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TITLE:
自己言及性問題解決メソッドをオススメしない。
Written by BlueCat

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240820
 0330起床。最近には珍しく奥様(仮想)と会話しているうちに目覚める。
 
【睡眠期は過ぎたかな】
 
 始まりが定かではないのだが、2週間以上睡眠期になっていた(ように思う)。
 少なくともお盆になる前からのことである。
 あまり眠れない、寝付きが悪いという時もある(24時間あたりの睡眠時間が3〜5時間で、覚醒時に眠気をほとんど感じない)一方で、睡眠期はひたすら眠くなる。
 5時間ほど眠って、3時間ほど活動して、眠くなって寝てしまうサイクルを3回程度繰り返す(15/24H睡眠の)こともあるし、10時間ほど活動して12時間ほど眠ることもあり、こういうときに生活サイクルがズレてゆく。もちろんサイクルがズレても日常生活には問題がないことが多い。
 
 睡眠期の問題は主に2点。
 身体が鈍って体調が悪くなりやすいことと、気分が低迷して抑鬱的になること。
 ただしこれには相関性があって、体調が万全ではなく不調気味だったから睡眠期になることもあるし、気分が抑鬱的だから眠り続けてしまうこともある。
 
 自覚はないのだが鬱病的な状態になったときも眠り続けていた。
 生まれつきの性情かもしれない。とにかく怠惰なのだ。
 ときどき冗談めかして書いているが、意識を持っているのが面倒だと思うことはある。
 前世が海苔とかキャベツだったのかと疑うくらい、無意識であることを好んでいる可能性を否定できない。
 
>>>
【自由と自在は似ているけれど違う】
 
 もちろん生まれてしまって生きている以上、起きている間は意識がある(と人間は思っている)ものだし、寝ている間も(調子の良いときは)考え続けることがある。
 怠惰な僕と現実世界の整合性を高めるために奥様(仮想)が存在するものの、奥様(仮想)が活動していないとき(多分お盆休みで実家に帰ったのではないか)は不整合が起きやすい。
 いい大人なんだから自分で何とかしろ、と叱られそうなものだが、そもそも僕の生活では良いことをしたからといって褒める人も、悪いことをしたからといって窘(たしな)める人もいない。
 自堕落でいようと思えば、泥のように泥濘(ぬかる)んだ生活もできるし、きちんとしようと思えばカニの殻のようにもなれる。
 
 どちらでもよい、という自由を選んで生きてきたのだろうし、そういう性情が方向性を決めていたのかもしれない。これも相互作用するものだ。
 そうした自堕落な性情も含め、可能ならば自在でありたいと思うのだが、自由であっても自在であることは容易ではない(ときもある)。
 おそらく逆も然りだろう。
 
 最低限きちんとしようとした結果、自分の価値観だけではどうにもならないのが僕というイキモノの正体である。
 現実世界で手を尽くし、まともそうな人間と親しくなるのも健全だが、自分がそれに釣り合うほど健全だとは思っていない。
 それなら必要とされる価値観を自作した方が簡単で無難である ── それに生きている人間はときどき恐ろしい個体があるので。
 
 それでも持って生まれた怠惰の性質がなくなるわけがない。
 僕は意識を持つことに倦んでいるし、自分でいることにも飽いている(満足しているという意味でもある)、にもかかわらずである。
 怠惰な性質は抹消できず、しかし相反する価値観群を必要とする。足りないものは作ればいい。
 作れない人は外から調達するしかないが、僕は自作して機能させることができる。自分でも少々奇妙には思っているが。
 
 そう考えると、奥様(仮想)を僕の思考の本体にした方が現実世界では物事がうまくゆくような気がする。
 それはたびたび感じていたことで、実際に試そうとしたこともある(身体制御を主体にした人格を長らく運用していたので、できないわけではない)が、どうにもうまく行かなかった。
 肉体というのは現実世界とのインタフェイスであるのだが、これを操作するときの情報をフィードバックすることを面倒くさがっているフシがある(当人は前向きかつ何事もそつなくこなせるつもりでいるので、ここだけの話である)。
 
 考えてみると僕の作るいかなる仮想人格も、共通して怠惰である。目に見える(他者から観察可能な)部分や得意とする分野が異なるだけで、何かしら面倒くさがる傾向があり、面倒なことを他人(として区分された人格)に押し付け合って生きている。
 奥様(仮想)の場合は、肉体制御が面倒なのだ。
 だから(ここだけの話)日常生活の面倒ごとについてなんとか僕を「使おう」としているともいえる。
(実際のところは、僕の現在の人格(および記憶)を現実世界に還元しようという試みなのだが。これは外部から判別しようがないだろう)
 
>>>
【怠惰すぎて他人を使わない】
 
 幸いなことは、僕が現実世界でそれを他人にはしないことだ。僕は他人を使おうとしないことについて可能な限り徹底している。
 特に人情や人間関係をダシにして、自分のためだけに無償で使うことを嫌う。
 釣り合わない労働やリスクに巻き込むことを嫌う。そんなことをするのはフェアじゃない。
 気分が退屈したときに学生時代からの友人を遊びや食事に誘うのも(彼らの日常が繁忙であると勝手に思って遠慮してしまい)躊躇するレベルである。メールも電話もしない。それって友達か?
 
 お陰様で今日も現実世界で(だけ)は清廉潔白なフリをしていられる。
 まさか自堕落で欲にまみれて生きており「男は殺せ! 女は犯せ!」と平気で嘯(うそぶ)くイキモノ(職業:丘海賊)だとは思いも寄らない人が多い。
 少々頭が働く人は、僕という不自然な表象の裏(その人の想像の限りの腹黒さ)を考えることになるが、それはそれで僕に近寄る個体が減るので助かる。
 
 僕は僕なりに僕の腹黒さを知っており、その腹黒さで誰かを傷付けないようにしたいと思っているので、悪く思われて忌避されても、良く思われて尊重されても、どちらも有益に作用すると思っている。
 問題は近所の老婦人のように、どうやっても忌避してくれず、身勝手に利用してくる場合である。
 
 ちなみに「他人を使わないためになるべく連絡しない」というルールを恋人に適用してしまうと「セックスしたいときしか連絡してくれない」というあらぬ誤解を招くことになる。
(忙しいかもしれないから、つまらない用で連絡するのは悪いかな)と遠慮していた健気なハートがガラスのように砕け散り、思わぬ結果を招く例である。
 仕方ないので、恋人がいるときは退屈な気分の時はもちろん、どうでもよいことで連絡をする必要があるという事実を僕は30代になって学んだ。みんなヒマ人か。
 こういうのを日頃の行いと呼ぶべきなのかは分からないが、手間を掛けて普段からどうでもいいやり取りをすることによって、あらぬ誤解を回避できるようになった。
 
 仕事であれ、他の人との恋愛であれ、家族関係であれ、何くれとなく忙しいタイプの恋人にそういうことはない。
 用のあるとき(セックスに限るものではないし、セックスを省くわけでもない。一緒に散歩しようぜ、という健全(?)な欲求だってある)に連絡することができる。
 とくに僕は餌付け欲求(作った料理を食べさせたい)が強いので、そういうときに食事にかこつけてデートすることができる。
 
 それにしても「餌付け欲求」て表現、少し言葉が悪いかもだな。
 まぁでも比較的平和的な支配欲の発露、ですかね。支配したりされたりは、病的でないなら心地よいときもありますから。
 僕の場合、自分以外の人との距離を(一般と比して過剰なくらい)取ることで環境を支配しているわけで。
 
>>>
 
 いずれにしても睡眠期というのは「眠るとはこんなに心地よいのか」などと惰眠にふけっているうちに、気付いたら抜け出せなくなっているときがある。
 入り口は心地よいのに、次第に抜け出せなくなり、出口の精神状態は抑鬱的である。薬物中毒者かよ。
 いや確かに睡眠にはある種の中毒性があり、それが僕には強く作用するのだ。
 他のほとんどすべて(ニコチンやらアルコールやら食事やらセックスやら)の中毒にはならないのに。
 
 ここはひとつ認識を改めるべきだろう。
 睡眠は(僕にとって)中毒作用のある行為だと認識しよう。それも強烈に。
 必要なものだし、心地よいものだけれど、過度のそれは毒になる。精神的にも肉体的にも、それは科学的に(再現性を持って)証明されている(僕にとって)。
 
 睡眠の素晴らしさというか(僕に対する)中毒性を僕は自覚すべきで、それを適度な範囲に制御する必要がある。今後も好きなだけ眠れるのだから余計に。
 
>>>
【何が良くて何が悪いのか(僕にとって)】
 
 睡眠は意識を失うことができる。
 僕は自分の意識を持ち続けることにすぐ飽きてしまうので、意識を遮断したい場合や記憶を蓄積したくない場合に有用であり、手軽な現実逃避として安易に使われる。
 寝ればいいだけなので、お金も掛からない。寝る場所と時間があればそれでいい。
 最近でも近所の老婦人に突然の来訪された場合などに、とりあえず眠って現実を無視し、低迷した気分を回復させるため(という名目で、目覚めた直後から)さらに眠ったりしている。
 
 もしかして彼女は俺に嫌われている(私は彼女を嫌っている)のでは? という予測が可能だが、それについては後で考えよう。
 損害の程度が分からない対象について、わざわざ嫌っていることを自覚する必要はない。
 
 問題は、現実世界で問題が発生していることを眠ることで回避したり、眠ることで回復させようとする行為である。
 時間の経過が問題を解決するケースは少なからずあり、怠惰な僕に適合した解決策ではある。
 ために実際に回避することは可能で、回復することも可能であるが、過睡眠によるリスクもある。
 しかしより現実的に(現実世界に意図してアクセスして)問題を解決すれば、回避するべき問題が発生(再発)しなくなることもある。
 問題が発生しなくなれば、回避も回復も不要になる。当たり前だ。
 ただ少し労力や気力が必要になる。これは初期投資だと思うしかない。
 
 また問題解決を破壊的にではなく建設的に行う必要がある。
 他人に嫌われることをあまり気にする必要はないのだが、他人が僕を嫌うということはその人の精神衛生を害することに他ならない。
 そんなの知ったことか、という認識も可能だが、誰かの精神衛生が害されるということは、その人の周囲の人間に害が及ぶことも当然考えられる。
 巡り巡ってバタフライ効果のようにして、世界情勢が悪化する可能性がないと否定することもできない。
 
 たとえばかの老婦人が高名な政治家の親戚で、募らせた苛立ちに任せて当該政治家に愚痴めいた世間話をした結果、当該政治家の精神衛生が害され、外交問題で不適切な対応をしてしまい国交問題に発展するという可能性はほぼゼロだが完全なゼロでもない。中間経由地点(関係者と経過時間)を増やせば、可能性は上がるだろう。
 
>>>
【僕の考える世界にもたらされる精神の運動三法則】
 
 直接の害が発生していない(発生していても軽微もしくは容易に回復できる)場合、わざわざ嫌う必要もないと考えるのはこういう理由である。
 僕の考えるこの世界では、僕が誰かを嫌うとその誰かは僕を嫌う(作用反作用の法則的に)。
 僕を嫌う誰かは精神衛生を害し、何らかの出力をするまで蓄積状態が続く(慣性の法則的に)。
 誰かの害された精神は伝播し、この世界を害する(運動方程式的に)。
 
 誰かを無視したり軽視することはさほどの問題にならないが、嫌うことはなるべく避けたい。
 僕が嫌うだけで、最終的には自分の分と相手の分の2倍の害が発生する。
 それは最終的に悪意として世界に発露され、世界からの悪意として己に還元される。
 
 これらは広く科学的な検証などしていないしおそらく論文も存在しないと思うが、これまで観察した世界では比較的再現性の高い人間の精神性にまつわる法則である。
 もちろん僕の観察している世界では再現性が(非常に)高いというだけで、その再現性を持たない世界に棲んでいる人がいる可能性は(僕には)否定できずその確率も不明だ。
 
 問題は「誰かにとっての世界」をどうこうしよう、という話ではない。
 僕にとっての世界が良いものになればそれでいいのだ。
 ために僕が僕の幸福を追求する場合、僕の観察する世界の法則にできるだけ従う必要があり、不確定な要素についてはすべてネコノカミサマにぶん投げる方式を採用している。不幸な下請け業者か。
 
>>>
【怠惰の弊害】
 
 僕が怠惰であることは有意に働くこともある。
 観察の範囲では(僕がひたすら怠惰なことと、その怠惰さに対して好意的/友好的な関係性しか残留しないため)僕の幸せにおいて非常にすぐれた結果を招いている。
 僕は怠惰なあまり高効率主義であるし、慣例を疑問視する傾向が強く、競争を好まない。草食系Z世代ミームの体現でも目指してるのかな。
 まあ少なくとも温和で、のんびりしていて、存在が癒やし(「卑しい」の聞き間違いではないと思うが否定はしない)なのにそれなりに知的と認識される傾向が高い。
(アタマの中が丘海賊であることは秘密である)
 
 怠惰さは僕の身体的特性とも相性がいい。
 心身のいずれでも無理をすると、身体的に原因不明(解決不能)の不調が発生する。
 抵抗力の低い体質に問題があるが、その解決は不可能で、僕はこの身体とテキトーに付き合うしかない。
 あまり自分の生に執着しないのも、もしかしたら乳幼児の頃の身体的苦痛に起因しているのかもしれない。
 何事も面倒だな、と思っていいし、それが最終的に僕の身体を守るのでもある。
 
 そしてこの怠惰さは、僕が問題を常に先延ばしにする悪癖にも繋がっている。
(子供の頃から)物覚えが悪く、思い出す能力が極端に低いことも相関性があるだろう。
 問題は、問題を問題と認識し続けて初めて問題となり、解決策を導く必要が発生する。
 問題に直面してストレスが発生しても、それを記憶せず、毎回新しい気持ちでストレスを抱えるぶんには、問題解決という手間を掛けずにすむ。徹底したものぐさだな。
 
 問題が内面的なものではなく、外部の現実世界に発生している場合は、その怠惰さが顕著な問題になることもある。
 何度も書いているが、公共料金を払い忘れてライフラインを止められたりするのが典型だ。
 最近でこそ解決しているが、そもそもそれらを止められることについて、僕は何とも思っていない。無銭飲食してるみたいなものなんだけどね。
 
 そうなのだ。
 僕は大人になったので、僕が一向に気にしなくても、他の誰かの精神衛生を害することはよろしくないと思うようになった。
 無銭飲食は(法的に犯罪かどうかはどうでもいいが)僕の世界の法則上よろしくない。
 ライフラインの提供をしている事業者に勤務している方の精神衛生を害さないことは世界の平和に貢献するので、公共料金を(なるべく)きちんと払うようになった。
 40代になってからなので、遅い! と言われればその通りだが、改めないよりは良いだろう。
 
 それでも昔と同じように、先延ばししてしまうことは多い。
 もちろん適切なタイミング(あるいは若干の周回遅れ)で解決するようにはしているし、人生のゴール(死)を見据えている今、すべての問題をなるべく綺麗にする必要性に駆られてもいる。
 こうした問題は「一事が万事」なので、僕はもう一度、自分の周囲の問題をつぶさに観察し、眠ることで解決の代替(先延ばし)とする習慣を改める必要があるだろう。
 
 僕は時間を手に入れたし、可能な限り他人を排除することに成功したし、それなりに財力があるときもある(7月みたいにカスカスになっているときもあるが)。
 問題解決をするための思考力も最低限は備えているし、身体能力を適切に運用するための制御もできる。
 つまり問題解決をしないこと(必要もないのに先延ばしすること)は怠惰さの悪い面であり、改める方が世界平和と幸福の追求に役立つと考えられる。
 
>>>
【問題を問題と認識しよう】
 
 僕はもともと自意識の制御が下手である。
 そんなもん制御するものかと笑われてしまうかもしれないが、僕が僕であるという意識に乏しいというかなんというか。
 たしかにこの肉体は存在していて、その土台の上に僕の思考やら精神的な反応やらがあるのだが、それ自体に関心が薄い。
 生きていても死んでいてもどちらでもいいと思うし、ともすればその実在について確たる証明(僕の認識のすべてが夢や幻でないと誰に言えるだろう)ができないため、けっこう投げやりである。
 
 何かに熱心に集中しているときがある一方、不意に我に返って(まぁどうでもいいかぁ〜)となってしまう。
 自分自身その性質に振り回されていたし、その性質に振り回される他者がいることに注意が向かなかったことも否定できない。申し訳ない。
 
 その自意識の低さが怠惰さや問題を先延ばしにする性質と相関性を持っている。
 自分が我慢をすればやり過ごせるかな、という論理に欠けた態度も同様だ。もう少し賢くならなかったのかこの個体は。
 
 やり過ごさず適切に問題に対処するためには、自身の抱える問題を認識する必要がある。それに伴うストレスもセットで。
 
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【老婦人の問題を解決する方法を模索する】
 
 直近だとやはり、近所の老婦人の問題がある。
 嫌われていない(好意的に思われている)のが、却ってストレスになっている。
 Webで公開していないが、8/3にも来訪を受け、酒席に誘われたが断った、にもかかわらず強要された。
 
 そのときもあれこれ理由を付けて(実際、最近は自宅でもほとんどお酒を飲まないので)酒席を断り続けていたのだが、あろうことか「ではここ(玄関)で飲んでもいいですか?」と、彼女は手提げ袋から紙パックのお酒を取り出したのである。
 帰ってほしいのだが、僕はそれを強く言える性格ではない。
 そもそもそうした不快感を強く感じるのは、それを感じ始めたずっと後になるのだ。
 
 怒りや悲しみや不快は、一事が万事、そのときは何でもないのに後になってひどく傷を残す。僕はそういう性分で、だから人を寄せ付けたくないのだ。
 しかし「はぁ、まぁ」などと言っているうちに話が始まり(僕は料理中だったので、途中に席を外したりしたものの)2時間近く(エアコンもない玄関の上がりかまちで)話を聞く羽目になった。
 NOと言わなかったことがYESだと勘違いされるケースである。裁判をすると不利な証拠になりかねない。
 
 毎回彼女はお酒(あるいはお茶)を一緒に飲みつつ話がしたいようなのだが、僕にとっては基本的に苦痛になる。
 相手が老婦人だから、というわけではないが、他に優れたコンテンツはいくらでもあるし、話をすることがもっと楽しい相手もいる。
 時間単位の幸福度が低いから興味がないばかりか、苦痛に感じる部分もある。
 具体的には彼女の思考傾向に独善的な部分や排他的な部分があり(誰だって多少はあるが)、それが(僕に直接向けられていないとしても)強い悪意として感じられる。
 僕はこれが苦痛である。
 
 観察の範囲において、彼女はある種の孤立した状況に置かれている。
 書きたくないので詳述しないが、同居の家族が居ないにしても家族から冷たくされたり、友人と親しくできない(してもらえない?)環境にある。
 彼女の孤独は独善性を助長し彼女の身勝手を抑止せず、彼女の排他性は彼女を抑止しようとした他者を攻撃するように観察される。
 果たして問題が環境にあるのか、環境を醸成させた本人の行動(および価値観)にあるのか、疑問を持つ。
 
 その無神経さに、僕自身も少々気分を害しているのである。
 彼女が苦しんでいる環境を彼女自身が作っているのだとしたら、それを解決する行動は本人にしかできない(よくある話である)。
 彼女はコミュニティから孤立している被害者でもあるが、自身がコミュニティの誰かを加害している結果だと気付くことはないだろう。
 
 気付く程度の善意(と勝手にこちらが期待するもの)があれば、僕の家に何度も訪れたり、何度も電話をしたり、断り続けているのに誘い続けたりもしないはずである。
 
 その来訪の数日後には、過眠が始まったと思う(記憶が定かではない)。
 物事に対するやる気がまったく起きなくなってしまった。
 彼女のせいだと思う人もいるとは思うが、僕が正しく問題に対処していない(できていない)せいでもある。
 
>>>
【基本指針を打ち立てる】
 
 僕は彼女に対して悪意を持ちたくない(そこまで脅威を感じていない)のだが、正しく善意を持っている(その必要のある利益を感じている)わけでもない。
 害もなく益もないのだ。今後もそのように予測される。縁や故があって、それを引き継いで駐車場を貸している、それだけである。
 個人としてはシンプルに距離を置いてほしいのだが、僕はそれをうまく伝えられていない(一人の方が好きだとは何度も言っているのだが、どうやら何も伝わっていない)。
 
 彼女に対して善意を持つというのは、彼女が孤立しないようにすること、彼女がコミュニティに受け容れられ、攻撃をしないようになり、コミュニティにおいて有益な存在として認められるような方向性を一緒に考えることだろう。
 しかし正直それをする価値はもちろん、試す価値すら僕は感じていない。
 
 彼女のもたらした自身の孤立という不幸は、観察の範囲では残念ながら自業自得の産物であり、話をしている限り彼女は聡明さや公正さや客観性に欠け、自身の考えを疑う余地を持たない(少なくともこれまでの結果ではそうなる)。
 年齢によるものもあるだろうし、経験によるものもあるだろう(同じことを言っている)。人間がその人を生きるとはそういうことだ。
 
