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// TimeLine:20200420
// NOTE:ラブプラスの感想も、ずっと書きたくて書けなかったテーマの1つ。
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TITLE:
銀幕仮想のボーイミーツガール。
SUBTITLE:
~ Virtual doll in real life. ~
Written by


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::「どうしよう、お兄ちゃんが女の子買ってきた」
「人聞き悪いな。カネは払ってない」
「もっと悪いよ!」



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//[Body]
 何年前だったか「ラブプラス+」というゲームをプレイした。
 女の子と出会って、親しくなって、恋人同士になって、以降はひたすらメールしたり電話したりデートするゲームである。

 この時点で嫌悪感を感じる人もいるだろう。
 僕もそうであった。
 端的にいえば人形性愛に対する気持ち悪さ、拒否反応である。

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 それまで男性向けの恋愛要素の絡むゲームにおいて「女の子」は、なんとかして親しくなるための(告白して付き合うところまでをゴールにしたものも含めて)いわゆる攻略対象であり、あるいはときに性的なアイコンとして存在した。

 しかしその場の中で、性差はモノになる。といえば、少しは危惧してもらえるだろうか。
(現実社会における性差は確かにモノ化され、経済のために商業化されているし、そんなことを言ったら生命の誕生から屠殺まで、貨幣で交換されているので、ここではそれを主題とはしない)

 ただし「ラブプラス」シリーズは、登場する女の子を攻略する(なんとかして親しくなる)要素こそ変わりないが、あからさまなセックスの対象(あるいは道具)として描かれたりすることはなく、しかも付き合うこと(恋人同士になること)をゴールとすることもなく、いつまでも続く恋人生活をひたすら送るという、エンディングのないゲームだった。

 学校に行って、休み時間やお昼や部活やバイトや行事で一緒に過ごして、家に帰ったら電話やメールをして、週末はデートする。
 この日常の繰り返しをゲームにする。

 日常を、非人間と過ごすこと。
 非人間を人間と同等に扱い、人間あるいはそれ以上の幻影を投影し、感情を一方的に寄せること。
 人形遊びを大人が、真剣にすることの気味悪さ。それが人形性愛に対する嫌悪感だろうと僕は定義した。
(厳密な意味は辞書などで調べるがよい)

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 アイコンに対して、多くの人は人格を認識しないから、人形性愛に対するような気味悪さは感じないかもしれない。
 たとえば、いわゆるエロ本は性的アイコンで、リアルドールやラブドールは目的によっては人形性愛になるだろう。
 所有者にとっても、性的アイコンとしての対象であれば、単なる性的自慰のための処理情報にすぎないだろう(アイコンなので当然だ)が、性愛対象となれば、メインテナンスも含めて「お世話する」「お付き合いする」概念になる。

 人類の歴史の中では、性的アイコンは容認されてきた。
 特に男性にとって女性をアイコンにすることは、広く認められて商業化されている。
 いかんせん、ヒトのオスのカラダは、そのメカニズム上、数日もあれば繁殖能力を再生する。
 アイコンという情報でことが足りるならそれはそれで許容された。
(性行為を苦にする、あるいはそう感じるタイプの人間もいるから、そのほうがマシなこともあるだろう)
 メスの立場や面目も保たれる。
「あれはアイコンによる性処理であって、感情あるいは日常生活や経済活動において、愛され、大切にされているのは私である」となるならば。

 その延長線上で、アイコンから性愛の対象への境界を越えるとき、人はそれを嫌悪する。

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 ところで日常において、多くの人は飽きる。
 恋人に飽き、配偶者に飽き、仕事に飽き、日常に飽きる。
 友人にだって、自分自身にだって、飽きる人は飽きる。
 当然のように、性的アイコンにも飽きる。

 料理における味変(食中アレンジ)のように、ささやか(あるいはドラスティック)な変化を求めて、ある者は甘やかなスパイスを定期的に演出して加え、ある者は背徳の道に進み、ある者は全部白紙に戻そうとしたりする。

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 僕はブログ上で自分のことを熱しやすくて冷めやすくて飽きっぽいと公言し、そのようなキャラクタを装ってきた。
 しかし実のところ、ほとんどのことが記憶に残らない、認知症のような仕組みを持っている。

