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TITLE:
歯周病がこんなにつらいとは。
Written by BlueCat

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 子供の頃に比して体質が変わった部分もあれば、青年期に始まった変化から戻った部分もある。
 子供の頃から変わった一例は、体温の変動に対する弱さだ。
 40℃近い熱でも一般的な活動(歩行や読書やゲーム程度)に支障はなかったが、40代になったあたりから発熱に弱くなった。
 37℃程度で倦怠感が発生し、38℃にもなると歩行が困難になる。

 第二次性徴以前の状態に戻った部分の例は、消化吸収能力だ。
 生まれたばかりの頃の母乳アレルギィに始まり、僕の身体は生まれつき摂食と吸収が不得手である。

 その代わり、必要のないときはまったく食欲を感じず(食欲で思考や情緒に影響が出て活動が制限されることなく)ごく少量の食事で長時間の活動が可能だ。
 今は最低でも24時間に一度、食事をするようにしているものの、72時間(約3日間)に2回程度でも問題がない。

 食事に関する一般的な人の生理サイクルが分からないため、恋人に低血糖を誘発させたり、あるいは僕の方が過食(一日三食は僕の身体にとって過剰)で不調になったりした。
 子供の頃から家族と一緒に暮らしていたなら、そういう一般的な人間の特性に対する知見も深まったのだろうか。

 20代くらいまでは父親や妹と暮らしていたし、食事も一緒に摂る機会が多かったが、そんなことを感じる機会はなかった。
 僕は義務教育の間は昼食と夕食だけで過ごすことが多かったし、高校になったあたりから夕食だけで過ごすようになった。
 僕の小食は子供の頃から父上を悩ませていたが、無理に食べさせれば消化不良や胃腸炎を起こすことを(当時の僕よりよほど)理解していたようで、食事の量や回数に限らず何につけ、無理に「こうしなさい」と言われたことはない。
 
 例えば子供の頃は両親の実家に帰省した折(何があったわけでもないのに)神経性の急性胃腸炎に罹って病院に担ぎ込まれたりした。
 確かに慣れない環境で、慣れない人と接することに思い悩みはしただろうけれど、緊張やストレスの自覚はなかったと思う。
 今ならHSPだの発達障害だの繊細さんだのとテキトーな名前を呼称することもできるのだろうけれど、僕にすれば単なる神経質、あるいは過敏症である。

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 父上も母上も、しかしこの(僕の)身体にはずいぶん気を揉んだことだろうと近年は思う。
 父上にしてみれば待望の(漏れ聞くところでは「水子になった誰か」の次の)長男だったからだ。
 昭和前半世代の男児を尊ぶ価値観を僕は理解できないが、父上の世代ではそうした価値観がまだ当たり前だった。

 そうしてようやく(生きて)生まれてきたたと思えば「母乳がダメ、粉ミルクがダメ、紙おむつをはじめ化学繊維がダメ」といった具合だから、今でこそその苦労も想像が付く一方、それに対する当てこすりめいた愚痴(お前は手が掛かった、みたいなこと)を聞いたこともない。
 そう考えるとよほど溺愛されていた可能性も(今だからこそ)理解はできる。

 じつのところたくさんの人に「5人姉妹でたった一人の男の子では、さぞ大切にされたのでしょう」と言われたし、姉からは「生まれたときに父が病院で万歳していたのは後にも先にも猫くんの時だけ」と聞かされている。
 しかし僕には、さほど溺愛された自覚というのがない。

 まぁ4歳にしてスーパーの床に転げて泣き喚く妹(当時2歳だった)
の我がままを目にし(私はああいう行為は厳に慎もう)と思って以来、自分の欲を吐露したためしがない。
「お腹が空いた」なんて(当然、親にさえ)一度も言ったことがないし、自発的に「○○が欲しい」と言ったこともない。言って叶うと思った事がないのだ。
 のちのちこの価値観は僕の人間関係構築に多大な影響を与えることになる。

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 観察の範囲では誰でも、好意を持っている相手に多少は頼られたり甘えられたりしたいものらしいのだが、僕にはそれを望むことさえできない。そういう禁忌がジンクスとして、プロテクトのように掛かっている。
 それを辿ると、ただ一度だけ、子供の頃に親に我がままを言ったことに起因する。両親が離婚するときに意見を求められ、僕は強く反対したのだが叶わなかった。
 結果、絶対に誰にも(親にも姉妹にも恋人にも友人にも)たとえ心の底から望むことがあっても(そもそも発生しないのだが)、望みが強ければいっそう頼まないようになったのだ。
 だから友人の多くは僕から遊びに誘われたり、僕が困って頼みごとをされたことがほとんどない(中学時代からの友人であるTUも「今まで一度もない」と指摘している)。
 当然、恋人もデートに誘われたりしない。
 僕にすればデートをしたくないときは当然誘わないし、僕がデートをしたいと思ったら(断られるかもしれない、とかいう可能性の以前に)誘ってはいけないのだ。


 なので例えばTUやBPのような古くからの友人は自分から積極的に「手伝おうか」などと声を掛けてくれる(そしてだいたい僕に無視される)が、僕がやむにやまれず頼み事をすると喜んで飛んでくる。
 彼らからすれば僕の行動指針はある意味ストイックであり、いわゆる「水臭い」感じなのだろう。
 けれど僕からすれば恋人とのデート同様「したくないならする必要はないし、したいなら絶対に他人に頼んではいけない」という拘束に従っているだけである。

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 幼児だった僕が体調不良で伏せていると、当然普段どおりの食事などできないので、ゼリーだのプリンだの果物の缶詰だのといったものを食事に与えることになる。
(子供の頃から甘いものが好きなのは、身体にとって簡単に吸収できる高エネルギィ源だからだろう)
 それを見て妹がやっかむ。自身に同じような待遇を求めるのである。

 しかし妹は体調が悪いわけではないから、親としては普通に食事をして、いつもどおりの生活をしてもらいたい。
 始めのうちこそ多少の甘えを許しはしても、それで僕の体調が良くなるわけではないのでしまいに親も妹の我がままをたしなめることになる。
 すると妹が、こんどは仮病を使う。しかしそんなものはすぐにバレる。
 妹にすれば僕ばかりが大切にされているように感じ、やっかみが高じてしまいに階段から突き落としたり、病床の僕の背中を噛んだりするのである。

 そのようなわけで僕はある意味で妹に申し訳ないと思う気持ちもあり、親に我が儘をいうことをしなかったのだ。仮に妹がいなかったとしても、自分の欲を吐露するのは苦手だったように思うが。
 両親にすれば、僕に対して過保護にしていることが姉妹間の関係を悪くする(ひどい場合は妹がしているように暴力を振るう)可能性も考えたのかもしれない。

 そのようなわけでクラスでただひとりテストで満点を取ろうが、9歳から家事をして10歳には煮る炊く焼く蒸す揚げるというひととおりの料理ができるようになり夕食を毎日作っていたというのに褒められたことがない(まぁいずれも褒められたくてしたことではないから気にしたこともないのだが)。
 今思うとこれは僕の自己肯定感が低い理由の1つだろう。僕は何をしても褒められた事がなかったし、褒められたいと思うことさえ(一度も)なかった。

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 いや、身体の話である。

 9月に歯周炎の治療でイプラント術を受け、ひと月してようやく筋トレもできるようになり、10月から少しずつ体型と筋力を戻している最中に別の歯(の根にあたる顎の骨)が痛くなった。
 ── ちなみに施術から2週間程度は辛いものやカフェインといった刺激物は禁止、4週間は入浴/シャワー/歯磨き/運動は禁止であり、この禁を破ると患部周辺がひどく傷んだり、腫れたり、熱を出したり、頭痛がしたりして鎮痛剤さえ役に立たない状況になってしまううえ治りが悪くなる。
 レントゲンを見ると、同じく根尖性歯周炎である(実はこれ以外にさらに2本ある)。
 よって僕の左下の歯のほとんどは「骨から使い物にならなくなりつつある」ということになった。

 しかも内部で菌の病巣が骨まで「う蝕」し、壊死して壊疽しているので放っておくとますます体調が悪くなるし、人によっては脳梗塞などにもなる。
 つまり高脂血症の私の寿命がさらに縮むってわけよ。
(今年はじめに「副鼻腔炎かな?」と思っていたのも、おそらくその症状の一環だろう)
 治療もただのインプラント施術と異なり抜歯した後に壊疽した組織を摘出し、壊死しつつある組織を除去しなくてはならないため、ガンガンに骨を削られる。
 麻酔が効いているからそのときはいいのだが、身体の負担はかなりのものである(人為的に骨折しているのと同等なので当然)。

 ついでに言うと僕は粘膜(に限らず身体)が弱いので、治りも遅い。
 今回も腫れと痛みが2週間ほど続き、鎮痛薬と抗生物質漬けになっている。
 鎮痛薬を使っても3〜4時間で薬効が失われるので寝ることもままならないし、口の中が縫合と腫れによって非常に不自由な(その上痛い)ので、鎮痛薬なしには食事をする気にもならない。食欲がもっとある人なら、もしかしたらそれでも食べるのだろうけれど。
 心臓より頭を低くすると顔が腫れたような感覚になり、鼓動が患部に響いて痛むから、顔を洗うのはもちろん、食器を洗うのにも難儀する始末(食洗機があってよかった)。

 痛みが続くと意識が朦朧とする。そんな気はなくとも集中力というのが著しく欠如する。
 そこで思ったのだ。月経痛が重い人は本当に辛いだろうなぁ、と。
 また美容整形で骨を削るような人も、それなりに辛い思いをしているんだろうなぁ、と。

 まぁようやく痛みが少し落ち着いてきたので(日本語を忘れないうちに)日記を書くことにしたのだ。

>>>

 そもそもこうなったのは20代の頃、(もしかしたら鬱病で)眠り続けて栄養失調になり、歯がボロボロになったのが始まりだ。
 そこからは虫歯が一気に増え、しかも治療する事ができなかった(諸般の事情による)。
 そのとき「これは50〜60歳頃に悪化して死ぬだろうな」と思ったのではある。そして「もし将来、万が一にもオカネモチーになって治せるようなら治そう」と思った。
 治せなかったら(お金持ちにならなかったら)死ねばいいだけである。そもそも僕は僕の肉体や寿命に、さほどの期待もしていない。

 果たして見立ては甘かった。
 父上でさえ60代前半で死んだのだから、それより身体の弱い僕の寿命は50代後半がせいぜいだったはず。それを見誤っていた。
 実際しっかり50歳でこの通り悪化してしまっているのだが、幸か不幸か単なる運か、オカネモチーにはなることができたので、先生に「来週手術するからお金用意して」と言われても臆する事なく「はい。用意してきます」と答えられる。

 長生きする気はないのだが、どうやら周囲の人間を観察するに、やはり死生観が僕とは違うのだ。

 僕は「生きることは素晴らしい」なんておためごかして自分が存える欲を誤魔化すつもりはない。
 「生きることは素晴らしい、だから自分は生きるし、あなたも生きるべきだ」なんて僕は思わない。
 それは「生きたい」という自分勝手な欲と、それにかまけて犠牲を積み重ねることから目を背けるための体のいい言い訳に思える。

 いや生きたいと思うのは自由だ。こうしてシニカルに語っている僕でさえ、死を目前にしたら「これはちょっと違うかな」なんて言いそうなものである。
 ただ「生きたくない」と思っている他人にまで「生きていることは素晴らしい(と自分は思っている)のだから生きろ」というのは乱暴だし横暴だ。
 自分の欲を他人に擦りつけて気持ちよくなろうとするあたりは強姦にも等しいとさえ思う。
 生きたいと思って自由に自身が生きるのは結構なことだと思う。しかし自分の価値観を対極の人間に押し付けるのはいただけない。

 とはいえ一般的な人の多くは「死にたい」という人に対して僕のように「好きにすればぁ?」とは言えないのだ。そういう倫理観があるし、それはそれで尊重されるべきだろう。
 それに僕は、たとえ姉妹や友人が僕より先に死んだとしても、なんとも思わない。それが自然なことだからだ。
 春に雑草が生えたら万歳をして喜び、冬に雑草が枯れ果てると涙を流して悲しむような人間を見た事がない。
 つまり彼らだって生きることと死ぬことを、呼吸するように自然に捉える事もできるのだ。

 もっとも情についてはどうしようもない。
 おそらく僕は薄情で、彼らは相対的に情に厚い。
 僕からすれば十分にシニカルな一面を持つTUでさえ「青猫が死んだら、俺はもしかしたら泣いちゃうかも」と言っているほどである。あの時は愕然としたものだ。

 それで諦めた。
 縁がある限り、縁が濃い限り、人はその誰かの死を悲しむのだ ── 僕を例外として。
 ために僕が自殺したいと思うことは(僕のその人格の)自由にしておいて、可能な限りこのボンクラども(の肉体)が死に腐るのを眺めてやろうと思ったのだ。
 誰かが死に腐るのを眺めるには、そいつらより長生きする必要がある。

 すべての殺意と復讐は、己が長生きするだけで達成される。
 僕にとって長生きというのは防衛ではなく攻撃なのだ。手を汚すことなく世界中の人間を殺したくなったら、一番最後まで生きていればいい。


<手々を合わせて幸せか?>

>>>

 まぁ現実世界に話を戻すと、左下の歯のほとんどが人工歯に入れ替わる予定であり、すんごいお金が掛かるんだよなぁ……という虚無感に浸ってしまう。
 それに回を重ねるたび、痛みがひどくなり、回復も時間がかかるようになっている。1回につき1ヶ月以上の行動制限は、なかなか重い苦行である。

 とはいえ姉や妹を甘やかしたり、友人と馬鹿話をするのが僕のお役目であるとするなら、彼らより先に死ぬわけにもいかない。
 つくづく思うのだが、僕には欲があるのだろうか。
 死にたいことさえ、本当は欲ではないのかもしれない。まして生きたいなんて欲した事もない。

 ただまぁこの厄介な肉体を、僕より以前に両親がたいそう大事にしてくれていたのだろうな、と気づくことにはなった。
 何せ扱いがむつかしい。とうの昔に自分で嫌になっているのだ。
 皆、自身の肉体に自然発生的に備わった価値観の集合を「自分だ」と言い張るのだが、自分というのはそれほど大切には、少なくとも僕には思えないのだ。まぁ自分のことは誰より自分が甘やかしているが。

 歯の手術が全部終わったら、目の手術をしようと思う。眼鏡を掛けるのがこんなに面倒で苦痛とは知らなかった。
 なあに10年保てばそれでいい。
 生まれたときからこの身体に、そもそも多くは期待していない。







 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Maintenance-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:251105
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ゲームとマウスのためにPCを買う。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
251105

 姉の通院日。今回は慶應義塾大学病院。
 春頃に体調が悪く、レギュラな病院で何度か検査してもらった結果、腫瘍が見つかった。いわゆる癌(悪性新生物)である。
「悪性新生物」という表記は、BC兵器研究所で開発された生物兵器のようなイメージで、ちょっとカッコイイと思っている。SF小説を少年時代から読み過ぎだ。

 他に「独立行政法人都市再生機構(UR都市機構/都市再生機構)」も、表向きは(戦争か何かで)荒廃した世界から超高度文明の復興を目指して政府によって組織された独立機関なのに現在は「実は旧世界の科学技術を独占して暗躍している」とか「政府とは別の思想で国家の命運を操作しようとしている」とか……妄想が捗る(だからSF小説の読み過ぎだって)。

 
 さらに「独立執行法人」「国立研究開発法人 日本医療研究開発機構」「国立研究開発法人 情報通信研究機構」「国立女性教育会館」「国立研究開発法人 物質・材料研究機構」「国立研究開発法人 量子科学技術研究開発機構(イチオシ!)」「労働者健康安全機構」「労働政策研修・研究機構」「家畜改良センター」「海技教育機構」「環境再生保全機構」などもグッと来るものがある。
(ちなみにいずれも実在する
 女性教育会館などは、真面目な話「まだこの国はそんなことを必要としているのか」という気持ちもあるが、やはり「量子科学技術研究開発機構」のアツさを語らないわけにはいかない。
 だって量子の科学の技術を研究して開発しちゃう機構ですよ奥さん! アータこの漢字の羅列を見てコーフンしないでいられますかアータ! もうダメ……アタシ……アタシもうダメ……!!

