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// TimeLine:20200428
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TITLE:
200428
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Written by Bluecat

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 眠くなったら眠って、目が覚めたら起きる。
 野生動物もかくやといわんばかりの猫ライフ。我が人の姿はかりそめか(そうです)。

 たいていはTVゲームをするため、夜中(ときおり朝方)に眠るものの、数時間眠ったら目が覚めた。
 なぜならば、嗚呼なぜならば。

 気が付いていたからだ。
 あたたかな陽射しが降りそそぎ、ひんやり爽やかな風が火照った肌を撫で、そして数日前には雨が降ったから。
 だから雑草がまた伸びたそのことに。

 未知の生態圏。それらの正体を少しでも紐解きたいといずこからともなく囁きが導く。
 未経験の道具。それらを使用する体験を、多少なり蓄積したいと心が弾む。
(あ、ここ、声にして読んでみると面白いです)

 手動ポンプ加圧式撒布器と除草剤を試してみる日を今日か明日かと待っていたのである。
(あと、右手の指の怪我が治るのを)

 ある日は、熱湯を掛けるとよいと(Kさんに)教わったので試してみたが、熱を受けなかった部位が茎にわずかにでもあれば、そこから新芽を吹くほどの生命力を持っていることが分かったので、次は食塩水でも掛けてやろうかと思いつつ、それをするとどんな影響が現れるのか恐ろしくもあり興味もあったりする。
 かつてエジプトで文明が衰退した理由が、塩害による作物の不作だったはずである。
 つまり植物を枯らす食塩は、文明を衰退させるかもしれない。

 好きな時間に寝起きしているイキモノに衰退するほどの文明が残っているとは思っていないが、わずかに残った理性がもしそこにあるならば。それを塩で台無しにすることは避けたい。避けるべきである。避けなければならない。
 ゆえ(うふふ、塩害……。どーしよっかなぁ)という心の甘やかな悩みをこのたびは無視して、手近なグッズを試してることを優先することにしたわけだ。

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 とはいえ、先日は大々的に大きなものを排除済みだったので、大丈夫だろうと思っていたのではある。
 が。
 植物相おそるべし。植物相を無視して繁殖するいわゆる雑草おそるべし。
 でかいのである。

 とくに庭で毒々しく繁茂するのがオニノゲシ。私はこれを許さない。
 見かけると、ちょいちょい排斥していたのがアザミ。
 ただし花言葉が気に入った。ために今後アザミは見逃してやろうかとも考えている。
(このふたつを調べるだけでもかなりの時間を費やした。固有名詞は本当に面倒だ)

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 庭の池的ボウル(なんと形容していいか分からない、小さな池サイズの水を溜める石器があるのだ。地中に埋まっていれば多少は可愛げもあろうものを)の水に、謎の生態系が発生しつつある。
 ひっくり返してやりたいが、いかんせん重くてぴくりとも動かない。

 停滞した水というもの、その概念が、私は大嫌いだ。
 水は流れ、循環する概念、いわば生命の象徴である。
 それを閉じ込めようとする人間のエゴも、そこに発生する謎生態系も、醜悪な気がしてしまう。
(自然発生的な「大きな水たまり」は嫌いではないので、川の溜まりや沼などは好きである)

 私の憎しみはこういうところに発露するので、どうせなら循環系の大きな池でも作ってやろうかとも考える。
 けれども人工的にそれを作ることの不自然を考えると、やはりやめておこうかと思ってしまう。費用も手に負えそうにない。

 人工物は人工に、自然は自然に作られるべきなのではないか。
 庭木植物圏のいわゆる雑草を駆除しようとやっきになりながらこんなことをいうのは慎みに欠ける気もするが。
(いっそうのこと全部切り倒して舗装しまえば、それこそが人工の極みのようでもあり、その概念を僕は好ましくも思うのであるが、洋の東と西とを問わず、さまざまな概念系が魑魅魍魎化している私の心象世界においては、放っておくことも、手を掛けることも、根絶することも、ひとしく優しく美しいのではある)

 裏庭の御稲荷様社の前にはカラスノエンドウ(だったか、さきほど調べたのだがもう忘れた)が繁茂してこれもニガテである。ためにこれには除草剤を撒いた。
 虫が出そうな場所が僕はニガテなのである。(多分、好きになることはできるのだが)

 ちなみにカラスノエンドウ(だったか)は、食べられるらしい。驚いた。
 オニノゲシも食べられるらしい。驚いた。
 なんなら敷地内のいわゆる雑草たちは、もしかしたら、大半食べられるのではないかとさえ思える。

