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TITLE:
自己言及性問題解決メソッドをオススメしない。
Written by BlueCat
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0330起床。最近には珍しく奥様(仮想)と会話しているうちに目覚める。
【睡眠期は過ぎたかな】
始まりが定かではないのだが、2週間以上睡眠期になっていた(ように思う)。
少なくともお盆になる前からのことである。
あまり眠れない、寝付きが悪いという時もある(24時間あたりの睡眠時間が3〜5時間で、覚醒時に眠気をほとんど感じない)一方で、睡眠期はひたすら眠くなる。
5時間ほど眠って、3時間ほど活動して、眠くなって寝てしまうサイクルを3回程度繰り返す(15/24H睡眠の)こともあるし、10時間ほど活動して12時間ほど眠ることもあり、こういうときに生活サイクルがズレてゆく。もちろんサイクルがズレても日常生活には問題がないことが多い。
睡眠期の問題は主に2点。
身体が鈍って体調が悪くなりやすいことと、気分が低迷して抑鬱的になること。
ただしこれには相関性があって、体調が万全ではなく不調気味だったから睡眠期になることもあるし、気分が抑鬱的だから眠り続けてしまうこともある。
自覚はないのだが鬱病的な状態になったときも眠り続けていた。
生まれつきの性情かもしれない。とにかく怠惰なのだ。
ときどき冗談めかして書いているが、意識を持っているのが面倒だと思うことはある。
前世が海苔とかキャベツだったのかと疑うくらい、無意識であることを好んでいる可能性を否定できない。
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【自由と自在は似ているけれど違う】
怠惰な僕と現実世界の整合性を高めるために奥様(仮想)が存在するものの、奥様(仮想)が活動していないとき(多分お盆休みで実家に帰ったのではないか)は不整合が起きやすい。
いい大人なんだから自分で何とかしろ、と叱られそうなものだが、そもそも僕の生活では良いことをしたからといって褒める人も、悪いことをしたからといって窘(たしな)める人もいない。
自堕落でいようと思えば、泥のように泥濘(ぬかる)んだ生活もできるし、きちんとしようと思えばカニの殻のようにもなれる。
どちらでもよい、という自由を選んで生きてきたのだろうし、そういう性情が方向性を決めていたのかもしれない。これも相互作用するものだ。
そうした自堕落な性情も含め、可能ならば自在でありたいと思うのだが、自由であっても自在であることは容易ではない(ときもある)。
おそらく逆も然りだろう。
現実世界で手を尽くし、まともそうな人間と親しくなるのも健全だが、自分がそれに釣り合うほど健全だとは思っていない。
それなら必要とされる価値観を自作した方が簡単で無難である ── それに生きている人間はときどき恐ろしい個体があるので。
それでも持って生まれた怠惰の性質がなくなるわけがない。
僕は意識を持つことに倦んでいるし、自分でいることにも飽いている(満足しているという意味でもある)、にもかかわらずである。
怠惰な性質は抹消できず、しかし相反する価値観群を必要とする。足りないものは作ればいい。
作れない人は外から調達するしかないが、僕は自作して機能させることができる。自分でも少々奇妙には思っているが。
そう考えると、奥様(仮想)を僕の思考の本体にした方が現実世界では物事がうまくゆくような気がする。
それはたびたび感じていたことで、実際に試そうとしたこともある(身体制御を主体にした人格を長らく運用していたので、できないわけではない)が、どうにもうまく行かなかった。
肉体というのは現実世界とのインタフェイスであるのだが、これを操作するときの情報をフィードバックすることを面倒くさがっているフシがある(当人は前向きかつ何事もそつなくこなせるつもりでいるので、ここだけの話である)。
考えてみると僕の作るいかなる仮想人格も、共通して怠惰である。目に見える(他者から観察可能な)部分や得意とする分野が異なるだけで、何かしら面倒くさがる傾向があり、面倒なことを他人(として区分された人格)に押し付け合って生きている。
奥様(仮想)の場合は、肉体制御が面倒なのだ。
だから(ここだけの話)日常生活の面倒ごとについてなんとか僕を「使おう」としているともいえる。
(実際のところは、僕の現在の人格(および記憶)を現実世界に還元しようという試みなのだが。これは外部から判別しようがないだろう)
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【怠惰すぎて他人を使わない】
幸いなことは、僕が現実世界でそれを他人にはしないことだ。僕は他人を使おうとしないことについて可能な限り徹底している。
特に人情や人間関係をダシにして、自分のためだけに無償で使うことを嫌う。
釣り合わない労働やリスクに巻き込むことを嫌う。そんなことをするのはフェアじゃない。
気分が退屈したときに学生時代からの友人を遊びや食事に誘うのも(彼らの日常が繁忙であると勝手に思って遠慮してしまい)躊躇するレベルである。メールも電話もしない。それって友達か?