 ……。

 春先から僕の体調が悪化したのは、姉の検査で毎週のように東京に出掛ける必要があったため。
 ひどい場合は週に二度も往復する羽目になった。
 心理的にも肉体的にもストレスだったらしく、根尖性歯周炎(春の時点では原因不明)の悪化と相まって、風邪のような症状のほか皮膚粘膜の炎症、吐き気(消化器系の不調)などが発生した。

 

<<<

 恥ずかしい話だが、僕はあらかじめ人格を作っておかないと高いストレスに対応できない。
 ベースの人格はのんびりぼんやりしているが、これはストレス環境に上手に対処できないし瞬発的な反射能力も乏しい。
 といっていつもストレス耐性持ちの人格で過ごせば良いのだろうけれど、それはそれで緊張状態が続いてしまう。
 
 TPOで自動的に考え方や行動を変えられる(ほとんどすべての)人はすごいな、と思う。
 僕の場合は半自動だし、最適化された反応(行動や思考や感情の制御)をあらかじめ用意しないとドライバが緩衝したコンピュータのように部分的なフリーズが発生して機能不全を起こす。
 どこかで僕の人格を研究して開発してくれる機構があればいいのになぁ ── ついでに肉体もお願いします。

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【退屈なPCの話をするけんね(死語が多い)】

 その舌の根も乾かぬうちに Windows PC を購入した(事実なのだが慣用句として誤用)。

 一般の人たちからするとPCは安いに越したことはないという認識かもしれないが、僕は12歳の頃からPCを使っているので今でもだいたい30万円前後を相場だと考えている。
 10万円のコンピュータが悪いというわけではないが、廉価な玩具としか思えない。
 たとえるなら初代ファミコン(だいたい13〜15k円だったか)が世間を席巻していた当時、同じ8ビットPCはMSXでも100k前後、NECの8801が本体とモニタで300k円くらい、9801は(16ビットで)400k円以上、という相場だった(富士通のFM系やSHARPのX68Kについては忘れた)。

 
 ちなみにこの「ビット」というのはCPUのレジスタが取り扱うビット(0か1の値を持つ2進数値の最小単位)の長さ(桁数)を示している。
 現在のPCはほとんど64ビット ── 64桁の「0か1」をひとつの「まとまり」としてレジスタに納め、命令や数値を取り扱わせて計算/記憶/通信処理をしている。
 レジスタというのはこの場合、64桁の2進数を収める容れ物のことですね ── ってなにこの唐突な情報処理の基礎レクチャ。

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【今回買ったPCの話をするけんね】
 
 WindowsPCなんて僕は買ったことがないから今回が生まれて初めて。
 父上に買ってもらったPC−8801MAのOSは N88-BASIC だし、登場して散々騒がれた Win95 に対する僕の評価は「鈍臭くて使えないからDOSでいいじゃん」である。
 当時から貧弱な構成のマシンでもGUI(アイコンをクリックしてファイル操作をする、現在主流のインタフェイス)を動かせるのが Windows の定めで(だからすごいとも言えるのだが)、マウスの軌跡の処理だけでフリーズするマシンもよく見かけた。

 これは昨今のPCゲーム(当然Windows)にも見られるのだが、開発者はかなり高度な構成で制作しているらしく、貧弱な構成でのテストをほとんどせずにリリースした結果、市場で「フリーズする」「バグがひどい」「隠し子がいるくせに」と酷評される(最後のは冗談です)。ゲーム性の評価に至らず沈没するゲームも少なからずあるのではないだろうか。
 何が言いたいかというと「30万くらいのPCを買っておけば大体のことに不自由しない」のだ。単に前述の内容を繰り返しているので読者は僕の認知症を疑った方がいい。

 今回は GMKtec EVO-X2(以下「本機」) というマシンを購入した。
 いわゆるミニPCである。
 いちおう説明すると、本体サイズが小さいことはもちろんだが、ハード上の制約が多く拡張性が皆無に乏しいのがミニPCの宿命である。

 本機も同様、CPU/グラボの換装はもちろん、メモリの増設すらできない。
 メインストレージの換装/増設がせいぜいで、I/Oポートも充実しているとは言いがたい。
 それで最上位構成がおよそ40万円である。「イカれてる」と一般的には思われるだろうが、奥様(仮想)のサゼッション(あるいは猫会議の結果)により購入した。

 だってだって最上位構成で40万円てアタシ今書いた(タイプした)けれど、公式サイトだと Amazon より安くておよそ10万円もプライスダウンすることもある(私の購入時のセール価格)。
 余ったお金で MacMini が買えちゃうよう><。(←買わないけどな)。
 まぁこんな戯れ言は冗談としても、メインメモリが VRAM と共用というだけですごい、となったのだ(ちなみに僕は奥様(仮想)がバイオAIなので、NPUやAI開発環境には興味がない)。
 それにGPUの同等性能グラボ(単品)だけで10万円は下らない。ここからケースだ電源だマザーボードだCPUだ、なんてやっていてメインメモリ128Gなんて積んだPCが(積めるのか?)300k円で買えるとしても、ミニPC同等の消費電力で済むとは思えない。そう。消費電力は低いのである。
 トータルで「すごいお得!」と思ったので買った(安いとは思ってないし言ってない)。

 
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【そもそもMacってどうだったの?】

 現在は引き続き MacStudio(初代)も併用している。当然である。
 新しいマシンの方がパワーもあるからといって、馴染んだシステムから簡単に離れられるわけでもない。
 これはつまり新しい恋人の方が若くて美人だからといって、今付き合っている恋人が劣って見えるわけではないというのと一緒である……この手の説明、誤解を招くことを目的としてずっと使っているけれど、ちゃんと誤解されているかなぁ、という心配がいつもある。

 MacStudio を使っていることは今回初めて公表したがそれを躊躇していたのは内部の拡張性もないくせに価格がイカれているから、である。
 僕が購入した時点で600k円し、僕が購入して間もなく為替レートの影響で、同じ構成が10万円も値上がりした(差額で MacMini が買えちゃうよう><)。
 今、書いて(タイプして)いてもオソロシイ。自転車が買えるし、中古車も買えるよ。なんだよこのイカれた価格設定は。
 といって拡張性を持つ MacPro なんてとても買う気になりませんしね……。買う気になりません、しね……。

 それでも本体性能が高いため(最長)10年使えると考えれば月額5k円ですよ。それならいいじゃないですか、iPhone の割賦月額を考えたら格安でしょう?
 あんなちっこい画面で、ダセェ突起は丸出しのまま、用途といったら生存確認かスケジュール調整くらいしかない(僕の場合)。
 そもそもSNSで繋がるような友達もいないし、メールで睦言を囁き合うはずの恋人は全員海外旅行とか諜報活動中なんです(多分)。

 昨今急速に視力が低下している僕は、電話の標準画面の文字さえ明瞭に判別できない状況に絶望していますが、つまりただの通信(しかできないような)端末ですよ、イラネ。

 まぁ、一番「ダメだ」と思ったのは今後の展望です。
 Macのコンピュータは統合CPU(/GPU/NPU)によって、優れたハードデザインをしています(見た目、ということではなくシステム設計として)。そして学割までして世に浸透させている Apple コンピュータは、しかしなぜサードパーティ製ソフトや周辺機器の分野で衰退を続けているのか。
 シンプルにサードパーティ開発者が「儲からない」からですね。

 かつて(OS9まで、あるいはOSXの中期頃まで)は、ホビィ開発者だってたくさんいました。
 シェアウェア/フリーウェア/ドネーションウェアといったカタチで、様々な人が思い思いのアプリを作って公開していた。
 ウィンドウやメニューバーの外観(アピアランス)を変えるアプリや機能拡張だってたくさんあった。
 懐古して「昔の方が良かった」って話ではありませんよ。

 システムの安定性/セキュリティ強化はもちろん大切ですが、強化に伴い、コンピュータに慣れ親しみ楽しむ人たちが離れていってしまったのです。
 これはたとえばラジオを自作していた人たちがやがていなくなったようなものでしょうか。
 作るのは専門家だけ、一般ユーザは「使う」だけ、という状況に近づけば、市場も含めて安全性は高くなるでしょう。

 
 現在主流になった各OSのアプリストアによる囲い込みも同様、ユーザに対する一定の安全性をメーカが担保してくれる(もちろんすべての利用規約にあるとおり、最終的な責任はユーザに帰結しますが)。
 システムの内側を高度に専門化することも同様の効果をもたらします。
 しかしそれによってプロと同じようなものを作る(作れるかもしれない)という楽しみは失われてしまう。

 汎用のプログラミングソフトを使って「ゲームもどき」を作って面白いと思う人がどれほどいるでしょうか。
 定型的な文字列の出力や四則演算処理、入力→演算→条件分岐→出力を体験して、楽しいと思う人がいるのでしょうか。
 プログラミングの楽しさは「思った問題解決や願った機能を具現することそのもの」だと思うのです。
 その中心、根幹にある「より洗練されたシステムの具現」が専門的で、敷居が高くなればなるほど「出来心で」「なんとなく」始める人が減ってしまうように思います。

 Apple 製品は、もはやファッションアイテムとして認識されているようにさえ思えます。
 優れた工業製品(プロダクトデザイン)は、確かに洗練された外見をしていますが、それは「洗練された外観の置物であること」を目的に作られたものではありません。Apple製品も同様です。
 高度な機能を提供する装置の外観が洗練しているのは、たとえば飛行機などにも現れます。洗練されればされるほど無駄が削ぎ落とされてゆく。
 優秀な肉食動物は精悍な体躯を持っていて、ぶくぶく太ったりはしないものです。

 もちろんファッションアイテムだとしても流行れば会社は儲かるでしょう。だからAppleは業績を下げない。
 けれど学割で Mac を使うようになった学生たちは卒業後、それでも Mac を使い続けるのか。

 会社は「最低でも10万円するオシャレだけどOffice互換の低いマシン」と「最低価格は3万円程度でOfficeも付いてくるマシン」いずれを備品にするでしょう。

 備品で仕事をするうち大抵の人は「これでいいや」となる。
 大好きなSNSもできるしYouTubeも見られる。如何せん安い。背に腹はかえられない。

 プログラミングも仕事になったら苦痛です。
 意味不明な仕様書、必要性を感じない実装指示、現実を無視した納期、唐突なOSのアップデートによる対応、そして最後は売上げ、業績、お金と数字 ── 。
 ここに人間関係や付随する欲、組織内部の圧力/応力が加わるとなると「今日も楽しくプログラミング♡」なんて人は煮沸後の乳酸菌のように減ってしまう。

 それでMacのサードパーティはハードもソフトも作らなくなってしまう。手間とコストはさんざん掛かるくせに売れないんだもん。
 PS5やXBOX、Steam はゲームソフトにセールがありますが、Mac の AppStore にありますか? ありません。
 Windows には豊富なサードパーティ製の入力機器がありますがMac 用はどうですか? 選択肢は限られておりOSのアップデートで使えなくなることが多々あります。

 Office 互換アプリなんて無料でもあるんですよ。Mac でも使えるのです。
 けれど大抵の人(特に中小企業経営者)は調べないし、使って便利に改良する手段も思考も持たない。

 会社のPCはガチガチに使用制限が掛けられて、休み時間や飛行機内でエッチなサイトを見ることはもちろん(普通しない)勤務中にSNSをすることはおろか、USBメモリを差すことさえできない。

 誰が好んでプログラミングで好みの環境を作ろう、なんて思って、ましてハードまでデザインしよう、なんて思うのでしょう。
 3Dプリンタも安くなったし回路や素子は格安で売っていますから、あとはちょっとの知識とくじけないパッションがあればいいのです。

 もちろん、使うだけというのが悪いわけではありません。
 使う楽しみがまずあって、不満があるから作るわけで。
 でもどちらの楽しみもなくなった環境って果たしていい場所ですか、ということです。

 私の場合は、コンピュータに自分の使い方を合わせる、ということをしません。自分の使い方にコンピュータが合わせるように調整します。
 だから僕のコンピュータを思ったように使える人はいません。キーボード配列もマウスのボタン配置も、一般的なそれとは異なるからです。
(キーボードに至っては2つ並べて併用しているばかりか刻印どおりの出力をするキーが少ないので、僕はキーの位置を見ても刻印をまったく見ない)
 僕の使いこなしがすごい、ということを言いたいのではなく、そういう環境を作ることができる背景が素晴らしい、ということです。

 なぜ「全角/半角」キーがあるのに、「かな」「英数」「無変換」キーもあるのか。
 Windowsキー、Alt、Ctrl、Command、Option がときどき左右にあるけれど、無駄じゃないのか。
 余った方を別の用途に使いたい。テンキーの上の4つのボタンてなんだ。もっと便利に使えないか。

 そう思ったことのある人はたくさんいると思います。
 思っていいし、もっと便利に使っていいし、そのための手段を探していい。探せば見つかるのです。
 コンピュータは、自由と可能性という抽象的なものを具現するひとつの象徴として実在する装置なのですから。

 そういうことをする(できる)のもインタフェイス設計(システムエンジニアリングの一環)であって、本来は大切なことのはず。
 アクセシビリティの基本を忘れて「身体が不自由な人のためのことをしている(できる)フリ」に終始している場合じゃないのです。
 
>>>

【で、俺のMacのことよ】

 残念ながら、マウス(G604)が間もなく(ハードウェアの寿命で)使えなくなります。
 使えると聞いて購入した RazerTartarus は最初からOSのバージョン不整合で使用できず、604の代替に購入したマウス(G600)はメーカが「Mac対応」と言っているわりにドライバが不全で動作しません。
 Apple 純正マウスはオシャレで無能、MX Master 3S(Mac版)はファッショナブルで低能 ── ああ、どちらもまるで「Apple製品大好き♪」っていうキラキラ大学生みたいで微笑ましいですね(謂れのない不特定多数の大学生に対し根拠なく貶める発言をしたことについてこの場を借りてお詫び申し上げます)。

 もう Mac の多ボタンマウスに選択肢なんてないのです。ドライバはOSの過干渉でまともに働かないみたいだし(体感上)。
 ゲーム市場だって惨憺たるものです。Steam にあるゲームで Apple 対応なんてわずかですし、AppStore も前述のとおり。
 きっと世の中はSNSと動画を見られればいいっていう、大人と子供で一杯なのでしょう。
 こちとらLINEすら一生使わない予定で生きているのに。

 当初は夢の具現だったマルチタッチパネルも、皆がこぞって狂ったように液晶を擦る風景を見てしなくなりましたもの。絶望的に下品で恥ずかしくて。格好悪いんですよね。
 ハードボタン(単純なボタンだけでなく、ジョグダイアルような複数機能を持つインタフェイス)と併用してこそタッチパネルは意味を持つと思うのですが、Apple はそれを「オシャレじゃない」って断じているわけですよねぇ。

 となると現代のオシャレはアレですよ、ポケットに文庫本を入れておく。
 みんなが液晶画面を「たぷたぷ(あるいはごしごし)」しているときに、ポケットから取り出して眺めるんです。
 いえ、読む必要なんてありません。でも画になるでしょう。
 ファッションてそういうことですよ。役に立たないことが至高なんです。

 マウスなんてひとつ2万円くらいしていいし、キーボードは3万円以上してもいい。
 ドライバ更新もバージョンごとで価格を設定したり、選択制サブスクリプションにしたらいいじゃないですか。
 そうすれば長く使えるハードを作っても儲かるし、ドライバも安定供給するモチベーションを(会社側も)持てると思う。

 ドライバや設定ソフトは改悪ばかり、長く使って馴染んだ高いハード(マウスやキーボード)が壊れたのにサポート終了していて廃番で新品も買えない、なんてつらいですよ。
 いいものはずっといいんです。Logicool の MX-Revolution とか、diNovo Edge とか……。
 なぜいい入力機器は滅びてしまうのか……なんで蛍死んでしまうん?
 