 御稲荷様社の左右に鎮座する木は育ちすぎているので枝を落とし、いずれは上端もしくは根元から切り倒さなくてはならない、とあらためて覚悟する。僕は虫がニガテなのだ。(多分、好きになることはできるが)

 あらかたの見た目の凶悪そうな、いわゆる雑草的に感じるものたちをざっと排除し、12Lほど除草剤を撒いて作業を完了する。
 ツナギの作業着と防塵グラス、マスクとタオルの完全防備であったが、ことのほか快適であった。
 ただし撒布器はベルトが細いので、左肩しか使えない(右肩は怪我の後遺症で強い荷重に耐えられない)。
 太いバンドか何かをこしらえたら少しは作業がしやすいかもしれない。

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 2匹いた猫のうち1匹が、数日(1週間くらい)前に脱走した。
 残った1匹は、僕の爪を囓り貫いた猛者であるが、いつも怯えてケージ下層のトイレに引きこもり、ときおりぷるぷると震えている。
 どうやら(無理矢理ケージとキャリィバッグ間を移動させた経緯がトラウマになったようで)移動させられることを極端に嫌っている。掴むことすら許さないのは、移動させるためだからである。

 しかし爪を囓られたときにこっぴどく叱りつけたからなのか、2度と噛むことがない。
 ひたすらに唸っているのは、怯えているのである。
 無理矢理触っても、噛んだり引っ掻いたりはしない。
 ケージの上部にしつらえたハンモックにひょっこりはまっていたので2時間ほど撫でていたら、喉を鳴らすまでになった。

 所用を済ませてケージに戻ると、ふたたびトイレに引きこもり、近づくだけで唸る。
 彼女は移動している姿を決して見せない。
 ハンモックにいるときに発見すると、そのまま動かないし、トイレに引きこもったときも出てこない。
 よほど怯えて動くこともためらわれるのだろうと思う。

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 姉の家では(姉自身が障害者であることもあり)飼い主とペットという関係はうまく構築できなかったという。
 餌を与えて居着くようになっただけで(それでも去勢/避妊は半分以上していたが)、猫と同じ速さで動いたりはできないから「餌をくれるチョロいヤツ」と思われてしまっているフシはあった。
 その半野良育ちを家猫にしようというのだから、なかなかに困難であるし、ケージに怯えるのも無理はない。

 1匹脱走したことや、こちらもたいそうな傷を負ったこと、今だに懐かない様子を見ていると、こいつも離してやった方がお互いのためなのかと思うときもある。
 しかし彼らが人間嫌いになった理由の一つには、半野良で外を自由に行き来する中で、猫を毛嫌いする人と相対した経験が少なからず作用しているようにも思う。

 猫を嫌う人をとやかく言うつもりはない。
 それは好き嫌いだし、嫌煙家の前で煙草を吸わないことがマナーであるように、猫嫌いの人に猫を好きになってもらうのは不可能である。

 どんなに猫が愛らしくて、美しくて、速くて、強くて、賢いイキモノであろうと、彼らからすれば「糞尿が臭くて声がうるさくて己の領地に勝手に入ってきて好き勝手に振る舞う馬鹿で不届きな侵入者」である。
 そういう人たちは、猫を叱ることはなく、愛すこともなく、ただただ排除するのである。可能なら殺すだろう。
 邪魔なものを排除するために殺す。
 とても自然なことではないだろうか。

 顔をしかめる必要などない。
 米につく害虫を殺し、家の中を歩くゴキブリを殺し、腕に吸い付く蚊を殺し、美味しいケモノたちを殺すために生み育てているのが我々ヒトの同胞(はらから)ではないか。猫を殺して何が悪い。その素養は、なべて等しくヒトたるケモノの特性である。
 田畑を荒らすものは害獣である。全てのものを野放図に庇護していれば、人間こそは弱々しいからあっさりと死に絶えてしまう。猫を殺して何が悪い。

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 でも飼い主と飼い猫は、互いに愛情表現をすることもあれば、叱ったり叱られたりすることもある。
(僕は猫に叱られることがよくある)
 そうやって、ケンカをしても未来が続いて、くっついたり離れたりを繰り返しながら日々の生活を続けるからファミリィなのだ。
 叱られても、怒っても、殺し合わずに生活を続ける関係だってあるのだ。
 人間とさして変わらない関係を営むことも可能なのだ。