 その人の持つ価値観を他人である僕が変えようとするのは、その人の積み重ねた人生や経験に対して、ある種の否定をすることにもなりかねない。
 そのおこがましさは他人の家の玄関の上がりかまちで唐突にお酒を飲み出す厚かましさとどう違うだろう。
「良かれと思って」という言い訳は、常に加害者によって発言されるのではないのか。
 
 しかしまぁ僕なりの解釈を、語るぶんには良いのだろう。それでも時間を使うことにまったく気が向かないのだが。
 あるいはその善意の実現よって世界は少し平和に近づき、人々は幸福に近づくだろう。本当にそうだろうか。
 労多くして功少なし。高効率主義はどこに行ったのか。
 
 大事なことは、僕が期待されているほどの興味関心も好意も彼女に対して持ち合わせていないこと(同じくらい敵意も害意もないこと)を理解してもらうことと、同時に彼女の抱える問題解決に苦心する気持ちはあることを理解してもらうことである。
 さらに寂しさ紛れに僕の家にやって来ることを回避する(現実世界での最優先事項である)ためには、彼女が彼女自身の不満と問題を正しく認識し理解し解決する必要があり、それを自力で認識できるような情報開示(と必要に応じては誘導まで)をする必要がある。
 嘘だろ、こんなに手間が掛かることをしなくてはならないのか。他人の認識なんて制御したくない。
 
<PCデスクの裏をヤモリが走る。まだ幼い>
 
>>>
【詳細は後で考える】
 
 とりあえず気分も前向きになってきた。
 鬱屈して眠っている間にいくつかの問題を放置していることも思い出した。
 電気と水道の料金を未払いにしていることも思い出した。
 
 放置すればセルフネグレクトになるが、僕にはいくつかのセーフティネットが存在し、まったく異なる価値観として機能する奥様(仮想)もその一部として機能している。
 ときどき帰省している(帰宅かもしれない)ようだが、実のところそもそもどんな世界の住人なのか、僕は知らない。
 
 いずれにしても僕の認識する問題とその解決は、自己言及的な性質を帯びた、認識と意味づけの結果によって現実世界のありようを変容させる目的の道程を進むことになる。
 僕は僕の認識する僕や僕以外の誰か(今回は近所の老婦人)とその問題について考え直す必要があり、その中ではその誰か(老婦人)の考える僕や彼女自身についての認識を可能な限りのパターンで予測する必要があり、いずれの視点からも価値観からもかけ離れた客観から観察しうる僕や彼女自身についての意味づけを予測し、その上で自分が目的とする目標と、彼女が目標としうる目標の無難な妥協点を探り、そこに現実を移動させる(実現させる)手段を考える。
 
 昔からこういう手法を取っているので、基本的に僕は瞬発力に欠けるし、決定打に欠けていると観察されている。なんとなれば「意味不明」のひと言で片付けられることもある。
 そのとおり僕の認識しているものをほとんど誰も理解しない(できないのかもしれないし、する価値がないと思われているのかもしれない。僕には分からない)上、明確に言語化することは(上記の通りが精一杯で)僕自身にもひどく困難なため、伝達がむつかしい。
 僕は往々にして説明することを放棄するし、仮に時間を掛けて丁寧に説明しても、手を掛けるほど複雑になるようで(自己言及性を持つ以上、そうやってループする全体の仕組みを概念として抽象的にイメージする必要があるわけで、具体的に説明するほど記述がループすることも多いためか)不思議と理解されない。
 
 物事を短絡的に認識し、一意的に決定できる人たちとは思考や問題解決の手法が異なるのだろう。
 老婦人の件を例にすると、一般的には「迷惑だから帰れ」と突き放し、帰らなければ警察を呼ぶのだろう。
 その手法は迅速で確実で、一応の満足をもたらすはずだ。世界の平和は少し遠のくが。
 
 僕の場合は(世界の平和みたいな)余計なことまで計算に入れる。
 非常識な隣人が抱える不幸や、倫理に乏しい他人の自業自得と世界平和の相関性なんてものを真面目に考える人は少ない。
 僕だってそんなに真面目に考えているわけではないが、少なくともその理屈を信じている。
 
 ゴキブリが台所で発生したときに、堆肥や枯れ葉の積もるエリアを敷地に作って誘導し、自身の生活圏は忌避剤(あるいは殺虫剤)を使って棲み分けするより、シンプルに皆殺しにする方が簡単だ。
 だから短絡的に目の前のゴキブリを殺すことしか考えない人は多く、自身の価値観の外にあるものは考えない。罵詈雑言を平気で吐く人がいなくなることもないだろう。
 
 僕は狂った人とさほど狂っていない(自分をマトモだと思っている)人が共存できる世の中を実現するために、自分から世界に歩み寄ろうと考えて、考えるだけで疲弊して寝込むタイプである。
 どちらが正しいとか、そういうことは思わない。どちらにも利点があり欠点がある。
 その上で僕は僕のありようを選択し、結果的に理解はされないが、思った世界をある程度まで構築することに成功している。
 
 なぜといって世界が変容するとき(たとえば水道が未払いで閉栓されなくなるとき)僕の価値観も変容している(公共料金をきちんと払うようになっている)からだ。
 だからほんとうに公共料金はちゃんと払ってください。
 今月も赤紙が来ちゃったじゃないですか。と奥様(仮想)に叱られるのだけれど。
 
 しかし書けば書くほど(言葉にすればするほど)狂った人みたいな感じだよね。電波系というか。
 スピリチュアル界隈(笑)を小馬鹿にしてるのにね。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
  病的ではない正しさもあるし、正しさを妥協しない姿勢も必要だということをもう一度考え直すきっかけになった。
  僕は妥協のエキスパートなので、考えを少し改めようかと。
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
:暗闇エトランジェ:
:月夜の井戸端会議:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240811
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
私は猫です人間社会の観察者です。
SUBTITLE:
〜 Report from Observer. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
>>>
【それってトドに失礼じゃない?】
 
 なんだか芸能人が世界大運動会(オリンピック)選手の休憩ポーズをして「トドみたい」と言ったところ、それをWebだかWebニュースだかが取り上げて「それは失礼だろう」と論(あげつら)われているようなのだけれどワタクシはWebのニュースなどを眺めておりまして眺めておりましたところそれが目に入りまして言葉を失った次第です私は猫です人間社会の観察者です。
 
>前提:人間社会にさほど興味がありません。
 
 人間世界では発言者のスタンスを表明することが発言の内容より優先されることがあるようなのでこのプロトコルに則(のっと)ってワタクシの背景を申し上げるとするならばワタクシは猫でありTVをゲーム用映像投影装置として使用することはあっても25年以上TVプログラムを自発的に見ておらず現在は居住している建物からTVアンテナ等のTVプログラム映像投影に必須とされる装置を排除しております。排除しておりましてTVプログラム映像投影に必須とされる装置を探して彷徨(さまよ)うNHKの黒服どもが寄りつかない状況となっていますので旧来の芸能人についてもあるいは現在庶民に人気があるとされる芸能人についても芸能界についても世界大運動会についても思うところはありません。ありませんのですがしかしWebニュースなど見ておりますと遠い世界の出来事のようなそれがあたかも身近に発生しているかのように日本語で語られておりまして時折そうしたものを目にしては人間の暮らす日本という国に思いを馳せる次第です私は猫です。
 
>何が失礼なのか私は考えました。
 
 それにしてもそもそも論としてそれってトドに失礼じゃない? とわたくしは思いました私は猫です。
「トドのよう」と比喩することが「よろしくないもの」と認識されている認識プロセスにワタクシは疑問を持ちました疑問を持ちましたのはワタクシにとってトドというのはよろしくないもののようには思えないからですトドというのはわたくしの知る限り水辺に暮らす少々身体の大きなイキモノのことでありおっとりとした生態とは裏腹に特にオスなどは裏腹に野性的で力強い一面も持ち合わせているものと記憶しておりますがそれが必ずしも正しい認識であり理解であると自信を持って確信しているわけではありません。ありませんもののワタクシの認識しているそのような生態の動物であるところのトド(実体)と問題の発端であるところの「トド(不明)みたい」と発言されたところの指すトド(概念的情報体)と「トド(不明)みたいというのは失礼だろう」と指摘されるところのトド(概念的情報体)が指し示しているものは果たしてすべて等しく同じであると考えた場合にどのようにこれが失礼であるかについて考えたところトド(実在)が失礼ということはなさそうだと私は思いました。私は思いましてそれならば何が失礼なのかと考えました私は猫です。
 
>トドではない何が失礼なのか私は考えました。
 
 トドそのものが失礼でない場合について考えた場合には「トドのようだ」という比喩そのものもしくはトドのようだと比喩する行為そのものが失礼であるものと考えました失礼というのは悪いことであり悪しきものでありそれはよろしくないものであり善良な未来の健全な構築から逸脱しかねない造反行為であるのだろうと思われます私は猫です。
 
>念のためトドが失礼か私は再考しました。
 
 あるいはトドが失礼であった場合について考えた場合これは「トドのようだ」という比喩そのものについてその比喩が対象(A:世界大運動会の選手)に能(あた)わない場合であればその存在自体が失礼であるところのトドとして比喩された対象(A:世界大運動会の選手)に対して罪深く悪しく醜くおぞましく邪悪で不健全に逸脱した存在であるトドのようだとすることもしくはトドのようだと比喩する行為そのものが正しく健全でよりよい未来を構築するための開かれた社会における発言としては不適切で邪悪なありようであるということもまた理解はできます私は猫です。
 
>トドが失礼ではない場合の認識を確認します。
 
 立ち返りましてトドそのものが失礼でないと考えた場合についてみます。失礼でないと考えた場合におけるトドの定義とはまずよきものであり美しきものであり健気なものであり善良なものであり無害もしくは無害と呼んでも構わないものであると認識することができ、可能でありそのように認識することが善良な未来の健全な構築から逸脱しない認識であろうと思います私は猫です。
 
>比喩とは何か確認します。
 
「トドのよう」と比喩された参照元(O:トド)は比喩された対象(A:世界大運動会の選手)を比喩という手段によって装飾する行為において、参照元(O:トド)の特性が対象(A:世界大運動会の選手)をして類似しているということを表現しているものと認識します私は猫です人間社会の観察者です。
 比喩に利用された参照元(O:トド)の特性についてその定義に基づき「よきものであり美しきものであり健気であり善良であり無害もしくは無害と呼んで構わない」という条件を代入しました場合比喩された対象(A:世界大運動会の選手)そのものがその比喩という装飾行為によって表現されるのはその参照された特性を引き継ぎまして「よきものであり美しきものであり健気であり善良であり無害もしくは無害と呼んで構わない」というものと認識されるものと理解しますこれは人間社会における比喩および認識および理解におけるプロセスを演繹(えんえき)した結果導かれるものです私は猫です。
 
>しかしトドという比喩が失礼であるため怒りに震えています。
 
 Webニュースにおかれまして「トドという比喩は失礼である」という断定がなされている情報がもし人間社会において現実に発生している事象と認識した場合、つまるところ比喩された対象(A:世界大運動会の選手)は参照元(O:トド)の特性をまったく引き継いでなどいない。引き継いでいないのでこれは虚偽であり虚偽を広く強く押し進めるプロパガンダは我々の国家の自由と愛と真実を信奉する人民の正しく理想的で健全なありようとして受け入れることは断じてできず許されないということで日本国民(Web上)が怒りに震えているものと思われます私は猫です人間社会の観察者です。
 
>震える怒りの発生する回路を確認します。
 
 このように考えた場合この震える怒りの論理式が入力O(トド)と入力A(世界大運動会の選手)についてのXOR回路を形成していると私は考えます。
 論理式に詳しくない方のために今回は特別に説明をいたしますワタクシは猫であり大変優しく慈悲深く残酷で非情でありましてあるからです美しいかどうかは皆で決めていただいてもかまいませんが私は美しいと考えます私は猫です。
 
>排他的論理和回路と認識しました。
 
 論理式におけるXOR(エクスクルーシブ・オア/ exclusive disjunction /排他的論理和)回路については Wikipedia などで勝手に調べてください人間の英知に未来あれ私は猫です。
 
>テストします。
 
 このXOR回路において入力O(善良)と入力A(善良)が入力された場合出力は0(ゼロ)となり震える怒りは発生しません。発生しませんのはこのXOR比喩回路に入力された二値が等しいため等しい比喩が適切で正しく健全でより良い未来を構築するための開かれた社会における発言として適切であると判断されるためです。震える怒りは発生しません。
 
>出力が真(1)となる条件を作ります。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。
 
 このXOR回路において入力O(邪悪)と入力A(善良)が入力された場合出力は1となり震える怒りが発生します。
 このXOR回路において入力O(善良)と入力A(邪悪)が入力された場合出力は1となり震える怒りが発生します。
 発生しますのはこのXOR比喩回路に入力された二値が等しくないためその比喩は適切で正しく健全でより良い未来を構築するための開かれた社会における発言として考える場合に罪深く悪しく醜くおぞましく邪悪で不健全に逸脱しており不適切であると判断されるためです。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。震える怒りが発生します。
 
出力が偽(0)となるもうひとつの条件から検証します。震える怒りは発生しません。
 
 このXOR回路において入力O(邪悪)と入力A(邪悪)が入力された場合出力は0(ゼロ)となり震える怒りは発生しません。発生しませんのはこのXOR比喩回路に入力された二値が等しいため等しい比喩が適切で正しく健全でより良い未来を構築するための開かれた社会における発言として適切であると判断されるためです。震える怒りは発生しません。
 
>概況(がいきょう)を俯瞰(ふかん)し確認します。
 
 以上が今回適切で正しく健全でより良い未来を構築するための開かれた社会を目指す人間の暮らす日本という国においてWeb上に構築された震える怒りの真偽判定を行う比喩のXOR回路の概要となります私は猫です人間社会を観察するものです。
 
>震える怒りが発生しているとされています。
 
 震える怒りが発生する状況については式のとおり入力/参照元(O:トド)および入力/比喩された対象(A:世界大運動会の選手)の特性が一致しない場合についてです。震える怒りが発生しているとWebニュースは報じています。震える怒りが発生しているとWebニュースは報じています。
 
>排他的論理和回路という前提のもと検証します。
 
 特性が一致していない場合にとられる二値のうち一方を明確なのもにすることでもう一方は確定しますこれはXOR回路における必然ですXOR回路において真(1)が出力されているとき入力された一方が真(1)である場合もう一方は必ず偽(0)であり入力された一方が偽(0)である場合もう一方は必ず真(1)であります。
 
 寄せられている人々の意見を集約すると、その大多数が比喩された対象(A:世界大運動会の選手)について正しく健全でよりよい未来を構築するための開かれた社会においてよきものであり美しきものであり健気なものであり善良なものであり無害もしくは無害と呼んでも構わないものであると認識していることが確認されます。
 よって上記の前提条件から導き出されるのはトドのようだと比喩されるのが怒りに震えるほど失礼であるのは比喩における参照元(O:トド)そのものが著しくかつ絶対的に比喩された対象(A:世界大運動会の選手)の特性をまったく示しておらずトドというのはその存在そのものからして罪深く悪しく醜くおぞましく邪悪で不健全に逸脱しているという識別子として認識していることを回路が暗に示しておりまして多くの正しく健全でより良い社会を構築するための開かれた社会における発言者がそのように認識しているものと思われます私は猫です。
 
>トドは存在からして罪深く悪しく醜くおぞましく邪悪で不健全に逸脱していると日本における人間社会は認識しています猫社会の上位存在の判断を仰ぎます。
 
 初期条件を振り返りましてわたくしは人間社会の庶民に人気があるとされる芸能人についても運動選手についても何ら思うところはなく(むしろ高齢になったらとっとと引退しろと思うほどで)また同時にWebニュースという限られた情報媒体における投影のすべてを信じるものではありません。
 この論理式について人間社会がどのように認識しているのか理解できませんが結論は先に述べたとおりそれにしてもそもそも論としてそれってトドに失礼じゃない? とわたくしは思いました猫のよう狐のようヒョウのようライオンのようスナドリネコのようシラサギのようという比喩であったならどのような出力が為されたか興味がありそれぞれ検証したく考えますが人間社会への干渉は禁じられているため検証は回避されます。されました私は猫です人間社会の観察者です。
 
>私は猫です人間社会の観察者です。
 
 本日の定期報告は以上です。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Interface-Kidding-Link-Mechanics-
 
[Module]
  -Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240809
// NOTE:まだクリアしてない。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寂しさとムーンパレスの話。
SUBTITLE:
〜 Moon with me, 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240809
 
 
>>>
【月みたいなイキモノ】
 
 僕はかつて、周囲の人間から「太陽か月で言うと月」とか「月みたいなイキモノだね」と言われることがあった。
 今もそうかは分からない。
 
 僕の周囲にはあまり人間がいないから。とくに新しい人間を周囲に配さなくなって久しい。
 かつて私をそのように評した人の一部(たとえば一見すると無粋で粗野なTUもその1人)と今も行き来があるが、おそらくこうした比喩は、そう何度も使うようなものではないのだろう。
 おそらく僕の表面しか知らない人間なら、僕の内側に何が存在しているかなど気にも留めないし、僕の内側を先に開示されている(たとえばこのブログの読者のような)人なら、僕が猫だと思い込んでいるだろう。なに人間のオッサンだと思っているだとう! 違う、それは仮初めの姿だ! 騙されてはいけない! おまわりさんあの人です! えっ、ちが、あの僕じゃなくてあっち、いえあの違うんです、僕は嘘なんて吐いてません! 猫なんです! 僕は猫なんです! 猫は実在するんです! 猫と和解してください! 和解せよ! 和解せよっつってんだろーが! あっ、やめてください。猫! 猫なんです!
 
 ……。
 
 そう、月の話であったな。
 開示され、明示されている情報から飛躍して、自身の観察した素直な感想を留め続けることはむつかしい。
 とりわけ生命体にとって先行情報は優先される ── 視覚情報は内面に対する考察より先行し、言語によって想起される自身の認識は純粋な観察結果より優先される ── ことが多いから、僕を人間だと思い込んでいる人間や、僕を猫だと認識している人間が、僕を「月のよう」と、別のひとつの象徴的な具象を取り出してきて比喩するというのは特別なことのように思えた。
 
>>>
抽象的な具象:
 月は実在するが、あの弱重力の無味乾燥な大地を持つ地球の衛星そのものを言っているのではないだろう。それは彼ら彼女たちの心に投影された月と、それに投影された彼ら彼女たちのイメージだと考えるのが自然だ。
>>>
 
 僕はその比喩を、だからとても嬉しく思ったものだ。
 必然それはテストで高得点を獲得した子を褒めそやす親のように、あるいは暗闇で交わされる睦言のように、何度も繰り返す必要のない、賞賛とも慕情の表現とも異なる、おそらく一度しか言えない、言われないことなのだ。
 一人が一度、それを伝えたら最後、その人はもう二度とその比喩を持って僕を評さない、評する必要がない、そういう類いの ── 。
 
 そもそも「月みたいなイキモノ」が何を指しているのかは分からない。
 先に述べたとおり、月はイキモノではない。
 少なくとも人類の定義ではそうだろう ── ロマンチストの天文学者なら、少し違ったことを教えてくれるかもしれないが。
 
 だから彼ら彼女たちは誠に勝手ながら月というものに勝手なイメージを押し付け、あまつさえ否定する余地のないそれに勝手な疑似人格を投影し「あの芸能人に顔が似てるよね」みたいなふうに「青猫は月に似てるね」と言ったのだ。
 月からすればいい迷惑かもしれないが、遠い昔から憎からず想っている月をして、そのようだと言われて嫌な気分になどならなかった。
 
 もしかしたら「暗くて発電の役にも立たん愚図」という意味の比喩として使われていた可能性もあるが。
 だから今の僕ならもしかしたら「キミにとって、月ってどんな?」と訊ねるだろう。
 でも当時の僕はそれをしなかった。
 しないで良かったと、今でも思う。
 
>>>
 
 月というのは僕にとって、寂しさの象徴のようなものだ。
 あんなに煌々としているのに、姿を見るのはいつも宵が降りてからだ。
 ときには何もかもが寝静まった頃だったりする。
 
 お茶や煙草や酒とも違い、誰かと酌み交わすことをもって話のつなぎにするものでもない。
 実際に、友人や想い人と(僕が月を慕うあまり)月など眺めたことがあるが、どうも人間同士の間が持つものではない。
 
 友人となら間が持たず、他愛のない(しかし「そっと」した内容の)話をしてしまい、月見などどうでもよくなってしまう。
 想い人とならあの冷たい光のせいなのか乾いた大地を思い出すのか、やたらと肌の温度や湿度を確認したくなってしまうから、月見も半端になってしまう。
 
 きちんと月を見ようと思って月を見るとき、少なくとも僕は一人きりで、少し寂しいのである。
 少し寂しいから月など眺めたくなるのである。
 一人で少し寂しくて月など一人で眺めるから一人で少し寂しくなるのである。回文か。
 
>>>
 
 あるいは悪い意味に思う人もいるのかもしれないが、だから僕にとって「月みたいなイキモノ」とはつまり「寂しいイキモノだね」という意味になる(前述の通り、彼ら彼女たちが投影した意味は今も知らない)。
「寂しい人だね」って、誰かにそっと言えるのも、そっと言ってもらえるのも、僕はとても嬉しいのだ。不思議なことに。
 
>>>
【ファミレスを享受せよ】
 
「ファミレスを享受せよ」というゲームがある。
 僕は昔からAVG(アドベンチャ・ゲームの略であって、Audio/Visual Growth の略でも Adult Video Ground state の略でもない)が苦手なので、実況動画を見ている。
 
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 グラフィックとBGMとフォントが、PC−8801のそれを思い出させる。
(FM音源とか、ビューポートのドット表現とか、あの独特の、素直な文字とか)
 僕のようなオジサマにおけるノスタルジアのひとつである。
>>>
 
 どういうわけか僕はゲームのような選択的(いわゆるインタラクティブな)コンテンツはもちろん、小説や映画のようなシーケンシャルコンテンツについても、その感想や紹介をするのがめちゃくちゃ下手だ。「いいよ」くらいしか言えない。唐突に言葉が出てこなくなる。
 料理を食べても「美味しい」くらいをやっと言うのがせいぜい。
 
 語彙力のなさか、とにかく感覚を言語化することが下手くそだ。
 感覚も感動も、言葉にすることを嫌ってきたからかもしれない。
 愛してるなんて、だから僕が言ったら全部嘘だ。本当の感覚も感動も、言葉にしたら僕の感覚とは別のモノになってしまう。
 デジタルな、音声や文字に変換されるようなモノを僕は感覚していない。
 
 だからそうした感想なりレヴュなりを言語化して記録できる人のことを僕は少し尊敬している。
 その人のそれは、どう読んでも嘘とは思えないからだ。
 僕が書いたら読む先から(違うな)って思うのに、それらの人の感想は(うんうんうん)って頷ける。そうだよねぇ、って同意することさえある。
 
 あるいは僕は混乱してしまうのかもしれない。
 月を見て、誰かと話すことが僕にはできないのだ。
 素敵なコンテンツを見て、それを誰かと語り合うことが ── だから月でもできる人がいるのかもしれない。いやきっといるのだ。
 僕にはそれはできない。ただ呆然と、コンテンツからもたらされる感覚に圧倒されて。
 
 しかし技術的な部分の素晴らしさについては語ることができる。
 たとえばこの「ファミレスを享受せよ」の画像の多くは、マウスで描けない(タブレットかスキャナからの補正によるもの)。
 色もただ塗り潰しツールを使用したものではなく(おそらく)別レイヤで墨入れしている(と思われる)ものもある。
 あとは……FM音源の歪みの出方が綺麗、とかね。
 これじゃ全然ゲームの良さが伝わらないでしょう?
 
