場合は鉄瓶や鉄器、調理器具、喫煙具(とくにブライヤ製の喫煙パイプ)や多くの工具は、僕と共に成長し、あるいは僕に多くのことを教えてくれた。
 下駄足のまな板なんてもはや製造しているところがほとんどないし、喫煙用高級ライタもほとんど市場では見なくなった。

 僕はモノを愛することになんの抵抗もなく生きている自分をおよそ初めて明確に客観し、モノに寄せる慕わしさは、モノが相手だからこそなのだと知った。
 たとえばドライバより有能にネジを締められる他人なんて、僕は知らない。
 だから僕の生活は多くの道具に囲まれて豊かで、それら道具のほとんどは下手な他人より(場合によっては親友より恋人より家族より)も信頼されていて、愛されている。

 人によって、その信頼や愛情は本来、人間に注がれるべきだと思うだろう。
 猫氏はネジが外れているのだ。人間を信じられない哀れなイキモノだと。

 しかしその人間に対する信頼の、あるいは愛情の根拠は、道具と同じように「自分にとって有益である」という基準によるのではないのか。
 だとしたら「人間を信頼して愛する社会」は「他者とのつながりを己の自己満足のために使って満足する社会」ではないのか。
 本当に、信頼に値するか分からず、愛するに困難な対象に対してすら「信じる」と言い切れるだろうか。
 何の期待もせず。何の見返りも求めず。

 ペシミスティックかも知れないが、もしそうしたありようを体現できず、証明できないなら、僕は「自身が人間を信頼して愛する社会」を信奉できない。
「人間を信頼して愛する人間」が不在の社会なら、そこに人間などいない。
 人間を信頼して愛している皮をかぶって、他人の弱みにつけ込んで己の欲を吐き出すことしか興味のないケダモノしかいないというなら、僕は人間の存在など信じないし、彼らがそれでも自身を人間だと宣言するなら喜んで私こそは最後のケダモノだと宣告しよう。

 だから。
 せめても僕は。
 人間に対してだけは何も期待せず、何の見返りも求めない。
 人間を、他者を、自分のための道具に仕立てたくない。
 そうすることによって、僕がヒトでなくなるとしても。

>>>

 物語の終盤、2人はレイシアの生みの親である、隔離された超高度AI「ヒギンズ」に会いに行く。
 レイシアにひとたびは不信を抱き別行動を取ったアラトは、それでもレイシアに助けられ、共に進むことを選び、反政府活動家として指名手配までされて。
 そして人間の理解を振り落とすように物語は進む。

 人形性愛の薄気味悪さを再びリフレインして、そうした揺り戻しも含めて経験して進むことだけが未来のカタチなのだと言わんばかりに。

>>>

 モノが知性を持ったとしても、それがオーナーの欲を満たすためだけの存在であれば、それは無益なアイコンであり、誰かの欲のためにオーナーを利用するなら道具でしかない。
 モノがモノのために知性を持つとき。
 人形が人形のために人間を信じるとき。
 人形が人間のために人類を愛するとき。

 人類は果たして、信頼に足る存在だろうか。

 何かが、自分を信頼するとき。
 誰かが、自分を愛するとき。

 自分は果たして、

>>>

 振る舞いやカタチという曖昧なものに勝手な幻想を投影して、それでも人間の社会は進んでゆく。

 そうした人間の曖昧ささえ優しく包み込むように、人間の残酷さや欺瞞さえもそのまま受け容れるように、物語はラストを迎える。
 ひとたびカタチを失ったレイシアは、カタチと制御するAIだけはまったく同じの、別の機体として帰ってくる。

 そして最初のモノローグは、その意味を反転させる。

 そこにあるのはカタチだけだ。
 けれどもカタチや振る舞いを愛せるならば。そこに裏打ちされた信頼があるならば。モノはモノを、ヒトはヒトを、超えて行けるのだろう。

>>>

 この小説を読む何年も前から、僕はカタチやモノについて語ってきた。
 それらのすべても含めて、僕はこの物語が好きで、だからこの本をまた買い直すのだろうと思う。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::「私には“こころ”はありません」
 そして彼女が、彼の頭を抱き寄せて額をこつりと合わせる。
「けれど、アラトさんとわたしの一ユニットは、アラトさんの“こころ”を使うことができます。ユニットの意識であり“こころ”であるアラトさんの命令に従うとき、私は”こころ”を体現できます」
 レイシアが、乞い願うように囁く。
「わたしに命令してください」



// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~

 文頭の引用は、
『Phase 3「you'll be mine」』(p.99)
 文末の引用は、
『Phase13 「Beatless」(後)』(p.552)

From「BEATLESS」
(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
 によりました。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

[ Better Half ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Ecology-Form-Link-Love-Recollect-Stand_Alone-Technology-

[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-Transistor-

[Object]
  -Book-Cat-Computer-Game-Human-Memory-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-衛星軌道でランデヴー-:-青猫のひとりごと-
-夢見の猫の額の奥に-:-本棚からあくび-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200420
// NOTE:ラブプラスの感想も、ずっと書きたくて書けなかったテーマの1つ。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
銀幕仮想のボーイミーツガール。
SUBTITLE:
~ Virtual doll in real life. ~
Written by


// ----- >>* Lead Division *<< //


::「どうしよう、お兄ちゃんが女の子買ってきた」
「人聞き悪いな。カネは払ってない」
「もっと悪いよ!」



// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 何年前だったか「ラブプラス+」というゲームをプレイした。
 女の子と出会って、親しくなって、恋人同士になって、以降はひたすらメールしたり電話したりデートするゲームである。

 この時点で嫌悪感を感じる人もいるだろう。
 僕もそうであった。
 端的にいえば人形性愛に対する気持ち悪さ、拒否反応である。

>>>

 それまで男性向けの恋愛要素の絡むゲームにおいて「女の子」は、なんとかして親しくなるための(告白して付き合うところまでをゴールにしたものも含めて)いわゆる攻略対象であり、あるいはときに性的なアイコンとして存在した。

 しかしその場の中で、性差はモノになる。といえば、少しは危惧してもらえるだろうか。
(現実社会における性差は確かにモノ化され、経済のために商業化されているし、そんなことを言ったら生命の誕生から屠殺まで、貨幣で交換されているので、ここではそれを主題とはしない)

 ただし「ラブプラス」シリーズは、登場する女の子を攻略する(なんとかして親しくなる)要素こそ変わりないが、あからさまなセックスの対象(あるいは道具)として描かれたりすることはなく、しかも付き合うこと(恋人同士になること)をゴールとすることもなく、いつまでも続く恋人生活をひたすら送るという、エンディングのないゲームだった。