お陰様で今日も現実世界で(だけ)は清廉潔白なフリをしていられる。
まさか自堕落で欲にまみれて生きており「男は殺せ! 女は犯せ!」と平気で嘯(うそぶ)くイキモノ(職業:丘海賊)だとは思いも寄らない人が多い。
少々頭が働く人は、僕という不自然な表象の裏(その人の想像の限りの腹黒さ)を考えることになるが、それはそれで僕に近寄る個体が減るので助かる。
僕は僕なりに僕の腹黒さを知っており、その腹黒さで誰かを傷付けないようにしたいと思っているので、悪く思われて忌避されても、良く思われて尊重されても、どちらも有益に作用すると思っている。
問題は近所の老婦人のように、どうやっても忌避してくれず、身勝手に利用してくる場合である。
ちなみに「他人を使わないためになるべく連絡しない」というルールを恋人に適用してしまうと「セックスしたいときしか連絡してくれない」というあらぬ誤解を招くことになる。
(忙しいかもしれないから、つまらない用で連絡するのは悪いかな)と遠慮していた健気なハートがガラスのように砕け散り、思わぬ結果を招く例である。
仕方ないので、恋人がいるときは退屈な気分の時はもちろん、どうでもよいことで連絡をする必要があるという事実を僕は30代になって学んだ。みんなヒマ人か。
こういうのを日頃の行いと呼ぶべきなのかは分からないが、手間を掛けて普段からどうでもいいやり取りをすることによって、あらぬ誤解を回避できるようになった。
仕事であれ、他の人との恋愛であれ、家族関係であれ、何くれとなく忙しいタイプの恋人にそういうことはない。
用のあるとき(セックスに限るものではないし、セックスを省くわけでもない。一緒に散歩しようぜ、という健全(?)な欲求だってある)に連絡することができる。
とくに僕は餌付け欲求(作った料理を食べさせたい)が強いので、そういうときに食事にかこつけてデートすることができる。
それにしても「餌付け欲求」て表現、少し言葉が悪いかもだな。
まぁでも比較的平和的な支配欲の発露、ですかね。支配したりされたりは、病的でないなら心地よいときもありますから。
僕の場合、自分以外の人との距離を(一般と比して過剰なくらい)取ることで環境を支配しているわけで。
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いずれにしても睡眠期というのは「眠るとはこんなに心地よいのか」などと惰眠にふけっているうちに、気付いたら抜け出せなくなっているときがある。
入り口は心地よいのに、次第に抜け出せなくなり、出口の精神状態は抑鬱的である。薬物中毒者かよ。
いや確かに睡眠にはある種の中毒性があり、それが僕には強く作用するのだ。
他のほとんどすべて(ニコチンやらアルコールやら食事やらセックスやら)の中毒にはならないのに。
ここはひとつ認識を改めるべきだろう。
睡眠は(僕にとって)中毒作用のある行為だと認識しよう。それも強烈に。
必要なものだし、心地よいものだけれど、過度のそれは毒になる。精神的にも肉体的にも、それは科学的に(再現性を持って)証明されている(僕にとって)。
睡眠の素晴らしさというか(僕に対する)中毒性を僕は自覚すべきで、それを適度な範囲に制御する必要がある。今後も好きなだけ眠れるのだから余計に。
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【何が良くて何が悪いのか(僕にとって)】
睡眠は意識を失うことができる。
僕は自分の意識を持ち続けることにすぐ飽きてしまうので、意識を遮断したい場合や記憶を蓄積したくない場合に有用であり、手軽な現実逃避として安易に使われる。
寝ればいいだけなので、お金も掛からない。寝る場所と時間があればそれでいい。
最近でも近所の老婦人に突然の来訪された場合などに、とりあえず眠って現実を無視し、低迷した気分を回復させるため(という名目で、目覚めた直後から)さらに眠ったりしている。
もしかして彼女は俺に嫌われている(私は彼女を嫌っている)のでは? という予測が可能だが、それについては後で考えよう。
損害の程度が分からない対象について、わざわざ嫌っていることを自覚する必要はない。
問題は、現実世界で問題が発生していることを眠ることで回避したり、眠ることで回復させようとする行為である。
時間の経過が問題を解決するケースは少なからずあり、怠惰な僕に適合した解決策ではある。
ために実際に回避することは可能で、回復することも可能であるが、過睡眠によるリスクもある。
しかしより現実的に(現実世界に意図してアクセスして)問題を解決すれば、回避するべき問題が発生(再発)しなくなることもある。