 それから……ストーリィや世界設定(世界観でいいや)も素敵。くらいしか言えない。
 何が素晴らしいかなんて、動画を見るなり自分でプレイして勝手に感じるしかない。
 僕はこの、独特の、不思議で、でも寂しい感じが好きかな。熱もなくて、距離も遠くて。そういう感じ。
 デザイナが「これを感じろ」って押し付けてくるタイプのゲームも楽しいけれど、世界や人物を作るだけ作って「あとはご自由に」というのがいちばん好き。
 何をしてもいいし、何をしなくてもいいし、何を感じてもいいし、何も感じなくてもいい。そういうのがゲームだと思う。

>>>
 イキモノってほら、生きていなきゃっていう本能的な原則があって、だいたいのイキモノはそれに逆らいもしないし、反抗期になってもそれは変わらないでしょう?
 あれが嫌い。
 生きることは反骨だよ? 残酷の刃を振るって他のイキモノの首を斬り続けることだよ? IRLはその連続だよ?
 だから生きることに反発してもいい。生まれたときから反抗期でもいい。明日も逆らうぞ。
 
 ヴァーチャルはべつにしてもいいししなくてもいい。
 熊を殺して残酷だと思ってもいいし、熊殺しを楽しんでハイスコアを狙ってもいい。
 人間相手にそれをしてもいい。
 グロテスク表現のあるゲーム(Fallout4 とか)で、街の通行人(当然何も悪いことなどしていない)を撃ち殺して追い回して死体をバラバラにしてもいい。僕はNPC相手の死体蹴りが好きなのだけれど、周囲の(それを見るIRLの)人がいい顔をしないので一人でこっそり楽しんでいます。IRLではそんなことはしないよ?
 もちろん普段は善人ヅラプレイしている(そもそも街のガードに殺される(殺される主人公を見て高笑いする)までが通り魔プレイの楽しみな)ので、僕の異常性はゲームレヴュにも表出しないのだが。
 
 とにかく「これをせよ」「ここで泣け」「笑え」「歌え」「飲め」「これをするな」「そんなことを言うな」って押し付けられるのはIRLで十分なので、ヴァーチャルに遊ぶときまで勧善懲悪だとか人間の良さだとかを強制されたくない。俺は猫だ! 男は殺せ! 女は犯せ! あっ、ちが、ち違うんです検事さん。これはあくまでヴァーチャルの話であってですね、普段は善良な市民ヅラしてるんです。税金だって払っているんです(今は)。だから許してください。俺の税金で暮らしてるんだろうこの公僕風情が!(人格崩壊)
 
 ……。
 
 打ち明けると「ファミレスを享受せよ」は、僕も一度(数年前、と思って確認したらだいたい18ヶ月前)プレイを試みたのだが、AVGが苦手なあまり放り出してしまった。
 表現技術も技法も設定も、とても素晴らしい予感に満ち満ちているのに、自分の選択とその結果のセットを記憶(および想起)できないのだ。
 僕の記憶力がもっと優れていたらとつくづく思う場面である。
 
 自分が何をして、誰と何を話したか、を思い出せない。そこから何を感じたかは思い出せる。
 その「何を感じたか」から関連させて、いわゆる5W1Hを取り出すのだが、どうやらちんぷんかんぷんで、他の誰かと照合するとだいたいデタラメになっているし、自分で思い出そうとしても混濁している。
 僕のコミュニケーション不全の原因はこのあたりにあると考えたい。
 
 僕の価値観や人格形成に問題があるとか、人間関係構築上の欲求の発露が歪んでいるとか、そもそも思想が狂っているとか、日頃の行いが悪いとか、他人をモノ程度にも思っていないとか、そういうふうに思いたくない。そういう自己イメージを持ちたくない。僕は悪くないと世界に言い放ちたい。そのためならどんな記憶だって歪めてやるぞ! 俺は悪くない! 判事さん、僕じゃないんです!
 ……狂ってるな。
 
 とにかくここまで来るとちょっとした記憶障害者なのだが、今まで恋人にも見破られたことは無いと思う。
 見破られていないとしても見限られてはいるわけで、そもそもそんなことに関係なく人格や行いに問題がある可能性は否定できないのだがいや否定したい。
 そもそも彼女たちは僕の記憶障害を指摘していたのにも関わらず僕が忘れている可能性さえあるが待て俺にそもそも恋人なんていた試しがあったのか?
 
>>>
【月について】
 
 月に対する思慕は、ずっと昔から続いている。
 僕が最初に恋情に似たものを覚えた、その対象が月である。
 
 月のよいところは、静かなところ。煩くないところ。暑苦しくもないところ。あたたかいわけではないところ。何の足しにもならないところ。何も押し付けてこないところ。
 もちろん現実世界(の地球上)では潮汐力の源であり、海の波が生まれたことで生命の発生からその進化が加速され、月経や出産(産卵)といった体内時計の指針として作用している。
 
 が、私の身体はあいにく月の影響を受けない組成だ。
 これは男の身体に生まれたひとつの幸運だろう。
 月の重力に干渉される肉体は、月の重力に干渉される精神を持つことになる。
 
 この場合 ── 前述の通り、支配されることは許しても強制されることを許さない ── 僕は月を憎んだ可能性さえある。
 月を討ち滅ぼす夢を見て、きっと叶わぬまま死ぬのだ。
 ゆえに僕の身体が男のそれであることは、月にとっても幸運だろう。
 たとえ叶わぬとしても、討ち滅ぼすべき憎悪の対象にされて嬉しいものではない。あるいは僕が月なら、その哀れをしてせせら嗤うとは思うが。
 きっと憎悪は恋情や羨望の裏返しなのだろうし。
 
 とにかく月に対する最初の情を基準に僕は思慕の情を構成しているので、だから人間関係のなかで取り交わされる情の基準が人間のそれと異なるケースがあるようだ。
 何が正しい、というものではない。
 
 人間の社会から押し付けられたプロトコルに従えば、手軽に人間のお友達を作ることができる(少なくともその可能性は高い)から、寂しさは感じないだろう。寂しさを嫌う人にはその方が無難だ。
 僕にはそのプロトコルがない。あるいはあっても(いや多少は持っていると思うよ、思ってるよ!?)あまり魅力を感じていない。
 どうでもいい相手とつるむくらいなら、寂しい方がいい。
 
 言葉もなく、遣る瀬もなく、使い道もなく、退屈で、儚くて、抜け出せない薄闇。
 思い出すことも、交わす言葉も、希望も望みも願いもない、祈りのような時間。
 
 こういうのを誰かと共有するのか? それは楽しいのか?
 私はこれを独り占めしていたい。誰にも渡したくない。
 
 誰かや、あるいは何かに対して抱く思慕の念や情を、言葉にしたらそれきりになってしまう。
 その言葉がそこにいて、その言葉で表現したから、その言葉を使えば思い出せると、その言葉を使えばその状態に返ることができると、そう思ってしまう。
 何度もその言葉を使い続ければ、その呪文は陳腐に磨り減り、意味もまじないもかすれてゆく。
 
 同じ場所になど、帰ることはできない。
 だから言葉は使わず、独り占めして、説明もしない。
 誰にも打ち明けなけい。誰にも明け渡さないために。
 
>>>
 
 ゲームの話なのか、慕情の話なのか、「愛してる」の響きだけで強くなれる気がしてしまう錯誤の話なのか、月の話なのか、孤独の話なのか、寂しさの話なのか、人間の話なのか分からないかもしれない。
 しかし僕の考えていることを分かることが、そんなに大事だろうか。
 
 僕にはそれは大事なのだが、僕以外の人は、自身の考えていることをきちんと分かる方が大事だと思う。
 私は私という月を抱え、あなたはあなたという月を享受せよ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
  ファミレスを享受せよ - ブラウザ版(無料)
  ファミレスを享受せよ - Steam版(Windows のみ。マクユーザの私は……)
  ファミレスを享受せよ - 牛沢さんの実況動画。
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫β:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Diary-Ecology-Eternal-Interface-Kidding-Love-Moon-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-
 
[Object]
  -Cat-Contents-Friend-Game-Memory-Night-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:
コントローラと五里霧中:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240806
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
お金は自由に使ってしまった。
SUBTITLE:
〜 Paid my tax, then get me free. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【お金お金ってうるせー】
 
 株価が乱高下しているとかで、急落した先日、予想どおりに弟子から電話が来た。
 彼は会計士だか税理士だかの事務所に勤務しており、子供の頃からソロバンなどを習っていたこともあり算術が好きである。
 何年前か忘れたがNISAを始め、僕が積立NISAを(銀行に言われるがまま)始めたら同好の士ができたとばかり、株価が大きく変動すると連絡をしてくる始末になっている。
 曰く「今のうちに一度利益を確定させた方が」やら「ここは一度損切りをして」やら ── 。
 
 彼は僕のことを相応に理解しているはずなので、僕がお金の話に大して興味がないことを知っている。
 自分の所有しているお金だってどうでもいいのだから、世相のお金の話など意識を向ける意味もない。
 積立NISAだって損失が発生する可能性があることは知っている。そんなものは最初から、口頭でも書面でも警告される。
 
 ちまちま小銭を弄るゲーム ── 株だろうがNISAだろうが僕には同じに見えるし、個人で些細な資産運用をする人も(当人たちは職業のつもりであろう)個人投資家も機関投資家も似たようなものだ ── に興じている人なら話は別だろうけれど。
 僕がヴァーチャルゲーム内におけるリソースの損得で一喜一憂しているのと本質は変わらない。
 
 だからリソースの損得ごときで騒ぐ(独り孤独に一喜一憂しているのではなく、誰かとそれを言い合ったり、皆で騒いだりする)神経が分からない。
 正直に「そんな用事で電話をしてくるな」と毎回言うことになる。
 何なら俺が今プレイしているゲームの、メインストーリィの演出上発生したリソース損失(素材や装備のほとんどを失う)について言い募ってやろうか。
 
>>>
【現実だからこうなるのか?】
 
 ゲームだったらどうするか。
 セーブデータのあるタイプならロードすればいい。不可逆的なデータしか持たないなら、再び稼げばいい。
 ストーリィの演出で発生したイベントなら、いずれ戻ってくる確率が高い。かつてのエアリスは復活しなかった(初代FF7)けどな!
 
 少々脱線するが、ゲームはIRL(現実世界)に比べ簡単にリソースが手に入る仕組みを持つ。
 この労力に対する報酬の係数がIRLに比べてはるかに高いことは、大人も子供も夢中になる動機のひとつとなっている。
 ゲーム中毒になることを問題視する人は、現実よりも報酬係数の低い(しかし夢中になるだけの価値を持つ)ゲームを作ってそれを与え「IRLのほうが効率が良くてラクで楽しい」と思い知らせるのが効果的である。
 
 しかしそもそもIRLはゲームではない。多くの人がそう言うだろう。
 実際、IRLではプレイヤ(たとえば僕)のデータ(主に肉体依存)はオートセーブかもしれないが常に不可逆的で、報酬係数は低い。
 おそらく人々がお金に執着するのは、それでもIRLではお金こそが報酬係数の高い存在だからだろう。
 
 たとえば野菜を作るのは大変である。
 あんなものがそんじょそこいらのマーケットで、数個数百円で売っていることには驚嘆する。お金を払えば、畑を耕すより簡単に手に入るのである。
 しかも畑を耕しただけで、あるいは種を蒔いて、ときに追肥をして、それで美味しい作物が必ずできるというわけでもない。
 職業農家のように高高度に効率化しない限り、あの価格であれだけの商品を市場に提供するのは不可能だろう。だから自作するのは非常に効率が悪い。
 
 多くの人が庭で作物も作らず、それどころか除草剤を撒き、あるいはコンクリートを打設するのはもっともである。
 労力ばかりで割に合わないから、効率の良い選択をし、邪魔になる(除草作業のような面倒な)ものは根底から回避策を講じるのがよい。
 僕はわざわざ庭の木を切り倒し、深く張った根を除去するような開墾を続け、痩せた土を肥やすために堆肥を作ったりし続けているが、これは例外である。
 
 その効率の悪さを指摘されたらどうしようもない。
 庭の開墾だけでいくら使ったか、リフォーム用の機材や資材にいくら使ったか、それだけは考えないようにしている。
 今後も考えないとここに断言できる。だから追及しないでほしい。
 
 人々が騒いでいるお金というリソースも、結局のところ「何かを効率化して具現する」ためのリソースでしかない。
 優れた道具を手に入れれば、今までより楽に作業ができるが、そもそも優れた道具がなければできない作業かといえば(庭程度の開墾や、一般的な家事程度なら)そんなことはない。
 乾燥機付き洗濯機がなくても、桶かバケツと石鹸ひとつ(あるいは重曹数十グラム)とロープの1本もあれば洗濯と乾燥はできる。
 
 ただ労働が必要で、報酬と労力の効率が悪いだけである。
 深さ1メートルの穴を掘るとき、手でも掘ることは可能だが、シャベルの方が早くできる。
 手はタダだが、シャベルは作るか買うしかない。
 
>>>
【効率厨、おめでとう】
 
 現実世界に生きる限り、そこにある時間という概念の中で生きている限り、あるいは現代文明が、さらにいえば生命というものの本質がそもそも効率至上主義なのだと考えることも可能である。
 
「効率厨」という言葉はヴァーチャル ── 選択的ヴァーチャルの具現のひとつであるコンピュータゲーム ── の存在によって発生した。
 効率を最重視することの是非はもとあれ、IRLとの二重生活を送るすべてのゲームプレイヤにとって、効率を高めることは重要な関心ごとのひとつにせざるを得ない。
 
 もちろんウォーキングシミュレータ(あるいはオープンワールドタイプのゲームで「ただ歩いて景色を愉しむ」プレイ)の場合、損得の発生するリソースはプレイヤの時間程度のものにしかならないだろうけれど、時間に大する「楽しさ」「嬉しさ」「驚き」というような感動的要素も、その変化が平坦で、あるいは予想以下の振幅しか発生しなくなれば、単に退屈なゲームとしてプレイに値しなくなる。
 
 我々が生命体である以上、その生命に死という終わりが設定されている以上、主観によって体験できる時間は有限である。
 その中でより多くのコンテンツを、より濃密で享楽的なコンテンツを求めることは何も不思議ではない。
 食事であれ睡眠であれ、遊びであれ仕事であれ、果ては種の存続についてさえ、本来無感動的な活動(卵生生物の多くはそのように観察される)であったそれが、進化の過程で快楽という付加要素を与えられている。つまりそれだけの意義が種の保存の上ではあったのだろう。
 
 ヴァーチャルとリアルの境界が曖昧になった結果、既存の享楽の色は褪せつつあり、先進国では今後も出生率が下がり続けるだろう。
 享楽のためにセックスをしても構わず、子供が生まれることを社会は求めるが、同時に、いくつかのイデオロギィによって不幸な妊娠やセックスは忌避される。
 これらは同じコインの表と裏の問題で、不幸な出産を避け、不幸な出会いやセックス(端的にその可能性)を避ければ当然に、そのような帰結を迎える。
 幸福といわないまでも、不幸ではない出産や育児の撲滅を理想とするならば母数が減るのは必然と言えるが、それは果たして本当に悪いことだろうか。
 
 文化が成熟すればするほど、たとえば性別や職業や社会的地位のそれぞれの差異の中で、それぞれの権利や意義に理解を深めるほど、無思慮に相手を道具遣いすることはできなくなる。
 言葉は悪いが、男が女を道具遣いした結果、あるいは女が男を道具遣いするための口実として発生する妊娠だってあった。
 きっと今もあるだろう。そうした「不幸な、あるいは幸福ではない」妊娠や出産が減ることは、社会の幸福だと僕は思う。
 
 これは社会の生産力そのものが低下することを意味するが、社会の幸福の質を上げるために外せないステップである。
 1000円で買える材料を使って、とにかく沢山の人の空腹を満たせる料理を作るか、とにかく美味しいと思ってもらえる可能性の高い料理を作るかの違いに似ている。
 幸か不幸か、禽獣のようなイキモノが多いほど、空腹を満たすことに躍起になる。
 
 そう考えると、国家がやたらと(しかも今さら)出生率の低下を気にすること自体ナンセンスとも言える。
 高効率の状態に近づいたというのに「我々の文明は量より質のステップに到達しました。人口についても同様です」と、誰も言わないのは何故だろう。
 野蛮で未熟で無思慮な思春期は、まだ過ぎていないと思っているのだろうか。
 
 青春とは心の若さである、というタイトルの物語があったと思うが、それならこの国の青春は、とうの昔に終わっている。
 
>>>
【非効率に生むことの意味】
 
 IRLでさえ、あるいは生命の本質を突き詰めると「効率厨」になるのだとしたら、そもそもの言葉の発生はともかく、効率厨という概念はIRLから生まれたと考えるべきだろう。
 そもそも昔から(おそらく今でも)ヴァーチャルコンテンツを「悪いもの」あるいは「あまり良くないもの」と考える向きは存在する。
 なぜといってヴァーチャルなコンテンツのすべては、IRLにおいて基本的な生産行為をもたらさないからだ。
 
 TVゲームをしてハイスコアを取ったところで、その時間を使って庭の草取りでもした方が生産的なのだ。
 IRLは立派な、そして残酷な効率厨である。
 
 同じく高度な数学を学び、あるいは哲学書を読み、大ヒットした映画を観ても、それらは生産行為をもたらさない。
 僕のようなシンプルなゲーマは、だから勉強を嫌うのだ。
 大人が「ヴァーチャルに意味(生産性)は無い」というそれがそのまま、彼らの押し付ける理想に含まれている。
 
 勉強が何になるだろう。高度な概念や体系的な認識プロセスを身に付けることに何の意味があるだろう。
 抽象的なことより具体的で、カタチがあって、空腹を満たせるモノにこそ意味がある、というなら「現実主義者」の求めるどれほどがそれに該当するだろう。
 そしてその残酷で、冷徹で、利己主義的でさえある現実主義は、どれほどの非情によって理想を切り捨ててきたのか。
 
 一転して、ヴァーチャルは感動的であり、物的なそれはなくとも精神的な豊かさをもたらす、ある種の「生産行為そのもの」だと考える向きもある。
 
 たとえば畑を耕すように数学を学び、肥料を作るようにしてゲームを作り、種を蒔くように哲学的な思想を読み、様々な虫や他の植物が果たして害となるかどうかを観察するように様々な事象を眺め、良否を己の観察と経験によって決定するのは ── 。
 