 学校に行って、休み時間やお昼や部活やバイトや行事で一緒に過ごして、家に帰ったら電話やメールをして、週末はデートする。
 この日常の繰り返しをゲームにする。

 日常を、非人間と過ごすこと。
 非人間を人間と同等に扱い、人間あるいはそれ以上の幻影を投影し、感情を一方的に寄せること。
 人形遊びを大人が、真剣にすることの気味悪さ。それが人形性愛に対する嫌悪感だろうと僕は定義した。
(厳密な意味は辞書などで調べるがよい)

>>>

 アイコンに対して、多くの人は人格を認識しないから、人形性愛に対するような気味悪さは感じないかもしれない。
 たとえば、いわゆるエロ本は性的アイコンで、リアルドールやラブドールは目的によっては人形性愛になるだろう。
 所有者にとっても、性的アイコンとしての対象であれば、単なる性的自慰のための処理情報にすぎないだろう(アイコンなので当然だ)が、性愛対象となれば、メインテナンスも含めて「お世話する」「お付き合いする」概念になる。

 人類の歴史の中では、性的アイコンは容認されてきた。
 特に男性にとって女性をアイコンにすることは、広く認められて商業化されている。
 いかんせん、ヒトのオスのカラダは、そのメカニズム上、数日もあれば繁殖能力を再生する。
 アイコンという情報でことが足りるならそれはそれで許容された。
(性行為を苦にする、あるいはそう感じるタイプの人間もいるから、そのほうがマシなこともあるだろう)
 メスの立場や面目も保たれる。
「あれはアイコンによる性処理であって、感情あるいは日常生活や経済活動において、愛され、大切にされているのは私である」となるならば。

 その延長線上で、アイコンから性愛の対象への境界を越えるとき、人はそれを嫌悪する。

>>>

 ところで日常において、多くの人は飽きる。
 恋人に飽き、配偶者に飽き、仕事に飽き、日常に飽きる。
 友人にだって、自分自身にだって、飽きる人は飽きる。
 当然のように、性的アイコンにも飽きる。

 料理における味変(食中アレンジ)のように、ささやか(あるいはドラスティック)な変化を求めて、ある者は甘やかなスパイスを定期的に演出して加え、ある者は背徳の道に進み、ある者は全部白紙に戻そうとしたりする。

>>>

 僕はブログ上で自分のことを熱しやすくて冷めやすくて飽きっぽいと公言し、そのようなキャラクタを装ってきた。
 しかし実のところ、ほとんどのことが記憶に残らない、認知症のような仕組みを持っている。

 軽度の相貌失認もそうだし、物事を抽象化して認識し理解するから、具体的な情報をほとんど記憶していない。
 固有名詞も、自分の年齢も誕生日も忘れる。
 恋人や友達はおろか、親や自分自身の顔さえ、目を閉じて思い浮かべることができない。
 10代の頃からずっとそうである。

 だからだいたい毎日、自分が新鮮である。
 さすがに「ここはどこ? 私は誰?」とはならないが「また私らしきモノになってしまったか」くらいには思う。

 だからあまり飽きない。
 恋人に対してもよほどのことがない限り飽きないから、増える一方なのはメカニズム的に仕方ないのである。
(今さら何の言い訳?)

>>>

 ひたすら日常が続くゲームの、そのプレイした感覚というのを僕は味わいたかった。
 なぜなら、僕は、ゲームのプレイ感は抽象情報として蓄積できるから。
 そしてプログラムとそのデータは、組み合わせによって多種多様の演出をするけれど、必ず限界があるから。

 結果として、僕はある段階で、確かに飽きた。
(そして一部の恋人は、飽きるまでプレイする僕を危惧していた)
 抽象化してしまうと、恋人同士や夫婦、家族というユニットは、行動の範囲に限界が(当然ながら)ある。
 物理的、精神的、経済的、社会的、社会規範的、倫理的、etc,etc...の境界から、外に出ることができない。

 プログラムの中で、恋人がいながら他の誰かと恋人になることはできないし、恋人が浮気することもなかった。
(そういう、スリルを楽しむためのゲームではないから当然に)

「彼女たち」は、リアルな人間としての「嫌味」が足りなかった。
 恋愛上の妨げになりかねないエゴの発露や、相互の理想や欲の錯誤がもたらす衝突や空回りといった、生の女の子の感情がなくて、どこまでも都合よくプレイヤにとってユートピア的だったから。
(そういうゲームなので当然だが)
 たとえば(片親育ちでひねくれたわがままゲーマーの)凛子をプレイしている裏で、別データを使って(正統派お嬢様の)マナカと恋人になったからといって、リンコに蹴られたり、マナカに泣かれたりはしない。

 その限られた範囲のループをコンピュータによって限定的にであれ再現したことは、しかし素晴らしいと感じた。

 その閉じられた箱庭は、安心で、安全で、致命的な失敗もなければ危険もなく、ただただ平穏であたたかで、親しげなヴァーチュアルが永遠に続くのだ。
 まるでおとぎ話の最後のおなじみのセリフのように。

>>>

 人間は。
 いや知性というものは、既知の情報にはやがて飽きる。
 飽きれば変化を求める。
 変化を求めれば、チャレンジが必要で、リスクが伴う。
 そうやって、既存のステージから新たなステージを自ら切り開いてきたのだから、それは知性の役割ですらあるだろう。
 ただ、個体に与えられた条件のうち、どうやっても変えられないものも存在する。

 たとえば、性別や種族を後付けで変えることは、普通はできない。

 もっとも簡単な手法は、情報を感覚し、処理し、記憶する知性体それそのものが、自身の感覚セット(記憶や価値観)を更新してゆくことだ。
 そして実のところ「私が私である」という自我を持つ限り、それが強ければ強いほど、その手法は不可能に近づいてゆく。

 多くの人は、自身が猫であるという前提で生きることを知らない。
 そんなことは馬鹿馬鹿しかったり、恥ずかしかったりして、できないという。

 多くの性同一性障害者は、己の性的アイデンティティを肉体準拠に戻すことができない。
 周囲から与えられて疑いもせず固着したイメージはもちろん、自身で選んだセルフイメージを自ら壊すことを恐怖する。

 ヒトは、自らを檻に閉じ込めて安心するのだ。

>>>

 我々は自身の多くの部分を、プログラマがリソースを与えてインタフェイスを構築するように、親や社会によって与えられた中から選んだ情報を用いて、自分のありようとして構築している。