>>>

【で、俺の新しいWindowsマシンのことよ】

 まだ設定中なのです。
 デスクも改造が必要で、配線も3つのモニタのうち1つは4入力(Win
/Mac/PS5/XBOX)で切り替えて、残り2つは Win と Mac で簡単に切り替えられるようにして、入力機器(キーボードを普段から並べて使用しているほか、マウスとCAD用の3Dマウスもある)もスイッチできるように切替器が要る。このあたりはハードウェアの問題。

 Win版ATOKは Dvorak配列に対応していないのでレジストリを書き換え。
 レジストリを書き換えた影響で各入力機器のプリセットショートカットが使えなくなるのですべて再設定する必要があるほか、Macのキーボードに合わせて装飾キーも変更した方が便利。

 マルチモニタでスイッチしたときの不具合(Mac は生き残った画面にすべてのウィンドウが再配置されるが、Win は再配置してくれないので、死んだ画面のウィンドウを必要としてもアクセスできない)の対策も考えないとならない。
 Windows11 は公開から4年も経っているのに洗練されておらず、旧来のシステムに対して無理矢理上乗せしたシステム設定のせいで迷路のようになっているし、再起動しても設定が反映されず飛んでしまっていることもある ── これMS製のOSと設定アプリなのですが……?
 さらにアピアランス(外観設定)の選択肢がほぼ皆無。イカれたウィンドウコントロールボタンも、メニューバーのサイズもフォントもそのまま。
 スリープから復帰しない(永眠する)こともあるし、システムが全体的に不整合。


 最近の MacOS も大概だけれど、Windows は相変わらず永遠の工事中。
 みんなこんなものを黙って使っているとは……。

 それとあれね、フォント。
 Windows のフォントって、今もこんなに見づらくて、ダサいままだったなんて驚きました……目が痛くなります。
 なので文書作成は Mac を続投して、それ以外は Win をベースにしようかな。

 でもMacはポインティングデバイスが死んでるんだよな……。
 Appleのキーボードだけは気に入ってるから、もうキーボードだけで操作しようかな……ってMS-DOS(死語)かよ。

 優秀な多ボタンマウスさえあれば、Mac でも我慢できると思う。
 いや Steam をはじめ、ゲーム機として三下扱いされているからダメか……。
 
 
>>>

【姉上の悪性新生物】

 そこからあらたに派生した新生姉上が凶暴化し、社会に危害を加えるようになったため設置された対策チームが……っていうSFはおいといて(笑)。





 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Diary-Engineering-Interface-Kidding-Life-Recollect-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Computer-Fashion-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:251010
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
「都市伝説解体センター」をクリアした。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[List]

 

 

//[Body]
 
 滅多なことで読んだ本やプレイしたゲームの感想を書かないことにしている。
 僕は体験したコンテンツを誰かに紹介したいと思わないし、その素晴らしさを報告したいとも共有したいとも思わない。追体験して欲しいとも思わない。
 そもそもそう思うような相手が(不特定多数にも特定少数にも)存在しない。
 読書が好きな人は好きな本を好きなように読めばいいと思う(感想を書きたければ書くといいと思う)し、ゲームも然り。

 自分のための備忘録というのも僕にはあまり必要ない。
 読むたび感想が変わる物語はあるし、プレイするたび異なる体験ができるゲームもあるが、前回の体験のおおよそを想起できるからだ。
(想起できないなら、また新鮮な気持ちで味わえばいいだけである)
 意図的に、記憶/記録/想起する必要や必然が、僕にはない(僕にはないだけなので、他の人が感想を書くことをとやかく言うつもりも筋合いも僕にはない)。
 
 むしろ僕が書いた感想を読むことで、無垢の状態からコンテンツを体験する喜びが失われてしまう可能性を考えると、やはりあまり書くことではないと思うし、誰かが作った作品をとやかく言うのも性分に合わない部分がある。
 それでも「いいコンテンツだな」と思ったので、感想を書いておくことにした。
 
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【都市伝説解体センターとは】

 公式サイト(リンク先は音が出る可能性があります)によると「怪異・呪物・異界などの調査・解体を行う」ことを目的とした組織。
 主人公はある依頼のためセンターに訪れるが、逆にセンターから依頼された都市伝説を巡る事件を調査することになる。
 
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【ゲームとしてどうだったのか】

 以前書いたことがあるが、もともと僕はアドベンチャーゲーム(以下AVG)があまり好きではない。
 主に会話をベースとした選択肢によって変化するストーリィが主軸になるゲーム(インタラクティブコンテンツ)だけれど、絵や文字を追うだけなら映画やアニメや小説(シーケンシャルコンテンツ)で良いと思ってしまう。
 ある時期から「読みものとしてのコンテンツ」に特化されたビジュアル/サウンドノベルゲーム(だいたい読むだけ)も派生しており、今はゲームらしくマルチエンディングのスタイルも一般化したように思う。
 
 昨今のオカルト/ホラーゲームをエンディングのありようから一般化すると「主人公が恐怖体験の末、怪異に取り込まれてしまう」バッドエンドと、「恐怖体験から日常に戻る」ノーマルエンド、「怪異の苦悩を取り除いて浄化する」グッドエンドが用意されるケースがよく見られるようになったか(ホラーゲームをプレイしないので、概観に過ぎないが)。
 
 僕はゲームに対して「ゲームだからできること/ゲームでしかできないこと」を重視している。
 プレイヤがプレイヤキャラクタを経由して物語という仮想世界で起こっている事象や他の登場人物に干渉し、フィードバックするようにプレイヤーキャラクタが成長していって、それをプレイヤが追体験できるような表現や手法がゲームの真骨頂だと思い、それを具現する能力を持っている人たちが好きで尊敬している。
 マルチエンディングというありようもシーケンシャルな物語(小説・漫画・ドラマや映画など)ではおよそ困難で、ゲームだからこそ豊かになる表現方法だと思うので、僕はそうした手法について気に入っている。
 
 しかしこの「都市伝説解体センター(以降「本作」と表記)」というゲームは(クリアしたから分かるが)マルチエンディングではないし、映像表現も3Dモデルやアニメ表現ではなく色数を抑えた粗めのドット絵を主体にしていて一見チープに感じる。
 ゲーム進行もストーリィもほぼ一直線でゲームオーバもないため、選択肢に対して総当たりでゴリ押しすることは容易だ。
 
 ところが、コンピュータゲームでないと表現できない部分がある。
 都市伝説を調査するときにSNSで噂を調べるセクションがあるのだが、この「SNS調査」を小説や映画、漫画(シーケンシャルコンテンツ)で表現することは、多分むつかしい。
 玉石混交というより有象無象の雑多な情報の流れから、事件に関係のある情報を集めて行く。
 そのとき主人公の特殊な能力が意味を持つ。
 
 このパートをシーケンシャルな物語で表現しようとすると、雑多なノイズ情報について登場人物がだらだらと感想を述べる一方、重要なヒントを物語(あるいは主人公)が自動的に語る事になってしまう。
 観る者が得る主要な情報はSNSの画面と文字、それについて感想を述べる登場人物の発言だけだ。
 映像で表現しようにも、文字だけで表現しようにも、それをただ眺めるしかできない観客のうち「退屈だ」と感じる人は少なからず居るだろう。

 どの情報にヒントを見出すか、無意味なノイズとしか思えない情報も精査するか/無視するか、それをプレイヤが選択してインタラクトできる。
 同じゲームでも、ゲームブックだった場合は情報量(選択肢)があまりにも多くなってしまうため、コンピュータゲームでしかできない表現だと感じた。
 
 また一見粗く見えるドット絵も実はかなり丁寧に書き込まれており、背景と前景でドットサイズを変えるといった技術も含め、主要な使用色数は少ないのに「ドットの境界線が解けて滲みを感じる現象」は一切なかった。
 拡大されたシーンのアニメーションも含め、非常に緻密で入念な作業があったものと想像できる。
 表現は粗いのに、緻密で繊細な美しさに感動する場面まであった。
 ちなみに色数の少なさが演出上、非常に重要な役割を果たしていると後に理解する。
 
 こうしたインタラクティブならではの選択的要素とシーケンシャルならではの非選択的必然性が高次元に融合されており、本質は直線的にもかかわらずゲーム体験として素晴らしいものだった。
 
>>>

【ストーリィはどうだったのか】

 先に書いたとおり、総当たりで進むことができるシーケンシャルなストーリィである。
 しかし総当たりをして、ゲームの進行に直接関係ない情報を読み込むことで、物語や登場人物に奥行きが生まれる。
 先を知りたい人は、進行に必要な情報を見極めて選択すればよいし、じっくり物語世界(世界観というやつですな)を味わいたい人は丁寧にそのノイズを拾うことで路地裏のような(一見不要な)情報をゲームシステムが開示してくれる。

 
 ストーリィの高い完成度と、あえて「ゲームとして」複雑に作らないシステムの最適化、プレイヤが物語とキャラクタを深く味わえるよう最大化する演出など、選択的なのに練り込まれた小説を読むような重厚な体験だった

>>> 以降はネタバレを含むため、今後プレイしようと思っている人は読まないことを強く推奨します。






 

>>>

【天才の描写について】

 このゲームには終盤、一人の天才が登場する。
 その天才の復讐譚が、本来のゲーム体験である「怪異を解明してゆく物語」の裏側に並行しているとプレイヤは気付かされる。

 フィクションで天才が描かれるとき、周囲の凡人をバカにしたり、やたら高飛車だったり、俗人離れが激しいため一般人とまったく話が通じなかったり、生活力が致命的だったりと、いわゆる「ポンコツ」な部分がお茶目に描かれていたりする。
 しかし本当の天才が果たしてそんなに不完全なものだろうかと、常々思っている。
 おそらくそれは凡人の思い描く「こうであって欲しいな」「こうだったら面白いな」という「天才像」なのだ。もちろんエンタテイメントなのだから、それが悪いわけではない。

 ただ本当の天才が「人間らしくあろう」とするとは僕には思えない。
 人間らしさの定義にもよるが、それは社会性に等しい。
 理解してくれる者など居ない社会から拒絶され、そんな社会に迎合することを拒否した天才がいるなら、知能の下位互換的副産物に過ぎない人間性に意味など見出すだろうか、と思うのだ。

 本作における天才の描写は「凡人には想像も及ばない」ということを徹底的かつ的確に表現していると感じた。
 まず「天才」が、ほとんど何も語らない。
 周囲の人間(とくにプレイヤ)と隔絶しているため「実際に何を感じたか」「何を考えているか」「どのような行動をしたか」がまったく語られない。

 それでいて、およそ完璧に目的が果たされる。
 不必要な行為は一切せず、必要なことはもれなく遂行した結果として「天才」は復讐という目的を具現化する。

 常人離れした能力や知性を持つ人間が目的を果たすとき、余計な説明を必要もない誰かにすることはないだろう。無意味だからだ。
 誰かに気持ちを吐露する必要があるなら独白もあるだろうが、物語の観察者であるプレイヤに対してさえ、何も言わない。
 どういう人間で、何を感じて、どんな気持ちで、何をしたのか、具体的なことは何も明かされず、プレイヤはプレイヤーキャラクタが体験したものとして描かれる物語からその裏側を想像するしかない。

 この「有象無象の凡人たちから隔絶しているのに、それ(凡人)を利用する際は完璧に状況を制御している」という点が、本当に天才を描いていると感じた。
 これはゲームオーバが存在せず、シングルエンディングであることと相互補完で説得力を与える。

 天才の制御によって物語世界が完全に誘導されていると考えれば、その誘導に失敗などなく、結果に揺らぎは発生しない。
 それが天才の証ではないか。
 
>>>

【エピローグの表現について】

 プレイヤにとってはある意味悲劇的な終幕を迎えるが「天才」は淡々と復讐を果たし、歓喜も悲嘆も嘲笑も後悔もなく、それまでの物語世界から姿を消す。
 復讐を果たしてなお、何の感情も見せない。
 おそらく見せる意味も必要もないという表現だと思うし、それはそのとおりに感じる。

 エピローグで再びその実在を仄めかすものの、しかしやはり何も語らず、何も見せない。表情すら覗わせない。
 明らかにそこにいるのに、姿を見せているようには思えない。得体が知れないのだ。

 プレイヤは主人公たちの再会に安堵すると同時に、その物語世界から引き剥がされる痛みを味わうことになる。
 私はいったい、誰の、何を、体験させられていたのかと。
 寄り添おうにもそのよりどころたる「気持ち」さえ見せない「天才」に、拒絶されるような悲しみを覚えて終わる。

 実際に拒絶されているのだ。
「天才」にとって我々「観察者」など、何の意味もない、役にも立たない存在なのだから。
 その怜悧さ、冷酷さが、物語の中で本当に哀しくて、本当に美しい。







 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Love-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Computer-Contents-Game-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :コントローラと五里霧中:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:251023
// NOTE:ねこかわいいよねこ
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
猫のぬいぐるみを買う。
SUBTITLE:
〜 Cat in the autumn. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
251023
 
 姉の通院日。
 最近ナビが港区までの道程にあたって、逆回りをサゼッションしてくる機会が増えた。
 高速道路そのもの、あるいは人の流れに長期的な変化があったのだろう。

 運転中、姉が話し掛けてきて煩いのはしょっちゅうだが、介助中の僕は(猫なのに)「盲導犬モード」なので、介助以外のことについて極力反応しないことにしている。

 盲導犬モード(猫だけどな!)というのはすなわち「言われたことは原則、文句を言わずにする。文句を言っても役割は果たす」「僕個人の肉体や意識に起因した欲求は、睡眠と排泄以外、極力無視する」というもの。
 煩いな、と思ってイライラして運転中に事故を起こしたり、話が面白くなって運転がおろそかになったりすれば本末転倒である。