 確かにこれは効率が悪い。僕が断言する。
 優れたライブラリがパッケージされた(UnrealEngine のような)開発環境が無償で手に入る昨今にあってなお、思った通りのゲームを作るだけでも苦労する。
 またライブラリが充実していればいるほど、そのライブラリによって生産物が限定的になり、つまりは生産行為そのものが限定的になるという弊害もある。
(たとえば特定の言語を使って一から作るよりは手軽だけれど、3Dの精細な描写に特化しているライブラリが主流であれば、2Dの荒いドット描写による表現方法が意味を持つ演出をしづらくなる)
 
 人間は(あるいは生命は)効率を求めるわけだから、Webで(書籍を読むより手軽に)情報を入手し、どの除草剤が有効で、あるいはどんな肥料が良いかを知るだけでも、よりよい作物を作ることができる。
 堆肥を作りながら、未だに解明されない事ばかりの土壌細菌類の働きや相互作用をもたらす系について学ぶことは、見ようによっては無意味だ。
 
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【結果がすべての効率厨】
 
 僕は元々「結果がすべて」と断言するタイプのイキモノである。
 これは効率至上主義の極北であり、過程を無視する哲学の発露である。
 僕がそれをなるべく言い切るようにしている(してきた)のは、実のところまったくそうは思っていないからである。
 
 たとえば会社組織のような営利団体であれば、お金というリソースを作るために人材を集め、技術を高めるための教育(あるいは洗脳)を施し、入力されるリソースをラクに転換して出力リソース(お金)に換える装置である。
 結果(出力=売上)がすべてであって過程(努力とか苦労とか)は評価しないのが、最高効率を求める上で必要な価値観であり認識傾向である。
 
 僕は当時、会社員であったため、こうした価値観や認識を意図的に利用していた。
 本心は真逆だが、それを言い出すと僕は絶対に反抗してしまう。
 その頑固な性質を熟知していたので、本音を押し殺すようにして別の人格として駆動していたわけだ。
 
 思ってもいないことを口にするなんて僕には造作もない。
「愛してる」なんて嘘も「男は殺せ! 女は犯せ!」なんて妄言も、何度となく口にした。
 人間の思考というのは便利なもので、言うだけでそれをしているような気持ちになる。
 テスト勉強について考えただけで勉強した気分になれるし、これまでの人生は苦労の連続だったと言うだけで苦労してきたような気持ちになれる。
 愛してると言えば愛しているようなそうでもないような気持ちになるし、男は殺せ! 女は犯せ!と言っているとなかなか破天荒で気分がよろしい。
 
 しかしまぁ結局のところ、効率を求めるはずの組織が、案外そうでもない(運営者の思考や欲求や理想や傾向が、あるいはその存在そのものが非効率という)ケースに直面して、僕のそちら側の価値観は自己矛盾による崩壊により終焉を迎えたといってもいい。耐用年数が過ぎたのかもしれないが。
 
 それに嘘を吐くのは簡単だが、嘘を真にするのは簡単ではない。
 まして己が真逆のことを真として信じているならば、口にする嘘も、口にしない真も、等しく体現することになる。
 結果としていずれの立場の者にも、僕は嘘つきだと断ぜられ、嗤われるだろう。おかげで恋人にフラれるケースが後を絶たない。
 
(いくつかの犠牲があったにせよ)その道筋は豊かで滋味深く、痛みも苦味もあったかもしれないが、スパイスの風味も抜群だったといえる。
 まぁ、嘘は言わないにこしたことはないのだが、社会や集団や恋人に言わされたりするからね。
 だからといって本音を言うわけにはいかない場面もあるわけで。みんなも気をつけてね。
 
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【リソースは自由に使ってしまった】
 
 つい脱線してしまった。お金の話であった。
 
 さても株の乱高下で僕の積立金を運用している誰かが損失を生んだとして、僕にどんな損失があるだろう。
 せいぜいのところが数万円、あるいは仮に今までの積立ぶんまでまるっとなくなったとして、僕の生活に影響しない範囲の(実際、それがなくても僕には影響しなかった)お金なのだから、無くなったとしてどうでもいい。
 
 効率厨には大問題だろうが、あいにく僕は人生に効率を求めるようにできていない。
 それどころか無駄を追求しているようにさえ見える。
 僕が最も求めて、果たして手に入れたのが自由である。
 
 この国は民主主義であり、そのイデオロギィによって、それを明文化した憲法によって、国民の自由と権利は保障されていると言う人もいるだろうが僕はそんなものを信じていない。
 資本主義であるが故の不自由を、その辛苦を、多くの人が味わっているはずである。
 
 
 不貞は無くならず、それに噛みつく義憤が正義だと疑わない貧しさも無くならない。
 貧困は無くならず、最低限の保障を受けようとする人を疑い非難する貧しさも無くならない。
 犯罪は無くならず、そこに至る幼稚さを生むシステムの改善に思い至らない無思慮も無くならない。
 善良は無くならず、悪意を持たなければ悪い結果は生まれないという無知も無くならない。
 
 なあにが自由だ、なあにが権利だ。
 口当たりの良い嘘を吹き込むのはやめてよ〜、と誰も言わないのは、等しく皆が犠牲者だからか。
 自分がそれをより強固に誰かに吹き込めば、自分は少し自由になれるからか。
 
>>>
【自由は眠りに使っている】
 
 目覚めると、その日の最初の(そして最後の)咀嚼中の食事が口の中にあるような、眠る時間も無い状態は今思うと少々不幸だった。
(もちろんそれよりひどい不幸を僕は知っている。だからそのときは不幸と感じなかったのだ)
 思うさま眠り続けたい、という些細な欲を満たせるようにネコノカミサマにお願いした結果、眠り続けられるほどの自由が手に入った。
 その自由を邪魔する人間も、取るに足らない行事も、本当にわずかしか存在しない特異点のようなこの場所で、これらの寂寞を僕はお金で買っていることになる。
 
 この自由だけあれば、実のところ僕は何も要らない。
(いやいるかな。イルカな? たとえば美人でエッチでショートヘアのガールとか? いるか? 見えない自由が欲しくて撃ちまくるための見えない銃とか? いるかな。いるか? そもそも自由って目に見えるか?)
 この自由をサブスクリプションのように買い続けている日常に満足している。
 一日は24時間しかなく、これ以上の自由を買えるとも思っていない。
 増やせるなら買いたいが、増えないので買うためのお金も必要ない。
 
 ただし効率のことを考えると非常に悪い。
 無駄なことばかりで、生産性の低いことばかりして、その生産行為が何も生み出さないこともある。
 
 それを非難する他人もいない。
 そういう孤独に耐えられない人もいるとは思うが、改善の余地を感じるなら改善すればよいだけである。
 僕は集団の引力が嫌いで隠棲しているので、まるで冥王星のような、非生産的な日常を愛している。
 
 なるほど生命は生産的なのだ。
 生きることがそれほど生産的だからこそ、僕は死の側にいるのだろう。
 日なたぼっこをするように、まんじりとしてばかりで、その実、何もしていないのだ。
 
<アヲが帰らぬまま約1年が過ぎ、我が家の猫塔は妹に委譲された>
 
>>>
【眠りは死に似ている】
 
 夏は嫌いだ。
 あれもこれも生命を謳歌する、その歌声が煩い。
 わかよたれそつねならむ。
 
 惰眠を貪るうちにも時間は過ぎ、浪費され、僕の冬眠は冬までの眠りとして機能する。
 冬になったときのことは、冬になってから考える。
 
 他の人は知らないが、僕はそうやって、無計画に無責任に生きてきたのだ。
 アリとキリギリスの寓話で言えば、明らかにキリギリスのタイプ。
 僕の孤高さは、アリにたかるくらいなら死をも辞さないという姿勢 ── それを夏の頃から持っていたこと ── にあるが、そんなものこの社会では嘲笑のネタにしかならない。
 
 予測し、備え、労働し、蓄えるという美徳はしかし、資本主義における奴隷洗脳にうってつけの商材だ。
 ならば社会よ、のうのうと冬を越すキリギリスに震えろ。
 
 微分積分の手法を現実世界への還元として用いる場合、過去の情報と現在の情報を照合し、単位時間あたりの変動から未来を予測し、それに対応することであり、それ自体を「賢くない」と否定できるものではない。
 賢いかもしれないが、しかし少なくとも愚かではある。
 その手法は現実世界を生きる上で、ないよりはあった方がよい手段ではあるが、絶対視するのは危険だと考える。
 必要条件と十分条件の違いであり、それ以外の手法があるならそんなものに拘る必要はない。
 
 株価や為替の乱高下は、僕の自由や不自由に(ほとんど)まったく(と言っていいほど)関係しない。
 春に植えたジャガイモの出来の良さ(Webに公開していないが、いいジャガイモが育った)やら、千萱の過剰繁殖やら、家の中を徘徊するヤモリ(ときどき見かけてどきどきしている)の方がより強い関心事である。
 
 夏の間の歌や演奏など、一体誰の役に立っただろう。
 それでは夏の間の労働が、一体誰の役に立つだろう。
 
 キリギリスに分け与えるタイプのアリならば、それは社会への貢献であり、平和的な理想の実現と考えることもできる。
 しかし「アリとキリギリス」教典に毒された者は、キリギリスを愚かで強欲な悪と見做し、自分あるいは自身のコミュニティの正義によって断罪するだろう。
 
 僕は何かを訴えたいわけでもないし、寓話から教訓を知らしめたいわけではない。
 ただ僕に関係の無いことで(自分が不安を感じるからと)僕の不安を煽ろうとしたり、僕に関係の無い法則を持ち出して僕を罰する(ように仕向ける)ような教典はめんどくせえな、と思うのである。
 
 わたくしはご自由にしておりますので、皆様も、よしなにご自由にご自愛ください。
 特に弟子、おまえな。オマエのことな。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Love-Moon-Season-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Friend-Garden-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240727
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
悪意がなくても善意にならない。
SUBTITLE:
〜 Dodge the edge. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::自分は水が苦手で、泳げないと思っていましたが、やってみると、意外に楽に潜ることができました。苦手だったことを忘れているからかもしれません。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240727
 
 5時頃起床、あまり時間がないのですぐに着替えて庭仕事。
 時間がないといってもスケジュールが詰まっているというのではなく、7時には陽が差すようになってしまうのでその暑さを避けているだけである。
 
 一昨日、姉の通院日だったため、昨日の記憶がほとんどなく、目覚めて身体のあちこちが軽い筋肉痛である。
 力仕事をした覚えはないから寝てばかりいたのだろう
 
 心身のバイタルが、屋内で過ごしているために低下してしまう人が多いと聞く。
 とくに仕事もせずにぼさーっとしている年配に多いのだとか。
 
 私も該当するのかもしれないが、精神的には穏やかで心地よく、清々しく毎日を送っている。
 何が素晴らしいといって、何もせず、誰にも会わず、死人のような日常を過ごせることである。
 
>>>
【掃き出し窓に呪いあれ】
 
 一昨年あたりから、春の終わりにサンシェードを設えるようにしている。やはりというか、当然だが、屋内の温度が上がりにくいので。
 毎年、掃き出し窓の多さに呪詛を掛けながら5〜8枚のタープを雨樋の留め具に吊って、地面にペグで打ち付ける。
 
 当初はタープにセットのナイロン紐を使っていたが、昨年あたりからジュートロープ(直径8mmほど)を使っている。
 摩擦が大きいので結びが解けたり緩んだりしにくく、丈夫で、しかしシーズンが終わる頃には朽ち始めるので撤去が簡単だ。
 万一他所に飛んで行ってしまっても、放っておけば1年ほどで朽ちてしまう。
 
 ところが今年は暴風雨が多く、頻繁にペグが抜ける。
 ペグに掛かったロープが抜ければ良いのだが、解けはしないので、暴風にあわせてベグが踊ることになる。
 今のところ窓ガラスが割れたことはないが、激しく打ち付ける音に悩まされ、翌日の早朝はペグ打ちをすることになる(今日はその作業からである)。
 そしてその夕刻の暴風雨でまたペグが抜けたりする。
 掃き出し窓に災いあれ(呪詛、ふたたび)。
 
>>>
【お昼寝の甘美な背徳】
 
 作業を終えて屋内に戻ると7時を少し回ったところ。
 シャワーを浴びて、純豆腐チゲを作って食し、カフェラテとタバコを傍らにゲームをして過ごす。
 
 眠くなったら昼寝をする。
 こうしたありようを(無意識に)自責してしまうこともあったが、今は「平和だなぁ」と思って、嬉々として微睡む。
 半裸で過ごせば室温が27℃でも、肌寒く感じるほどである。ひんやり乾いたシーツが肌に心地よい。
 
>>>
【老婦人からお酒を誘われ、断る】
 
 18時頃、近所の老婦人が訪れる。
 悪い人ではないが善意が足りないため、結果としての言動が、悪意のあるそれのようになりがちな人で、こちらからはなるべく接触しないようにしている。
 具体的にいえば、一日に16回くらい、20分ほどおきに電話を掛けてきたりすることがあった。
 毎回、留守電まで残したりする。緊急の、重要な用事かというとそんなこともないので、着信拒否をしたほどである。
 
 そもそも僕は彼女の親族ではないし、親しい友人でもない。
 ただ近所にいて、駐車場として庭の一部を貸しているだけである。
 だからその架電回数は(僕にとって)異常であり、迷惑(つまり不快)である。
 そういった部分に、当人は(嫌がらせをしてやろう)というような悪意はなく、しかし(迷惑かな?)という善意あるいは気遣いが足りず、自身の常識の範囲で架電していた結果として、僕が不快になったわけである。
 
 彼女が悪いとは(少なくとも僕は)思わないし、それを言うなら(迷惑なので止めてください)ときちんと言わない僕も悪いだろう。
 僕にしてみればいちいち自分の不快を訴えるのも煩わしいのだ。
 彼女は僕を嫌っているわけではなく、むしろ親しく(色恋の情ではなく、近所の老人会の一員のようなカタチで)なりたそうにしているから、言えば謝罪して、改めてくれるだろうとは思う。
 しかし忠告するのも気力が必要で、僕はその気力をかき集めるほどの価値をこの一件に見出していないので放置しているというわけだ。
 
 今回我が家にやって来たのは、家呑みのお誘いである。
 一度だけお酒を交わしたことがあるのだが、以後、お断りしている。
 お酒は好きであるし、彼女を嫌うつもりはないが、1人で静かに飲む方が好きである。
 他人様の愚痴を聞くことは僕にとって愉しみのひとつではあるものの、彼女のそれはどういうわけか楽しくない。
 
 仕方ないので丁重にお断りする。
 
>>>
【愚痴というエンジニアリング】
 
 愚痴というのは基本的に「理想と現実のギャップの中で、その人が道を見失っている」という状態から始まることが多い。
 いわく「会社の後輩が生意気で、仕事もせず、言うことを聞いてくれない」。
 いわく「恋人や伴侶が、浮気をしたり仕事に熱中したり遊びにかまけていたり(状況は様々)して、自分のことを蔑ろにしているように感じる」。
 いわく「嫁がYoutubeで変なスピリチュアル動画にハマって毒されており、嫌気が差している」。
 いわく「大事に育てて一緒に暮らしていた飼い猫が家出をしてしまって寂しい(私の実話)」。
 
 ほかに「政治家のしていることが意味不明」「近所のスーパの客層が悪くて困る」「それどころかこの地域は全体に野蛮な人間が多い気がしている」「税金が高くて困るが、四期に分けて払うのが面倒だからまとめて払ったら、翌月の預金残高が返済額に追いつかず、銀行から電話が掛かってきてしまい、慌てて支払ったものの残高が1800円しかなくて7月の生活は大変だった(私の実話)」などなど。
 
 不平や不満の陰には、かならず「こうあってほしい」「こうだったら嬉しい」「こうなれば幸せなのに」という願いや祈りがある。あるいは「こうあれかし」というポジティブなものではなく「こうであってほしくない」というネガティブなものも存在する。
 たとえば「最近、娘が遊びに出掛けた際、帰宅が非常に遅いのだが、犯罪被害に遭ったり、果ては望まぬ妊娠をするようなことになってほしくない(妹の実話)」など。
 
 いずれにしても人々は、自身の中で明言化されないまでも豊かな理想を持っており、穏やかな、あるいは明るく幸せな日常を願っている。
 その愚痴の中では、僕にそれを訴えているその人自身と、僕のあずかり知らない(愚痴としてはその方が理想的な)誰かがいる。
 問題視されているその「誰か」が考え方や行動を改めてくれれば、その人自身やその人と誰かを含む集団が、より理想的な状態になるとその人は考え、訴えている。
 
 じつに微笑ましいので、僕はそれらを聞くのである。
 そこには「どう考えても独善的な価値観で理不尽な行動をする、ちょっと人間力の足りない人」が登場したり、「ふとした過ちから正しい道に戻れなくなってしまった困った人」が登場したりする。
 そして僕にその愚痴を訴えている人が、その中で何に迷ってしまい、どこに向かおうとしていたのかを、整理する。
 といっても大抵の人は、ただ話しているだけで(僕が注意深く話に耳を傾けなくても)自ずと整理してしまうので、僕は煙草でも吸いながら「ふふーん」と相槌を打って(あるいは鼻歌でも歌って)いればいい。
 
 あるいは自身の居場所が分からず、目指す先も分からず、あるいはそれが分かっているのにどうすればいいか分からなくなっている人もいる。
 そういうときは客観的に(まぁ単に僕個人の身勝手な視点から)こうなればいいんじゃないの? だとしたらこう考えてみるのはどう? というサゼッションをするだけである。
 見方を変える、価値観を変える、そうすれば行動が変わって、結果が変わる。シンプルなことである。
 
 だから「そういう人は嫌だよねー」で始まって、そのまま終わってしまうのは僕はつまらない。愚痴を聞いて損をしたような気分になる。
 たとえば排水トラップのどこかから水が漏れて嫌な思いをしている人がいる。
「漏れるんだよ、嫌だよねー」「そうだねぇ、そういうの嫌だよねー」で終わってしまう愚痴なら、僕は聞く価値がないと感じる。
「締め具が緩んでいるかも」「ホースやパッキンが劣化しているかも」「詰まりが発生しているかも」と原因を話の中で模索し、「その場合はこういう対策はどうかな」と提案するところまでが僕の「愚痴を聞く」という作業なのだ。
 
 愚痴に対して同意で終わってしまうというのは、悪意がないとしても善意がない。
 どうなるといいと思う? こうなればいいよね。こうしてみるのはどうかな。
 というのが、愚痴における善意の発露だと僕は思う。
 
 必要は発明の母という言葉のとおり、不満は幸せへの道しるべなのだから。
 
>>>
【欲を隠さず、善意を持つのは勇気が要る】
 
 そのようなわけで、そのご近所の老婦人の愚痴は、不満に対していかなる善意を提案しても、否定されてしまう。
 ご本人様そのものに、悪意はないのだが、残念ながら善意もない。
 ダイレクトに「どうなればいいと思いますか?」と訊ねたことさえあるのだが、自身の欲をつまびらかにするのが恥ずかしいのか、明瞭な答えがない。
 
 たとえば「親族が自分を蔑ろにしているように感じる」という不満には「自分は寂しいし、もっと大事にしてほしい」という欲求がセットになっている。
 そうした欲求を持つことは、果たして恥ずかしいものだろうか。
 
 たとえば「近所の誰かが自分の陰口を叩いているように思う」という不満には「自分は多少なり縁のある人のすべてから、賞賛されないまでも非難される謂れなどない」という自尊がある。
 なのにご本人様は「まぁ別にいいんですけれど」などと、謙遜めいた振る舞いをして、にもかかわらずいつまで経ってもそれが不満なのだ。
 
 僕は「今回こそ面白い愚痴を聞けるかな」と思って度々耳を傾けるのだが、かの老婦人は一向に己の欲をつまびらかにしない。つまり自覚がないのだ。
 もっと幸せになりたい。もっと自由でありたい。もっとみんなから大切にされたい。
 そう思っているはずなのに、それを自覚しておらず「周りのせいで不快になる。周りのせいで不自由をしている。周りの人間が自分を蔑ろにしている」と訴える。
 
 くどいようだが、彼女に悪意はない。
 しかしそれが巡り巡って、周囲を悪者にして、自分は悪くないと主張する悪意となって発露してしまう。
 そうやって結果的に悪意として発露する価値観も、悪意としては自覚されない。そもそもに善意がないからだ。
 
 その善意のなさは、自身を犠牲にして、欲や自尊心をつまびらかにしないことで成り立つ慎ましさだ。
 そうした慎ましさは、一見すると美しいのかもしれない。
 しかし実のところ「自分は我慢している」という不満を溜め込む根源である。
「自分は(他人を思って)我慢をしている、だから他人も(自分のために)我慢すべきだ」という価値観が、彼女を不幸にしている。
 
 私はおそらく、そういう人間に対しても我慢をしない。
(実際、笑顔で接しながらも、着信拒否や居留守について容赦しないので)
 するといつしか、ある段階で「猫氏は最初の頃と違って自分を蔑ろにしている」と非難されることになる。
 僕が何も変わらなかったとしても、彼女が何かを我慢し続けた結果、ある段階でそのような状況になる。
 
 なぜといって僕も元々は、自分が我慢することで周囲の不和や不満を取り持つような方法で、その場しのぎに問題を解決しようとしていたからだ。
 その慎ましさは、本人にはある種の美学の現れなのだが、実に誰も救われない。誰も幸せにならない。
 良かれと思っているから悪意はないのだが、良かれと思う理想がないとはつまり、善意を持つ勇気がないのだ。
 