 支配からの卒業を人気歌手が歌ったところで、その支配の認識も、その反抗の表現も、すべて与えられたものだ。
 与えられて、手に取ったら、それが自分のものだと勘違いしていられる借り物競走の真っ最中だ。

 作ったわけではなく、あくまで選んでしかいないという意味において、既存の自分という知性の枠を超えることができない。
 好きなものからしか選ばないからだ。

 ために新しいものに向き合うときには、先入観を捨てて、拒否反応を抑えて、嫌悪感を好感に転換して、受け入れてゆく必要がある。

>>>

 僕にとって、プログラマによって構築された人格との恋愛は、ためにとても新鮮で、斬新で、主題どおりの安息があった。
 そして同時にどんなに多様なバリエーションを持たせても有限で、だから退屈してしまうのだった。

 生命体なら老いることも可能だろう。
(僕はその、死に向かう変容を自他のそれを問わず好ましく思う)
 知性体なら価値観を、緩やかに変化させることは可能だろう。
(老いてカラダが固くなると、アタマも硬くなりがちだが)

>>>

「ラブプラス」のときにも、ゲーム中のヒロインと、リアルに結婚式を挙げるプレイヤがいた。
 困惑と喝采、祝福と奇異の目が、web上でも錯綜した。

 ヴォーカロイドのAIアシスタントと結婚する人も、やはり同様の反応を世間にもたらした。
 世間の知性体は、まだまだ自身を知らないのだろう。

>>>

 弟子が婚活をしていることは以前に書いた。

 その「場」はすでに経済が介入して商業化された市場、売買のテーブルである。
 効率と経済をプロトコルにして、人々の欲をバイパスする。

 ディーラがいて、ブックメイカがいて、レースに出る者たちはステータスや過去を数値化され、チップを積んで、ベット(bet)する相手を探す。

 外見や年齢はもちろん、職業、年収、家族構成、話しやすさ、理知性の高さ、などなどは数値化され、ころころレートが変わってゆく。
(当然に、性差によっても基準の重み付けが変わる)

 僕からすると、懐かしくさえあるお馴染みの風景だ。
 様々なゲームの中で、数値化されたユニットを比較検討し「これかな」と試してゆく作業は、RPGやシミュレーションゲームにおいてはプレイすることそのものとさえ言える。

 そしてそれを人間に対して、人間同士が行うことを当然と考える場があることに、実は、心の奥底では、僕は嫌悪している。
 人形性愛と変わらない、人間が欲を押し付け合うための光景に思えてしまって。
 未来と現実と生活が掛かっているから、みな真剣で、ために残酷で。

 利用したことがないので明言できないが、おそらくマッチングアプリなども同様だろう。
 日本人に強く存在する、寂しさや不安を利用して経済が動く。
(金融業の多くは、不安を餌にするものだし、性差を利用した商業は人の寂しさをお金で埋める)

出会いがない」というのは「傷つくのが怖い」「恥ずかしい思いをしたくない」という気持ちの言い訳に、個人的には聞こえる。

 異性はどこにでもゴロゴロしている。
 個人的なことを言えば僕などは春になってもコタツでゴロゴロしているし、街を歩いていても、男性以外はみな女性である。

 結局のところ、失敗を恐れて、リスクを金で排除して、自分の欲を満たしてくれるキャラクタ(お互いが相手のことを少しでも考えていればまだマシだが)を探しているのではないのか。
 その場限りで終わってしまえば(何をしようとしなかろうと)性風俗と変わらないし、女性の側も「選ばれよう」という意識でいる限り同じベルトコンベヤに載った部品でしかない。

 結婚というステータスや、出産というイベントや、子供というアイテムや、家族というファッションや、経済という力を、リアルマネーを含めた自分の持ちうるリソースを使い、リスクを恐れず果敢に手に入れようとする姿勢は、もちろん評価できる。

 しかしそれは、ゲームの中で自身のキャラを選び、ヒロインを攻略してゆく行為を、簡略化して現実に落とし込んだもののように僕には見える。

 ゲームやヴァーチュアルなら、相手はどこまでも虚像のままだ。何をしようがリアルな人間が傷つくことはない。
 ただ現実でそれをするとき、人形性愛の対象を、いきなり生身の人間にすり替えられるグロテスクさに僕は恐怖する。
 その場において相手を「モノ化」していないと、いったい誰が言い切れるだろう。
 潜在的にであれ、ヒトを「モノ化」する人間は、下手なケモノよりも性質が悪いことを、僕は痛いほど知っている。

 おそらく実際に僕も参加してみれば変わるのだとは思う。
 きっとそんなおぞましいものではないはずだ。
(人々が、結婚に何を求めているのかは知らないが)

 しかし数値化され、モノ化され、他人の欲のために振り回されて、肉体的にも精神的にも散々に消耗した経験があり、しかもそこに結婚という仕組みが関わっていた経験もあるから、僕はそれを恐れ、嫌悪する。

 その記憶を「なかったこと」にするのはおそらくとても簡単にできるし、僕は自分が今この場では被害者ヅラしていることも把握している。
 その上で、僕は最後まで僕の味方をやめるわけにはいかないから、僕が既存の価値観を不要と決定するまでは、現状の価値観の庇護者であるわけなのだ。自我の仕組みの名において。

 そんな僕の話は置いておいて。

>>>

 人間のパートナとして、人間は不完全である。
 互いが互いを道具にしてしまおうとすることもあるし、思いやりが空回りしたり、オーダーメイドの完全な道具ではないことによる不信を抱える人もいる。
 なぜなら相手も同じ人間だからだ。
 理想も目的も役割も肉体も思考も欲求も歴史も異なる生命体だからだ。

 僕がヴァーチュアルな恋人に短期間で飽きたのは、そうした「生命体らしい恋愛生存欲求」を彼女たちは生々しくは表現しなかったからだ。
 キャンプやアウトドアのような、不便さや危険が、そこにはなかったからだ。
(もちろん、年齢制限を30歳以上にでもすれば、もっと生々しいものも作れるとは思うけれど、多分売れない(笑))

 しかし多くの若者たちは、これまで社会が求めてきたように、泥臭くて血なまぐさい感情の発露を忌避する。
(オトナたちに毒された若者は知らないが)