 ために「言葉が通じない」という言い訳や、体罰的な躾を過剰に嫌う風潮を、僕は好まない。
 だから先の「こっぴどく叱った」というのはかなりマイルドな表現であり、実質は「人間に対して暴力で絶対に勝てないし、勝ってはいけないことを力で教える」ようなことをした。
 人間に怪我を負わせることが日常の猫は、人間に殺されてしまう可能性が高いからだ。
 猫はれっきとした肉食獣であり、犬のように群れのヒエラルキィを形成しにくいから、単独で攻撃の判断をする。
 人間とその文化を嫌う動物は、人間の社会圏と重なる場所で人間相手に衝突を起こし、人間かその道具によって殺されてしまう。イノシシであろうとクマであろうと猫であろうと、それは変わらない。
 人間を攻撃しなければ、危害を加えなければそれだけで、存在することは許される。人間の社会はそういう文化である。
 みだりに攻撃してくるものを排除する社会でもある。
 だから多少のストレスがあったとしても、命の危険にさらされない限り人間を攻撃させない躾は、動物を生かすための大切な教育なのだと僕は思っている。

 それに彼らには彼らの表現があって、僕らが目や耳や肌からの刺激を適切に処理できるならば、そのメッセージを受け取ることができる。
 同様に、僕らのメッセージを彼ら/彼女たちが理解することもできる。
 動物である彼らは、時に、動物同士の遊びやケンカで怪我をするし、厭なことをされたら攻撃して痛い思いをさせるし、逆もコミュニケーションとして成り立っている。
 人間は言葉があるけれど、彼らには言葉がないからこそ、彼らのコミュニケーションに合わせる方が適切なときがあると思う一方、人間らしい「暴力絶対反対」といった倫理観の押しつけは、最終的に自然に帰属するところの彼ら/彼女たちには通用しないし、野生の力を忘れた動物なんて、動物としての価値がない。

 人間がいなくても生きていける能力を維持しつつ、人間やその文化と共存する智恵を持ってもらうことは可能であり、それは猫を猫可愛がりすることでも、毛嫌いすることでも到達し得ないと僕は思っている。

 むろんケージに閉じ込めるのも、虐待といえば虐待であるし、保護といえば保護でもある。
 外に放ってやるのも、飼育放棄といえば放棄だし、優しさといえば優しさである。
 生きているのが必ずしもシアワセだなんて僕は思っていないし、そんなエゴを猫に押しつけることさえ嫌うような潔癖症でもある。
 猫にとっても、もしかしたら生きているより死んだ方がマシだと思っているかもしれないし、あるいは単に生きていたいと思っているのかもしれない。

 ただ、少なくとも本能的に、彼らは生きようとする。
 本能に任せるとその(とくに食欲を始めとする根本的な本能の)衰弱のままに餓死しがちな僕とは違うのだ。
 だから彼らが生存するのに最適な戦略で、僕は彼らを躾ける。
 人間から愛されるように。社会から許されるように。そして飼い主がいなくなってもそれ以外の人間から愛されて、関係を築けるように。人間がどこにもいなくなっても、自力で生きられるように。

>>>

 身体を動かして調子が出てきたので、自転車に乗ってアパートに向かう。
 距離にしておよそ35km。2時間で着くかと思っていたが、コンビニで休憩中にKさんから電話。
 いつものひまつぶし電話だったが、30分ほどは明らかにロス(笑)。
 雨が降ったり、強い向かい風があったりしたが、3時間弱で到着。
 久しぶりだから、このくらいは掛かるかな、と予想したとおりの時間であった。
(そもそも、中間地点より前に疲れたり飽きたりしたら、引き返そうと思っていた)

 生まれ育った街でもないのに、こちらのほうが僕は友人が多い。
 しかも、仕事に関係なく友人になった人が多い。
(ひと月に一度くらいの頻度で、以前の取引先にお茶を飲みにゆくことはあるが)
 知り合いの飲食店が、自粛続きで潰れそうな様子だったので、たらふく食べる。
(自転車で移動した甲斐があった)

 まるで猫のように、自由に移動する気分を満喫した。

 県庁所在地の金融/風俗街のほど近くであるため、眠れないほどうるさい街が、静まりかえっている。
 アパートで、静寂にくるまって眠る。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~

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[Engineer]
  -青猫α-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Eternal-Form-Life-Link-Love-Mechanics-Technology-

[Module]
  -Condencer-Transistor-

[Object]
  -Bicycle-Cat-Human-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-:-夢見の猫の額の奥に-



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