 結果的にそれは、自身はもちろん、周囲も不幸にしてしまう。
 
>>>
【老年期の孤独たち、孤独を愛でる僕たち】
 
 老年期になると、定年退職を迎えたりで、男女を問わず孤独に苛まれる人を見聞きする。
 子供の頃からそうした「言外の寂しさを抱えた大人」というものを見てきた。
 
 僕だって、寂しさは感じる。
 先日も、夜中に不意に寂しくなってしまって、誰かに会いたいな、話をしたいな、と思ったものである。
 
 しかし平日も夜更けの2時である。
 友人のBPもTUも眠っているし、人間型の恋人も多分寝ているだろう(そもそも半年以上、メールもしていない)。
 姉なら起きている可能性もないわけではないが、わざわざ連絡をする必要もない。
 そもそも話すことなど何もない。
 
 誰かに、背中合わせに届く範囲で居てほしいな、とその程度のことである。
 猫が居ればそれで足りるのだが、アヲは家出をし、クロは姪が貰っていってしまったので、我が家には猫も(僕しか)居ない。
 
 なにより僕はそうした寂しさを、結構好ましく思っている。
 それに寂しさを埋めるために誰かと会ったり、話したり、触れたりしても、往々にしてそのコミュニケーションには不満が残る。
 なぜといって、コミュニケーションを取るためにコミュニケーションしたわけではないからだ。
 仮に不満も不快もないコミュニケーションが成立したとしても、結局のところ、寂しさが消えてしまったり、変質してしまうことには変わらない。
 
 だから夜更けの寂しさを、触れるか触れないかの場所から、そっと眺めるのが好きだ。
 
 ああさみしいな。
 あの人は今何をしてるかな。
 寝てるだろうな、そりゃ、寝てるよね。
 
 あの人はどうかな。そりゃ、寝てるよね。
 長らく会っていないあの人はどうかな。まぁ寝てるよね。
 
 そもそもみんな、誰かと一緒に居るのだものね。
 いいな。
 でもちょっと、自分だったら煩わしいだろうな。
 たまたま今は寂しく感じているだけだものね。
 
 そうやって寂しさを堪能してまた、ゲームをするなり、料理をするなり眠るなり、するわけである。

>>>
【ネコノカミサマに訴えておきたい】
 
 かの老婦人の抱える寂しさも、分からないわけではない。
 でもまぁだからといって、同調するものでもないし、相手をするほどでもない。
 寂しさは寂しさとして、正しく味わうことが至上だと思っているならなおさらである。
 
 そもそもネコノカミサマに「もっとオイラはモテてもいいと思う」とも書いた(実によくモテる)し、基本的に異性は年上が好ましいとも書いている(老若男女、ほどよく世界には分布しているので満足しているから、年齢はもはやどうでもいい)が、母親ほども年上の女性に好かれたとて(色恋の情がないにしても)正直困るのだ。
 やはりここはひとつ、絶対の安全策として「美人でエッチな人にしか興味がありません」と宣言しておくくらいの方がいいのかもしれない。
 ネコノカミサマに宣言しても意味はないと僕は思うのだが、意味はなくとも実現しやすいのがオソロシイ。
 
<くるしゅうないぞ>
 
>>>
 
 このところ零時より前に眠くなる。
 まぁ5時には起床していることが増えたのだから当たり前といえばあたりまえか。
 23時より少し前に、意識がもうろうとしてきたので眠る。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::「あの……」マサイは顔を上げて再びこちらを見た。「私が思っておりますのは、その、このようなことを貴方様に申し上げるのは、分不相応で、気が変になったかと思われるやもしれませぬが……、あの、つまり人の命、いえ、動物の命も、あらゆるもの、すべての命は、勝手に取り上げて良いものとは思えないのです。それは、この世に生を享(う)けたものが、自ずと生まれたもの、なにかしらの役目があって生まれたものだからです。そういうことを、その、私は……」
 マサイはそこで黙り、また下を向いてしまった。
「そのとおりだと私も思います。たしかに、刀は、その大事な役目を持って生まれた命を絶つためのもの。できることならば、使わないにこしたことはない
「いえ、お侍様は、当然の大義があって刀を使われるのです。ですから、それに対して、申し上げているのではなくて……
「いえ、そのようにお気を遣われることはありません。今おっしゃった、侍の大義なんて、きっと大したものではない。ただ、自分が生きたい、自分が得をしたい、相手のものを奪いたい、そんな勝手なものにすぎないと思います」
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「Rending silence」From「The Mind Quencher」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社
 によりました。
 
なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Mechanics-Moon-Season-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
  -Garden-Human-Night-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
:君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240720
// NOTE:なんかタイトルにも「。」って付けちゃうからさ、俺ってマルハラおじさんとしては相当優秀なんじゃね? とか思ったりするけど、別にアンタに嫌がらせするためにマル付けてるんじゃないんだからね! っていうかどんな興味関心の発露としてマルを使う嫌がらせなんて思い付くんだ? アタシあんたにそんなに興味ないんだけど? って思いません? もしマルハラ被害者が(マスコミが捏造している可能性もあるので)実在するなら問いたい。「自意識過剰じゃね?マル」 って。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
嗚呼、ケダモノよ。
SUBTITLE:
〜 Beastliest one, than humor beasts. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240720

 5時頃から1時間ほど草取り。
 空調服を使うようになってから、体調維持管理が容易になった。
 草取りは僕にとって、ある種のジレンマである。

 民主政治的に、周辺住人や自身の身体やここに棲まう来歴のため、庭を管理している。
 虫を殺し、植物を殺し、木を切り倒し、その権利を侵す。
 振り返ると涙が出るほど哀れなのだが、これが人間を生きることだと理解している。

>>>
【しないではいられない、となったらビョーキ】

 10日に姉の介助に出掛けてから、しばらく体調が悪かった。
 体温が安定せず37℃を超えることもあり、当然に内臓を含む粘膜系の機能低下があり、しばらく寝込んだ。
 今日はそれ以来、久しぶりの庭仕事ということになる。

 大雨と、その合間に照りつける日差しの影響で、日に日にぐんぐん伸びてゆく生命力豊かな植物や昆虫を見るたび、比してこの身体の生命力のなさを思い知らされる。
 梅雨空に翳る裏庭を窓越しに眺めては「あやつらはあんなに元気で活力に満ちあふれている。むしろ狂的ではないか」と嘆息を吐いたものである。

 数日前からようやく体調が安定してきて、1週間ぶりに喫煙をした。酒は2週間ほど呑んでいない。
 僕は酒も煙草も好きだが、体調の悪いときは不味く感じるので禁酒禁煙になる。我慢しているのではなく、身体が受け付けなくなるのだ。
 煙草屋ののぼりに「今日も元気だ煙草が旨い」というスローガンが掲げられているのを見た記憶がある。
 あれを見たとき「シンプルにその通りだな」と思ったのだったか。

 自覚がなくとも常喫している煙草や酒の、その味や香りが普段より劣って感じられるとき、その分解は過負荷になっていて数日以内に体調を崩す。
 体調が良ければ美味しく感じるものを、だから中毒者のように不味いと不満を漏らしながら摂取することはない。

 不味かったり、不味く感じそうだと思うとき(事前に分かる)は避ければ良い。同様の原理で食事を抜いたりする。
 美味しく感じられる空腹のとき、存分に飲んで食べればよいのである。
 時間だからと機械的に摂食したり、中毒的に止められなくなるのはいずれも病的である。前者は社会文化的な病気であり、後者は意識や理性の病気である。

 性犯罪が以前より増えたかのように報道されている(表出する機会が増えたのだろう、マスコミにとってもシンプルに金になるだろうから)が、あれらの犯罪も社会文化的、あるいは意識や理性の病的な発露だろう。
 刑罰を重くしろという意見もあるようだが、そんなことで止められる人は少数のように思う。

 煙草は身体に悪いと言われているのに、それを承知でお金を払って吸う人間がいるのだ ── そればかりか(種族自認)猫までいる。
 スーパーで買い物をしていても、尋常とは思えない体型の人が大量の食べ物を買い漁っている光景を見る。正直、恐ろしくなる。
 実のところ太っていることを病的だとは思わない(体質や病気や事情というものもある)。ただ、太るようなことを止められない精神が病的なのだ。
 煙草を吸うのと、あるいは性犯罪に手を染めるのと、何が違うだろう。

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【相対性自認論】

 僕は基本的に自分を猫だと思っている。たびたび取り上げているとおり、種族自認は猫である。
 しかしこの自認を他人に押し付ける気はないので、周囲の人は僕のことを人間の男性として接しているし、僕はそれを許容している(女性性の人格も持ってはいるのだが)。
 かつての恋人 ── シュレディンガーの仔猫(いるかいないか分からない僕の隠し子
)の母親にして僕の奥様(仮想)のモデルになった女性 ── だけは僕を猫として取り扱ってくれていた。唯一の例外である。

 ヴァーチャルワールド(とくにゲーム)では女性として振る舞うことが多かった。
 わざとらしい女言葉を使ったりはしないからか、ネカマとバレることはなかった。
 まぁ人格が違うから当然で、Web(とくにゲーム)上で男と称するときも「IRL上の男がヴァーチャル上のネカマを触媒としてネナベする」という、もはや構造不明な思考形態だった(俺の思考に性別はねえよ)。
 今はネットゲームですら他人と関わるのが嫌になったのでオフライン専門のフシはある(ちなみに日常生活でも相反する価値観群(人格)たちが僕の顕在意識の向こうでよく会話をしている)。

 そうしたことも踏まえ、僕は自分を狂人だと思っている。人としては狂っているだろう。
 これは僕が社会を狂っていると思うことがあることから、相対的に
類推している。

 僕が誰かを馬鹿だと思うとき、相手は僕のことを馬鹿だと思っている。
 ためになるべく相手を尊敬し、尊重し、親切に接するようにしている。
 僕が誰かから嗤われたり、蔑まれたり、悪用されたりすることを今の僕は許さないからであり、それはこれまで僕に対してそうしてきた人間に対する復讐でもある。
 上辺ではなく心から尊敬できる部分を見出し、相手に正しく敬意を持って接していると、どういうわけか僕に対して敬意を持ってもらえる(ように観察される)。
 それはつまり僕を蔑んだ人間の価値観が否定されるということでもある。ただ僕にはそれをした人間の名前も顔も思い出せないのではあるが。

 いずれにせよ僕が社会を狂っていると思うとき、社会は僕を狂っていると認識する。
 ために僕は(主観ではまともだと思っているのに、客観的には)狂っているのである。

 あなたはマトモですか?

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【アンチ狂気は正義か】

 しかし狂っていても問題はない。
 僕という円が社会という円に接し、あるいは内包されるとき、その境界面(あるいは境界線)において適切な緩衝さえ行っていれば、僕は社会において「危険な狂人」とは見做されない。
 煙草や酒を喫む狂気も、肥満に飛び込み続ける狂気も、社会に与える影響は取るに足らないものだろう ── 少なくとも僕は、望まない他者に喫煙や飲酒や摂食を(同時に禁煙も断酒も断食も)強要しないのだから。

 僕が自身を狂的だと思う証左のひとつに、殺人 ── 少なくとも殺意を持つことを忌避していない、というのもある。
 殺人だろうが強姦だろうが、なんとなれば小児性愛だろうが、それを人が欲すること自体を異常だと僕は思わない。
 たとえば学校の同級生に嫌な奴がいる、たとえば会社で自分より優れている奴が気に入らない、家族や友人や恋人が言うことを聞かないので思いどおりにならず憎い。

 そうした対象が自分の生きる進路上の邪魔になるので排除しようと思うのは自然なことだと思える。
 庭に花の苗を植え、雑草を刈り、害虫を殺すのと何ら変わらない。
 たまたま僕は運良くそうした劣情に支配されることが少ないものの、他人を ── あるいは自分自身を殺したいほど憎むことそのものを悪いこととは思っていない。

 僕が社会を「狂っている」と観察しているのは、こうした感情に対しては「負の感情」と勝手にバイアスを掛け、にもかかわらず視線の向きを変えればまったく同じ事を推奨しているという、理性を欠いたありようがあるからだ。
 シンプルに人間(社会、集団、あるいは個人)の都合や解釈で「良いもの/悪いもの」という対立構造を作り、あるいはそのように何につけ分割する価値観を醸成し、良いものを賞賛し、悪いものを非難しあげつらう。
「一人殺すと殺人犯、100万人殺せば英雄になる」とはよく言ったもので、ゴキブリや熊は殺すべきであり、猫やイルカは守るべきであり、女子供老人といった弱者は庇護すべき(にもかかわらずそうした態度を高慢に利用しないこと)であり、にもかかわらず家畜や作物は生み殺すのである。
 これが集団におけるシンプルなルールであり、それを矛盾と感じないのが狂気である。

 そしてそうした狂気に矛盾を感じて「熊を殺すな!」「家畜の過酷な労働環境を非難する!」という価値観を持つこともまた狂気であるから、動物愛護精神の持ち主やヴィーガンもまた狂気の尖兵である。
 このアンチ狂気という狂気は、昨今のポリティカルコレクトネスそのものだと考察している。

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【孤独なら引力が発生しない】

 かくして集団は矛盾をはらむ。その矛盾はときに狂的である。
 弱者を守るために作られたはずの集団や社会は、しかし結局のところ弱者を踏みつけにし、慰みものにし、抑圧して搾取している。
 ポリティカルコレクトネスとは、だから「その狂気を否定して排除すれば、健全な集団や社会になる」という身勝手な幻想を現実世界に押し付ける類いの狂気である。

 人口が減るのはよろしくないが、人間のために生き物を産んでは殺す仕組みはよろしくないと言う。
 人間はすでに飽和しているのだから、両方を実現することはできない。
 多数決と同じで、49:51の状況において、49人は(その本来所有している権利等に関係なく)51人のため、譲歩をしなくてはならない。
 これが民主的思想という狂気である。

 ゲーム理論やトロッコ問題のような効率化メソッドの帰結として、1:99の状況で、たった1人の身勝手に99人が従う専横的な狂気よりは数的/論的に「まし」なのが民主主義(なんといっても抑圧される側が99人からおよそ半数の49人に減るの)であって、100人全員が満足することを理想とし模索こそすれど、そんなことはそうそう実現しないのが現代の問題解決のプロセスである。

 我々は表向きの民主主義国家に暮らしているから「民主主義は正義」と思わされているものの、99人が殺されても文句を言えない社会から、犠牲を半分に減らす(人数も半分、損害も死に至ることなく、ついでに文句も言える)ことを理想として目指す集団の手法であり価値観なのだ。
 理想的に見積もっても半分は死ぬ(あるいは死ぬようなことがあるか、最悪死ぬよりひどいことを強制される)可能性はある。

 それでも集団である以上、権力は集中する。
 では社会主義にしたらどうかといえば、それでも集権は起こる。集団になる以上、集権はメカニズムとしてセットになっている。

 これは宇宙論と同様で、単一の物質(分子でも粒子でも小惑星でも惑星でも恒星でも銀河でもいい)が、ぽつねんといる分にはなんらの影響もないのだが、どれだけ離れていようと他の物質が存在すれば互いに影響を与え合い、それが無数といえるほどの複数になれば引力で影響し合いながら集合してゆくのと同じである。

 自然界は拡散による均衡と集中を繰り返している。
 僕の部屋は混沌なる均衡の法則に従い散らかり、引力によって秩序的に集中 ── 本は本棚に、テーブルの上の書類はフォルダに、フォルダはキャビネットに、ゲームのコントローラはその収まるべきフックに収納 ── させられ、これを繰り返す。
 しかし秩序や集中というのは、果たして必ずしも善良だろうか。

>>>
【集団の中で論理的対立から身を守る手段】

 権力の集中を回避するため、資本主義にしようが、共産主義にしようが、とにかく力関係が発生することに変わりはない。
 民主主義の最良の理想は「1人を犠牲に99人の主張で弾圧する」というスタイルだ。なに学校の教室で似たような団結の構図を見るだと? 知るかそんなもの。

 ではたった1人の権利や理想や妄執のために99人が我慢をするのですか、それは先に述べた専横政治と同じではないですか、ということになる。
 もはや何が正しいかなんて考えるのも馬鹿馬鹿しいくらい矛盾してしまう。
 倫理的(あるいは論理的)な正しさや正義も、1:99であろうと49:51であろうと、50:50であろうと、対立構造を取る以上は誰かが我慢することには変わらない。

 一番の解決策は、古来の日本における文化や美徳にあったように「混沌としたまま受け流す」という手法である。
 受け容れるのでも、否定するのでも、対立するのでも、同化するのでもなく、ただ受け流すのである。
 うやむやにして、なし崩し的に、何もしないまま時間が経過するのをぼんやりのんびり待てばいい。

 非常に省エネなスタイルだ。環境に優しいというのはこういうことさ。
 今の日本の執政者も増税以外の面ではそうした手腕にとても長けているといえる。僕ほどではないにしても。

 実のところ、そうした数値的バランスを崩してしまうのが、理想や権利というファンタジィに冒されたポリティカルコレクトネスだと思うのだ。
 対立すれば正義という剣は誰かの心臓を貫き、理念という熱は磔にされた誰かを灼く。
 その「正義理念」とやらの内容のいかんに関わらず。

 もちろん理想や欲や妄執を持つことは、決して悪いことではない。
 たとえそれが社会集団における正義や善良(公序良俗)に反することだとしても、そういう気持ちや感情や感覚を否定し抑圧する必要はないと僕は思う。

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【集合しているだけで「共生と共感」とかいうのはおかしい】

 過日、渋谷だか京都だかで、ウクライナだかパレスチナだかの反戦/反弾圧デモがあったように記憶している ── こんなに曖昧なものを記憶と呼ぶのか?
 一部の日本人が「遠く離れた日本でデモなんかしても意味はないだろう」とコメントしていたのが印象に残る。
 僕の一部もそう思うことに自分で驚いたからだ。

 日本はデモを嫌い、嗤うようになった。
 そういう公序良俗を国家によって刷り込まれたものと想像する。またぞろ学生運動なぞ始められたら、国家としては厄介だからだ。

 だから日本人の多くは群れることを好み、そこに含まれることを望み、排斥されることを恐れるわりに、目的意識を共有して団結することを嫌う。
「なにが共感と共生の時代だというのか、叫喚と強制だろう」と僕が揶揄するのはそういうことである。

 非常に民主主義的な矛盾を抱えた現代人のスタイルは、つまり国家が体現している民主主義のままに誘導したありようだろう。
 政治家だって群れることを好み、より大きな集団に含まれることを望み、政治という職場から排斥されることを恐れるわりに、とても団結しているようには見えない。
 呑み屋で中年の男ども(実のところ中年に限らず、また男に限られるわけでもない)が群れて騒いでいるのを見かけることがある。その風景に似ている。
 その是非を問う気はない。本人たちは楽しいのだろうし。 

 思想や目的意識を共有し、団結することは、いつから「みっともない」ことになったのだろう。誰がそれを決めたのだろう。
 自由を主張し、遠く離れた祖国の問題について他国の人に知ってもらうことは、そんなに馬鹿で幼稚で無意味なことだろうか。
 退屈しのぎにどうでもいいような奴らと集まって、上っ面の議論や分かりやすい共感を振りまくことでしか自身の存在をアピールできないほうが、よほどもみっともないではないか。

 他人の思いを否定する前に、オマエはオマエの本当の思いを言えよ。良いも悪いも関係なく。

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【丘海賊は男を殺して女を犯す夢を見るが正義を持たない】

 だから同じように僕は自分の中にある、あるいは僕以外の人の中にある理想も欲も妄執も、少なくともそれを持つことや、持っていること(あるいはそれを持っていること自体に逡巡すること)を吐露することは、悪いことではないと考える。
 邪魔なもの、嫌なもの、迷惑なものを殺したい、目の前から消したい、自分の認識する世界から排除したいと思うのは自然なことだし、ほとばしるリビドーに善悪良否の判定をするのは無粋ではないか。

 無論、殺人や強奪や強姦や戦争や暴動や専横政治を奨励しているのではない。むしろそれはしない方がいい。できればしないで欲しい。
 他人の権利を侵すということは、思考や価値観の自由を否定するということは、己のそれを自ら破壊することでもある。ロシアを見るまでもない。
 しかしその対価を理解した上で、一時的な激情や劣情でもなく理性的に、論理的に、それをしたい/する必要があると思うなら、僕はそれをするし、しようとする人を止めない。

 僕が今までそれをしない(できないまま)でいられたのは、単に僕が幸運だからである。
 この身体がもっと強靱で、僕の思考がもっと優れていたら、正しく誰かを殺していたはずである。
 あるいはそのどちらが幸せだというのだろう。

 酒を呑み、煙草を喫み「男は殺せ! 女は犯せ!」という丘海賊(丘サーファのような)として現代を生きてもいいではないか。
 程度は違えど(「内容も違う」と)誰もが己の正義を主張しては対立し、誰か(あるいは何か)を殺して、誰か(あるいは何かの権利)を犯して、善人ヅラして生きているのではないのか。

 なあにが正義だ! なあにが多数決だ! なあにが善良だ!