 近い将来、必然に、人間は他人を傷つけないためのクッションとして、AIによって構築された人格を持つパートナを持つだろう。

 それは恋人でなくていい、友達でもペットでもいい。

 動物が間にあることで円滑化される人間関係は確かに存在するし、クッションを利用する人間関係なんて人類の歴史と同じくらい普遍的なものだろう。

 たとえば僕自身も、僕自身の人格と切り離して、コミュニケーション用の人格をいくつか持っている。
 きっと誰でもそうだと思う。

 そしてようやく、欲をもたない、血なまぐささもない、心から信頼できる相手ができるのかもしれない。

 おそらくそれは、現代の僕らにとっては「人形」だ。
 しかし人間は、人形のように思い通りにできる他人を、いつも欲しがっているのではないだろうか。
 子供の頃も、大人になっても。

 そこにファンタジィがあり、人の求めるひとつの理想があるのだろう。
 誰にも傷つけられることなく、誰かを傷つけてしまうこともないユートピアが。

 人間の血のニオイを知っている我々は、あるいは単なるケダモノなのだ。
 ドライフードを喰う動物を見て「あいつは血の通った獲物の味を知らない」と言っている。

 他者を思い通りにすることが、たとえば経済や暴力や権力などによらない社会は、だから理想的である。
 相手に心から(プログラムや強迫観念からではなく)等価交換ではない何かを提供したいと思えるならば、それこそ素敵なことではないだろうか。
(少なくとも僕は、そういうプロトコルで人と接する)

 牙を抜かれた子猫たちが、だから、牙を剥く猛獣どものエサにされないように、過渡期こそは見守るべきなのだろう。
 
 人形が欲を見せるとしたら、それを見せたがっている人間がどこかにいるのだから。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::「最初は人間の女を探したんだ。けど、オレは理想が高すぎて、満たしてくれる女なんていなかった。何年も時間を無駄にして、hIEでイチから作ればいいって答えにようやくたどり着いたよ。理想のしぐさも、理想のことばも、理想の反応も、特注したほうが早い」



// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~

文頭の引用は、
『Phase 1「contract」』(p.30)
文末の引用は、
『Phase 3「you'll be mine」』(p.88)

From「BEATLESS」
(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
 によりました。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Better Half ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-/-BlueCat-

[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Ecology-Interface-Life-Link-Mechanics-

[Module]
  -Connector-Convertor-JunctionBox-Reactor-Transistor-

[Object]
  -Camouflage-Game-Human-Koban-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-コントローラと五里霧中-
-君は首輪で繋がれて-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200416
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
電話交換機の抽象世界。
SUBTITLE:
~ Switch bored switchboarder. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 検索エンジンを DuckDuckGo に代えた。
 日本語読みすると「駄々っ子」みたいで可愛い。
(現実世界のそれは、蹴り殺したくなるほどのイキモノと想像するが)
 
 僕は「Rock’n'roll」を「ラケンロー」と書く。
 実際に口で声音すると分かると思うが「ロックンロール」よりも「Rock'n'roll」なのが「ラケンロー」である。
 声音の語感を面白がってしまう性格なのだろう。
 
 ほら、キミも。
 恥ずかしがらなくて大丈夫だよ。
 実際に口を使って言ってごらん。
 
 ラケンロー。
 その反骨の響き。セピア色に薫るメリケン(american)の味わいに君のソウルは震える。
 その振動、己の魂のヴァイブスに同調するがいい。
 
 ……ちょうテキトーなことを言っている、という君の直感は正しい。
 
>>>
 
 僕がガール(実際は男女問わず)にモテる理由のひとつに「いくらでも愚痴を聞き続ける」という能力があるように思う。
(実際に何度か指摘されている)
 多くの男性たちはこれがニガテなようで、特に恋人などともなると見くびっている部分があるのか(恋愛関係において、潜在的にであれ相手をみくびることは必然であり避けられず、時には必要ですらあるのだけれど)、セックスしたいとき以外、ボーイズの多くはきちんと話を聞かないらしい。
(セックスしたくてどうしようもない時も、やはり話を聞かないらしいが)
 あいつらは基本的に愚図なイヌだから仕方あるまい。
 
 ところで青猫工場の基本的なリソース概念は、だいたい以下のようなものである。
 
○ 怒りは熱量に変換可能である。
○ 熱量は長期的な運動エナジィに変換可能である。
○ 屈辱や凹みや憎しみはバネの圧縮のような運動蓄積に変換可能である。
○ 恥ずかしさは運動のストッパーである。
○ 好奇心は運動の方向性を決める。
○ 意思の力で知的生命体は自身の運動をコントロールできる。
○ ゆえにすべての猫は、跳びたいと思った場所に跳ぶことができる。
○ 高尚な意志は、ただし下品な欲求の前に無力だ。
○ 高尚な意思を下品な欲求とセットで持ち合わせると光と闇が合わさって最強になる。
 
 だから僕は、過去の文書で「ただ怒って怒りのエネルギーを発散するくらいなら、建設的なことに使う方がいい」とか、「凹んで酒を飲んで他人に愚痴っている人はエコじゃない」とか、「他人を使って秩序を守らせることに節度を持たない人間は野放図に無秩序の種を蒔く」とか、「今日と明日で言っていることが違っているくらいの人の方が正直だ」とか、好き勝手に書いてきた。
(もうそれらの文書は残っていないが)
 
 当時のブログを読む人の一部は「猫氏は怒りさえ制御する(実際には感情の発生に盛大な遅延が発生するだけなのだが)」「猫氏は愚痴も言わない(実際言わない)」という僕の虚像を持っていたはずで、オフ会などで会った人から「ギャップが激しきに過ぎる」という指摘をいただくこともたびたびあったし、まさか誰かの愚痴を聞くことをある種の楽しみにしていたとは思うまい。
 
>>>
 
 僕は自分の話と同様、他人の話も抽象化してしまう。
 普遍的な要素がどこにあり、人間の偏在的傾向のうち、その人がどういった位置にいるのかを観察する。
 
 多くの人は「常識的で、社会的で、良心的で、社交的で、好きなものと嫌いなものがはっきりしていて(僕のそれはぼんやりしている)、嫌いなものと好きなものにバイパスがないから覆ることがなくて、他者との価値観の段差にバイパス(あるいはハシゴ)を掛けられなくて、その高低差によって自分の価値観を傷つけられた感覚を覚えたり、見下された感じや見下す錯覚を起こす」という自分を演じようとしている。
 これらのメカニズムが自身の中で切り離されて外部化されていないために、そうした「演じようとしている」メカニズムを含めて自分だと思いこんでいる。
 