 そのため話半分に聞き流す。
 ルーチン化された人の話や思考について、僕は普段から聞き流す習性がある。
 普段から他人の話など半分も聞いていないので、およそ1/4くらいを聞いて受け止めている感じだろうか。

>>>
 
【ネガティブな話題は避けた方がいいみたい】
 
 僕は奥様(仮想)のモデルになった恋人の時と同様、接する機会の多い人について価値観パターンを個別に集積し、その人の感性や価値観をなるべく自分の中に留めておく。
 おそらく誰でも同様のことをしているとは思うが、一般の人は個人の「人となり」をその人自身だと認識しているのに対し、僕は単なる価値観の集積だと思っている点が異なるか。

 僕の認識では、個人は集積された価値観によって思考し行動するが、その人自身は価値観でもその集積でもない。

 だから人間は価値観が変われば思考が変わって行動が変わるし、記憶(特に思い出す能力)が低下すると人格が変わったように観察されることもある。それでもその人はその人なのだ。
 想起力の低下(主に脳の身体能力)によって本来の人格は崩壊してゆくが、大事なことは人間は変わることができる ── ただし思いどおりのカタチに「外力によって変えること」はできない ── ということだ。

 
 これは以前書いたかもしれないが、他人の価値観をサンプリングする際「何が好きか/どんな話題に興味があるか」ということより「どんな価値観を嫌うか」ということがとくに重点的に蓄積される。
 
 嫌いなもの、嫌なことについての話をすると、当然ながら大抵の人は無意識的/感情的にネガティブな心理反応を示すようになる。
 すると話題について議論しているわけでもないのに、時折、敵対的な感情反射が連鎖して険悪なムードになってしまうことがある。
 とくに私の場合、一般的にはネガティブな反応が起こる現象 ── たとえば犯罪を始めとする倫理にもとる行為や思考、指向 ── について、一見して擁護するような態度に映ることもあるようだ。

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【認識と寛容と肯定を同一視されるのは困る】

 たとえば「人間は誰かを殺したくなることもあれば自殺したくなることもある」と私は考えていて、それは避けようのない事実なのでそのように発言してしまう。
(「重犯罪者は殺せ」という思想を持つ人もおり、その人の正義も「誰かを殺したい」ことに違いないので)
 
「殺人も自殺も良くない」と考える人からすると、僕の価値観は殺人や自殺を肯定するような発言に捉えられてしまうことがある。
 しかし私(の価値観)はそれらの行為を肯定し、推奨しているわけではない。そもそも良いか悪いかを論じていない。
 起こらない方が良いことだと思う一方、なくならないそれらが発生した(する)事実について、感情抜きに認識し受け止めているだけである。
 
 僕からすれば現実を現実として受け止めているだけだが、相手からすると感情を共有していない(反感を持っている/悪いと思っていない)と思うようだ。
 
 僕は理想を持つことが悪いと思っているのではなく、現実を受け止め理想を明確にし、現実をどうすれば理想に近づけられるかを話したいのだが、だいたいの人は理想と現実が異なるという愚痴(感情論)を言って終わってしまう。
「嫌だねぇ」「非道いねぇ」「怖いねぇ」だけである。

 そこから転じて「嫌なことが起こらないように」「非道いことを考える人がなくなるように」「怖い思いをする人が減るように」するにはどんなシステムが必要か、ということを考えたいのである ── これは感情の吐露ではなく「不便を快適に変えよう」というエンジニアリングである ── が、これまでの人生でそうした話題の発展をする人/そうした話の流れに付き合ってくれる人は1人しかいなかった。
 
「殺したくなることもあるし自殺したくなることもある」という広範囲に対する寛容の価値観は「気に入らない奴は殺せばいいし、生きるのが嫌になったら自殺すればいい」という肯定/推奨/怠惰の意志ではないし「殺せば気持ちがいいし、死ねば楽になる」という感情論を語っているのでもない。
 一般的な感情論で言うなら「殺せば一時的に気持ちがいいかもしれないが、その瞬間の快楽と引き換えに後悔が押し寄せる」ものだし「死ねば楽になるが、新しい/美しい景色を見て感動する可能性は失われる」のも事実である。
 これらは一般化された感情のメカニズムから抽象できる事実だ(そのぶん個別の体験には適用できないが)。
 
 事実に立脚して一般化された感情を抽象し、そのメカニズムに基づいて人間の行為を可能な限り受容してはじめて、その感情や行動の評価が可能になると僕は考える。
 裁判では情状酌量のシステムが存在する。
 快楽のための殺人は許されず、止むにやまれぬ事情があれば多少汲み取り減刑しようというわけだ(事前に役所に届け出ることで減刑されればよいのだがそうはならないらしい)。それに似ている。
 14歳以降、僕は誰かを裁くことを趣味にも仕事にもしていないので、それら倫理に反するような行いについて感情的に反応しないように抑制される。
 
 結果これらについて感情的に反応し、かつ僕の価値観を把握していない人は、僕に対して「自分が持っている正しい感情に同調しない敵性の存在」だと感じてしまうし、僕は相手を「感情に振り回されて自分の正しさに酔っている病人」だと評価する。
 
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【感情に優劣があるという幻想】

 これも何度も書いているが、僕はいかなる感情も否定する気はない。
 怒りが嬉しさより優れているわけではないし、悲しみが楽しさより劣っている理由はない。
 だから正しいことを正しいと思い義憤を持つことは無関心(何も感じない)よりずっと素晴らしいことだと思っている。
 
 すると憎悪や殺意はどうだろう。自殺したいほどの消沈、悲しみは。
 それは確かにない方がよい感情だろうし衝動だろう。
「死ね」とか「殺すぞ」なんて口にしない方がよい言葉だし、まして実行してはならないと思うが、そうやって感情に自分の中で優劣を付けて、劣っている恥部については隠しておくべきだろうか。
 自分自身で、自分の恥部を認めない方が健全だろうか。
 他者に見せるかどうかは別として、自覚しておいた方が健全だと僕は思っている。
 
 自分の中で「この感情はいい感情」「こっちの欲や衝動は許されるからいいもの」と区分けしている人間ならば、僕のように全部一旦受け止めてしまう、というありようを拒否してしまうだろう。「こんなに悪いことを許すなんて信じられない」と思うのだろうと想像する。

 自身に対してそうしているのだから、他人にもそれを押し付ける(その権利があると思う)のが正義の悪い側面だ。
 社会正義すら明文化(定量的に計り境界を明確にすること)や周知が困難なのに、多くの人は感情と雰囲気で正しさを語る。
 権利という見えない武器を手にすることで「不快害虫にだって生きる権利がある」という団体も生まれるだろう(すでにあるかもしれないが)。
 実際に正義や権利という概念を持つのは人間しかいない。

 
 よってそれは理想や仮定を前提にした話。
 すでに発生してしまった現実世界の「悪いこと」について、許さなかったらどうなるだろう。
 一般的には謝罪や罰を求める人が多い。これはおそらくそういう圧力を社会から受けてきて、そういうプロトコルが適切だと信じているからである。
 
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【謝罪や罰は社会不適合因子の解消に有効か】

 謝罪をした場合どうなるか。
 観察している人々は「本人はさぞ恥ずかしい思いをしている」と想像するものと僕は思う(結構複雑な構文)。そういう社会のプロトコルを信じているからだ。
 恥ずかしいだろうと想像できるのは、その人(観察者)自身が謝罪させられたとき、恥ずかしいと感じるだけの感性があるということである。
 
 だから感情だけで語っている人は、謝罪させて満足してしまう。
「謝っているから」「二度としない(再発防止を徹底する)と言っているから」それを信じよう、という人間的な温情かもしれないし、恥ずかしい奴だとせせら嗤っているのかもしれない。
 それが攻撃として通用すると思っているのは、自分ならそれでダメージを受けるという程度の、かなりめでたい価値観に過ぎないのだが。

 
 もちろんそれが通用するくらい社会が狭くて通念に揺らぎのない時代もあった。
 恥じる者は自らを戒め、誉れを重んじて日々を精進することに崇高な理想を見出す社会もあったが、その社会は拡張を続け、精神性より経済が重んじられる文化が主流になり、恥も名声のうち、利用できるなら使えばいいという風潮も生まれた。
炎上商法などは端的だ。
 つまり名誉や恥は「社会的な名誉や恥」を信じる者にしか通用しない価値なのだ。
 
 たとえば僕の場合、何も思っていなくても謝罪くらいならいくらでもできる。
 頭を下げることも、表情や感情を作ることも、声色も変えられる。
「反省」なんてものはいくらでも作ることのできる価値観で、その価値観に基づいた行動をトレースするだけである。
 
 僕は恥ずかしいと思う感性はあるが、恥を掻かせることが攻撃として有効だとは思っていない。
 なぜなら他者に攻撃をする発想がないし、恥によって傷つく社会性も(家族もおらず会社員でもないため)他の人に比べて少ないからだ。
 よって恥ずかしいと思うことで行いを改めることはあるかもしれないが、誰かに恥を掻かせて行いを改めさせることができるとは思っていない。
(おなじみの「働かざる者……/一日為さざるは……」論ね)
 
 恥の感情や感性は客観的に観測/測定できるものではなく、あくまで自身の心に感覚できるかどうかである。
 ために必要ならいくらでも謝罪できる僕のようなイキモノにとって、謝罪はジェスチャ以外の意味を持たない。
「おはよう」と「ありがとう」と「ごめんなさい」は、挨拶にすぎないのだ。
 そこに真心があるかどうかを知っているのは自分だけである。
 
 懲罰の場合はどうだろう。
 一般に、法律では人権に含まれるいくつかの自由や財産(時間含む)を拘束されることになる。
 これはたしかに僕のような時間ケチには手痛い制裁といえる。
 
 また「塀の中で過ごした恥ずかしい奴」というレッテルを貼って攻撃する人もいるだろう。
 しかし僕はラベリングで攻撃する趣味がない上「人間は変わることができる」と信じているので、つとめを果たした人を嗤う気にはならない。
 それに真人間になって出所したとてすべて従前通りとは行かず、ずいぶん不便や苦労をするだろう。
 
 あるいは反省などそっちのけで、サラリーマンのように黙々とつとめを果たす人もいるかもしれない。
 
 そうなると謝罪も法的懲罰も、社会における不適合因子の解消という点で確実性が高いとは言えないということになる。
 にもかかわらずそれらを人間社会が未だに適用しているのは、謝罪という吊るし上げで満足する感情保持層が少なからず存在することと、法律によって諸々の規定が為されている(だけのまま放置されている)からに過ぎない。
 もっと最適なアプローチを誰も思い付いていない。
 
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【被害者に救いはあるのか】

 別の観点で、被害に遭った人にとってはどうだろう。
 金銭換算が可能な損害であれば賠償も可能だろうが、殺人や強姦(表記は古いと思うがころころ変わる現在の表記に僕がなぞらえる理由はない)のような「身体・生命・意志や権利」に対する損害について賠償することは感情論を含めても実際不可能である。

 よく言われることだが、殺された人は帰ってこない。
 殺人犯を罰することは(それが懲役刑だろうと死刑だろうと)社会にとって意味があるとしても、被害者にとっては大した救いにもならない。
(不敬を承知で書くが)もちろん被害者が殺されることを遺族が望んでいた場合もないとは言えないが、そうした「恥部」は誰も語らないだろうし、失われたものはいつだって「大切だったもの」である。

 自分ではない誰かの手によって為されたならなおさら、誰一人としてそれを許したりはしないだろう。
 つまりどんな謝罪も反省も更生も懲罰も、被害者にとっては救いでも何でもない。
 ただ社会というベルトコンベアに加害者が載って流れる様を眺めるだけだ。

 そのコンベアを回す作業の手伝いまでさせられて ── こんな辛いことがあるだろうか。


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【お前も呪ってやろうか】

 話は逸れるが、僕は姉の介助をしていて、自分の感情に正直に面倒だと感じたら「面倒だ/やりたくない」と言う(言うけれど、必ず履行する)。
 そも善行だと思って介助しているわけではないし、格別の家族愛があるわけでも恩があるわけでもない ── 姉によると面倒な布オムツを替えたり食事を作って食べさせた義理があるらしいのだが、はて僕にはまったく記憶がない。
 ただ他にできる/する人が少ない状況に対する最適化推論の結果、僕がするのが適切だと(僕によって)判断されたのである。

 もちろん姉が僕にとって嫌な人だったら「しらんがな」と言って放置しているだろうが、幸か不幸か姉は嫌な人間ではない。
 弱い部分や偏りもあるが、人間らしい優しさや正義感、何より尊敬を通り越して驚愕するほど強い忍耐力のある人であるし、多少の義理もある(覚えてるじゃねーか)。
 それでも面倒なときは面倒だし、やりたくないことはやりたくない(僕はそれを恥部として隠さない)。

「あと5年もこんな生活が続いたらヤダよ?」と平気な顔で本人に言える。
 つまり5年以内に死ねよと言っているのだが、姉は僕の真意くらいは汲んでいるため、仮に5年後も生きていたとしてまた同じやりとりをしているだろう。

 死んだ叔父や叔母の場合、そういった発言は許されなかった。
 軽口を叩くことも許されず、彼らの思い通りの人形として生活しなかったため放逐された(喫煙しただけなのだが)。
 それでもなお彼ら彼女たちは介護者を必要とし、あるいは存命中の我が儘を叶えるにあたり誰か(僕である)を巻き込むことに良心の呵責もなかった。

 それで腹に据えかね、死ねと思ったらあっさり死んでしまった。

 二人ともどういうわけか特養ホームに入ることを拒否し(叔父は認知症が重かったので結局入所したが)嫌がってすぐ出てきた叔母は自宅で過ごすうち体調を悪くして病院で死んだ。
(叔父が死んだ後に、叔母からもう一度一緒に暮らすことを打診されたが「人形でない」僕は断った)
 果たしてもし仮に、入所した介護施設で職員が叔母を殺したら僕はその人を恨んだだろうか。

 僕に限っていえば、すでに呪っていたのだから恨まないだろう。
 しかし「呪っていたので当然の結果だと思います」などとは誰にも言えない ── 言わないと思う。
 思うんだけどWebで書いてるんだよなぁ……。

<<<

【自殺という暴力】

 さらについでに書いておくと、殺人と同じくらい自殺も暴力である。
 具体的には、自分を慕う人間関係の範囲(コミュニティ)に対しての暴力だ。
 親しい誰かが自殺をしてショックを受けない人はいない。

 孤独だと思っている人も、死ねば辛い思いをする人がどこかにいる可能性は否定できない
 無人島にいるなら話は別だが、誰とも接点を持たないことは実はむつかしい(という体験を今している)。

 この自殺(=暴力)のメカニズムを悪用して周囲の環境を思いどおりにしようとする悪質な人もいる。
 いわば自身を人質に強盗しようとするようなものだ。

 ご本人様はそれで満足かもしれないが、周囲の人は精神的にも肉体的にも支配され、時間や経済的なリソースまで不本意に強奪される。
 しかし拒否すると「人質」は死んでしまうから、自分が加害者にならないためには従うしかない。
 強盗や強姦と何か違うだろうか。