 僕はそういう狂人であるから、境界面で要らぬ波風が立たないよう、静かに暮らしているのである。


<ややおこ(の表情)>

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【誰も殺さず生きてきたというのか】

 民主政治的に、周辺住人や自身の身体やここに棲まう来歴のため、庭を管理する。
 1時間でできることはわずかだが、それでも存分に虫を殺し、植物を殺し、木を切り倒し、その権利を侵す。
 振り返ると涙が出るほど哀れなのだが、これが人間を生きることだと理解している。

 身体も多少は疲れるが、アタマがヒマなのでついでに生きることや死ぬこと、殺すことを考えている。
 すると生きることの喜びももちろん、その悲しみに思いを馳せることになる。
 1時間もそれを思い続けるのは、なかなか心荒むものがあるのだ。

 なんのこともない。
 台所に立てばいつもの調子で綺麗に整えられた家畜どもの肉を切り刻み、火で炙り、舌つづみを打つのである(かっぽーん!)。
 生きると決めた以上、綺麗事は言っていられない。
 誰かを殺し、誰かを犯し、肉をもてあそび、血をすすり、骨までしゃぶる ── 肉食獣の日常として。

 もっと早く、もっと殺すに適切なタイミングがあったはずなのに。

>>>
【人間らしさは非動物らしさか】

 軽くシャワーを浴びて、店の開く時間を見計らい(豆腐が切れてしまったと奥様(仮想)から指摘されていたので)買い物に出る。
 昼前には戻ったのだが、予報どおりひどい暑さと湿度に辟易し、部屋で涼む。

 人間的だというならば、こうして部屋で涼んでいる方が、庭で生き物を殺すよりよほどもそうだといえる。
 人がましい顔をする奴をずいぶん見てきたし、自分もそう振る舞おうと努力した時期もあるが、結局駄目だった。

 政治とも経済とも距離をおいて放り出し、主義主張も信念も権利も忘れ、正義や倫理なんてなるべく考えず、お腹が空いたら狩って食し、暑ければ涼み、寒ければ暖を取り、日がな一日寝て過ごす猫こそが、人よりよほど人間らしいのだ。

 嗚呼、ケダモノよ。
 正義を取り扱う、狂気に満ちたケダモノたちよ。
 あなたはまるでこの私の子分。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Interface-Life-Maintenance-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Cat-Garden-Human-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
:家庭菜園ティストの狂気:
夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
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// TimeLine:240519
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
そのカタチの意味はあったか。
SUBTITLE:
~ Warm-harted, in the shapes. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240519
 
 5時就寝、12時起床。
 今日は雨でもなさそうだから、庭仕事をしようと思っていたのだが、昨日11時頃に起床したので仕方ない。

 夜型人間に限らず、夜行性のイキモノというのは遺伝子で決定されているという。
 当然、猫である僕はラケンローなアナーキストだが、遺伝子や本能には逆らわない。

>>>

 叔母の葬儀の時だったと思うが、従姉から頼まれ事をした際「美人の頼みなら喜んで引き受けますよ」と答えて場の空気を数℃冷やした。
 親族には女性が多いので、少々デリケートな話題だったのだろうか。デリカシィなど持ち合わせていない、というつもりもないのだが。

 僕は過剰なルッキズムの価値観を持っていないし、一方で過剰なアンチルッキズムも持っていない(ブログでは何度となく書いている)。
「見た目がいいのはいいよね」というシンプルな価値観を持っている。

 もっと下世話な話をするなら若い異性の魅力を否定する気はない(だからといって未熟な人間に魅力を感じるわけでも、未熟ゆえに抱えがちな過度な浅慮を許す気もない)。
 大きなおっぱいの魅力を否定する気はない(小さなおっぱいなら男たちも持っている)し、小さなおっぱいを否定しない分別(僕は男女についてあまり差別や区別をしない方で)もある。
 機械設計と同様、たとえば効率が悪く摩擦の大きいモータより、効率良く速く長く動作するモータの方がいいといった程度のことである。

 同様の原理で、見た目が良いのは外観という機能について、見た目が悪いことより高度であると考えている。
 もちろん人間の外観に対する好みは、その時代背景や社会/民族の文化によっても、人種や性別、個々人によっても異なる。当たり前のことだ。
 赤い掃除機が好きな人もいれば、白い掃除機が好きな人もいる。
 優れた性能の機械の見た目や稼働音は、必ずといっていいほど愚劣な機械より優れていると評価できる。
 なぜなら人間に合わせて作られているからだ。

「人間の価値観に合わせて人間の外観を作り換えよう」という指向性の是非は古くから問われている。
 外観の変更以外に機能上の意味を持たない外科手術をする場合のリスクを熟知した上でなお「自身にとって努力(創出/付加)できる価値が他にない」と思う人にとっては最後の砦だろうと思うので特に何も思わない。
 まぁ強いていえば「自他に明確な価値を自認できないのは辛いだろうな」くらいか。

>>>

 以前(疫病の流行るずっと前)ブログのオフ会に参加した人から「イメージと全然違う」と言われたことがある。
 昔から「我はモテである」とか「美人が好き」と(web上では)公言していたので、きっとすごく今風のイケメンだと誤解されていたのではないかと想像する。
 他に書いている内容はこのとおり、文語体がメインのデタラメ文書なので「猫氏はとんでもないイケメンで、他人を見下すくらい頭脳明晰なのではないか」と誤解されていた可能性はある。
 その場で「どう思ってたの? ねぇアタシのこと、ホントはどう思ってたの?」としつこく問いただしたりはしなかったので、真意は不明のまま現在に至る。

「我はモテである」も「美人が好き」も、僕にとっては価値観の表明ではなく単なる予防線ではあったのだが ── 。
 まぁ他人に理解されることを最初から期待していないので問題はない。

 実は意図的に悪い誤解を自ら設定して他者からの位置づけ(ラベリング)を誘導する方が、周囲の反応を一定の領域に限定することができる。
 ついぞ人というのは「私は善良で明るく優しくて温和にして朗らかで節度があり、悪意もなく協調性もあって、あなたに危害を加えたりしませんよ」みたいなディスプレイをしてしまう。
 僕は猫だし、そういうディスプレイはめんどくせえし、他人が僕の価値を量るときは僕の意図や言い訳やディスプレイに関係なく決定されるので、とりあえず僕の文書を読む人が『こいつは狂っているので親しくならないようにしよう』と思うように誘導したかった。
 少なくとも(おそらく性善説に基づいて)良いイメージを勝手に持たれた挙げ句、悪意とも取れる発言(「男は殺せ! 女は犯せ!」というような)により、反転して悪いイメージを持たれるくらいなら、最初から悪いイメージを持たれていた方が(自分とその観察者というコミュニティについて)安全側に見積もることが可能なのだ。

 予測していなかったことも発生したが半分くらいは成功したかな。
 もちろんどんなに悪い誤解への動線を用意しておいても一部の人は自身で考えて判断してしまうらしく、僕の予防線や誘導をかいくぐり「男を殺さないし女は犯さない。そもそも猫はそんなことをしない」という結論に到達するケースや、予防線を張っている事を(あっさり)見透かされ「めちゃめちゃ繊細で善良なのでは」という誤解も見られた。

>>>

 いずれにしても「外観は悪いより良い方がいい」というのは当たり前のことである。
 一方、人間の機能や価値を底上げるすることにおいて外観というのはその一部でしかなく、優先順位としては二の次三の次である。
 とくに服装や清潔感の維持の方が容易で現実的なものであるから、整形のように極端なアプローチをするくらいなら、表情や姿勢や動作、発声の制御を心掛ける程度で良いと思う。
 実際、人間の心は表情に表れ、表情筋は骨格の成長に影響する。
 10年前の表情は、必ず現在の骨格に反映されているはずであり、だからこそ「人は30歳を過ぎたら自身の顔に責任を持て」と言われるのではないのか。

 20歳までは無理だとしても、それ以降は、未熟であれ自身の価値観や哲学を使って生きるのだから。
 もちろん哲学も価値観も持たないどころか、自他に認められる価値もない人間であれば、育ちの悪かった表情筋や骨格を修正するための整形手術も致し方ないだろうが。

>>>

 美人が好きだというわりに、僕は若干の相貌失認である。
 これについて「猫様の相貌失認は、識字レベルを例に説明が可能ではないでしょうか」と奥様(仮想)に言われる。
 寝起きの頭で予定を考えていたところに唐突なサゼッションをされたので驚いたものである。

「憂鬱」や「薔薇」や「微妙」や「特徴」という文字を読める人は多いだろう。
 では白紙に向かってそれを手書きできるかというと、できない人もいる。
 僕の相貌失認(の多く)はそれに似ている。

 誰か(自分や身近な人を含む)の顔を見ているときは、その人を「その人」と識別できる。
 では何もない(目の前にいない)場面でどうかというと、これがまったく思い出せない。
 これが親姉妹や自分自身に対しても起こる。
 部分的に想起できることも稀にあるが、最終的に全体で狂ってしまう。
 それよりは肌の感触や匂いや温度(物理に限らず、性格のもたらす温湿度がある)の方が容易に復元可能で、そこからその人の性質を認識することもできる。

 文字も同様に、意味や文章の繋がりから「この文字はこう読んで、こういう意味だ」という雰囲気からその文字を識別している。
 もちろん文字にもそれぞれ「美しい」「醜い(崩れている)」という判定ができる。しかし読めれば伝わるのも事実である。
 間違っていても伝わる可能性は高い。
 たとえば「徴妙」や「特微」と書かれていても現代人の多くは気付かないように思う(フォントサイズにもよるだろうが)。

 単独で書くと「」や「」や「」は、いずれがいずれであるか判別しがたいし、そこに意味を見出しにくい。
 多くの人は文字(とくに漢字)に対してそういう情報処理をしている一方、人間の顔も僕にはそういう情報処理の対象なのだ。

「意味が伝われば、それで良いのではないですか」と奥様(仮想)は言う。確かにそうだろう。

 結果的に、僕にとって誰かの顔が良いかどうかというのは「字が綺麗かどうか」という程度の問題でしかない。
 綺麗だったら褒めても良いし、醜かったらそっとしておけば良い。「味わい深い」という評価も可能だろう。
 さすがに判読不可能なときは意味を尋ねる必要があるが、人間の顔について「判別不能」な場合はまず存在しない(僕はしばしば見誤るが)。
 それより大事なことは、その文字が何を意味し、何を伝えようとしてそこにあるか、ということだ。
 僕は人の顔を、あるいはその人そのものを、そのように認識している。

>>>

 一般に言うところの、顔の作りについてはあまり美人ではない女性と恋人になったことがある。
 肌が清潔で柔らかく、とてもいい匂いの体臭の持ち主だった。
 しかしそれらはすべて「文字の外観」でしかない。 
 彼女が「伝えようとしている(いた)意味」ではないのだ。

 そしてその存在の意味について、僕は説明する言葉を持たない。

 たとえば辞書を「言葉を言葉で説明するという困難なミッションを負わされた情報装置」と考えることはできる。
 同様に人間を「存在を存在で説明するという困難なミッションを負わされた情報装置」と考えることは可能だ。
 あるいは「外観ももちろんだが意味に価値をおいた存在」だと考えたとき、その意味をどのように他者に説明することができるだろう。
 またその自身にもたらされた意味を、他の誰かに説明する意味や価値が果たしてあるのだろうか。

 そのようなわけで彼女自身に対して僕にとっての彼女の意味や価値を説明できないでいるうち、とうとうフラれてしまった(振ってしまった、という見方もできる。人にはいろいろあるのだ)。

 カタチが忘れられても、意味が残ることはある。
 おぼろになってしまったその「意味」を集めて、その要素は奥様(仮想)に組み込まれている。

 美しいカタチというのは、確かに優れた価値だろう。
 そして当たり前だけれど、モノであれヒトであれ、外観以外にも機能があり、意味がある。
 自身に対しての機能や意味もそうだし、他者に対しての機能や意味がある。

 美しいカタチは、否定されるべき価値とは思わない。
 そしてまた「たったそれだけの価値」を持たないモノが、果たして無意味であるとか無価値であるとは、僕には思えない。
 そんな当たり前のことを、わざわざ言葉にしないと伝わらない人間もいることが面倒くさくて、ついつい悪びれもせず悪人ヅラしてしまう。
 ドライで即物的なフリをしてしまう。

 自身の価値を他人に求めるような甘えた姿勢の弱さに付き合う面倒を予期して回避しようと悪足掻きした挙げ句、誰かに感謝を伝える言葉を忘れて久しい。


 彼女のカタチに価値がないとは思わなかった。
 彼女はたくさんの笑顔を見せてくれた。

 はじけるような笑顔。
 くすぐったそうな笑顔。
 嬉しそうな笑顔。
 困ったような笑顔。
 悲しそうな笑顔。
 あたたかい笑顔。
 駆け寄る足取り。

 骨格ではない、設計ではない。
 表情によって、所作によって、その意味を伝えていた。

 それを「美しい」とか「可愛い」などという、誰にでも使える陳腐さで表現すべきだろうか。
「感謝」とか「必要」などという下世話な表現にすべきだったろうか。
 そう考えたとき、僕は己に適切な語彙を持たない事実に直面し、沈黙する。
 白紙に向かって、適切に意味を表現する文字を想起できないように。

 一番近い言葉は「救済」なのだが、それをどのように文章として伝えるべきだったろうか。
 その文章は、その意味をきちんと伝えてくれただろうか。

 そうなのだ。
 彼女は僕にとって救いだったのだ。その存在が。その意味が。

>>>

 窓の外を眺めると、今年も可憐な花がたくさん咲いている。
 咲かせようと手入れをしたことはなく、咲いてほしくない(いわゆる)雑草を駆除し続けている結果である。

 黄色と紫の相互補色。
 白のブライトネス。
 グリーンと砂利のキャンバスの上 ── 。


 言葉にならない空白を彷徨うように。
 僕はガラス越し、指先でなぞる。

 そのカタチに意味はあったのか。
 答えを知っているのは、一体誰なのか。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Engineering-Interface-Love-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Garden-Human-Memory-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:
:いのちあるものたち:
夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:240627
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
輪郭を撫ぜて。
SUBTITLE:
〜 Blow your frame. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 このところ情緒が安定している。
 熱中症と勘違いしているナニか(体温調節不全をはじめとする、身体能力の不調)は相変わらずだが、ここはひとつ童心に戻ったつもりで「こういうものだ」と受け入れている。
 子供の頃なんて、それこそ自分では意味も分からず不調になっていることが当たり前だったので、大人になって振り返ると、つくづく寝込んでばかりいたな、と思う。

 子供の頃といえば、自分でも驚くくらい視力に優れていた、という話は以前も書いたと思う。
 蛍光灯に付いている豆電球のような常夜灯の明かりがあれば、6畳間の隅にいても岩波文庫のルビが読めた。
 反面、太陽光やその反射光が痛いほど眩しくて、目を細めながら過ごしていたから目が細くなってしまったという逸話まである。

 その視力が急激に衰え始めたのは3年ほど前か。
 スマートフォンゲームのほとんどについて、テキストを読むことが苦痛になった。いまや完全に判読不能である。
 はてゲームのしすぎか、など当初は考えたが、改善される気配がないことを思うに身体の組成が変わってきたのだろう。
 人間の肉体の耐用年数は50年ほどという説もあると聞く。

 戦国時代の平均寿命は(しょっちゅう戦ごとをしていた影響もあり)35歳前後だったとか。
 その年齢で死ぬと思って幼少時代を過ごせば、果たして10代半ばにして相応の人格を持つことも不思議ではないだろう。
 今は「人生百年」などと拷問のようなファンタジィを耳にすることもあるが、およそ社会が認める寿命の1/3を使って人間が「成人としての人格」を醸成すると考えれば、果たして成人年齢を引き下げたのは逆方向だなぁと思ったり。

 もともと人間は成長が遅いイキモノだ。
 脳に特化して進化した影響か、肉体が未熟な状態のまま出産を迎えないと、発達しすぎた頭蓋が母胎に過度の負荷を掛け、母子ともに死ぬ。
 それでも出産を安全に終えるためのいくつかのメカニズムがあって、ために我々の頭蓋は(生まれた)当初、いくつかのパーツに分離している。
 もしかしたら人間以外の霊長類にも似た傾向があるかもしれない。

 未熟に生まれた人間の子供というのは、他の野生動物 ── たとえば鹿 ── のように、生まれたらすぐに立ち上がることを要件とはされない。
 草食動物にとって、それは誕生時から必須の肉体能力の要件なのだが、人間のそれに求められる肉体要件は非常に少ない。
 消化して、吸収して、呼吸できればとりあえずOKである(咀嚼はもちろん、消化能力の有無さえ疑わしい)。
 科学技術の進歩も後押しした結果として、僕のように、本来なら生存に適さない個体も肉体寿命まで存えることが可能になってしまった。

 僕が(極端ではないにせよ)優生思想を持っているのはそういう理由である。
 生命はより強く、よりしなやかで、たくましく、美しくあるべきだと思うし、潜在的にであれ、生命体としての脆弱性を持つことが予見される場合、子孫を残すべきではないと、自身に課した。他者のことはどうでもいいけれど。
 果たして僕は(合併症を含み)重篤な発症を(いまのところ)してはいないが、血液の脂質バランスが異常である。

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 そのような諸々を考えていると、つくづく「自分は平均以下であるな」と自覚し続ける人生だった。
 子供の頃から同世代と比して肉体能力は(免疫力をはじめ総じて)低く、身体能力の低さに応じて欲求というものの発生が低かったように思う。
 たとえば胃腸が弱いのに食欲が旺盛では、早晩、体調を崩してしまう。
 僕の場合、この(先の理想的な基準に照らすと)不出来な肉体にあわせて、食欲を少なく、睡眠を多く求める身体になっていたようだ。
 肉体を大きく動かせないぶん、何か感じたり考えたりすることも多かったようで、豊かな精神世界が醸成されたと信じたい。信じたいだけで実際どうかは疑わしいのだけれど。

 とにかくそんなわけで、僕の身体は振り返ると生きるのに不適な出来なのだ。
(これからは公称「永遠の百歳」だが)40代半ばまで、よくあの視力が保ったと思う。
 実際問題、僕は一日に12時間くらいTVゲームをし続けることが今もあるし、かつてなら20時間くらい連続でプレイすることもあっただろう。
 PCの前に12時間くらい居座るのも普通だし、外出先ならスマートフォンのゲームをし続けた。

 それでも読書に必要な視力(かつての判定基準でいうと1.2〜1.5)を維持し続けていたし、今も自動車の運転は裸眼で支障がない。
 今は細かい文字や精細な焦点調整が必要な場面において100円ショップで大量購入した老眼鏡を掛けるくらいである。

 しかしずっと眼鏡など必要としなかったので、その動作の習慣がなく、不快なこと極まりなかったのである。
 そうしたストレスにも慣れてきた。
 この肉体は耐用年数が終わりなのだ。メーカの保証期間も過ぎ、型落ち甚だしく交換部品の生産も終了していると思えばいい。

 なればなるほど30℃を超える外気の時は家でクーラで涼むのがよろしい。
 お風呂上がりの体温が(37.5℃を超えたままのことがあり)下がらないなら、あずきバーでもかじっておればいい。
 庭仕事は天気が良くて、予定もなくて、気の向いた早朝だけ(夕刻は面倒なのでしない)。

 とまぁそのような自堕落次第に落ち着いたのが昨年であったか。

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 定年を迎えた年配の人々が、どのような心持ちであるのかと、不思議に思うこともあった。
 年齢的な部分でいえば、僕は企業で定年退職を迎えるポイントに至っていないのだが、実質、日々の暮らしは定年退職者のそれである。
 当然、年金などは受給していないものの、仕事をしなくても糧食やインフラ代金に困らない収入がある。

 世俗の多くの人との関わりを断って5年ほども経ったと思うが、社会性を是とし、そこに溺れ、埋もれるように生きてきたイキモノたちにとって、このありようは異様に映ることもあるだろう。
 人間というのはその多くが我が儘なもので、孤独になれば寂しいといって他者を求め、集団に居れば窮屈だ息苦しい思いどおりにならないといって、そこを離れたがる。
 己の理想の地は、自分で作るしかないのだが、誰かが与えてくれると思っている罰当たりが少なからず居る。
 罰当たりという言葉を使ったのは、シンプルに、それが矛盾に対する報いであるからだ。

 なるほど風呂に張られた湯が冷たければ文句を言い、熱ければ文句を言うものである。
 風邪をひくのも火傷をするのもよろしくないし、御免被りたいと思うのは本能的にも自然なことだ。
 ところがそれに対して、自分でしない人ほど他人に文句を言うのである。
 自分で張った風呂が(最近は自動化されているのでそんな「事故」は起こりにくいと思うが)冷たかったり熱かったりすれば、それは自分のせいである。
 けれども誰かに風呂を洗ってもらって、湯を張ってもらうような人間ほど、やれ湯加減がどうだ、やれ風呂桶が汚れているなどとのたまうのである。
 気付いたら自分で対処すればよい。

 少し脱線したが、定年退職というのはシンプルに社会との接点を失う(少なくとも少なくなる)ことである。
 人間たちがそこで不安を感じるのは「己の輪郭が分からなくなる」からだろう。