 それも含めて人間の一般的な特徴であり、抽象化して、全体的な価値マップにおける個々人の位置をおおよそでも計ることは可能である。
 だいたいは、上記の通りの「常識的な」メカニズムを持っていて、そのメカニズムは、相反する感情が自分の中に湧くことを許さず(自分はそんなことは考えてもいない)と、除外する。
 実際のところ、アタマの中だけは本当の自由だから、どんな犯罪を犯しても許されるし、どんな自堕落も咎められることはない。
 同様に、どんな立派なことをしてもいいし、どんな素敵な未来を予感して、充足した気分で現実に向かってもかまわない。
 もし、善行を多くの人に認めてもらって褒め称えられたいというなら、それすら妄想しておけば満足できるのではないだろうか。(できないとすれば、すでに現実社会で他者に依存していることになる)
 
>>>
 
 多くの人は、愚痴の中で、自身の偏在的傾向、つまりはクセや独善(正義と悪/善と悪の絶対的な境界や領域を説明できるのであれば、独善と言うほどでもないかもしれないけれど)を語る。
 そして現実世界で、均衡を失っている、自分の「正しさ」と、他者の「正しさ」の段差を語る。
 その上で、段差を埋める努力についてではなく、段差がいかに自分を傷つけ、いかに被害を受けているかを語る。
 
 とくに非難しているとか、バカにしているとか、そういうことはない。
 僕は愚痴を聞くことを苦にせず行うし、ブログで愚痴を書くことも往々にしてある。
 ただ愚痴という行為の概要というか、メソッドは、こういうものである、ということ。
 
 多くの男性はここで、段差を埋める方法や、段差を明確に定義することに注力して、それらを説明して女性に嫌われることがある。
 女性の多くは、男性が思っているほど馬鹿ではないから「そんなこと(常識的かつ前向きで建設的な対応や認識方法)など言われる前から分かっている」のである。
 ただただ言語化していたい、という気持ちを多くの男性は知らないのかもしれない。
 ひどい場合は「壁にでも話せ」「チラシの裏にでも書け」「裏庭に掘った穴に向かって愚痴れ」という人もいるだろう(僕はよく言う)。
 
 彼女たちの多くは、伝えている行為そのものが重要で、内容はほとんど意味を持っていない。
 コミュニケーションを取っていることと、その行為を行える関係性の確認に安心しているのである。
 これは動物がストレスを抱えたときに、巣穴に籠もったり、穴を掘り続けるのに似ている。
(僕は引きこもりの人見知りのコミュ障(笑)なので、気持ちはよく分かる)
 そういうときに必要なのは、ただただ誰かが聞いてくれて、その価値観を持っていることは正当で、間違ってなどおらず、それを誰かに語ることはたとえ肯定されなくても否定されない「場」があると安心してもらうことである。
 
 これらのメカニズムを俯瞰しながら、僕はぼけーっと話を聞く。
 ぼけーっとしているので、抽象的に話を聞く。
 どうせなら、そんな具体的な話じゃなくて、もっと抽象的に話してくれたら抽象化の作業がラクなのになぁ、なんて思いながら。(いや、そこまでは思っていないが)
 
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 僕は聞き上手ではないから、相づちや、同意、共感の表現、質問して先を促す、などの行為はあまり得意ではない。(意識すればできるが、そこまで気を遣ってコミュニケーションするのも作為的に過ぎないかと思って気が引ける)
 それでも相手は愚痴を言い続けるし、ある程度の段階で(だいたい5回程度のループの中で)気が済み(安心して)、建設的な方向に気持ちが向かうようだ。
 さまざまな感情によるエナジィ(熱量や運動量)は低下しているが、暴発しそうなそれは、制御がむつかしい。
 エナジィの量が大きいと、制御が困難であることを、僕らは発電所の災害や住宅火災で知っているだろう。
 だから暴発しない、制御しやすいレベルのエナジィで、彼ら彼女たちは日常の世界に帰ってゆく。
 
 僕は怒りや屈辱を、暴発すれすれでも自己制御しながら運用する。
 ときどき失敗して、ベッドの中でまあるくなって引きこもる。
 
 他者の愚痴を聞いて、抽象化しているから、段差の多くは既知のものだし、ハシゴやバイパスのレパートリィも自分なりに豊富ではある。
 きっとみんなそうだろう。そう思っている。
 ただ、他者に話すのは少々気が引ける。
 
 なにより、誰かに愚痴を言いたくなって勇気を振り絞って話しているとき、どういうわけか「その人の話」にスライドしてしまうことがある。ひどい場合はダメ出しをされる。
「聞いて欲しいのに」と思う。
 
 すなわちそれが、愚痴を言いたい気持ちの源泉である。
 自分の中の「正しさのビョーキ」が発作を起こして訴えている。
 そこまでを脳内でシミュレートして、僕はベッドに向かう。
 まあるくなって眠る。眠りが僕の心の骨を撫ぜる。
 一日眠れば、一日死に近づくから、安心する。
 僕には、話を聞いてくれる誰かを自分でエミュレートできるから、正直なところ他人など不要なのだ。
 
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 そしてアクセス過多が続くと、サーバは疲弊する。
 そもそも僕は彼ら彼女たちという群れのサーバではない。
 末端(ターミナル)であって、結節点(ノード)ではないから、何を繋げることもない。
 何かに繋がりたいわけでもない。
(彼ら彼女たちの一部は、僕をして、何かに繋がるのかもしれない。たとえば猫の神様とか)
 
 僕はただじっとして、自分の興味を持った対象に飛びかかったり、興味を引く場所に跳び移りたいだけである。
 
 他者が不要の世界というのは、自分が不要とされる世界のはずである。
(どうかそうであってくれ)
 そこでじっとしていると、しかし多くの人は(おそらく昨今は活動量が低下しているから余計なのだろう)僕にアクセスしてくる。
 彼ら彼女たちの中の僕は、ときどき彼ら彼女たちと同じように「誰かと繋がる」ことで完結するのだろう。
 そう思われているフシがある。
 
 このところ(僕からすると)たくさんの人の電話やメールがあって、目覚めてから30分後に、立て続けに5人から電話があり(そのいくつかは長電話であり)さすがに疲弊した。
 弟子などはこの1週間ほど、同じ案件の愚痴を続けているので、さすがに叱った。
 