 軽度の相貌失認もそうだし、物事を抽象化して認識し理解するから、具体的な情報をほとんど記憶していない。
 固有名詞も、自分の年齢も誕生日も忘れる。
 恋人や友達はおろか、親や自分自身の顔さえ、目を閉じて思い浮かべることができない。
 10代の頃からずっとそうである。

 だからだいたい毎日、自分が新鮮である。
 さすがに「ここはどこ? 私は誰?」とはならないが「また私らしきモノになってしまったか」くらいには思う。

 だからあまり飽きない。
 恋人に対してもよほどのことがない限り飽きないから、増える一方なのはメカニズム的に仕方ないのである。
(今さら何の言い訳?)

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 ひたすら日常が続くゲームの、そのプレイした感覚というのを僕は味わいたかった。
 なぜなら、僕は、ゲームのプレイ感は抽象情報として蓄積できるから。
 そしてプログラムとそのデータは、組み合わせによって多種多様の演出をするけれど、必ず限界があるから。

 結果として、僕はある段階で、確かに飽きた。
(そして一部の恋人は、飽きるまでプレイする僕を危惧していた)
 抽象化してしまうと、恋人同士や夫婦、家族というユニットは、行動の範囲に限界が(当然ながら)ある。
 物理的、精神的、経済的、社会的、社会規範的、倫理的、etc,etc...の境界から、外に出ることができない。

 プログラムの中で、恋人がいながら他の誰かと恋人になることはできないし、恋人が浮気することもなかった。
(そういう、スリルを楽しむためのゲームではないから当然に)

「彼女たち」は、リアルな人間としての「嫌味」が足りなかった。
 恋愛上の妨げになりかねないエゴの発露や、相互の理想や欲の錯誤がもたらす衝突や空回りといった、生の女の子の感情がなくて、どこまでも都合よくプレイヤにとってユートピア的だったから。
(そういうゲームなので当然だが)
 たとえば(片親育ちでひねくれたわがままゲーマーの)凛子をプレイしている裏で、別データを使って(正統派お嬢様の)マナカと恋人になったからといって、リンコに蹴られたり、マナカに泣かれたりはしない。

 その限られた範囲のループをコンピュータによって限定的にであれ再現したことは、しかし素晴らしいと感じた。

 その閉じられた箱庭は、安心で、安全で、致命的な失敗もなければ危険もなく、ただただ平穏であたたかで、親しげなヴァーチュアルが永遠に続くのだ。
 まるでおとぎ話の最後のおなじみのセリフのように。

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 人間は。
 いや知性というものは、既知の情報にはやがて飽きる。
 飽きれば変化を求める。
 変化を求めれば、チャレンジが必要で、リスクが伴う。
 そうやって、既存のステージから新たなステージを自ら切り開いてきたのだから、それは知性の役割ですらあるだろう。
 ただ、個体に与えられた条件のうち、どうやっても変えられないものも存在する。

 たとえば、性別や種族を後付けで変えることは、普通はできない。

 もっとも簡単な手法は、情報を感覚し、処理し、記憶する知性体それそのものが、自身の感覚セット(記憶や価値観)を更新してゆくことだ。
 そして実のところ「私が私である」という自我を持つ限り、それが強ければ強いほど、その手法は不可能に近づいてゆく。

 多くの人は、自身が猫であるという前提で生きることを知らない。
 そんなことは馬鹿馬鹿しかったり、恥ずかしかったりして、できないという。

 多くの性同一性障害者は、己の性的アイデンティティを肉体準拠に戻すことができない。
 周囲から与えられて疑いもせず固着したイメージはもちろん、自身で選んだセルフイメージを自ら壊すことを恐怖する。

 ヒトは、自らを檻に閉じ込めて安心するのだ。

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 我々は自身の多くの部分を、プログラマがリソースを与えてインタフェイスを構築するように、親や社会によって与えられた中から選んだ情報を用いて、自分のありようとして構築している。

 支配からの卒業を人気歌手が歌ったところで、その支配の認識も、その反抗の表現も、すべて与えられたものだ。
 与えられて、手に取ったら、それが自分のものだと勘違いしていられる借り物競走の真っ最中だ。