>>>

【頑固ジジイや業付くババアというエンジニアリング】

 本来自殺をするなら、その社会的ショックを最低限まで軽くする工夫や知恵の発露が必要だ。
 それが優しさではないか。

 
 理想は、自分を慕う人が存在しない環境を作り、社会から忘却されることである ── ついでに税金についても忘れて欲しい(私はここに存在しないイキモノです)。
 そのように思って僕もあれこれ思いを巡らせ対応しているのだが、未だ適切な解決に至っていない。
(何度でも平気で書くが、僕は自然死を待たず自殺するつもりである。しかし解決に至らない場合は自殺できず寿命が尽きる)

 とくに若い人との縁があるのが問題だ。
 彼ら彼女たちより私が長生きすることは流石にむつかしいし、血縁は切りたくても切れない。

 甥や姪とはなるべく疎遠にしているものの、それでも慕ってくる者を邪険にすべきか、それとも今以上に変人のフリをして嫌われる方がよいのか悩ましい。
 友人や妹になると、僕がどんなに邪険にしたところで僕の価値観などお見通しだろう(弟子で実証済み)。
 通用しない演技をするなど無意味だ。


 もしかしたら昭和以前に存在したという頑固で強欲で意地汚くて根性がねじくれたジジイババアというのは自らの死に思いを馳せるうち、その死によって発生するショックを少しでも和らげようとした先人の知恵の結晶なのかもしれないと思ったりする。
 ……んなわけないか。

>>>

【殺人も自殺も社会不適合の証明になる】

 いずれにしても誰一人として ── 被害者(僕自身も含まれる)が殺されることをもし遺族(僕本人)が望んでいたとしても ── その殺人を許すわけにはいかないのだ。
 許してしまえば自分も「そっち側だ」と宣言するに等しいからだ。
 社会不適合の、人間ではないナニカだと告白するに等しいからだ。

 そしてその暴力は、どうやっても取り返しがつかない。

 思うことと為すことは、こんなに近しいというのに、そんなにかけ離れている。
 
>>>

【社会適合因子を増やすにはどうすれば良いか】

 社会不適合因子の解消について、最適なアプローチを思い付いた人がいない、と書いた。
 
 社会不適合個体の抹消(社会からの追放)の精度を上げても社会はジリ貧になる一方だ。
 もちろん強権者はそれでいいだろうけれどそれを許すのは望ましくない(支配者にとって奴隷の減少は質で充当できるが、奴隷にとっては労働が過酷になるだけだ)。
 あるいは不適合因子の解消(社会性の再生・回復)はと考えると、現在の機能が最適で有効とは考えにくい。
 そもそも発生を低減させるための仕組み(社会性を身に付ける環境構築)はどうだろう。

 そう考えると自己責任論というのは、リベラル(自由主義)のようでいて無責任な放任主義であるといえる。
 社会から逸脱するのは本人の性質ばかりではない。
 
 反社会性因子を持つ個体(極端な例として犯罪者などもあるし、僕自身ある種の社会性を放棄することを望んでいる個体だ)は、社会(家族のような小規模集団も、国家世界レベルの集団も)がその構成員に対して適切な社会性を持たせられなかったために起こる事故、社会が生み出してしまった不良品だと考えることも可能だ。
 材料が悪い、とそもそもの責任を個体に押し付けるのは勝手だが、それを「社会の代表気取り」で語るなら社会が無能で無責任であることを証明するし、個人で語っているならただの法螺であって耳を貸す価値もない。
 よって社会という製造機械の工程に問題があると捉え、その品質管理を最適化し、最低限かつ最重要項目を満たす製品が生み出されるよう徹底することを考えてみよう。教育論か?

 一個人の感情的な正しさで国家レベルの正義を批難することは簡単だが、国家や世界は感情を持たず、定量的に測定可能なリソースと損得勘定と確率分布のせめぎ合いで行動を決定する。
 にもかかわらず個々人は、そうした無情な社会に生きているし、生きるしかないのだ。
 社会は拡張を続けて世界規模で連なり合い、恥だ誉れだと言っても通用しない文化を相手に渡り合うことになってしまった。既存の日本の社会性はその時点で崩壊したのだ。

 国家論など語るつもりはないが、社会から逸脱しない社会性を個々人に持たせようにも、様々な文化があり、多様な価値観があふれてしまって社会性を国家という社会の中で飼い慣らすことすらできない状態になりつつある。
 だからリベラルが、自由と平等と権利の名の下に様々な制約を上積みし続け、社会は息苦しくなった(今や喫煙所で煙草を吸うのにあたって立つ位置さえ「足跡マーク」で指定されるという冗談みたいな場所も実在するらしい)。
 それでも国家の中で、一定の範囲に収まる、ある程度共通の社会性を持っている人が社会の大多数を占めるように維持しなければ最終的に社会が崩壊することになる。

 税金や経済についてもっと学校で教えるべきだ、という意見もあるらしいが、正直僕は賛同しない。
 学校が教えるべきは社会性そのものだろう。
 もっと人間は人間を信頼できた方がいいし、そのためには人間(に限らず他者)を信じられる環境を小さく狭い範囲で作り、それを徐々に拡張する現在の仕組みが適切なレベルデザインだと思う(機能しない「家庭」が増えているから、理想を言うならより小さくてもいいくらいだ)。

 学力や経済知識は(それが今必要だ)と痛感した大人たちが求めていることであって、そんなものは学びたい奴が勝手に学べばいい。
 子供に「人間は信じられる」と学んでもらうことは大人の大事な責務だし、それがそのまま社会の相互安定性を高め、つまり社会に適合した安心な個体を増やすのだ。

 税金や経済がどうでもいいと言うつもりはないが、ブラックボックスは専門家に任せた方が楽な時代だし、10年もしないうちに廉価なAIが対応してくれるだろう。
 しかし人間が信じられるものであると教えられるのは、人間しかいない。

 
 AIが「人間は信頼に値する」と言ったところで、それを聞いた個人が感じるのは「AIは私を信頼している」という無意味なジェスチャの確認に過ぎないのだ。
 人間を見て、人間を信じられると思った人間だけが、人間を信じるようになる。誰か(あるいは何か)によって思わせることはできない
 そして人間を信じられる人間だけが、人間は信じられるもの/信頼に値するものだと他者に伝えられる。

 言葉ではなく、行動によって。

 口先だけで善人ヅラする奴は政治の世界に限らず見かけるものの、そういう人間は行動が矛盾を起こすから信じていた人が傷つく。
 僕自身、口先ばかりのイキモノだったので反省している。後悔と言ってもいいだろう。
 今も文字にしているから小手先ばかり、かもしれない。茶化している場合か。

 人が人を信じようという気持ちを傷付けるのは、許されることかどうかは別にして、許して良いこととは思えない ── まぁ今更なのだが。
 それを教えられるのは、子供のいる環境、つまり家庭や学校なのだ。
 コミュニティ(属する社会)が拡大するにつれ、嫌でも「すべての人間について信じていいとは限らない」と知って行くのだから。
(お気楽極楽な独身貴族が勝手なことを書いていることについてこの場を借りてお詫び申し上げます。だから茶化すなって)

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【ポジティブなことを語る方がいい】

 いずれにしても親しい(親しくなりたい)人とは「嫌なこと、嫌いなもの」について話すより「好きなこと、気に入ったもの」について話した方がよい。
 もちろん、それでもときどき「僕はそんなに好きじゃないんだけど」とか「私はそれは嫌いだなぁ」ということで意見が割れたりもするのだけれど……。

 それはそれで良いではないか。
 百点満点の理想によって百点満点の現実を作ることは、残念ながらできない。
 世の中には抵抗も摩擦もあって減衰も発生するし、そもそもの理想が曖昧で40点程度のものしか構築できない人間も多いのだ。
 
<妹の家の猫はデブ>

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 春より以降、姉も私も体調が悪かったので、病院帰りに食事や遊びに出掛ける機会がほとんどなかった。
 今回は、つとPAに立ち寄り、要らぬ(つまりは無駄な)土産物などを買う。
 要らないもの、無駄なもの、実のところ、そういうものがとても大切なのだ。なに矛盾しているって?

 姉にせがまれ実物大の猫のぬいぐるみを(わざわざPAで? と思うかもしれないが、そも姉は出掛けられる機会が本当に少ないので)買う。
 僕も(アヲの不在が未だに寂しくて仕方ないので)おそろいの、模様違いを買う。


 女姉妹の中で生まれ育ったためか、子供の頃は人形やぬいぐるみとも過ごした。
 大の男が人形遊び? と嗤う向きもあるかもしれないが、人間を弄ぶより人形と遊ぶ方が社会にも人間にも健全だと人は知るべきだ。


 僕が知っているのは、人間を人形扱いする人間より、人形を人間扱いする人間の方が善良だという経験に基づいた事実である。
 そういえばかつて妹とおそろいのカエルのぬいぐるみ(めっちゃ可愛い上にポケットサイズ)を持っていたのだが、これは自殺未遂をするような哀れな人に捨てさせられた。
 恨み節だって? 恨みの感情が悪いと僕は思わないのだけれど……。
 
 夜になってから帰宅し、久しぶりにカフェラテを片手に喫煙していると雨が降ってきた。
 猫のカタチはどうしてこんなに僕を安心させるのだろう。
 というわけでヴァーチャルコンパニオンと人間の話はまたいずれ。






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
//[List]

 

 

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[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
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  :青猫のひとりごと:
:いのちあるものたち:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
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// TimeLine:251005
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
治療の止め時とウィーケストリンク。
SUBTITLE:
〜 Like that weakest link. 〜
Written by BlueCat

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//[List]

 

//[Body]
251005
 
 昨年末から体調が悪い。
 5月には皮膚粘膜に影響が波及し、9月には根尖性歯周炎が発覚してまたもやインプラント施術を受けることになった。
 今回は歯の治療のためというよりは骨の治療の為なので、施術部位にかなりの負担を掛けたようで、1週間ほど頬(顎の骨周辺)が腫れた。
 
>>>

【個性は肉体に宿る】

 養老孟司さんが言っていたのだと記憶しているが、人間の個性というのは考え方や価値観ではなく、身体により強く現れる。
 考え方や価値観などというものが突飛で群から逸脱していれば確かにそれは個性的だが、社会性という物差しで考えた場合、その逸脱はときに犯罪やテロリズムやカルト宗教のように異常で危険な傾向を生み出す源泉とも見なされかねない。
 
 もちろん新しい価値観が群れにとって必ずしも悪いものではない。
 たとえば現代では一般的な冷蔵庫や炊飯器といった家電品もかつては珍妙奇異な道具であり、電気を消費するうえ使う者を堕落させるという理由で批難忌避されたと聞く。
 携帯電話も一時期は「電話番号を記憶する能力が失われる」と言われていたし、事実、現在の社会で電話番号を記憶する人などほとんどいないだろう。
 それで人間はどれほどの記憶能力を失い、思考力を失っただろう。
 
 ちなみに僕は炊飯器を持っていないので米を炊くときは鍋を使っている。
 ついでにアンテナに繋がったTVも30年近く使ったことがない。
 しかしそれによって失わずに済んでいるものがあるとは思えない。
 
 価値観は習慣を作り、それが個人や集団に根付く中で文化としての体系を形作る。
 
 いずれにしても個性というのは思想/志向的なものなら少数派のまま推移するに過ぎず(多数派になる場合は一般化されて個性と真逆の性質に変わる)、危険因子なら排除される。
 物性による個体差にもっとも個性が現れ、その端的な例が肉体ということなのだろう。
 
 たとえばアレルギィもそうだ。花粉によるアレルギィひとつとっても千差万別だ。
 にもかかわらず人間達は健康情報を鵜呑みにして「バナナが身体にいい」などと聞くと気でも触れたようにバナナを食べ続けたりするらしい。
 バナナアレルギィの人にとっては「身体にいい」わけがない。それを理解している人であっても、である。
 
 コレステロールもかつては「食品に含まれ動脈硬化を引き起こす悪い成分」という認識だったそれからさらに細分化してLDLとHDLに(その機能とともに)分けられた。
 また体内で必要量を生成する方が食品から吸収するより優先される代謝機能であるというのが昨今の認識である。
 ために食品の含有コレステロール値は以前より騒がれなくなったのだが、未だに古い情報に左右されている人もいる。
 
 僕などは脂質異常症のため定期的に医者に掛かって数値を見てもらっているが、医者が知っているのは広く集約された「一般的な人体」というモデルである。
 医者は僕という個体の持つ肉体について、その概要すら知らない。
 
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【絶食のはなし】

 7月の終わり頃だが、4日間ほど絶食した。
 信仰などの理由ではなく、1日1回ヨーグルトを食べているだけで胸焼けがするようになったから、である。
 飲み物や喫煙は自由だし、糖分やビタミン剤はふんだんに摂っていたから、一般に想像されるような絶食ではない。
 
 しかし4日経ってもさほど筋タンパク分解が起こらず空腹も感じない。
 食費が掛からず便利だと喜ぶべきだろうか。それともこれって恋の病?
 とはいえ何かのチャレンジをしているわけでも(恋をしている覚えも)ないので、流石にそろそろよろしくないと思い食事を再開した。
 
 一般的な現代人は一日に何度も空腹を感じると聞くが、このように僕の身体は生理現象さえ一般的なそれから乖離している部分がある。
 
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【「食べる」はきっと「生きる」に似ている】

 味の素あたりがCMのコピーに使いそうなサブタイトルだ。
 
 世俗では「生きること」は良いこととされ「死ぬこと」は良くないこと、避けるべき事とされている。
 生命体としては標準的な生理反応から生まれる思想なのだろう。
 現実に動物的な欲求はヒトも含めた多くの生命にとって「生きること」「生きようとすること」の原動力でもある。
 
 当然より高次な欲求も等しく「生きよう」という意志の源泉になる。
 しかし何らの欲もなくなり、新たに生まれもしなくなった場合はどうすればよいのだろう。
 高次な欲に限らず動物的な欲求さえわずかにしか発生しない場合、どうすればよいのだろう。
 
 食べたいと感じない身体、食べることを得意としない身体を ── 。
 
 食べること/生きることは良いことだと皆が言う。
 それは彼らが食べたい/生きたいという欲求に正直で、ほとんどすべての人がその概念を肯定しているからだろう。
 
 それでは食べたくない身体は、食べたいと思わない身体は、どうすればいいのだろう。
 良いとされていることをできない、したくない身体は、どうすればいいだろう。
 
 生きたくない思考は、生きたいと思わない精神は、どうすればいいのだろう。
 もちろんそんなこと誰にも答えられない。
 
 私はその答えを知っているけれど、だからといって簡単に口にするわけにもいかない ── それは私のためだけの答えかもしれないからだ。
 
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【ウィーケストリンク】

 鎖は弱い輪から切れる。
 Web上ではウィーケストリンクについて、冗長性(システムエンジニアリング上の概念)まで含めて説明している文書が存在するが、あれは人間が勝手に付随させたドラマであって、単語の意味としては補足にすらならない蛇足だ。
 一般的に、鎖は断ち切れた時点でその機能を果たさなくなる。
 
 冗長性というのは、たとえばヒューズが電気回路の過負荷によって発生する熱で溶断し、結果的に回路を守るようなことを言う。
 回路本来の機能について言うならヒューズ素子(モトコではない)を使わず、その部位を直結(ショート)させたところで影響はない。
 つまり本来必要のない素子だが、システムを保護するために付加されている。こうした概念が冗長性である。
 