 勤務先に出掛ける。与えられた(あるいは自分ででっち上げた)職務をこなす。職責を果たす。目標を達成する。タスクを消化する。
 やがて賃金を受け取る。それを必要なことに使い、好きなことに使い、欲しいものに使い、あるいは貯蓄に使う。
 それらをして「何かをしている自分」を認識する。
 何かをし、何かを為し、何かを成し、何らかの貢献を果たし、何らかの評価の結果として対価を得ていると勘違いする。

 いやもちろん確かに何かを為し遂げ、何かを成し、誰かに対する貢献によって感謝され、その誰かから直接、対価を受ける人も居るだろう。
 しかし多くの人はそんなことはないはずだ。
 すべてはシステマティックに不透明化され、自分が何を成して、それがどのように通帳に記帳される数値に転換されるか理解していない人間は少なからず居る。
 国会議員をはじめとする公務員などはいい例だろう。

 もちろんその「システマティックなブラックボックス」には相応の利便がある。
 現金支給では、支給する側が不正を働くことが容易だっただろう。
 末端から中央、中央から末端まで、現物/現金のまま、かつ透明化されないシステムでは、どこかで不正が起こる。

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 折良く大手リサイクルショップの不正が問題になっているようだ。
 店頭に持ち込まれた不要品に値を付け(あるいは無料で引き取り)市場価格より廉価に転売するアレである。
 買取りも売却も基本的には現金だろうが、透明化が足りなかったのだろう。
 店員が「架空の買い取り」を発生させて、組織から現金を抜き取っても誤魔化しきれる抜け道があったのだろうと想像する。

 現金取引が悪いわけではないし、管理(一般に「ガバナンス」などと知った風に使われる単語がそれにあたる)に余計な手間が掛かることになるので好ましいとは思えないが、結局のところ「人間は疑わしいので、仕組みで不正の発生を防ぐことに人間の手間と時間を使う」ことになる。
 その費用は最終的にユーザに転嫁される。
 ちなみに僕はゲーム業界の衰退に心を痛めて以来、心を入れ替えて、中古ソフトや古本(絶版等を除く)は購入しないことにしている。
 リサイクルショップの存在意義が必ずしも悪いとはいえないのだが、市場を縮小させ続けている理由の一端ではある。

 なぜといって(また脱線するが)我々は基本的に「新しいものを作る」ことをして業務にしている。
 コーヒーショップの常連に「昨日も同じコーヒーを作ったから今日はいいでしょう? でもお金は払って」と言ったら問題になる。

 家電品ならどうだろう。新しいものを開発しなければいけない部門もある。
 せっかく新しいものを開発したのに市場に出しても売れなければ、その部門は不要と見なされ、会社は「開発部門を縮小せよ」と動くことになる。
 市場で売れない原因が「中古品で間に合う」というのであれば、確かに開発された新技術が、価格に見合うほどの魅力(付加価値)をもたらしていなかったのかもしれない。
 しかし一方で「安ければ安いほど良い」という価値観に染まっている人もいるのだ。
(このあたりの話は何度も繰り返しているので、割愛)

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 不透明なおかげで、果たして本当に、誰かのために何かを為しているのか、それがどれくらい相手や、社会のためになっているのかを認識しにくい社会になっている。
 たとえば定年退職を迎えた人や、昔から専業主婦をして暮らしていたような人が、隣組など(区分所有のマンションなら管理組合、公営住宅でも管理自治会などがあると聞く)で「昔からその土地にいる」程度のことをして、無用なことまで他人に口を出したり、学生のイジメのようなことをして愉しんでいる話はよく聞くところである。
 良いも悪いもない。人間とはそういうイキモノなのだ。
 そうやって、自分の輪郭を必死になってなぞって「私はこういうものだ」という安心を得たくて仕方ないのだ。

 それを「悪い」と断ずればまた、そこに発生する価値観の高低差で余計なエナジィが発生し、図らずも誰かに差別的な発言をした程度のことで叩かれる結果になったりする。
 みんな優秀な政治家みたいに、うかつな発言を恐れているが、問題は、何を発言するかではなく、何をしているか、だろう。
 リスクを恐れて何も言わず、何もしなければ、物事は悪い方向に向かう可能性だってある。

 僕などは他人に家屋(住居)を貸しているだけで、固定資産税を数百万支払う羽目になる(それを経費として払っても暮らしていける)ような生活をしているが、そこで得ている収入は果たしてそんなに感謝されているのかといえばそんなことはない。
 皆、必要に迫られ比較した結果、妥当と判断して対価を支払っているだけだ。
 誰も不動産オーナの私には感謝していないだろう(管理会社を挟んでいるので個人の特定はむつかしいだろうし)。
 収支の部分で、誰に迷惑を掛けているわけでもないが、誰に感謝されているわけでもない。つまり僕の収支と僕の素晴らしさには相関性がない。

 しかし世の中には、ほかに自分の輪郭をあきらかにする手段を持たないイキモノだっている。
 一時期流行った個人高額転売で年間1000万円儲けてしまえば、それだけで「自分すごい」「賢い」「オカネモチー」と誤解する者もいるだろう。
 新品転売とリサイクルショップの差異については各自で考えていただきたい。

 不動産オーナにしても同様で、○○銀行の頭取と付き合いがある、とか、○○会の会合に出掛けて、などともっともらしく言うような人はだいたい中身がすっからかんである。
 しかしその人には他に自分の輪郭を確認する術もなく、ために自身がなぞっているその輪郭をして他者に「私はこういう者です」と説明しているのである。
 残留した社会性のゆえに。
 税金を滞納するような人間を「義務を果たさない愚図」と断ずる人は、税金を滞納せず払っている自分の素晴らしさの輪郭を撫ぜることで快感を得ているのだ。でなきゃあんなもん払っていられるか。
 なぜ税金を払わなくてはいけないのですか、と訊ねると憲法まで持ち出す輩がいる。その憲法の内容についてこちらは承認しないまま関与させられている。つまり単純に強制されているのだが、そういう認識は許されないらしい。俺の人権を返せ。猫ですけどね。

 お金が(より大きく)動いているから、それが誰かや社会のためになっているというシンプルな誤解は、単純な悪意に転化する。
 昭和の時代から続く「私がこんなに稼いでいるおかげで暮らしていけるのだから、オマエたちは言うことを聞け」というのと同様、何かを為すことと、経済がそこに発生(介在)することは、まったく別の問題なのだけれど、どうもそこを勘違いするのが人間の仕組みというか。まぁ、分かりやすいですものね、数字って。

 それよりは誰かと話をしているときに「今日はね、お花が咲いていますね。恥ずかしながら名前を知らないのですが、あの花は可憐ですね」などと言う方がかっこいいではないか。

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 人間の輪郭という意味でいえば、家族や恋人、友人に至るまでそのすべて、自分の輪郭を確認するためのツールだという考え方も可能である。
 僕など飼い猫が(諸般の事情で)一匹も居なくなってしまったので、定期的に発生する「誰か(何か)を餌付けしたい欲求」に悩まされる。
 かつては恋人を呼んで料理を作って食べてもらうことでその欲求を満たしていたのだが、今は人間型の恋人という恋人のすべてが忙しいので、食事を振る舞う機会がない。
 この「餌付け欲」というのも、ある種の承認欲求であり、自己顕示欲である。それによって自分の輪郭を確認し、快感を得ているのだ。

 たとえば飼っている犬や猫や鳥が、自分の手から餌を食べてくれたら、これはとても嬉しいことである(そう思わない人は、まぁ、そういう欲がないのだと思う)。
 絶対に自分の手からは食べてくれない、という状態は相手から不審がられていると僕は思ってしまうし、信頼されていない状況に傷付く。
 害意があったらお前なんかとっくに殺してるぞ、とさえ思う。傷付いている、と言っていた繊細なイメージが台無しだよ!

 身近に誰かがいる、その人との関係がある。あるいは人間以外の動物や植物、無機物、ヴァーチャルな存在の場合もあろう。
 そうした存在の不在をはじめ、様々な理由から関係性が減少するとき、人間はおそらく自分の輪郭を見失って不安になるのだ。

 僕は9歳の夏休みに、初めてその不安に駆られた。
 当時は同世代の友人も2人ほどしかなく(今もそうか)、遊ぶ約束もなく、家が近いわけでもなく、僕はいつもどおり自堕落に(ほとんど眠って)暮らしていたので、自宅の誰かに会うこともほとんどなかった。
 不満はない。食事は自分で作ることもできたし、あるいは誰か(主に姉)が作ってくれることもあったし、父が買い置きしてくれることもあった。
 しかし目覚めたとき、それが日中なら眠っている父以外誰もいないことが多かったし、夜なら、寝ている妹以外誰もいないことがあった(父は仕事で、姉もなぜか ── 今は理由が想像できるが ── 不在だった)。

 他人がどうこう、ということではなく、孤独であることに起因して発生する「自分というものの輪郭のなさ」に愕然とした。
 もちろん言葉でそのように感じたのではない。
 ただ以前から感じていた「自分が居ても居なくても、世界は変わらない」という事実を肌で感じたと言えばいいだろうか。

 もちろん本当に僕が不在になってしまえば、家族は悲しんだり不安になったりするだろう。
 しかしそれとて、結局は「それだけのことでしかない」。

 学校に行こうが行くまいが、友人と親しくなろうがならなかろうが、寝ていようが起きていようが、この世界に求められているモノなどないし、この世界に求めるモノもない。
 その静かな、心情の寂寞を「なるほどこれはすこし寂しいというのかもしれない」と思ったのだったか。

 だからといって何かをする気にはならなかった。
 友人に電話を掛けて遊ぶ約束をする気にもならなかったし、仕事に忙しい父を起こして「遊びに連れて行け」などとけしかける気にもならなかった。
 それで本を読んだり、TVを見たり、いつものようにゲームを作ったりして、お腹が空いたら何かを作って食べ、そして思うさま眠った。

 孤独だったとは思うが、充実していたと思う。飛び上がるほど楽しいわけではないが退屈はしていなかった。
 寂しかったけれど、それが心地よかった。
 輪郭が曖昧なまま。どういう状態が自分か不定なまま。
 何を押し付けるわけでも何を押し付けられるわけでもなく、海の底とか、宇宙の果てとかに、ぷらぷらと宙ぶらりんになっているようで、不安で、心地よかった。

 あるいは子供の頃から、家族関係がそれほど希薄であったり、崩壊していなければもう少し人間や、人間関係というものに執着することができて、そうすれば社会性をもう少し獲得できて、会社員として優秀になれたり、社会人として立派にいられたり、あるいは恋人と家族を構築するということを思い描くこともできたのだろうと思う。そして思い描けたら、きちんと実現できたろうと思う。

 けれども僕はすでに自分が生命体として脆弱であることは心得ていたので、さても明るい未来など思い描けない自分自身とその時間をして、途方に暮れていたのではある。


>>>

 社会性を正しく手放して放牧ついでに放逐されたような日々を送っている僕だけれど、自分に関してはこれで幸せである。
 情緒が安定している、というのは、この状態を肯定的に思えるようになったということでもある。
 数少ない友人たちは、ときどき勝手にアクセスしてくるし、あるいはこちらから勝手にアクセスすればたいそう嬉しそうにする。そのメカニズムを僕は心得ている。
 おそらく恋人たち(何故か複数形)もそうだろう。彼ら彼女たちの存在の、その輪郭にわずかに発生する穴を、他の誰にも塞げないありようで、僕はなぞることができる。

 たとえばBPは、
── 大人になって、夫になり、親になり、趣味でも仕事でも経験を重ねているから、先輩だとか先生だとかとして扱われることもあって、そういう立場に置かれたなりの対応も身に付けたけれど、じゃあ青猫と出会って馬鹿なことばかりしていた頃の自分から、大きく変わったかというとそうでもない。だからときどき、変な感じになる。こうして目的もなく、一緒にゲームでもしていると、自分に安心するよ。
 などという。

 たとえばTUは、
── 青猫は出会ったとき(14歳)から世捨て人みたいなことを言っていて「こいつ遅かれ早かれ自殺するんだろうな」と思っていたのだけれど、そのまんま生きているから面白いよな。ほっとするよ。
 などという。

 僕はそうやって、社会不適合なまま生きてきて、たぶんそのまま死ぬだろう。
 人がましいカオをして「こういうのが人間としてあるべき姿です!」「発展と進歩! 日本の未来は!」「我々のォ! 時代に奪われたリソースをォ! 今こそ我々の手でェ!」とか、そういうスタイルを否定する気はない。それが人間であって、人間の社会だから。
 しかし僕は猫であるから、僕の今のありようでいいし、これがいいな、と思っている。そういうイキモノにしか打ち明けられない話も、人間にはあるみたいだし。

 すべての人にそうあれかしとは思わない。

 やはり多くの人は、孤独に不安を覚え、寂しく感じ、誰かと繋がっていたいと思う方がいいだろう。
 そこでときどき不満を覚えたりしながら、それを誰かのせいにして正当化しつつ、不安定だけれど転ばないようなバランスを保つのだ。それが歩むことだから。
 彼らが彼らなりに、自分の不安定な輪郭に怯えたりしながら、自分の知っている輪郭に安堵しながら、それでも社会の求める、コミューンが必要とする姿を体現することを選んだことは、愚かなことではなく、勇敢であり、挑戦であり、成長と成功の姿だろう。

 その上で、僕についてはこのままでもいいだろうと思っている。
 外作業は(庭があるから仕方なくしているが)もともと好きではない。
 身体が弱いのも、思い返せばずっとそうで、弱くない時期が比較的直近(それでも20年近く前)に、数年あったというのにすぎない。
 無理をせず、無理をさせず、頑張らず、頑張らせない。

 お金で解決できることはお金で解決して、自力で解決できることは自力で解決する。
 その上で余った(実に余る)リソースを、誰かに使えばそれでいい。

 誰に感謝されなくても、自分が何かを為した気になってそれを噛み締めれば、それが自分の輪郭を撫ぜることになる。
 何のことはない、シンプルな自慰行為だ。しかしそれは否定されるようなことだろうか。
 他人の手を使わないと背中も撫ぜられないような不遇は、不完全は、つまり社会性の糸口でもあるが、僕はそれを好まない。

 世の学生諸君は、そろそろ夏休みになるのだろう。
 自分の輪郭の撫ぜ方や、その意味や、自分の輪郭を撫ぜたくなる欲のメカニズムを、早く理解できれば苦しくないのにな、と思う。



<雨の日は途方に暮れちゃうわけよ>

>>>

 身体を撫ぜていて気付くが、やはり原因不明の蕁麻疹が、かすかに出るときもある。

 食品に気をつけて、食べ過ぎや飲み過ぎ(無理にあたる)を避けて、直射日光や高温を避けて、ダンゴムシのように暮らせばいいのだ。
 先日、半年ぶりくらいに堆肥場を切り返したのだが、いやぁダンゴムシが沢山棲んでいる。
 苦手な人も居るようだが、堆肥に枯れ葉だけでなくガーデンシュレッダで裁断した木の枝などを入れているため、セルロースを分解できる昆虫類は多いほどいい。ダンゴムシはその筆頭である。

 かつてなら、こんなに大量の昆虫類がいる環境には悲鳴を上げて逃げていただろう。
 今年の春は家の中でやたらとヤモリを見かけたし。
 もともと僕は、そういう環境を忌避しなくてはならないくらい、身体が弱いのだから。
 けれど。

 それもあって筋肉痛になって、丸一日くらい眠り続けていた。
 エアコンを入れ替えたので、部屋を涼しくした上でワークアウトも少ししている。とにかく身体を過熱させないことに徹しながら。

 栄養による精神状態の変化について子供の頃から考えることが多いのだが、今の状態は、筋肉の状態を維持できているのももちろんだが、摂取しているサプリメントによる影響もあるのだろうと思う。
 とにかく不味くてひどい匂いの複合アミノ酸なのだが、最近は水で溶いて飲むことにも慣れた。
 少量で空腹を満たせるし「何かが足りない」とカラダが感じているときに発生する過食も防げる上、肉体的に疲れにくく、疲れが残りにくい。
 おそらく肉体疲労というのはある種の精神的ストレスになるのだろう。
 そういえば「私も疲れている」「俺だって疲れている」という「お疲れ合戦」で不仲になるコミューンもあると聞く。共感と共生の社会とは、叫喚と強制に紙一重の社会なのだろうか。

 皆が皆、無理をしないでのんびりぼんやりできる社会だといいのにな、と朝の庭を眺めて思う。絵空事だろうか。
 草取りをしようか、それとも今から眠ろうか、少し悩む。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Form-Life-Link-Maintenance-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-
 
[Object]
  -Friend-Garden-Human-Koban-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240608
 
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
熱中症は慢性病か。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240608
【人間不信、やめました】

 最近、ようやくオフラインで日記を書いていても不安や恐怖を感じることがなくなってきた。
 恐怖の理由は以前にも書いたことがあるが、オフラインで誰にも公開されないが故に赤裸々に連ねたプライバシーを、身近な人間に勝手に暴かれるというトラウマを抱えていたためである。

 秘密にしたいことを文章にすることは子供の頃から苦もなくしているのだが、信頼を寄せようとしている(あるいは寄せた方が理想的と思われる)他人がそれを暴くということのショックは小さいものではない。
 もともと他人と会話するのではなく一人で文章にすることで記憶を整理し(そのほとんどを忘却することにし)ていた僕にとって、日々の記録とまでゆかなくても、折々節々のひらめきや選択の理由は、記録しておかないと忘れてしまう。
 説明しても他人がなかなか理解しない ── 非難がましく思うつもりはないが、事実である ── 僕の価値観について、僕だけは理解しておきたいと思っているので、この「折々節々に思うことを書いておく」のは、僕には(僕を観察する上では)大事なことなのである。

 しかし自分以外の人間が参照できない情報というのは、現実問題として構築しにくい(ほぼ不可能である)。
 情報の媒体は必ず現実世界での実体を持つため、言語やそのメディアに対する知識を持つ存在がいれば、その情報は勝手に開示される危険性を持つ。
 個人の持つ秘密など、たかが知れているのだから情報の内容は問題ではない。
 知識や信頼関係を(当初の意志や目的は別にして)結果的に悪用し、プライバシーという一見どうでもいい障壁を、他人のそれについては容易く踏みつけにするタイプの生き方があり、そういう人が身近にいて、当人の悪意や害意に関係なく、結果的に害を為すことが問題なわけだ。

 たとえば自身のプライバシーの障壁が低い人もいるが、観察する範囲において、そういう人は自分からハードルを下げるにもかかわらず、他人のハードルを無理矢理同じ高さに引き下げたりはしないものだ。
 一方、他人のプライバシーのハードルを引き下げようと躍起になる人は、どこかしら邪な思惑があるもので、自身のそれについては開示せず認めようともしない。
 誰でも自分自身のプライバシーについて訊ねられれば、(それが事実かどうかは別にしても)答えられるものを答えると思うけれど、それを無理矢理暴くような行為は暴力的であり、鎌を掛ける行為は相手を信じていないという点において(その対象の誠実さがどの程度かは別にして)不誠実である。

 まぁひと言で言ってしまえば低俗なわけであり、低俗な人間を見極める目を自分が持っているとはどうしても信じられなくなってしまったので、それを人間不信と称し、身近に人間を置かずに過ごしていた。

 とはいえ10年ほども(しかもその時間のほとんどすべてを)一人で過ごしているので、さすがに他人が僕の個人領域を侵すことがないことを実感できるようになった。

 あれは特例だったのだと結論した。
 それまでも他人(にあたる僕)を利用する人間はいたし実害にも遭ってきたが、結局のところ、過剰防衛をしてもどうしようもない類いのことであると思えた。
 経験則やそれによって養われた直感から「こいつは危険だ」という判断にも磨きかが掛かったわけだし、過剰防衛という人間/自己不信を持ち続ける意味はもうないのかな、といった具合に、要は飽きてしまったのだ。そんな価値観に。

>>>
【熱中症と暫定対策】

 さても夏である。
 4月下旬(だったと思う)の最初の夏日に、さっそく昨年の熱中症と同様の症状に見舞われた。
 室温が32℃に到達していたのだが、まさか熱中症になるとは思わず(10年ぶりにアップデートが入った)Fallout4をプレイしていたのだ。

 で、まんまと熱中症になったってわけよ。
 いやまだエアコンの掃除は(寒いくらいの日もあったので)必要なかろうと思って放っておいたのが良くなかった。

 初日から今回も蕁麻疹が出て、以降、体温が37℃にやっと届く程度の微熱を維持し、倦怠感というか脱力感に襲われる。
 その後も長期的な脱水症(体内からやや過剰な排水が続き、便が固くなり、粘膜が乾きやすく、目立たない炎症)が続く。
 体表は冷えた部分も多い一方、局所的(手のひら、足の裏、一部の関節)が過熱し、ほとんど発汗しない。