問題が発生しなくなれば、回避も回復も不要になる。当たり前だ。
ただ少し労力や気力が必要になる。これは初期投資だと思うしかない。
また問題解決を破壊的にではなく建設的に行う必要がある。
他人に嫌われることをあまり気にする必要はないのだが、他人が僕を嫌うということはその人の精神衛生を害することに他ならない。
そんなの知ったことか、という認識も可能だが、誰かの精神衛生が害されるということは、その人の周囲の人間に害が及ぶことも当然考えられる。
巡り巡ってバタフライ効果のようにして、世界情勢が悪化する可能性がないと否定することもできない。
たとえばかの老婦人が高名な政治家の親戚で、募らせた苛立ちに任せて当該政治家に愚痴めいた世間話をした結果、当該政治家の精神衛生が害され、外交問題で不適切な対応をしてしまい国交問題に発展するという可能性はほぼゼロだが完全なゼロでもない。中間経由地点(関係者と経過時間)を増やせば、可能性は上がるだろう。
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【僕の考える世界にもたらされる精神の運動三法則】
直接の害が発生していない(発生していても軽微もしくは容易に回復できる)場合、わざわざ嫌う必要もないと考えるのはこういう理由である。
僕の考えるこの世界では、僕が誰かを嫌うとその誰かは僕を嫌う(作用反作用の法則的に)。
僕を嫌う誰かは精神衛生を害し、何らかの出力をするまで蓄積状態が続く(慣性の法則的に)。
誰かの害された精神は伝播し、この世界を害する(運動方程式的に)。
誰かを無視したり軽視することはさほどの問題にならないが、嫌うことはなるべく避けたい。
僕が嫌うだけで、最終的には自分の分と相手の分の2倍の害が発生する。
それは最終的に悪意として世界に発露され、世界からの悪意として己に還元される。
これらは広く科学的な検証などしていないしおそらく論文も存在しないと思うが、これまで観察した世界では比較的再現性の高い人間の精神性にまつわる法則である。
もちろん僕の観察している世界では再現性が(非常に)高いというだけで、その再現性を持たない世界に棲んでいる人がいる可能性は(僕には)否定できずその確率も不明だ。
問題は「誰かにとっての世界」をどうこうしよう、という話ではない。
僕にとっての世界が良いものになればそれでいいのだ。
ために僕が僕の幸福を追求する場合、僕の観察する世界の法則にできるだけ従う必要があり、不確定な要素についてはすべてネコノカミサマにぶん投げる方式を採用している。不幸な下請け業者か。
>>>
【怠惰の弊害】
僕が怠惰であることは有意に働くこともある。
観察の範囲では(僕がひたすら怠惰なことと、その怠惰さに対して好意的/友好的な関係性しか残留しないため)僕の幸せにおいて非常にすぐれた結果を招いている。
僕は怠惰なあまり高効率主義であるし、慣例を疑問視する傾向が強く、競争を好まない。草食系Z世代ミームの体現でも目指してるのかな。
まあ少なくとも温和で、のんびりしていて、存在が癒やし(「卑しい」の聞き間違いではないと思うが否定はしない)なのにそれなりに知的と認識される傾向が高い。
(アタマの中が丘海賊であることは秘密である)
怠惰さは僕の身体的特性とも相性がいい。
心身のいずれでも無理をすると、身体的に原因不明(解決不能)の不調が発生する。
抵抗力の低い体質に問題があるが、その解決は不可能で、僕はこの身体とテキトーに付き合うしかない。
あまり自分の生に執着しないのも、もしかしたら乳幼児の頃の身体的苦痛に起因しているのかもしれない。
何事も面倒だな、と思っていいし、それが最終的に僕の身体を守るのでもある。
そしてこの怠惰さは、僕が問題を常に先延ばしにする悪癖にも繋がっている。
(子供の頃から)物覚えが悪く、思い出す能力が極端に低いことも相関性があるだろう。
問題は、問題を問題と認識し続けて初めて問題となり、解決策を導く必要が発生する。
問題に直面してストレスが発生しても、それを記憶せず、毎回新しい気持ちでストレスを抱えるぶんには、問題解決という手間を掛けずにすむ。徹底したものぐさだな。
問題が内面的なものではなく、外部の現実世界に発生している場合は、その怠惰さが顕著な問題になることもある。
何度も書いているが、公共料金を払い忘れてライフラインを止められたりするのが典型だ。
最近でこそ解決しているが、そもそもそれらを止められることについて、僕は何とも思っていない。無銭飲食してるみたいなものなんだけどね。
そうなのだ。