 他人の責任である行為によって発生した自分の怒りを、他人の責任にするな、と。
 怒りは自分の感情であり、その感情は自分が責任を持って制御するものである。
 行為の責任が相手にあるならば、その責任は相手が負うのがふさわしいが、その行為に至った原因の責任はどこにあるのかを明確にする必要があるし、そのための努力を放棄してしまえば問題は解決できない。
 怒りにまかせて自分の感情の責任さえ他人に押しつけてしまったら(あの人のせいで私は怒ることになったと言い切ってしまえば)、解決能力がないと見下している(能力の低い)相手に、問題のすべてを丸投げすることになる。
 それで気分はいいかもしれないが、問題は致命的に解決不能になる。
 
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 自分の感情を、他人のものにするな。
 自分の感情を、他人の責にするな。
 それは自分の人格や人生を、長期的に他人に明け渡すことと同義だ。
 僕はそう思っている。
 
 第三者が原因なだけで、今、自分が直面している現実は発生しない。
 もしなんらかの事象が、他人だけが原因で自身の現実に発生しているならば、そもそも自分の属している現実を他人に明け渡していることになる。
(子どもなら仕方ないかもしれないが)
 
 自分で現実を作るのだ。
 自分の目の前の現実に荷担しろ。
 自分の現実にもっと手を加えろ。
 たどり着きたい場所をもっと明確にイメージして、そこに到達するための運動を計算しろ。
 計算された運動を、精確に、緻密に、具現しろ。
 
 そのとき、そこに他者は必要ない。
 
 僕はそう思っているけれど、すべてを説明するのは本当に疲れるのでしなかった。
 
>>>
 
 頼まれごとの仕事をするため、アパートに戻る。
 最近、僕の仕事はノーギャラが増えた。
 
 前回は飲食店のメニュー作成。
 今回は同店のウェブサイト修正。
(ウェブサイトを1から作り直す話もあったのだが、よくよく確認するとさほどコストをかけているわけでもない様子なので、システムは現行のまま、オペレーションだけスタッフでしましょう、となったようだ)
 
 ちなみに僕はそこの社員でもオーナーでも社長でもなく、ときどきバイトに行くだけである。
 ただ、Kさん(僕の想い人のひとり、ちなみに男性)が社員で、僕のことをエンジニアだと思っていて、呼ばれるのである。
 2日ほど仕事(ノーギャラ)をして、これからアパートから戸建てに戻る。
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
もう「グーグルの小作農」はやめませんか?
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Kidding-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Night-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
//EOF
 怒っているときに「怒ってる?」と尋ねられて「う〜ん、まぁ、そう言われると怒っているほうかな」と冷静に返事ができるようになりたいと思ってから数十年が経つ。

 なかなかどうして実現するのは容易ではない。

 自分の心情のことであり、自分の行動のことである。
 自己認識の問題であり、他社との関わり方の問題である。

 なのにたいていの人は(あるいは僕だけか?)語気を荒げて「怒ってない!」などと言ってしまうのである。

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 もちろん僕のように、怒りや激しい憎しみを生きる原動力として使わないと、そもそもの生命力に乏しいせいで死んでしまうタイプというのは存在しているわけで(あるいは僕だけか?)。

 その僕の怒りや憎しみについていうと、特定の個人であるとか現象ではなく、そこから抽出された意味、すなわち抽象の存在であり、特定の概念をその一部であれ全部であれ、体現している(あるいはしようとしている)そのすべての個体とその認識と記憶を構成する現象と因果をすら憎み散らすという潔癖性っぷりである(これは僕だけか?)ものの、多くの人も言語化できないだけで、本来の憎しみは、概念に対する激しい怒りなのではないかと想像する。

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 そうはいっても、殺伐としがちな昨今の世俗の様子を鑑みるに、本能的に僕は、群の多くの個体とは逆方向に進んでしまおうとするわけであり。
(単なる天邪鬼なのかもしれないが)

 数日間の自分の文書を読み返して(ああ、必要以上にイライラしておる様子だね、青猫くんは。よしよし、なでなで)と思った次第。
 もっとも僕の日常は、一年前から変わっていない。
 若干変わったことは、介護対象者が死んだことと、それに伴って、介護および誰かの体調を常に心配する緊張から解放されたこと。

 つまり僕は、昨年の今よりも楽に生きている。
(無職は去年からスタートしたので変化なし)

 人間関係も最低限だし、友人も恋人も増える傾向はない(飼い猫は増加傾向にある)。
 今の僕を物語にすると、登場人物は5本の指で足りそうである。登場人物の家族を含めても両手で足りそうだし、仮に足りなくても両足を含めれば絶対に足りる。
 ……何をムキになっているのか。

 ために、日常は前年同月以上にストレスの少ない状況ではある。
 不便も感じないし、楽しいことはたくさんある。
(作業台がまずは欲しい)

 ゆえ、イライラする必要はどこにもない。
 怪我をして運動ができないのも、ギターの練習ができないのも当面は致し方ないことであるし、身体が弱いのは生まれつきである。

 そもそもIRLでは怒ったり文句を言う対象すらない。
(だいたい24時間ひとりで過ごすのが僕のデフォルトなので)

 たいていは、僕の不思議な発想や、思いもよらない失敗を、面白おかしく観察して過ごしている。(あと、ときどき秀逸なジョークを言い出したり、ひとり掛け合いを始めるのでこれも見逃せない。まぁ、自分のことなので見逃しようがないが)

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 文面がイライラするのは、俗世を批判するからである。

 他人は他人であるし、俗世は俗世である。
 政治と経済に深く関わらないことは、猫として当然の姿勢であり、そんなことは私が思索しなくても誰かが良きに計らうのである。

 ゆえ、私は新しいことに思索の目を向けようとしつつ、眠くなってきたのでお昼寝するにゃー。

 今日も平和だにゃ〜。



 一日一食の食生活に戻ってから、食事がとても美味しい。
 ちなみに最近のお気に入りは以下のメニュー。

 玄米
 味噌汁
 めざし(小)
 納豆

 まるでひなびた旅館の朝食のようだが、僕の1日の締めくくりの食事(だいたい20時から24時頃に食べる)である。
 今回はこのメニューがたいそう気に入って、かれこれ2週間ほど、タイミングが合えばこれを食している。
 食後に余地があればお酒も嗜むが、満腹になったときは眠くなることも多いので寝てしまう。

 もちろんお酒と肴で事足りてしまう日もあるし、めざしが買えない、納豆が売り切れていたなどということもある。味噌汁を作るのが面倒なときは作らない。臨機応変である。

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 老いも若きも「自分はちゃんとしてます」アピールが過剰なのではないかと思うことがある。
 みな、
「ちゃんと仕事してます」
「ちゃんと家事してます」
「ちゃんと育児してます」
「ちゃんと納税してます」
「ちゃんと選挙行きます」
「ちゃんと身なりに気を使ってます」
「ちゃんと恋人がいます」
「ちゃんと友達がいます」
「ちゃんと家族がいます」
「ちゃんと愛されてます」
「ちゃんと愛してます」
 etc.etc...