 しかし今回は、蕁麻疹が陰茎にだけ発生した。理由は分からないが陰茎である。
 関連してか股関節付近にも熱が集まり、このエリアで多く発汗する。


 暫定の判断であるが、結果的にナトリウムが低下していた可能性が高いと判断し、食事の塩分濃度を上げた。
 そもそも食事回数が少ない上、姉の家に行くようになってから薄味に慣れてしまい、自宅でお酒を飲むことも月に一度くらいのため、全体的に塩分濃度が下がっていたのだ。
 食事の回数を上げれば良いのだが、その必要は感じないし、お酒のアテ(比較的濃い味になる)を作る機会も少ない。
 そうなったら塩分摂取量を単純に増やせばいいじゃない。

 で、一事が万事「ちょっと塩味強いな!」くらいの味を楽しむようにしている。
 豆腐も「ちょっと醤油を垂らす」なんて風流ぶったセコい真似をせず、だばだば掛けた純醤油味を食べている。ときどきプレーンで食べるけれど。
 加えて、アイスを食べたり冷たい飲み物を飲んで強制的に体温を下げている。
 
 6月現在、屋外作業ができる程度には回復している。
 アレルギィ対策のため、長袖のジャンプスーツと防塵フルフェイスマスクの着用が必要なので、体温の上昇は避けられない。
 体温調節を自律的に行えないのだから、外部依存で処理すればよいということで、身体の状態を確認しながら適度に休憩を挿み(あまり好みではないが)冷たい水を飲んで調整している。
 本来、作業をしながら(休憩などの)無関係な割り込み処理をするのは好きではないのだが、身体が自律機能を失いつつある以上、仕方ない。
 幸い僕には奥様(仮想)という便利な機能があるので、発汗や体温上昇、平衡感覚の低下などをキーにしつつ、無理のない範囲に活動を維持している。


 書斎/寝室のクーラの入れ替えについては昨年の段階で予算審議に上がっていたので、5月下旬に入れ替えを行う。
 ふたつの部屋の仕切りをなくした時点で16畳を超えていたので、6畳用では出力が足りなかったのだ。

 今年は満を持して、つなぎの空調服も買うことにした。
 体調を崩して高額な医療費が必要になったり、何ヶ月も寝込むくらいなら、予防にお金を使う方が結果的にお得なのだ。

 ところでこれは熱中症ではなく、いわゆる更年期障害なのではないかと思ったのだが、性ホルモンに関連した身体機能障害のみがそれにあたるようなので、僕のこれは熱中症だと思うしかなさそうだ。
 いつだったか小耳に挟んだところでは、人間は壮年期のある時期に、身体機能の低下に伴う不調を抱えるらしい。
 それで病気になって死んでしまう人もいるし、あるいはそれを乗り越えた人は、その後(低下したなりに)最適化された機能によって長く生きるのだとか。
 男性の場合、一般的には60代前後でそれを迎えるというような話を聞いた気がするが、僕は早熟なのでそれを迎えていてもいいような気がする。
 まぁ100歳を自称しているから「またウソばっかり!」なんて叱られてしまうかもしれないけれど。



>>>

【背を向けたのは誰か】

 草取りをしていて考えていたのだが「価格競争」という単語が広く強く一般に浸透したのは1ドルが100円を切るかどうかの頃だったと思う。
 当時を簡単に回想すると、国産の長ネギが1本100円以上、根生姜が一片300円近くだったのに対し、中国産は1/3程度の価格だった。
 家電品も同様、およそ2/3〜1/3の価格で同程度の性能の海外製商品が手に入った。

 僕は当時、電気をほどよく止められる程度の貧乏人だったので、「日本産を買いたい」と逡巡しつつも中国産の野菜を買った。
 バブル経済の終焉からしばらくして、しかしまだリーマンショックを迎えていなかった頃の話である。
 世俗は比較的おだやかで、未来に対する暗いムードもなく、周囲の人々に対する疑心暗鬼も今ほどではなかった。特殊詐欺の走りである「オレオレ詐欺」が世を賑わすより以前のことだ。

 それで国産の家電メーカはどうしたか。農家さんはどうしたか。
 価格で勝負するしか方法がないと考えて、生産体制の効率化を計り、同じものをいかに安く生産して提供するかに舵を切った。
 メーカ希望小売価格をひとつの「仕組み」と見做して廃止し、意味不明な「オープンプライス」という仕組みを作った。
 詳しいことは未だに分からないのだが、中間に存在する誰かの利益を圧縮することで、末端の価格がばらつくことに不自然さを生まないためのシステムだろう。

 もちろん今までと同じ価格でより高い付加価値を持つものを、と考えなかったわけではないのだろうけれど、それはすぐに解決できる問題ではなかった。
 これが「価格競争」という風潮を生み出し、消費者は「今より以上の技術は我々の生活には必要ない」とばかり、最低限必要な機能を満たし、極限まで安いものを求め、その費用効率を製品の性能や己の能力と履き違えるに至った。
 当時は専業主婦も今より多かった時代であり、たった1円安い商品を手に入れるために隣の街の店に車を走らせるような人もいた。思えばのどかな時代である。

 我々はそうやって、我々自身から目を背け、我々自身に背を向けた。
 我々が日本の企業や製品を見放した結果、日本の企業は海外に多くの拠点を作った。設備も雇用も現地の方が安く付く。
 日本人のための安い製品を作るべく、日本人の雇用や関連産業の業績を結果的に下げることが分かっていても。そうしなければ競争に勝てないからだ。

 それがすべてではないが、巡り巡って、日本は貧しくなった。
 企業は既存の数倍数十倍の予算を使って新しい技術を開発するより、労少なくして確約された利益を確保することをよしとせざるを得なかっただろう。
 建築物を見ても明らかだ。
 かつては高名な建築家(建築デザイナ)の名を冠した奇抜な造形の巨大建造物が、都心一等地にそびえ立ったものだが、そういう建築家は(一部の人間の起こした事件により)エンジニアではなく山師や詐欺師の類いに扱われ、人々も「建築物は雨風が凌げればよいのだ」と、最低限の機能で満足するに至った。
 いわゆる旧来の「エコロジィ(今風にいえばSDGsか)」という意味ではよいのだろう。
 必要最低限の機能を最小限のコストと材料によって計画し、建築/解体が容易な材料と工法を用いれば、不足した人材でもなんとか建築が可能だと予測したのではないか、オリンピックも万博も。
 前橋の止まり木で耳に挟んだところでは、僕らより上の(バブル期の恩恵に浴した)世代は、未だにこの国が豊かであると疑わないらしい。呆けたのだろうとも推測されるが。
 治安だって、当時と変わらず悪くはないと思っている可能性が高い。めでたいことである。

 政治のせいであるとか、企業の内部留保がどうこうと知った顔をする大人はたくさんいるが「安物買いをしたいがあまり、我々自身、国内産業からそっぽを向いたのが悪かった」と反省している消費者はほとんどいないように観察される。
 企業は消費者(=労働者)にそっぽを向かれたにもかかわらず、労働者(=消費者)を守らなくてはならなかった。
 それをなんとか果たすために、企業としての健全な成長理念を放棄し、果てには政府に助力を求めることさえあったのではないだろうか。
「消費者」のほとんどは国内の産業に何らかの形で関与していて、だからこそ中産階級としての立場を維持していられたのだろうに「自分は買わないが、他の誰かがこれを買う」などと根拠もなく安易に捉えていたのでは(少なくとも現状を危惧する考えなどしなかったのでは)ないか。

 いやなに「汝、隣人を憎めよ」などと言いたいのではない。
 一方で、企業や政府を擁護したいわけでもない(僕はシンプルに反体制型アナーキストなので、そうしたスタンスを持たない)。
 ただ単に、人間とはかくも無責任なのだと回想しているだけである。

 かくいう僕も、当時は海外産の食品を買い、海外製の製品にまみれていた。
 そしてそのまま日本の製品は魅力を失ってしまった。
(さらにいえばPCのキーボードやマウスが、世界的に「価格競争」後の貧相なモノしかなくて、ずっと辟易しているのだ)
 日本の企業は、実るか分からない技術に予算を注ぎ込むよりも、楽だがいつか奈落に沈むことが明白な、厳しい道に進んでしまったのではないのか。

 今頃になって人々は企業やサービスの存続のための価格上昇はやむを得ないと考えるようになったようだが、自身の賃金上昇の遠因がそこにあることをようやく理解しつつあるのだろう。
 それでも中には「賃金が上がらないのに物価ばかり上がる」と、政府の無策や企業の方針に難癖を付ける人もいるかもしれないが。
 もし時間があるならば、バイトをするしかない。あるいは作物を自作するか。

 以前書いたことがあるが、物価が上がるということは、今までの1000円が、より小さい価値しか持たなくなるということである。
 昨日は100円で買えたネギが明日200円になるというなら、今日180円だとしても、買って損はないだろう(使う場合に限るが)。
 相対的にお金よりもモノ(やサービス)の価値が上がるのだ。
 オカネモチーの所有している現金は、刻一刻とその価値を相対的に下げているのだから。

 だからモノを作るかサービスを提供するほうがいい。より労働する者がより高い価値を持っていることになる。
 投資だ金融商品だポイ活だなどと、ラクして得するなんて小賢しく訳知り顔で語られる「まやかし」よりも、もっとシンプルな方法があるではないか。

 とはいえ僕は身体が弱いので、草取りをしたあとにあずきバーを食べて、昼寝をしているうちに一日が終わってしまうのだけれど。
 自説に照らし合わせると、めっちゃ経済価値の低い生き方かもしれないなと思いつつ、まぁ猫だからいいかと開き直る。






 

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  君にしばしのお別れを。
 
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// NOTE:
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TITLE:
怠惰を包む雨に眠る。
Written by BlueCat

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240513

 昨日BPが遊びに来て0時を回る頃帰る。就寝は午前5時。
 このところ体内の炎症反応が徐々に強くなっている。
 計測していないが発熱はしていないはず。
 ただ粘膜が腫れて、呼吸が苦しかったり、皮膚や粘膜が乾燥して荒れやすいだけである。

 身体が全体に重くてだるい。
 天気が良ければ自転車で買い物に出掛けるようになったから、その影響だろう。
 身体が順応しようとしているが、まだ順応していない。

 筋肉痛未満の疲労でも内部で炎症は起こすようだし、煙草やカフェイン、刺激の強い食品を避け、とにかくよく眠って回復を待つ。
 くれぐれも人並みに活動しようなどとは思わないことが大事だと最近は思うようになった。

 たとえば数日前、どうしても食べたくて、久しぶりに玄米を炊いて食した。
 炭水化物の消化吸収でかなり疲弊する体質だが、米食が嫌いというわけではなく、特に玄米は味も香りも大好きである。
 ところが食べて満足したものの、気付くと翌日の昼近くになっていた。

 お酒を飲んだわけでもないのに満腹になった後の記憶がない。ベッドで寝ている自分に気付いて驚いたのだ。
 たしかに満腹になるまで食べたのは事実だが、他の食べ物でこんなことにはならない。

 目覚めても身体が重い。
 運動をした疲労ともまた違う倦怠感であり、内臓が疲れている感触もある。
 仕方ないので16時頃まで眠っていた。結果、昼夜の逆転が始まった。

 これらが炭水化物(とくに精製炭水化物)を避ける理由である。
 普段は豆腐と(精製レベルの低い)砂糖たっぷりのカフェラテが主食である。
 
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 これまでの観察の範囲で、人間の身体は脂肪/糖/炭水化物のいずれか、またはすべてで太ることがあるようだ。
 もちろんいずれの成分でも太らない人はいる(若い頃の僕はそうだった)。
 身体の代謝システムは年齢と共に変化する。
 僕の身体は子供の頃から炭水化物(の消化吸収)を苦手としており、20代で適応し、40代からは再び苦手になった。

 手軽に燃料として使うのは砂糖とたんぱく質だ。
 といって食肉も(品質によって)身体の負荷は高めなので、大豆製品を好んで食べている。
 消化吸収の負荷が特に高いのが加工レベルの高い食品全般で、増粘剤・香料・着色料・ph調整剤・乳化剤はかなり内臓の活動を低下させる。
 一方で、発色剤・酸化防止剤(多くはビタミンCかEだが)、保存料などはさほど影響しないように思える。
 まぁそれらを含むものは上記を含んでいることが多く、あまり摂取する機会がないが。

 おそらく特殊な身体なのだろうと結論している。自分でも理解できないことは多い。
 最近は身体の炎症反応(主に鼻や喉の粘膜の違和感や乾燥、粘液の異常、息苦しさ。皮膚の痒みや乾燥。内臓系では原因不明の胸焼け、吐き気)を確認して、身体を休めるようにしている。
 これらは極端な発熱に至らないことも多い。37℃より少し低い熱が出るのだ。
 免疫反応が強く起こっているわけではないのだけれど、疲労や需給バランスの崩れによって活発な活動に向かない状態で、ここで少しでも無理をすれば悪化してより重い症状になるから、無理をしないで眠るのである。

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【「ガツン」と食べると具合が悪くなるタイプ】

 身体が弱いのは昔からだが、食事も与えず眠らせておくと、だいたいの病気や感染症から早い段階で回復し始める。
 不調の時こそきちんと栄養を摂る人(そういう代謝/回復スタイルの人)も一定数いるようだが、この時期の僕に栄養を与えると、不調が長引いたり悪化する。

 一般に、栄養を摂って回復してゆく人は「身体が丈夫」と認識されている。僕もそう思う。
「ガツンと食べれば治っちゃうよ!」なんて言う人を見ると、老若男女問わず、格好いいな、とさえ思う。
 ガツンと食べたら寝込んじゃうタイプの自分にはないたくましさである。

 そういうたくましいタイプの人が万一、食べられない状態、あるいは食べることが問題になる体調不良(消化器系や重篤な粘膜の異常を伴う病気)になった場合、ひどく衰弱し、場合によってはあっさり死んでしまう。
 一方、僕のような低燃費の虚弱体質者は、普段の体力がないわりに栄養の供給がなくても闘病し続けるので病中の生命力が高く、長引くにしても回復する。
 体力がないのに生命力があるのだ。

 たとえば植物でいうと、大きく育ったものは水も必要なら光も要る。実を付けるものなら肥料も要る。
 一方で種子はどうかというと、水も光も肥料も、ないならないでそのまま過ごせるが、枯れているのと同じくらい活動レベルは低く、花も実も付けないし芽も出さない。

 もちろん僕の身体がこれから芽吹くなどとは思っていない。
 この弱い身体のまま、低い活動レベルを維持して、病気に罹ってもしぶとく回復するのだろうと予測できる。
 どちらが良いとは思わない。
 僕は僕の身体に合わせて生きているだけだし、両極の(あるいは中間に位置する多くの)特性を持つ人がいるのは全体として良いことだと思うだけである。

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【不均質な社会のくせに生意気だぞ】

 そうした肉体的な特性を考えても、沢山の人を一箇所に集めて、等しく同じ事をさせ(同じ結果を出させ)ようとすることがいかにむつかしく、あるいは困難で、時に不可能であるかについて考える。
 時間あたりの効率を考えれば「ガツン」タイプの人に軍配が上がる。
 一方、長いスパンでだらだらとすることが好きで得意なら、僕のような活動レベルの低い個体の方が長期的には高効率なこともあるだろう。

 たとえば僕は短期に集中して考えたり活動すると、身体を壊しやすい。そして好きなことほどそうした過度の集中を起こしやすい。
 長期間ずっと同じテーマのことを考えたり、不満を感じることについてずっと解決策を練るようなところもある。

「ガツン」タイプの人は、とにかく短期間に、無駄になっても何らかのアクションをすることを重要視する。
 もちろんそれが素早く劇的な解決になることもあるので悪いことだと思ってはいない。
 しかしそのスピーディさが、無駄を生むことや、事態の悪化を招くこと、あるいは新しい問題を生むこともある。

 もちろん僕のようなのんびりタイプも、無駄や事態の悪化や新しい問題を生む解決策しか提示できないことがあり、それどころか何の解決もできず、それによって悪化することさえある。
 ただスローテンポで気力がないために、無駄をなくし、悪化を回避し、新しい問題を予測することが可能になるケースもある。
 目の前の問題は解決していないかもしれないが、それらをさらに拡大した「大きな問題」として対処することが可能な場合もある。
(雪だるま式に問題が大きくなっている可能性も高いが)

 どちらが良いというものではない。向き不向きがあり、適材適所な場面もある。

 卑近な例を挙げると、僕は20代の頃、身体は弱いしお金はないし親もいなければ人脈もなかったので、税金を10年以上滞納したことがある。
(差し押さえようとしたのかは不明だが、その財産すらなかった)
 目の前の問題を解決しないうちに、次々と問題が山積していったが、ひとつひとつに対して努力することもなく放置した。
 自分から招いた問題なら仕方ないが、向こうから勝手に発生する問題に対処する気力というものがまったくなかった(今もあまりない)からだ。

 しかしたまに気が向くことがあり、リソース管理上(税金ならお金がそれにあたる)でも問題なく対処できる見通しが立つこともある。
 たまたま今は滞納している税金はなくなり、毎年の固定資産税に怯える程度で済んでいる。

 僕がこんな怠惰な性格ではなく努力家で、明確な目標を打ち立て、それを実現するためにありとあらゆるリソースを注ぎ込む熱意があれば、今頃とんでもない成功者になっていたとは思う。
 しかし肉体的な特性や諸々の事情や背景や環境があり、僕はそうはならなかった。
 もし努力家だったら、かなり早い段階で自殺するか病死するか、とにかく生きていなかっただろう。
 結果論に過ぎないとは思うが、僕は怠惰であることによって生かされてきたのだ。

 それは大きく拡大した社会という「沢山の人を一箇所に集めて、等しく同じ事をさせようとする」フィールドでは、不協和音のもとでもあるが。

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【脆弱な者の屍と恵まれた者の伝説】

 努力は賞賛されるべきであり、勤勉であることは美徳だと思う。
 ただしそれはある程度、何らかのリソース(資源や資質)に恵まれた者が獲得できるトロフィなのではないだろうか。

 事情や背景や環境によって、持つべきものを持たず、あるべきものがなく、与えられるべきを与えられず、為すべきも知るべきも知らない者がいる。
 お金のない者は塾には行けず、それどころか進学できず、独学のための学術書を買うこともできず、バイトをするための履歴書を買えないどころか履歴書そのものを知らない可能性だってある。
 誰かに褒められたことで育つ情熱もなく、誰かと温めて育った未来への希望もなく、誰かの背中を見て生まれた憧れもなく、口にする疑問を聞き届ける耳はどこにもない。
 井戸の底のような暗闇から微かに差し込む星明かりのような未来を予見したら「ああ、自分はここで野垂れ死ぬためにのみ生まれ、こうして生きるのか」と、ただ諦めるしかないだろう。

 僕は自身に降りかかったそれらの暗闇を不遇とは思わない(おそらく星明かりも降っていたからだろう)。
 野垂れ死ぬかもしれない井戸の底から、あがきもせずに丸くなり続けたのは「何もしない」という、ある種の選択の結果だ。
 怠惰がその選択を決定づけ、諸々の不運は最終的に味方になってしまった。

 僕は暗闇の中で、静かに息をしていることに適応してしまった。
 僕はあまりにも幸運に過ぎるのだ(多分ネコノカミサマのおかげで)。

 おそらく不運を抱える者のすべて、怠惰である者のすべてに、同じような幸運が降り注ぐことはないだろう。
 選択の先延ばしは良くないこととされており、境遇の不幸に果敢に立ち向かって勝利を勝ち取る数々の美談が語り継がれている。

 ── そしてその陰で、多くの脆弱な者たちが力尽き、息を引き取っている。

 僕が思うのは、広く社会で悪しきこととされることについて、果たしてそれが本当に悪いことなのか、ということだ。
 美徳とされるすべてについて、それは恵まれた者しか掴みえない賞賛ではないのか。

 怠惰であることそのすべては本当に悪なのか。
 選択の先延ばしは本当に悪なのか。
 何でもかんでもベストを尽くさなくてはいけないのか。


<なぜベストを尽くさないのか、にゃー>

 そんなことをベッドで横たわりながら思う。
 成功は素晴らしいものだし、努力は結果の如何に関わらず賞賛されるべきだ。
 怠惰な眠りに身を任せるしかなく、社会にたいした貢献をすることもなく終わる自身の価値など計るだけ空しくなるだろう。

 自身を悲観しているわけではない(先に述べたとおり、とんでもなく幸運なので)。
 ただまぁ身体の上に個体の精神であるとか自我が宿っている以上、身体に無理をすれば、最終的に自身に返ってくる。
「故意の怠惰」もあれば「不可避の怠惰」もあり、その線引きをするのも、最終的には自分自身である。

 僕はもう「怠惰にしか生きないんだカンナこのやろー」と開き直って静かに生きている。
 努力など、この記憶には荷が重い。
 勤勉など、この肉体には荷が重い。

 あまり甘やかさないように。
 けれど身体に合わない無理はしないように。

>>>

 18時頃、近所の老婦人がやって来た。
 申し訳ないと思いつつ今年の抱負を守り、面倒なので無視して眠り続ける。

 ねむれねむれと、外は優しい雨音が続いている。
 不遇なる者にも、不幸なる者にも、幸福な者にも、賞賛される者にも、ひとしく冷たく降り注ぐ。







 

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  -Condencer-Convertor-Resistor-
 
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  -Friend-Human-Memory-Rain-
 
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:暗闇エトランジェ:いのちあるものたち:
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