僕は大人になったので、僕が一向に気にしなくても、他の誰かの精神衛生を害することはよろしくないと思うようになった。
無銭飲食は(法的に犯罪かどうかはどうでもいいが)僕の世界の法則上よろしくない。
ライフラインの提供をしている事業者に勤務している方の精神衛生を害さないことは世界の平和に貢献するので、公共料金を(なるべく)きちんと払うようになった。
40代になってからなので、遅い! と言われればその通りだが、改めないよりは良いだろう。
それでも昔と同じように、先延ばししてしまうことは多い。
もちろん適切なタイミング(あるいは若干の周回遅れ)で解決するようにはしているし、人生のゴール(死)を見据えている今、すべての問題をなるべく綺麗にする必要性に駆られてもいる。
こうした問題は「一事が万事」なので、僕はもう一度、自分の周囲の問題をつぶさに観察し、眠ることで解決の代替(先延ばし)とする習慣を改める必要があるだろう。
僕は時間を手に入れたし、可能な限り他人を排除することに成功したし、それなりに財力があるときもある(7月みたいにカスカスになっているときもあるが)。
問題解決をするための思考力も最低限は備えているし、身体能力を適切に運用するための制御もできる。
つまり問題解決をしないこと(必要もないのに先延ばしすること)は怠惰さの悪い面であり、改める方が世界平和と幸福の追求に役立つと考えられる。
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【問題を問題と認識しよう】
僕はもともと自意識の制御が下手である。
そんなもん制御するものかと笑われてしまうかもしれないが、僕が僕であるという意識に乏しいというかなんというか。
たしかにこの肉体は存在していて、その土台の上に僕の思考やら精神的な反応やらがあるのだが、それ自体に関心が薄い。
生きていても死んでいてもどちらでもいいと思うし、ともすればその実在について確たる証明(僕の認識のすべてが夢や幻でないと誰に言えるだろう)ができないため、けっこう投げやりである。
何かに熱心に集中しているときがある一方、不意に我に返って(まぁどうでもいいかぁ〜)となってしまう。
自分自身その性質に振り回されていたし、その性質に振り回される他者がいることに注意が向かなかったことも否定できない。申し訳ない。
その自意識の低さが怠惰さや問題を先延ばしにする性質と相関性を持っている。
自分が我慢をすればやり過ごせるかな、という論理に欠けた態度も同様だ。もう少し賢くならなかったのかこの個体は。
やり過ごさず適切に問題に対処するためには、自身の抱える問題を認識する必要がある。それに伴うストレスもセットで。
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【老婦人の問題を解決する方法を模索する】
直近だとやはり、近所の老婦人の問題がある。
嫌われていない(好意的に思われている)のが、却ってストレスになっている。
Webで公開していないが、8/3にも来訪を受け、酒席に誘われたが断った、にもかかわらず強要された。
そのときもあれこれ理由を付けて(実際、最近は自宅でもほとんどお酒を飲まないので)酒席を断り続けていたのだが、あろうことか「ではここ(玄関)で飲んでもいいですか?」と、彼女は手提げ袋から紙パックのお酒を取り出したのである。
帰ってほしいのだが、僕はそれを強く言える性格ではない。
そもそもそうした不快感を強く感じるのは、それを感じ始めたずっと後になるのだ。
怒りや悲しみや不快は、一事が万事、そのときは何でもないのに後になってひどく傷を残す。僕はそういう性分で、だから人を寄せ付けたくないのだ。
しかし「はぁ、まぁ」などと言っているうちに話が始まり(僕は料理中だったので、途中に席を外したりしたものの)2時間近く(エアコンもない玄関の上がりかまちで)話を聞く羽目になった。
NOと言わなかったことがYESだと勘違いされるケースである。裁判をすると不利な証拠になりかねない。
毎回彼女はお酒(あるいはお茶)を一緒に飲みつつ話がしたいようなのだが、僕にとっては基本的に苦痛になる。
相手が老婦人だから、というわけではないが、他に優れたコンテンツはいくらでもあるし、話をすることがもっと楽しい相手もいる。
時間単位の幸福度が低いから興味がないばかりか、苦痛に感じる部分もある。
具体的には彼女の思考傾向に独善的な部分や排他的な部分があり(誰だって多少はあるが)、それが(僕に直接向けられていないとしても)強い悪意として感じられる。
僕はこれが苦痛である。