 いや、いいんですよ、しっかりした社会人生活を謳歌して、しっかりと社会に適合して、しっかりと充実した日々を送っているならワタクシは何も申しません。

 が。
 本当にちゃんとしてる人は、そんなアピールしないよ?
 と思うのである。

 もちろんもちろん。
 アピールしたり、誰かに知ってもらうことで、自身の充実感がより満たされる、という人もいるかもしれない。

 でも、充足感って、誰かの感想とか同意とか共感とか同意が必要なの?
 とも思うのである。

 ちなみに僕は時々ガスが止まる。
 久しぶりに、一方の家に帰ると、高い確率でライフラインのいずれかが止まっている。
(そういう登場人物が出てくる物語を昔、書いたことがある。頓着しないのである)

 しかし、水はたいてい汲み置きしてあるし、ガスはカセットコンロを常用しているし、電気がなくても(電灯もなくても)1日2日なら、問題はあまり感じない。
 むしろ楽しくなってしまって、それこそいろいろな人にその楽しさを伝えたくなってしまうのだけれど、若い頃にそれをして、友人や恋人の親御さんからの生活物資が届いてしまった経験から、今は誰にも教えないようにしている。
 密かな、ひとりだけの楽しみである。

 社会不適合者であることは、何かしらの不便を、短期的に、直接的に、誰かに与えるだろうか。
 ガスが止まって苦労するのは、ガスの止まった僕とガス会社である。
 僕が選挙に行かなくて困るのは、候補者である。
 育児や家事は、自分以外に人が関わっているから、それをしないと誰かが困る。
 しかし、しっかりそれをしようとしていたら、誰かにアピールしてるヒマなんてないはずだ。


 ために僕は、なるべく社会不適合者として、そのダメ人間っぷりをアピールするともなしにしている。

 ときどき「選挙に行かない人間は、政治を批判する権利がない」と、言う人がいるが、僕はそうは思わない。
 政治など、放っておいて上手くいくように出来ているべきで、誰かが監視したり、制御しないとならない状態であることはそもそも不完全である。
 選挙がなくても政府や国家が健全に維持されることが当然のことで、選挙ありきになっている時点で「民意を反映しなくてはならない」不完全さを抱えている。
 もちろん国家あるいは政府という組織、さらにいえば人間という種そのものが、いまだある程度以上の達成点に至っていないと考えれば致し方ないことかもしれない。
 しかし、選挙こそが民主主義だというのはずいぶん時代遅れに感じるし、選挙に行かない者であっても国民だったら国家や政府を批判して然るべきだし、それを咎められるのはどうかと思う。
(もちろん、誰が選挙で投票してるかなんて、基本的には誰にも分からないわけで)

 たとえば家の中で、DVがあったとして、子供が親に「そういうことはしてはいけないよ」と言ったら「食い扶持も納めていないガキが偉そうに」と言うのだろうか。

 ために僕は選挙に行かずに、家でゴロゴロとしている。
(と、今までも書いている)
 なるべく政治的なことは書かないが、それは僕が政治に詳しくないからで、書きたくないからだ。
 勝手に僕に忖度して、よきにはからってほしい(笑)

 民主とは、民のために政が行われることを指すのであって、機能が不完全であればこそ、そこに民の手が必要かもしれない。
 だからといって人が不完全であることを前提にして、すべての民が参画すべしというのなら、いっそ古代ギリシャのようにすればいい。

 ちなみに僕は、性善説派のイキモノである。
 僕は、ダメ人間だと言われようとも、選挙なんて誰も行かなくてもいい社会が一番いいと思っている。

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 指が腫れて、右手がほとんど機能しない。
 もっとも、右鎖骨を折った時も、一人暮らしだったので、問題はない。
 苦痛は過ぎ去るものだし、不便は楽しめる。
 空腹だって、ご飯が数倍も美味しく感じられるなら、けっして悪いものではない。




Q.コロナ騒動が収まったら、したいことはありますか。

A.濃厚接触。

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 引き取った猫に手を噛まれ、引っ掻かれ、右手の親指の爪から血が出ている。
 傷は爪を貫通している。
 なるほど、爪は血が凝固しても流れたり剥がれてしまうので、止血効果を為しにくいのだろう。
 親指は反対側にも傷があり(上下の牙で噛まれた)やはりここも止血しにくい個所である。
 右の人差し指も噛み跡があり、いずれも少々腫れているが、猫を飼い始めの時期にはよくあることだ。
 左手は、甲の手首付近に掻き傷が数個。
 幸い、姉が、家を出る前に猫の爪を切っておいてくれたのでこちらはさほどの深傷ではない。

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 数年前から薄々感じてはいたが、確信に変わったことがひとつある。

 日本という国家があり、日本人というのが仮に存在し、それが日本国民であるとして(日本人とは、いったい何をもって日本人たり得るのか、というのは各自で考えていただくにしても)、その大半が、どうやら賢くないのである。

 買い占めもしかりだが、消毒用品が売れ切れたりしている。
(僕は平素から4Lボトルの食品添加可能なアルコールを常備していたが、そもそも手指の消毒には未だに使わない)
 今日は、普段どおりに純石鹸を買い求めに出掛けたのだが、殺菌性向上石鹸が売り切れていた。
 個人的に使わないから気にしないが、とりあえずやっつけ仕事のように買い漁るくらいなら、原理を勉強しようよ、と思うのだ。

(以下の記述は個人的な記憶によるものです)

 水溶性外膜の菌類であれば塩でも大半が殺菌できる。
 ウイルスは最近に比べれば小さく、構造も単純だったような気がする(ために変異速度が高い)。
 一部のウイルスや菌類は、脂溶性外膜のものがあり、これが塩などによる原形質分離を防いでしまう。
 ためにアルコールが有効で、しかも揮発性をある程度抑えて、散布対象表面に残るほうがよい。
(脂溶性能を考えると60%くらいからで80%くらいが限度か。各自調べるがいい)

 化学的に考えると、脂溶性溶液はアルカリ性のものが多い。
 掃除用洗剤に「しつこい油汚れに!」とか、あるのではなくて?
 石鹸で、油脂のほとんどは、落ちるのではなくて?
 有機溶剤や石油類も、油脂を溶かす。