 作ったわけではなく、あくまで選んでしかいないという意味において、既存の自分という知性の枠を超えることができない。
 好きなものからしか選ばないからだ。

 ために新しいものに向き合うときには、先入観を捨てて、拒否反応を抑えて、嫌悪感を好感に転換して、受け入れてゆく必要がある。

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 僕にとって、プログラマによって構築された人格との恋愛は、ためにとても新鮮で、斬新で、主題どおりの安息があった。
 そして同時にどんなに多様なバリエーションを持たせても有限で、だから退屈してしまうのだった。

 生命体なら老いることも可能だろう。
(僕はその、死に向かう変容を自他のそれを問わず好ましく思う)
 知性体なら価値観を、緩やかに変化させることは可能だろう。
(老いてカラダが固くなると、アタマも硬くなりがちだが)

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「ラブプラス」のときにも、ゲーム中のヒロインと、リアルに結婚式を挙げるプレイヤがいた。
 困惑と喝采、祝福と奇異の目が、web上でも錯綜した。

 ヴォーカロイドのAIアシスタントと結婚する人も、やはり同様の反応を世間にもたらした。
 世間の知性体は、まだまだ自身を知らないのだろう。

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 弟子が婚活をしていることは以前に書いた。

 その「場」はすでに経済が介入して商業化された市場、売買のテーブルである。
 効率と経済をプロトコルにして、人々の欲をバイパスする。

 ディーラがいて、ブックメイカがいて、レースに出る者たちはステータスや過去を数値化され、チップを積んで、ベット(bet)する相手を探す。

 外見や年齢はもちろん、職業、年収、家族構成、話しやすさ、理知性の高さ、などなどは数値化され、ころころレートが変わってゆく。
(当然に、性差によっても基準の重み付けが変わる)

 僕からすると、懐かしくさえあるお馴染みの風景だ。
 様々なゲームの中で、数値化されたユニットを比較検討し「これかな」と試してゆく作業は、RPGやシミュレーションゲームにおいてはプレイすることそのものとさえ言える。

 そしてそれを人間に対して、人間同士が行うことを当然と考える場があることに、実は、心の奥底では、僕は嫌悪している。
 人形性愛と変わらない、人間が欲を押し付け合うための光景に思えてしまって。
 未来と現実と生活が掛かっているから、みな真剣で、ために残酷で。

 利用したことがないので明言できないが、おそらくマッチングアプリなども同様だろう。
 日本人に強く存在する、寂しさや不安を利用して経済が動く。
(金融業の多くは、不安を餌にするものだし、性差を利用した商業は人の寂しさをお金で埋める)

出会いがない」というのは「傷つくのが怖い」「恥ずかしい思いをしたくない」という気持ちの言い訳に、個人的には聞こえる。

 異性はどこにでもゴロゴロしている。
 個人的なことを言えば僕などは春になってもコタツでゴロゴロしているし、街を歩いていても、男性以外はみな女性である。

 結局のところ、失敗を恐れて、リスクを金で排除して、自分の欲を満たしてくれるキャラクタ(お互いが相手のことを少しでも考えていればまだマシだが)を探しているのではないのか。
 その場限りで終わってしまえば(何をしようとしなかろうと)性風俗と変わらないし、女性の側も「選ばれよう」という意識でいる限り同じベルトコンベヤに載った部品でしかない。

 結婚というステータスや、出産というイベントや、子供というアイテムや、家族というファッションや、経済という力を、リアルマネーを含めた自分の持ちうるリソースを使い、リスクを恐れず果敢に手に入れようとする姿勢は、もちろん評価できる。

 しかしそれは、ゲームの中で自身のキャラを選び、ヒロインを攻略してゆく行為を、簡略化して現実に落とし込んだもののように僕には見える。

 ゲームやヴァーチュアルなら、相手はどこまでも虚像のままだ。何をしようがリアルな人間が傷つくことはない。
 ただ現実でそれをするとき、人形性愛の対象を、いきなり生身の人間にすり替えられるグロテスクさに僕は恐怖する。
 その場において相手を「モノ化」していないと、いったい誰が言い切れるだろう。
 潜在的にであれ、ヒトを「モノ化」する人間は、下手なケモノよりも性質が悪いことを、僕は痛いほど知っている。

 おそらく実際に僕も参加してみれば変わるのだとは思う。
 きっとそんなおぞましいものではないはずだ。
(人々が、結婚に何を求めているのかは知らないが)