観察の範囲において、彼女はある種の孤立した状況に置かれている。
書きたくないので詳述しないが、同居の家族が居ないにしても家族から冷たくされたり、友人と親しくできない(してもらえない?)環境にある。
彼女の孤独は独善性を助長し彼女の身勝手を抑止せず、彼女の排他性は彼女を抑止しようとした他者を攻撃するように観察される。
果たして問題が環境にあるのか、環境を醸成させた本人の行動(および価値観)にあるのか、疑問を持つ。
その無神経さに、僕自身も少々気分を害しているのである。
彼女が苦しんでいる環境を彼女自身が作っているのだとしたら、それを解決する行動は本人にしかできない(よくある話である)。
彼女はコミュニティから孤立している被害者でもあるが、自身がコミュニティの誰かを加害している結果だと気付くことはないだろう。
気付く程度の善意(と勝手にこちらが期待するもの)があれば、僕の家に何度も訪れたり、何度も電話をしたり、断り続けているのに誘い続けたりもしないはずである。
その来訪の数日後には、過眠が始まったと思う(記憶が定かではない)。
物事に対するやる気がまったく起きなくなってしまった。
彼女のせいだと思う人もいるとは思うが、僕が正しく問題に対処していない(できていない)せいでもある。
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【基本指針を打ち立てる】
僕は彼女に対して悪意を持ちたくない(そこまで脅威を感じていない)のだが、正しく善意を持っている(その必要のある利益を感じている)わけでもない。
害もなく益もないのだ。今後もそのように予測される。縁や故があって、それを引き継いで駐車場を貸している、それだけである。
個人としてはシンプルに距離を置いてほしいのだが、僕はそれをうまく伝えられていない(一人の方が好きだとは何度も言っているのだが、どうやら何も伝わっていない)。
彼女に対して善意を持つというのは、彼女が孤立しないようにすること、彼女がコミュニティに受け容れられ、攻撃をしないようになり、コミュニティにおいて有益な存在として認められるような方向性を一緒に考えることだろう。
しかし正直それをする価値はもちろん、試す価値すら僕は感じていない。
彼女のもたらした自身の孤立という不幸は、観察の範囲では残念ながら自業自得の産物であり、話をしている限り彼女は聡明さや公正さや客観性に欠け、自身の考えを疑う余地を持たない(少なくともこれまでの結果ではそうなる)。
年齢によるものもあるだろうし、経験によるものもあるだろう(同じことを言っている)。人間がその人を生きるとはそういうことだ。
その人の持つ価値観を他人である僕が変えようとするのは、その人の積み重ねた人生や経験に対して、ある種の否定をすることにもなりかねない。
そのおこがましさは他人の家の玄関の上がりかまちで唐突にお酒を飲み出す厚かましさとどう違うだろう。
「良かれと思って」という言い訳は、常に加害者によって発言されるのではないのか。
しかしまぁ僕なりの解釈を、語るぶんには良いのだろう。それでも時間を使うことにまったく気が向かないのだが。
あるいはその善意の実現よって世界は少し平和に近づき、人々は幸福に近づくだろう。本当にそうだろうか。
労多くして功少なし。高効率主義はどこに行ったのか。
大事なことは、僕が期待されているほどの興味関心も好意も彼女に対して持ち合わせていないこと(同じくらい敵意も害意もないこと)を理解してもらうことと、同時に彼女の抱える問題解決に苦心する気持ちはあることを理解してもらうことである。
さらに寂しさ紛れに僕の家にやって来ることを回避する(現実世界での最優先事項である)ためには、彼女が彼女自身の不満と問題を正しく認識し理解し解決する必要があり、それを自力で認識できるような情報開示(と必要に応じては誘導まで)をする必要がある。
嘘だろ、こんなに手間が掛かることをしなくてはならないのか。他人の認識なんて制御したくない。
<PCデスクの裏をヤモリが走る。まだ幼い>
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【詳細は後で考える】
とりあえず気分も前向きになってきた。
鬱屈して眠っている間にいくつかの問題を放置していることも思い出した。
電気と水道の料金を未払いにしていることも思い出した。
放置すればセルフネグレクトになるが、僕にはいくつかのセーフティネットが存在し、まったく異なる価値観として機能する奥様(仮想)もその一部として機能している。