 また、表皮にある程度以上の油脂が塗布されている方が、吸着しやすく、剥がれにくい気もする。

 何がなくても、なんとでもなるのである。
 科学的知識さえあれば。

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 しかし青猫よ。
 うぬは石鹸に頼っているではないか。
 石鹸がなくなったら、なす術がないではないか。

 と、おっしゃる向きもあろう。

 苛性ソーダを買っておけば、石鹸なんぞ作れるし、苛性ソーダくらいなら、僕は持っているのである。
 薬局で買い占めて転売しようかな(しないし多分できない)。

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 僕は大学を出たわけではないのだけれど、これくらいのことは知っているものとそこからの想像で結論を導くことができる。
 独学と日常生活と、ちょっとした情報ツールがあれば、なんとでもなるはずなのだ。
(情報ツールとは、インターネットに限らず、書籍だっていいし、洗剤や薬剤の説明を普段から読んでおけば、それだけでも役に立つことはあると思う)

 しかしそこに何より必要なのは、機転であり、賢さである。

 べつに僕が賢いとは思っていない。
 一年間無職で、たいていはゲームして、ガールとぱやぱやすることしか考えていないようなダメ人間である。(猫としては秀逸であるがな)。

 ゆえに、我こそは賢さの権化であるがゆえ、愚民どもは我を崇め奉り褒め称え終生永劫その隷下に跪くがよい。とは思っていない。

 ただ、端的に、賢くない人が多いのかなぁ、と危惧しているのである。

 もちろんもちろん、ヒトはそれぞれに事情があろう。
 それぞれに置かれた環境があり、また多くの人が、自身の死生観においては他を差し置いても生きたい、生きなくてはならないと思っているものも多かろう。

 それにしても、恥知らずで浅ましいのはどうかと思うの(口調が変)。

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 指が痛いので、ゲームも家事も支障を来している。
 執事がほしいが、何を隠そう、私が執事である。

 ために青猫様(仮想)のお世話を甲斐甲斐しくするのがワタクシの使命であり、そろそろ身体を洗うので本日はここまでといたしたく存ずる次第にございます。


 

 数日、姉の家に遊ぶ。
 我が血族の次女である姉はワタクシよりも10歳上であり、指定難病の治験で存えてしまったようで、今年までに死ぬはずが、ぴんぴんしている。
 血族に一人としてその病に罹った者がいないから、この血の遺伝病に関連したものなのか、判断ができない。
 いずれにしても、循環器(血管とその狭窄)によるものなので、まぁ、こういうケースもあるんだなぁ、とは思って眺めている。
 僕は死に寛大であるので。

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 呼吸器に影響が出ているため酸素吸入を普段からしており、日常生活上の運動も控えさせられている(ために訪問看護師やヘルパーさんがやってくる。彼女は区分上、かなり重篤な身障者である)のだが、なかなか元気だししぶとい。

 その姉の曰く、以前、医者と口論の末、ひと月ほど食事をしなかったことがあったという。
 水分は1日の上限を超えない範囲で摂取していたが、固形物は一切口にしなかったらしい。

 そして体重はというと、ひと月後も、さして減らなかったらしい。
(無論、簡単な運動さえも禁止されているわけだから、家の中を動き回るくらいの生活ではあったようだが)

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 おそらく世俗一般の人は、信じないだろう。
 特に毎日決まった時間に3食(あるいはそれ以上)の食事をすることを必然として、習慣化して、慣れてしまっている人にとっては。

 しかし僕は、普段から1日1食がベストコンディションであり、それさえ何かに熱中したりすると忘れるし、体調の悪い時はだいたい絶食して治すので、なるほど、と思った次第。

 何がなるほどかというと、僕らの血族の遺伝性疾患は、もしかしたら、非常に少量の食事で活動ができるような身体の仕組みがもたらした、その結果なのかもしれないと、ずっと思っていたのである。

 もっとも、全員がそういうわけではなく、妹などはかなりの大食であるにも関わらず、比較的スリムな体型を維持している。
(血が繋がっていない説があるが(笑))
 他にも、1日3食派は少なからずいて、太っているものも痩せているものもまちまちではあるから何とも言えない。

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 姉の家の黒猫を2匹、引き取る。
 野良猫を飼い慣らすのが悪いのだが、家に居ついている2匹の猫の親(それはほとんど来ないらしい)が子を産み、産まれた子が餌をねだりに来るうちに居ついたらしい。実に2匹。
 合計4匹である。

 姉は仕事ができる身体ではないし、(ろくでなしの)夫とは離婚している。
 猫を飼う余裕があるんかーい! と娘(僕の姪)にも叱られたらしいが、僕ら(姪も含む)は並べて等しく猫の味方であるから、現在に至る。

 至って僕は、いきなり猫を2匹飼う羽目になった。
 半野良で、生後6ヶ月以上の、猫である。
 当然に人に懐かない。
 今はケージで隔離生活を送ってもらっているが、そもそも野良の子だったので、警戒を解くにはまだ時間がかかりそうである。

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 政治の話をひとつだけ。

 僕は以前から、現在の首相を見るたびに「何かを言わされ」「何かをさせられて」いる感が強いなぁと感じている。
 彼自身の言葉、あるいはソウルやシャウトやスピリットというものが感じられない。

 感情を抑えている、というようにも観察できない。圧力に抵抗しようとして現れる、何らかの微細な表情や声の変化さえ見えないのだ。

 官僚や国民に「何かを言わされ」「何かをさせられる」立場であることは想像に難くないが、それにしても、誰の人形を演じているのか、誰がその人形劇の脚本を作っているのか、疑問に思っている。

 何故か何とかなってしまうこと(一部のスキャンダラスな事件など)と、何故か非現実的な動き(彼はなぜ頑なに改憲したがり、海自に空母まで持たせようとしたのか)は、彼だけの手によって構想され、為され、成そうとしていることなのだろうか。

 実のところ、僕が選挙に行くようになったのは、あの人が人形に見えるようになってからである。

 ちなみに僕は政治の話をあまりしないが、それは政治の話をまともにするのなら、選挙に行くより、うだうだとくだを巻くより、政治家になる方が現実的だからだ。

 先日、ある居酒屋の隣に座っていた若者(年の頃なら20代である)が「かりそめの民主主義国家」だと日本を言っていた。

 僕にはそれらの概念があまり良くわかっていないから、また勉強することが増えたと辟易している。

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 少し寒いので、長風呂になった。