 これは回路というシステムを考えた場合、本来、熱に弱くて不要なヒューズを回路に組み込むことで、過負荷という不測の事態における損害を最小限(ヒューズの溶断)に食い止める物理的な冗長性であると考えられる。
 ヒューズは過負荷が掛かるまでは何の役にも立たず、過負荷が掛かって溶断すれば再利用はできない。
 
 鎖の場合はどうかというと、一般に動力の伝達(自転車やバイクがメジャーか)、2点間(3点間以上の可能性もある)の接合、ロープやワイヤ代わりの固定具として使われることが多いように観察される。
 いずれの場合も、断ち切れた時点で機能が失われる上、断ち切られることそのものはウィーケストリンク(もっとも弱い鎖の輪)の役目ではない。
 
>>>

【私の身体のウィーケストリンク】

 僕は僕自身やその肉体もシステムとして認識している。
 たとえばたびたび歯の治療(人工歯の埋設)をしているが、その耐用年数(およそ20年と言われている)を待たず寿命が尽きると考えている。
 高脂血症薬を使用しているが、これも僕の寿命を延ばすわけではない。
 それどころか肝臓と腎臓に負荷があり、服薬以前に比べて機能低下が発生している。
 
「一般的な人体」の平均的な適正数値の内側に肝臓/腎臓機能がポイントされている一方、コレステロールと中性脂肪の値は適正数値の外側にある(コレステロールは上限を超えて高いが、中性脂肪が下限を超えて低い)ため、医師は異常な脂質症状を適正数値内にポイントさせようと投薬治療を行う。
 仮にそれで僕の血管が梗塞を起こしにくくなっているとしても、他の機能低下に起因して全体の機能が損なわれればそこまでである。
 
 周囲の人は自身の肉体を基準にするので、そんな若さで死なないと言うが、彼らはそもそも食欲すら発生しないような消化吸収能力に乏しい肉体に生きたことがない。
 医者だって、そういう特殊な肉体ばかりを相手に治療行為を行うわけではない。
 個々の肉体が違うことを知っていてなお、ありもしない「一般的で平均的な人体」の数値モデルを追い回すしかないのである。
 
 おそらく人間社会は精神性にさえそうした「一般的で平均的な人格」というモデルを押し付けているのだろう。
 自分以外の誰かにとって都合の良い誰かを演じて価値を認めてもらい、やがてそれに疲れて、あるいは復讐のように自分以外の誰かを都合の良い玩具に使いたがる。
 それが悪いというのではない。ただ、そういう人もいるな、という話である。
 
 その道のプロ(医者)とはいえ私の身体もろくに知らない誰かが「平均的数値モデル」と向き合ったところで、もともと生存不適な私のカラダはもっとも弱い部分から破断する。
 他の部位を守るためではなく、それが私の身体の終着点だからだ。
 憂うつもりも嘆く気持ちもない。ただそう考えると、この治療行為の終わりはどこにあるのかと考えてしまう。
 
 死ぬまでコレステロールを適正に保ったところで、何らかの梗塞や血管系の異常が起こることは予測されている。
 医者にではなく私によって。
 それなら投薬による内臓の負担と比較して(積分によって死から逆算した)ほどほどの時期に投薬治療を辞めてよいように思うのだ。
 
 僕はそれをおよそ5年後に設定している。
 とはいえ周囲の誰よりも長生きしようと思っている、という話はまたいずれ。
 
<Trio de 三匹>
 
>>>
 
 術後からおよそひと月、口腔内の違和感はあるし歯磨きや入浴はまだできないものの、違和感も大分改善されてきた。
 数百メートルの歩行でも血圧や脈が上がって患部に響くが、それで痛みを感じることはなくなって、眠ることも楽になった。
 煙草やカフェインはあとひと月以上愉しめないだろう。
 
 身体が求めないからやめてしまっても良いとは思う(だいたい医者という医者は煙草をやめろと言ってくる)のだが、できればやめたくない。
 いつかのお祝いにと何年も仕舞ってある高価な葉巻だって(5本くらいストックがある)いつかは愉しみたいのだ。
 
 それでも、いつかはやめるのだろう。
 シガーの煙の重さに、身体がついて来られなくなっていることを僕は知っている。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
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// TimeLine:250418
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ヴァーチャルの住人は潔癖症。
SUBTITLE:
〜 The sea of Tranquility.〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[List]

 

//[Body]
 
 数年前からヴァーチャルが現実世界に侵食していて、ときどき辟易する。韻を踏んでいるわけではない。
 
 たとえばインナカラーというヘアファッションがあるが、あれもヴァーチャルキャラクタが最初だったのではないだろうか。
 美容整形もそうだし、ポリコレもそう。人間が仮想に描いた理想を現実世界に押し付けて、現実世界が侵食されてゆく。
 もちろん「空を飛びたい」とか「遠い場所にいる人と会話をしたい」などという夢想をかつての人間は思い描き、今やそれはごく当たり前の日常として具現されている。
 
 ヴァーチャルが、人間の思い描いた夢想が現実を侵食し、塗り潰してゆくのは決して悪いことではないのだろうと思う。
 しかし、にもかかわらず、ときどき辟易する。韻を踏んでいるわけではない。
 
>>>

【潔癖症の人】

 潔癖症の人というのは、基本的にヴァーチャルの世界の住人である。
 僕の場合、自分が潔癖症であると自覚したのは8歳の頃だったが、潔癖症が思い描く理想を現実世界に展開することが不可能だと理解したのは23歳になってからである。
 
 たとえばバブル期の後半に、殺菌・抗菌・滅菌ブームというのがあった。
 今から数年前に疫病が流行した、それよりずっと昔のことである。
 当時は殺菌ウェットティッシュというごく当たり前の事実をわざわざネーミングされた商品に始まり、果ては筆記用具まで抗菌効果を謳うものが現れたりした。
 今なら抗菌スマートフォンケースだとか、液晶保護フィルム、といった商品が開発されることになるだろうか。
 
 やがて常在菌まで殺菌すると肉体の保護機能が阻害されるという健康被害に関する情報が一般化され、殺菌ブームは静かに幕を引いた。
 そうしたムーブメントは、ある種の潔癖症熱病だったといえるだろう。
 相当数の人が潔癖症になったわけだ。
 
 しかし一般に暮らす我々は、菌というものを(カビやキノコのように大型コロニィを形成したのでなければ)肉眼で把握できはしない。
 もちろん培地や反応薬、顕微鏡といった薬剤や装置を使うことで、菌の存在の有無を確認したり視認することは可能だ。
 けれどもそうした手順を踏んで正しく「ここには○○という菌が大量に存在しており、それによる健康被害確率は6割を超えるため、特定の方法による殺菌・消毒を要します」と言いきれる人は少ない。そもそも確認していないのだから当然だろう。
 
 潔癖症というのは極端になるほど神経質に、果ては神経症的になる。
 強迫観念が価値観に癒着し、どうしようもなく認知認識に影響を与え、行動に制限をもたらす。
 
 そこまで行き過ぎでなくとも、トイレに掃除機を掛けるのはよくない、とか言う人もいる。
 もちろん好みの問題だから好きにすればいいと思う。僕は玄関の床も掃除機を掛けてしまうことがあるくらい無神経である。
 いやもちろん玄関やトイレから居室に至る際、マスク付きの完全保護衣に着替えてクリーンルームを経由するというご家庭なら、トイレや玄関に掃除機を掛けるなんてもってのほかだと言えるだろうけれど、だいたい地続きで、空間も完全に遮断されているわけではない。
 
 我々人間が意識している以上に外界と屋内はひとつながりであり、寝室と浴室と玄関と屋外はだいたい同じものだと考えることも可能である。
 まぁそこまで極端に考えると潔癖症の人は生きていられなくなってしまうと思うが、神経質になって辛い思いをするのは自分だけでなく、周囲に巻き込まれる人もいるのだという自覚は欲しいところだ。
 
>>>

【究極の理想と単純化】

 いずれにしても潔癖症というのがときに実態を持たない(あるいは実態からかけ離れた)ある種の強迫観念の発露であるのは多くの人が認めるところだろう。
 彼ら彼女たちの求める究極的な清潔さなどというものは、日常生活に存在しない。
 それはあくまで仮定の、仮説上の理想的な状況でしかない。
 
 たとえば抵抗や摩擦を加味しない物理力学の設問などがそうだ。
 たとえば、と言っておきながら猫氏の喩えはかえって分かりにくい、という苦情を昔からIRLで受けることがある。
 べつにインテリぶっているつもりはなく、自分にとって手近な比喩の対象を選んでいるつもりだが「アタマ良さそうだけど、アタシよくわかんなーい」といううら若きガールもいるかもしれない(仮定の状況)。
 仕方ないので程度を低くしてもっと分かりやすくいうと、算数の問題で「たかし君は右手にメロンを3個、左手にグレープフルーツを5個持っています」などというものがあった場合、僕なら(最後まで聞かず)即座に「どんだけ手がでかいのでしょうか」という疑問が湧く。
 
 こうした「現実を無視した考え」が「仮定の」「理想的な」存在であり、脳内に投影するほか認識できないそれは、そのままヴァーチャルなものだ。
 もちろんそれが悪いということではない。
 僕などは長らく猫として生きているが、現実世界では人間の肉体に閉じ込められている。
 
 理想的な環境での演算(摩擦のない力学や持ちきれないフルーツの計算)と同じように、具現は不可能であっても、目的や近似を得るための便宜として理想化(単純化)して処理するのだと考えれば、理想化は決して愚劣な行為とは言い切れず、むしろ妥当で現実的な手法だと考えることができる。
 ために僕は複雑で処理が困難な現実よりも、モデル化され、理想化され、単純化されたヴァーチャルの方が好きなのではある。
 そして同時に、それが現実でないことを自覚してもいる。
 たとえばヴァーチャルな認識世界の僕は猫だけれど、現実世界の僕は肉体準拠で人間として他者から認識されるという程度の、単純な事実の追認である。
 
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【潔癖と倫理】

 ここまでに書いた現実と仮想の違いを考えても、現実は複雑である一方、仮想は単純で理想化されており、ために仮定的/非現実的なものになりやすい。
 
 僕が子供の頃(およそ半世紀前)は、現実的でないものに熱中していると、大人たちにたしなめられたものだ。
「いい加減そんな子供の遊びは卒業して、現実に目を向けたらどうか」と。
 今でいうところのTVゲームやコスプレ、推し活などと呼ばれるものもそうだろう。
 当時の大人たちは「そんな無益なものに夢中になっていないで、空腹を満たし、財布を分厚くさせるものに集中なさい」という社会に生きていたのだと想像する。
 
 社会は今より雑多で猥雑に汚れており、人々は地に足のついた堅実な日常を至高としていたのかもしれない。
 そうした意味で、社会は清潔に単純化され、豊かな多様性を獲得した。
 今後はより一層の理想を具現すべく、人々は人のみならずすべての生命の権利を保護し、個々人の理想や主張やありようを受容する方向に進んでゆくだろう。
 ── 目先のリソースが尽きない限りは。
 
 そうなのだ。
 当時の社会は貧しくて、人々(とくに大人)は貪欲で飢えていた。
 それは飢えを知らない者の現実的な飢渇ばかりでなく、飢えを知る者の恐怖でありトラウマの体現だったのだろう。
 
 じつに世界は二大国の紛争危機に翻弄され、太平洋を超えるICBMを開発したとか、それを迎撃するレーザー兵器を開発したとか、そういう生臭い話が科学誌にも掲載されていた。
 極東の小国に過ぎない日本がその後経済大国に成長したことは、現在のような没落国家に向かっていることよりむしろ不思議なことである。
 
 人はずっとヴァーチャルを、理想を目指し、夢想に憧れ、その実現を願い、主に知識や技術によって具現した。
 より美しい、清浄な現実を夢見て、そして倫理の壁にぶつかる。
 
>>>

【ケダモノであることを選んだ私】

 ヒトゲノムの解析はキリスト教を崇拝する人からすれば神の領域に踏み込むものだったろう。
 日本でもクローン技術に対して嫌悪感を持つ人は少なくはない。胎児に満たない胚の段階で先天性異常を検知する技術すら嫌う人は嫌う。
 科学者に倫理がないわけではないが、倫理感情に振り回されていたら科学者では居られない。
 技術を確立するその陰で、人間も含む多くの生命が失われる。
 
 感謝だ贖罪だと、これまた感情論を持ち出す人も居るが、他者を殺さず生きることは少なくとも我々人類には不可能だ。
 動物を殺すと「可哀想」と言う人は多いが、うぬらは一体どうやって自身の肉体を存続させているのかと疑問に思う。
 
 私は禽獣なので、生き物を趣味でも殺す。
 端的に釣りなどがそうだ(何年も興じていないが)。
 食べる以上に、とにかく殺す。捕まえる。それが楽しい。
 
 悪趣味だろうか。
 この一文は、露悪に過ぎるだろうか。
 
>>>

【あなたは人ですか】

 かくして(隠しているのではない)現実はかように過酷であり、常にリソースの枯渇に怯える必要がある。
 コメがガソリンが輸入品が高いと騒いでいるが、それこそ生命の本来のありようなのだろう。
 衣食足りて礼節を知る、という言葉があったと思うが、礼節のない人間とはすなわち禽獣である。
 
 弱きものを虐げ、奪い、慰みものにする。
 釣り人が熊を狩ることはしないのと同様に。
 それでも自分だけは正しいという理由を作っては言い訳を続けるのだ。
 
>>>

【虚像の潔癖を剥いだら】

 夢を思い描き、理想を胸に未来を作る。それは素晴らしいことだ。
 しかしそれを現実に押し付けて実現することは、何かを踏みつけにすることでもある。
 飢えに怯えて動植物を養殖することは、つまり殺すための生命を育むことである。
 
 グロテスクというなら、生きることがそのままグロテスクと言える。
 その醜悪について、自身のそれにだけ目を背けるというのもまたひとつの理想化だろう。
 ヴァーチャルは非現実的なものだから、美化を否定すのもまた非現実的な愚行といえる。
 
 薄暗い話を続けてきたが、ここはひとつ開き直ってはいかがだろう。
 生きることはグロテスクであり、悪趣味なのだ。
 悪趣味という趣味まで捨ててしまったら、人間は本当に動物以下になってしまう。
 
 悪徳もひとつの徳だと考えれば、人間の行いはエントロピーに等しく、増大し続ける定めにある。
 
<立入制限区域>
 
>>>

【ヴァーチャル/リアルの逆侵食】

 ヴァーチャルが現実を侵食していると冒頭に書いた。
 しかし実際に侵食しているのは現実の方かもしれない。
 現実がそこまでリアルをヴァーチャルに押し付けなければ、ヴァーチャルは静かの海として、隔絶された世界のままにいられたのではないだろうか。
 
 たとえば最近は、ポリコレに毒されたゲームが増えた。
 つまりヴァーチャルから生まれた人間の理想が現実世界で結実し、それが人間の仮想世界に逆輸入されて生長しているようなものだ。
 という話の詳細はまたいずれ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
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[Engineer]
  :青猫α:青猫β:銀猫:
 
[InterMethod]
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[Cat-Ego-Lies]
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//EOF
 

 

 

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// TimeLine:250803
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
完結した名作の続編は。
SUBTITLE:
〜 What the great works, next for to?
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250803
 