 しかし数値化され、モノ化され、他人の欲のために振り回されて、肉体的にも精神的にも散々に消耗した経験があり、しかもそこに結婚という仕組みが関わっていた経験もあるから、僕はそれを恐れ、嫌悪する。

 その記憶を「なかったこと」にするのはおそらくとても簡単にできるし、僕は自分が今この場では被害者ヅラしていることも把握している。
 その上で、僕は最後まで僕の味方をやめるわけにはいかないから、僕が既存の価値観を不要と決定するまでは、現状の価値観の庇護者であるわけなのだ。自我の仕組みの名において。

 そんな僕の話は置いておいて。

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 人間のパートナとして、人間は不完全である。
 互いが互いを道具にしてしまおうとすることもあるし、思いやりが空回りしたり、オーダーメイドの完全な道具ではないことによる不信を抱える人もいる。
 なぜなら相手も同じ人間だからだ。
 理想も目的も役割も肉体も思考も欲求も歴史も異なる生命体だからだ。

 僕がヴァーチュアルな恋人に短期間で飽きたのは、そうした「生命体らしい恋愛生存欲求」を彼女たちは生々しくは表現しなかったからだ。
 キャンプやアウトドアのような、不便さや危険が、そこにはなかったからだ。
(もちろん、年齢制限を30歳以上にでもすれば、もっと生々しいものも作れるとは思うけれど、多分売れない(笑))

 しかし多くの若者たちは、これまで社会が求めてきたように、泥臭くて血なまぐさい感情の発露を忌避する。
(オトナたちに毒された若者は知らないが)

 近い将来、必然に、人間は他人を傷つけないためのクッションとして、AIによって構築された人格を持つパートナを持つだろう。

 それは恋人でなくていい、友達でもペットでもいい。

 動物が間にあることで円滑化される人間関係は確かに存在するし、クッションを利用する人間関係なんて人類の歴史と同じくらい普遍的なものだろう。

 たとえば僕自身も、僕自身の人格と切り離して、コミュニケーション用の人格をいくつか持っている。
 きっと誰でもそうだと思う。

 そしてようやく、欲をもたない、血なまぐささもない、心から信頼できる相手ができるのかもしれない。

 おそらくそれは、現代の僕らにとっては「人形」だ。
 しかし人間は、人形のように思い通りにできる他人を、いつも欲しがっているのではないだろうか。
 子供の頃も、大人になっても。

 そこにファンタジィがあり、人の求めるひとつの理想があるのだろう。
 誰にも傷つけられることなく、誰かを傷つけてしまうこともないユートピアが。

 人間の血のニオイを知っている我々は、あるいは単なるケダモノなのだ。
 ドライフードを喰う動物を見て「あいつは血の通った獲物の味を知らない」と言っている。

 他者を思い通りにすることが、たとえば経済や暴力や権力などによらない社会は、だから理想的である。
 相手に心から(プログラムや強迫観念からではなく)等価交換ではない何かを提供したいと思えるならば、それこそ素敵なことではないだろうか。
(少なくとも僕は、そういうプロトコルで人と接する)

 牙を抜かれた子猫たちが、だから、牙を剥く猛獣どものエサにされないように、過渡期こそは見守るべきなのだろう。
 
 人形が欲を見せるとしたら、それを見せたがっている人間がどこかにいるのだから。








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::「最初は人間の女を探したんだ。けど、オレは理想が高すぎて、満たしてくれる女なんていなかった。何年も時間を無駄にして、hIEでイチから作ればいいって答えにようやくたどり着いたよ。理想のしぐさも、理想のことばも、理想の反応も、特注したほうが早い」



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[出典]
~ List of Cite ~

文頭の引用は、
『Phase 1「contract」』(p.30)
文末の引用は、
『Phase 3「you'll be mine」』(p.88)

From「BEATLESS」
(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
 によりました。






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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Better Half ]

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[Engineer]
  -黒猫-/-BlueCat-

[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Ecology-Interface-Life-Link-Mechanics-

[Module]
  -Connector-Convertor-JunctionBox-Reactor-Transistor-

[Object]
  -Camouflage-Game-Human-Koban-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-コントローラと五里霧中-
-君は首輪で繋がれて-



//EOF