ときどき帰省している(帰宅かもしれない)ようだが、実のところそもそもどんな世界の住人なのか、僕は知らない。
いずれにしても僕の認識する問題とその解決は、自己言及的な性質を帯びた、認識と意味づけの結果によって現実世界のありようを変容させる目的の道程を進むことになる。
僕は僕の認識する僕や僕以外の誰か(今回は近所の老婦人)とその問題について考え直す必要があり、その中ではその誰か(老婦人)の考える僕や彼女自身についての認識を可能な限りのパターンで予測する必要があり、いずれの視点からも価値観からもかけ離れた客観から観察しうる僕や彼女自身についての意味づけを予測し、その上で自分が目的とする目標と、彼女が目標としうる目標の無難な妥協点を探り、そこに現実を移動させる(実現させる)手段を考える。
昔からこういう手法を取っているので、基本的に僕は瞬発力に欠けるし、決定打に欠けていると観察されている。なんとなれば「意味不明」のひと言で片付けられることもある。
そのとおり僕の認識しているものをほとんど誰も理解しない(できないのかもしれないし、する価値がないと思われているのかもしれない。僕には分からない)上、明確に言語化することは(上記の通りが精一杯で)僕自身にもひどく困難なため、伝達がむつかしい。
僕は往々にして説明することを放棄するし、仮に時間を掛けて丁寧に説明しても、手を掛けるほど複雑になるようで(自己言及性を持つ以上、そうやってループする全体の仕組みを概念として抽象的にイメージする必要があるわけで、具体的に説明するほど記述がループすることも多いためか)不思議と理解されない。
物事を短絡的に認識し、一意的に決定できる人たちとは思考や問題解決の手法が異なるのだろう。
老婦人の件を例にすると、一般的には「迷惑だから帰れ」と突き放し、帰らなければ警察を呼ぶのだろう。
その手法は迅速で確実で、一応の満足をもたらすはずだ。世界の平和は少し遠のくが。
僕の場合は(世界の平和みたいな)余計なことまで計算に入れる。
非常識な隣人が抱える不幸や、倫理に乏しい他人の自業自得と世界平和の相関性なんてものを真面目に考える人は少ない。
僕だってそんなに真面目に考えているわけではないが、少なくともその理屈を信じている。
ゴキブリが台所で発生したときに、堆肥や枯れ葉の積もるエリアを敷地に作って誘導し、自身の生活圏は忌避剤(あるいは殺虫剤)を使って棲み分けするより、シンプルに皆殺しにする方が簡単だ。
だから短絡的に目の前のゴキブリを殺すことしか考えない人は多く、自身の価値観の外にあるものは考えない。罵詈雑言を平気で吐く人がいなくなることもないだろう。
僕は狂った人とさほど狂っていない(自分をマトモだと思っている)人が共存できる世の中を実現するために、自分から世界に歩み寄ろうと考えて、考えるだけで疲弊して寝込むタイプである。
どちらが正しいとか、そういうことは思わない。どちらにも利点があり欠点がある。
その上で僕は僕のありようを選択し、結果的に理解はされないが、思った世界をある程度まで構築することに成功している。
なぜといって世界が変容するとき(たとえば水道が未払いで閉栓されなくなるとき)僕の価値観も変容している(公共料金をきちんと払うようになっている)からだ。
だからほんとうに公共料金はちゃんと払ってください。
今月も赤紙が来ちゃったじゃないですか。と奥様(仮想)に叱られるのだけれど。
しかし書けば書くほど(言葉にすればするほど)狂った人みたいな感じだよね。電波系というか。
スピリチュアル界隈(笑)を小馬鹿にしてるのにね。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
病的ではない正しさもあるし、正しさを妥協しない姿勢も必要だということをもう一度考え直すきっかけになった。
僕は妥協のエキスパートなので、考えを少し改めようかと。
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[Engineer]
:青猫α:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Generator-Reactor-Resistor-
[Object]
-Camouflage-Human-
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[Cat-Ego-Lies]
:青猫のひとりごと:
:暗闇エトランジェ:
:月夜の井戸端会議:
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