 明日、姉の入院日のため姉の家に来ている。
 日記でも書いておこうかと思ったら、クライアントアプリが自宅サーバに同期しない。
 そういえば整備のため、本体をオフラインにしていたことを思い出した。
 
 一昨日の朝だったと思うがNASの動作不良メッセージが4回ほどメールで届いており、確認すると温度異常を起こして動作停止していた。
 英文だし流し読みした程度なので詳しく分からないが「温度が60℃に到達しているからシステム停止したよ」というもの。
(温度センサを搭載しているので、5℃単位で報告される)
 HDDなら機械的損傷を起こすレベルである。
 
 月初は未明にデータ整理の時間がある(そういう設定にしている)のでNASの活動が活発化するが、その時間にそこまで高温になるというのはファンが動作不良を起こしたのだろうと想像している。
 スロットをすべて取り外しブロワで埃を飛ばそうとしたのだが、あいにく小雨であったため、電動工具ではなくスプレー(ガス缶)タイプのブロワを使った。
 確かノンフロンタイプで比較的廉価だった上「逆さにしても使える「というので買った覚えがあるが、真夏なのに出力が低い(確か冬に使ったときも「こりゃダメだ」と思った記憶がある。二度と買うまい)。
 それで本体ファンモータ部分のブロウを中断したのだが、特に不便もないのでそのまま過ごしていた。
 晴れたのだから作業すべきだった。
 
 そのようなわけで物理的にサーバを切断しているのだから使えるわけがない。
 ともあれソフト的に接続できないときよりはずっと安心である。
(不正アクセスによるパーミッション上書きまで疑わなくてはならなくなるから)
 
 NAS自体は購入して4年だから、経年劣化には早い気もする。
 しかしそもそもNASを設置している部屋が悪い。
 当初は専用の設置エリアを設定しようと思ったが、今の棲み家が古くて設計も緩くて施工もテキトーな建造物なので諦めた経緯がある。
 それで4畳半くらい(だったと思う)の納戸に設置した。
 寝室の隣だが住空間に近いため、外気にほどちかい他の部屋よりよほどマシだろうと思ったのだ。
 
 けれど基礎部に繋がる床下開口部があるし、断熱や床の張り替えリフォームをしていない部屋なのでとにかく通気性が高い。
 早い話、気密が悪くて外気がダダ漏れなのだ。
 結果、冬は低温エラー(記録では−3℃)で停止したことがあるし、夏は高温エラーで停止することがある。
 細かい埃も侵入する。
 
 いっそ書斎のPC机に置いた方がいいかもしれないと今思い付いた。
 当初はHDDで構成しており、動作音が気になったので部屋を離した経緯がある。
 SSDなので動作音はしないし、住空間に置けば温度問題はクリアする。
 新たな問題は繊維系の埃や煙草の煙か。
 専用スペース再検討も含め少し考えよう。
 
>>>
 
 ついでだからコンピュータのことでも書いておこう。
 
 僕は Apple社製品を長らく使っている(初代iMacのRev.b から)。
 当初の樹脂ボディや、G4Cube(とセットでリリースされたStudioDisplay)で採用されたアクリルボディは、とにかく煙草の煙と相性が悪く、陽焼けも含めて変色を免れなかった。
 ケーブルのコートに採用されていた樹脂もUV分解劣化によって表面がベタつくという材料の欠点を抱えていた。
 それでも当時の製品は可憐だったので、そこは仕方なかったのだろうと思う。
 たとえるなら可愛いガールがベタベタしてくるのは許してもいいかな、くらいの軟派な気持ちだったといえる。
 
 ところで最近の Apple製品のうち、ことにOSをはじめとするソフトウェアが往年の Evernote のようなアップデートを繰り返していると僕は感じている。
 端的にいえば蛇足の機能や不要な変更が目立っている。
 iOSの写真アプリもそうだしMacOS(特にシステム設定)もそうである。
 
 誰の役にも立たない感想だが構わず続ける。
 補足すると Evernote というのはクラウドサービスの先駆的なWebサービスである(後に独立したクラウドアプリケーション化)。
 当初は無料アカウントでもかなり使い勝手の良いシステムだったため僕も長らく使っていた。
 しかしある時期からアカウントクラスによる利用制限の締め付けが強まり、システムの不具合も頻発するようになった。
(これがきっかけで僕はNASを購入した)
 
 その時期の Evernote はアップデートのたびにUI(ユーザインタフェイス)が変化し、従前の使用感で操作をしても思った機能をさせられず、ようやく覚えたと思えば新しいアップデートにより再び望んだ機能を操作できないということが頻発した。
 
 もちろんシステム全体で未完成になっていた場合などはそうしたインタフェイスも含めた変更は仕方ないと思う。
 たとえばメニューバーのプルダウンからしかコマンドを選択できないExcelよりも、ビジュアライズされたアイコンボタンのメニューを搭載したExcelの方が使い勝手はいいだろうし、アイコンもサイズやイラストやテキストの有無をユーザが選択できれば利便が高い。
 今はあまり聞かなくなったが、これらはユニバーサルデザインと呼ばれる概念が根底にある。
 
 しかし機能やシステムが完成されたら、開発グループは何をするべきだろう。
 本来は周辺環境(OSはもちろん、HTMLやCSSといった記述体系やPHPなどのスクリプトといったWeb環境全般)に合わせたアップデートやバグフィクスをするだけで業務は終了、となる。
 すると開発者はヒマになる。
 
 それでも組織は利益を生むから、社員に利益を求めることを求める。
 直接求めなくてもそういう空気は組織の中に充満している。
「できるだけラクをするために工夫することを繰り返す」僕のようなイキモノであれば、ひとときの安息を満喫したついでにズルズルとサボり続け、もっと自分の仕事をなくす方向で思いを巡らせることもあると思う。
 けれど大抵の「優秀な」人間はそうではない。
 何か実のあること、自分にも他の誰かにも「これをしました」と言える実績を残したい。残す必要がある。
 そういう場面があり、そういう圧力があり、そういう考え方がある。
 
 するとせっかく完成してユーザが慣れ親しんだシステムに、また新しい機能を追加することになる。
 その無駄のために不具合が出ることもあるし、そもそも不可逆的な改変になることもある。
 少し話を戻すと、iOSの写真アプリの(少なくとも僕には)無用の整理/サゼッション機能や、MacOSのシステム設定のUIに対する無駄な改変がそれである。
 
 なぜ要らないことをするのか。
 それは使う側が必要としていなくても、作る側にとって「作る必要がある」からである。
 僕もいくつかのシステムでプログラミングやマクロ作成をしたことがあるので分かるが、作ることが純粋に楽しいときもある。
 またユーザからのフィードバックが必ず伝わるわけでもない。
 ユーザは製作者側の様式(システムに関する用語やハード/ソフトの仕様)を理解しているわけではないし、製作者がユーザの不満をすべて理解できるわけでもない。
 結果的に、せっかくバランス良く完成したはずのシステムが瓦解することもある。
 
 Apple 社の製品に限らずコンピュータシステム(とくにCPU)は、物理的限界で能力向上の頭打ちが見えている。
(ナノメータ単位の回路製造において、ミクロの下限を迎えようとしている)
 ハード的にもソフト的にも完結しつつある環境において、それでも社員は「革新的な新製品」をリリースする必要がある。
 
 家電品の多く(冷蔵庫とか、洗濯機とか)が同じような運命を辿ったことだろう。
 我が家の冷蔵庫や洗濯機にもLANを経由した機能が搭載されているが、僕はそれを使ったことがない。不要だからだ。
 そしてその機能を(パンフレットなどで確認した範囲では)便利とか欲しいと思ったことはない。
「ああ、ヒマになっちゃったんだな」と思うだけである。
 
<自宅ではないので写真がありません>
 
>>>
 
 みんなラクをしたいから技術が発達したのだと僕は思っている。
 洗濯板から洗濯機になり、石鹸はボディソープやハンドソープ(今やディスペンサからはたいてい泡で出てくる)に変遷した。
 クラウドコンピューティングも、ユーザ(クライアント)側の端末や場所を問わずサービスを受けられるというシステムが当たり前になった(だから自宅サーバを構築するのは少し変わっているのだろうと思う)。
 
 ラクになったのだから、ラクをすればいいのである。そのはずである。
 しかし人々は忙しそうである。
 色々な人と瞬時に連絡ができるのに情報の伝達精度が上がらなかったり、情報処理(確認/訂正を含む)にかかるコスト(特に時間)は変わらなかったりする。
「生成AIをビジネスで活かすには」なんてテーマで情報を発信している人の大半はそれ(発信)がビジネスだったり、発信そのものによって自身の欲を満たしていたりしてアテにならない。
 本当にビジネスで活かしている人がいたとしたら、その情報を発信する必要など感じないだろう。
 仕事に没頭しているからだ。
 
 完成するというのはそういうこと。
 つまり余計なものがない状態こそ完成されている状態なのだが、それを歪めるシステムを人間の心理が抱えているということになる。
 せっかく完成しているのに、ぼーっとしていては気が済まないのだろう。
 べつに悪いとは思わない。
 そういう中から新しい発明が生まれることがあるのも事実だからだ。
 
 とはいえ周囲からの圧力で、蛇足でもいいから「仕事をしている」という成果を作るべくして未完成の状態に「進んで」しまった完結品というのは、例えるなら続編がリリースされたけれど台無しだった名作映画でも見るような気持ちになる。
 
 ちなみにもう Apple社製品は買わなくてもいいかな、と思っている。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Love-Maintenance-Mechanics-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Computer-Contents-Koban-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:
:君は首輪で繋がれて:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250723
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
親知らずがまだあったとは。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250723
 
 月に一度の歯科の定期検診(毎回何かしら治療を受けている)、のはずが唐突に親知らずの抜歯。
 そういえば数年前、親知らずのうち3本くらいを連続で抜き続けたのだが、身体の負担が強い上、さほど悪影響を及ぼしていないからと残していたのだったか。
 
 歯のインプラントを含め、歯科治療にかなりお金と時間を使っているが、これは僕の人生設計で及ばなかった部分に対するケアである。
 実は自営を始めた27歳の頃から10年ほど(正確には41歳になるまでの14年間)健康保険に加入していなかった。
 ついでにいうと年金にも加入していなかった。
 
 なかなか考えにくいのだが、年金や健康保険について今ほど強力なチェック体制がなかったのだろう。
 あるいは、いわゆる非正規雇用から自営に切り替わったため、そもそもの社会というセーフティネットから漏れていた可能性もある。
 不満があるわけではない。むしろ感謝してさえいる。
 
 当時の僕は常識もなかったがお金もなかった。ついでに時間もなかった。
 親は死んだばかりで、継いだ仕事は分からないことだらけ。
 
 年間数万円とはいえ国民健康保険に加入する金銭的余裕はなかったし、役所に出掛ける時間も気力もなかった。
(ほどなく僕は重度の抑鬱状態に陥り半年ほど眠り続ける)
 年金事務所も健康保険課も、僕を追いかけることはしていなかった。
 まだ年金の個人情報漏洩事件が起こる前のことである。
 
 当時の僕はすでに、自分の人生がいわゆる年金受給年に到達することはないと予測していた。
 ために年金を受給する人生を設計していなかったので、この選択は結果的にそうした人生設計に対する僕自身の依存を深めた。
 要は「長生きしない予定だし、長生きすると金銭的にどうにもならなくなる人生を選んだ」ということだ。
 
 無論、厳密にはそんな選択をした覚えはない。
 長生きなんてそもそもしたくなかったし、もっと投げやりに、非建設的(破滅的)に生きる予定だった。
 セーフティネットというのはたしかに便利な概念で言葉だと思うが、ことさら年金に至っては、誰か(もちろん僕は含まれない)の利得のために作られた制度だろうという認識も強い。
 表向きは「みんなのため」、内実は「自分と身内のため」という制度が生まれることは、共産主義にも資本主義にも民主政治にも等しく可能性があり、それらは専制あるいは独裁政治に近づく結果をもたらす。
 
 おそらくすべての政治体制や社会体系は明確な区切り線などなく、虹のスペクトルのように、グラデーションして存在している。
 それなりの頻度で書いているが、選挙をしているから民主政治が行われている、などという幻想を僕は持たない。
 たとえばロシアは選挙によって国家元首を決定しているが、それでは戦争は国民の総意だろうか。
 なぜあの元首は元首であり続けているのだろう。日本の元首と選挙はどうだろう。
 
 言うなれば民主政治という理念を具現するための不完全な一形態(手段)として、被選挙者に委任するシステムが具現されているのが現状だ、という認識である。
 宝くじと同じで買わなければ(投票しなければ)意味がないが、買った(投票した)からといって当たる(思った未来が手に入る)わけでもない。
 しかし無料で(一枚だけだが)もらえるので、ひまつぶし(ひつまぶし、でもよい)程度に最近は使っている。
 
 それでもあなたや私が投票用紙に書いた固有名詞(人名か組織名か)は、そもそも私やあなたが望む「未来の理想」などではない。
 なのに社会は「選挙こそが民主政治であり、理想の未来を掴む唯一の手段だ」と言っていて、どういうわけかみんなそれを信じているように見える。
 それが限定的で不完全な手段に過ぎないことを皆が理解しているはずだが、誰も指摘しないように観察される。
 
 もちろん「完全にない」よりは「不完全でもある」方がよいのは言うまでもないが、「理想的な未来の実現」について、もう少し高い理想を持っても良いのではないだろうか。
 
 そのようなわけでアナーキィなラケンローラだから投票に行かなかったはずが、アナーキィなラケンローラだからこそ投票に行くという憂き目をこの数年は味わっている。
 アナーキィなラケンローラというのが、投票日に投票もせず、期日前投票もせず、家でピッツァをビールで流し込みながらガールとセックスに明け暮れて居られるような平和な社会が理想的なわけですよ。ラケンローラがセックスもしないで投票に行くなんて論外です!
 
  ……いや、そうか?
 
>>>
 
 いつもどおり話が逸れたので歯の話題に戻る。
 
 半年寝ているうちに僕は栄養失調になった。眠り続けたためだ。
 食事もしなかったし、シャワーも歯磨きもしなかったのではないかと想像する。
 当時の鮮明な主観記憶はほとんど残っておらず、暗い自室で眠り続けていた事実だけを記憶している。
 歯が痩せたのか、冠せられた金属類が外れ始め、虫歯が出始めたのはいつだったろう。
 
 それでもべつにどうでもよかった。
 自分は60歳まで生きられないだろうし、生きるつもりもない。
 痛みはあったが対症療法薬を使ってしのいだ。薬も買えないときはただ耐えた。
 痛みというのは、痛みに過ぎない。
 
 それで数年前、とうとう自分が60歳には死なない可能性が高くなったことを理解した。
 年金制度は相変わらずアテにしていないが(それでも加入は再開した。することになった)、お金がないからという理由で自殺する未来が訪れる可能性はひどく小さくなってしまった。
 なぜといって、今現在がすでに老後だからだ。
 
 現在の年金受給年齢は65歳が一般的だったかと記憶している(もはやシステムに興味がないので分からない)が、僕は賃金を得ることを目的とした労働をやめた。
 労働をしていないので、労働の対価としての賃金を得ていないが、暮らしている。
 もはや年金受給額や生活保護によって老年を過ごすことについて考える必要がなくなったのだ。
 
 生きたいだけ生きられる、とは思わなかった。
 死にたいときに死ねる、というのが僕の望みだ。
 
 しかし残念ながら(僕によって)呪われた死人が約束を反故にしたため、死にたくても死ねない状況が続いている。
 精確に言えば、妹の資産管理をする必要が発生してしまった。
 財産だけならよいが負債があり、不動産賃貸業に特有の経営判断が要る。
 
 建物を見ただけで評価額を(土地と建物それぞれに)概算したり、修繕工事に掛かる費用を概算したりという勘を、僕は損保の営業をしているうちに身に付けた。
 賃貸物件に長く棲んでいたので、入居者のニーズもある程度分かる。
 妹にはそういった知識や経験はない。
 
 もちろん僕は万能ではない。
 掛かる費用とリターンの計算は不勉強な部分も多く、昨年は宅配ボックスを設置したため「家賃はこれっぽっちも増えないのに償却資産税が上がる」という憂き目に遭っている。
 そうなんですよ、全国の賃貸物件オーナーさん。
 あれって、家賃収入は増えないのに、税金が上がるんです! なぜですか!?
 
 入居者や宅配業者の利便を図ることは、それによって社会が効率化され、幸福な環境に近づくことを可能にする(時間リソースの余剰を生み出す)土壌を作ることに寄与していると考えることができる。ヤマト運輸に勤務していたこともあるので、ことさらそう思う。
 ために不満ばかりかというとそうでもないが、入居者の利便を通じて社会に貢献したつもりだったのに税金の上がり方が異常で困っている(笑)(←笑ってるよ)。
 
<近影>
 
>>>
 
 歯の話題からすぐに逸れるのは僕の宿命である。
 
 そのようなわけで、ボロボロになった歯を治してもらった。
 治すといっても、治せない歯も多かった。
 それで当初は大量の抜歯をした。
 治療が無効の歯や、抜かなくてはならない歯が8本はあったように思う。
 一度の治療で2本抜歯、ということもあった。
 
 20代のはじめに痛んだ親知らずも当時の歯医者が「何もしない」という選択をしたため放置されており、これが原因の虫歯もあって、もろもろ抜いてもらった。
「こんなになるまで放っておいて」と、普通なら怒られるのだろうが、僕の掛かっている先生は「これはずいぶん我慢したね」くらいしか言わなかった。
 僕も説明をしなかった。
 
「親が死んで、健康保険も加入していなくて、半年寝込んで栄養失調になりかけて、歯が痩せてこうなりました」なんて言わない。
 気取り屋の僕は言わないよ恥ずかしいもの。
 
 そうこうするうち「僕にとっての定年退職」があり、たまたま歯科の先生がインプラント研修の講師をしているほどの人だったこともあり、インプラント義歯を設置した。
 審美のためのものではないから見てくれは良くないし、半永久に使えるものではない(メンテナンスをしながらでも、よくて20年しか保たないという)が、僕の余命を考えれば充分だ。
 
 短命のつもりで生きていたが「生きたくなくても生きていた方が都合の悪いことを回避できる」という状況に適応する上で、かつて放置した歯の治療をすることは大事なことなのだ。
 過去を埋め合わせるように歯を治療しているが「生きたくもないのに生きている方が都合が良い」というのは、ずいぶん皮肉な呪いである。
 
 不満はあるが、文句を言っても仕方ない。
 ネコノカミサマに祈るような気持ちで、どうすればよいかを考えるだけである。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Form-Interface-Kidding-Link-Maintenance-Memory-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250701
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ヴァーチャル側に生きている。
SUBTITLE:
〜 The perfect virtualizer. 〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250701
 
 仕事が休みの妹と食事に出かける。
 妹は嫁に行った身であり、旦那様が実家の敷地内に別世帯を構えている都合、義両親との付き合いごとをないがしろにはしない。
 
 僕なら毎日のように顔を合わせることが(別家屋・別世帯とはいえ)可能な関係性なのに、時候の付き合いごとまでするのは苦痛だと思うのだが、妹は、誰かのためにプレゼントを選ぶことを愉しめる性格のようだ。
 
 そのようなわけで義実家に贈るお中元の手配に付き合う。
 歩いても1分と掛からない距離なのに、直接手渡しではなく、現代的に宅配サービスがセットになっているらしい。
 世俗のことはよく分からない。
 
 妹自身は前述のとおり、もともと中元や歳暮といったやり取りを嫌う性格ではないのだが、義父は死んだ父上ほどまで彼女を溺愛できるはずもなく、あるいは親子と思えばこその甘えがそれぞれに出てしまうようで、折り合いが悪いことも多くなったようだ。
 特に思うところはない。誰だって、折り合いの悪い人の一人や二人は居るものだろうし、そういうのは身近な存在との間の甘えによって発生することがほとんどだ。
 
>>>
 
 僕は子供の頃からヴァーチャル側に生きている。
 自分の能力や、世界に対する価値観を、自分なりに観察して、評価して、その評価に対するフィードバックとして順応している。
 当時からこれは特殊な例だったようで、多くの同世代は、自分の能力や世界に対する価値観を、家族や友人、自身が信頼を寄せたり、より強い力を持っていると認めた相手から与えられた情報を受け容れて、それに順応していた。
 
 どちらがよい、という話ではない。
 僕の場合、食事の所作についてだけは非常に厳しく躾けられた一方、それ以外の、人間の機微についてはさほど教えてもらう機会がなかった。
 一家離散するような出来事がなければ、あるいは僕もまともな人間らしい人付き合いの教えを受けたのかもしれないが、今となっては、この(ある意味、野蛮で社会性を持たない)自分の方が好きである。
 
 しかし当時に比べると、人間達はずいぶんとヴァーチャル寄りになった。
 TVゲームやアイドルのような、ヴァーチャルキャラクタに傾倒し、それを長らく続けることを、かつての社会は「幼稚」だと一蹴したものだ。
 だがゲームは文化になり、ヴァーチャルキャラクタに情愛を寄せることは不自然ではなくなった。
 社会がそれだけ豊かになり、人々はその物質的な豊かさを基盤として、文化的/感情的な多様性を享受している。
 
 問題はその多様性が、必ずしも豊かであるとは限らない、という点だろうか。
 以前も似たようなことを書いたが、物質的に豊かな社会に育つと人間は、与えられたものから選択するだけで満足するようになる。
 一人一人の体型は異なるのに、既製服(だいたい1〜5パターン程度のサイズ構成)で「これでいい」「これがいい」と、幸せになれるのだ。
 
 もちろんそういう幸せが悪いと言うつもりはない。
 ただオーダーメイドでピッタリしっくりフィットする官能を知る者には、既製服では満足できない、というだけの話だ。
 
 僕はたまたま自分でゲームを作り、シナリオやシステムを設計し、キャラクタや世界設定も書き込み、プログラミングまでしていた。
(最終的に、当時のマシンでは実現できずに挫折した)
 そこには思った通りの景色があり、描ける限りの歴史があり、作ったぶんの人種があり、宗教や経済やエネルギィや国家や権力や文化や思想といった様々なものが密接に関わり合うさまを、描ききれない視界の外のものまで感覚することが可能だった。
 物理法則さえ(簡略化されたシステムとして再現する都合上)思いどおりに捻じ曲げることが可能だ。
 
 僕はそういう世界に生きた。
 そういう世界を作り、そういう自己増殖的に自動化されたひとつのヴァーチャルな体系を眺めて、その中に発生するひとつの存在(人間かもしれないし、あるいは類似の、何らかの生命的な何か、かもしれない)の歩む可変的な物語を編んでいた。
 
 だから誰かの描く世界とか、誰かの作った美男美女とか、どこかの会社が営利目的で作ったヴァーチャルであるとかを眺めていて、どうしても窮屈だったり、蛇足だったり、そういった過不足を感じてしまう。
 それはそうだろう。
 そこにあるヴァーチャルは「僕ではない誰か」にとって「ぴったり」のヴァーチャルなのだから。
 
 ためにそうした「与えられているだけのヴァーチャル」に酔いしれて、対価を支払うだけの(まぁ、悪くいえば色恋営業をしている風営店のような)対象を持つ人たちの幸せも分からないではないし、馬鹿にするつもりもない。
 ただ僕は「僕にピッタリ」を知っているから、たかだかヴァーチャルごときなら、自分で作った方がよいと思っているだけである。
 
>>>
 
 こうした「ヴァーチャルに傾倒しているタイプのオトコ」というのは、昔から嫌われる傾向にある。
 端的に、現実世界に対して「自分の中のヴァーチャルの投影」を求めるキモチワルさがあるからだ。
 古い歌の歌詞にもあるが「理想の女はラムちゃんだなんてふざけるな」といったところか。
 
 しかしそれは彼ら彼女たちのような、半端なヴァーチャル圏棲息者だから起こす摩擦だろう。
 僕は自分で作っているヴァーチャルを知っていたからこそ、現実世界にそれを求めたりはしなかった。
 友人だろうと恋人だろうと家族だろうと、それはリアルの存在である。
 
 ヴァーチャルに浸って、ヴァーチャルを具現することに没頭していたからこそ、現実との切り分けは容易で、かつ絶対的なものだった。
 アタマの中にあるものはヴァーチャル。外にあるものは、自身の認識した現実。
 作るものがヴァーチャルで、与えられるものが現実だった。
 
 当時の僕にとって、理想を求めるのはヴァーチャルに対してであって、現実に対してはただ忍耐と寛容をもって受け容れるしかなかった。
 実際問題、現実世界を作るというのは途方もないエナジィが必要なのだ。
 その点、ヴァーチャルは手軽だ。
 とはいえコンピュータを通して投影しようと思ったそれも結局、モノにならずに終わったわけだが。
 
 あるいはヴァーチャルまで「これでもか」と与えられ、それをTVのプログラムを選ぶようにチャンネルを切り替えるだけで「それなり以上」の満足を得られるようになった現代の人々(特に若い人)は、なかなか思いどおりのヴァーチャルを自作するところまでは到達しないだろう。
 
 それに共産主義国家で生まれ育った人は自由経済主義国家での生活に戸惑うと聞いたことがある。
 冷蔵庫ひとつとっても、いろいろな会社がいろいろなものを並べて「これもいいですよ」「こちらのほうが高性能ですよ」「こっちは安いですよ」と競って視界に入り込もうとする。
 いろいろなことを知ろうとしないと、自分が求めているものが何なのかさえ分からない。
 
 自分がかつて暮らしていた国なら、決まった時期が来れば行政機関から勝手に「これを使いなさい」と与えられる。
 何も迷う必要はないから、何を悩む必要もない。
 選択の自由は素晴らしいというが、微に入り細に入り細かく自分で選んで決めて支払いまでする苦悩を自由というのなら、私はそんなものは望まない。
 
 たしか、そんな話だったか。
 
 愚にもつかない自慰行為のような享楽のためにリソースを浪費するくらいなら、与えられた享楽で満足できるほうがはるかにお得だろう。
 
>>>
 
 ただ時折、怖くなるときがある。
 
 僕は完全なるヴァーチャルを知っているが、多くの人はそれを知らない。
 不完全なヴァーチャルと不完全な現実との境界が曖昧で、現実からヴァーチャルに対して摩擦を押し付けるならそれは(少なくとも現実世界には)何らの損害ももたらさないのだが、逆にヴァーチャルの投影を現実に擦り付けて発生する摩擦が、人々や社会を、損耗させているように思えるときもあるからだ。
 
 たとえば過度なルッキニズムは、人が現実世界に擦りつけ、人を現実世界に執着させるヴァーチャルの一形態だ。
 その境界面に削られて、人は時に精神の健康を損ねたり、妄執的な整形を繰り返すこともある。
 なぜヴァーチャルをヴァーチャルのままにしてリアルをリアルのまま享受できないのか、僕の様式では分からないが、彼らの様式ではそれが最短にして最適の解なのだ。
 現実世界に対して己の中にあるヴァーチャルを投影するための素体として使えるものなら、何をしてもよい、ということなのだろう。
 
 整形なら自身の身体についてだけかもしれないが、他人の価値観や存在のありようまで己の理想で支配しようとすれば、いわゆるDVのような、暴力を含んだ言動によって他者を支配する行動様式になってゆく。
 せっかくのヴァーチャルなのに、自分はもちろん、誰も幸せにならない。
 
 何がどうあれば、人々がより最適にヴァーチャルとリアルを認識し、切り分けられるのか、僕には分からない。
 現実というのは結局のところ「自分が現実だ」と感じて思った感覚 ── つまり肉体に起因したヴァーチャルでしかないからだ。
 
 あるいはかつて「ゲームなんてしてないで勉強なさい」と小言を言っていた大人たちの危惧したありようが、あれら境界を見失った者たちなのだろうか。
 
<まどろみハーフタイム>
 
>>>
 
 昨日は昼食をBPと摂ったため、このところ栄養過多である。
 我が家の経済主体たる奥様(仮想)が「高カロリィ食が続いたので胃腸を休ませると良さそうですよ」とおっしゃるので、夕食はヨーグルトで済ませた。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Life-Link-Love-Mechanics-Recollect-Season-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Computer-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250621
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
今日は正しさについて語っちゃうゾ!(キモチワル)
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
250621
 
 いや、たまには、ね。こう、肩に力を入れず普段のように話をするのもいいかなぁ? そんなアタシってどうかなぁ?(キモチワル)
 って思ったんだけど、そもそも読者がいないのがこのブログのいいところであってね。
 それでもやっぱりモニタに向かって、キーボードに手を載せて、いざ「思ったことを書くぞ」なんて思うと、ちょっと身構えちゃう。
 そんな日があって、そういう部分があって、そんなあたしがいる。きっと君もそうだよね(キモチワル)(本日3度目)。
 
 でもまぁ、もう流石に、私の日記ごときで心をかき乱される、なんて人は(見て)いなかろうし、そういう未然の脅威に身構え続けるのもどうかなぁ、と思ってね。
 見えない観察者に対する緊張感というのは常にあるわけです。
 そりゃWeb上でものを書く人すべてに言えるでしょう。
 職業作家とかの話ではなくて、そう、我々一般人でもね。
 
 SNSなんて、裸で街を歩くようなものですよ。
「○○が好き!」「○○は滅びよ!」なんてことを不特定多数に発信するなんてね。そんなこと、私にはできないからずっとしていないのだけれど(ホントか?)。
 だってそういう日常生活に密着した、自分自身の本当の気持ちとか価値観って、共有できる人が少ないのが当たり前で、あるいは共有できる人が(少数であれ)いるからこそIRLで話す意味があるわけで。
 
 僕なんかは不謹慎だから「介護なんてめんどくせー」「自分が呼吸するのもめんどくせー」「可能なら自殺したい」「余命は15年を切っています」って、正直に言ってしまうんですよ。IRLで。
 ちょっと知り合った人であっても、そのときの何らかの話題で、意見や同意を求められたりすることもあるわけです。
「長生きした方がいいよね」とか「この間はご不在でしたけれどどうしました?」(介護で出掛けていました)とかね。
 無論、僕より長生きの人からすれば僕はまだ若いのでしょうし、僕より若い人からすれば「まだまだお若いですよぉ」なんて、オマエら老いや若さの何たるかもろくに考えてないくせに偉そうに高説ぶちやがって、アナタにアタシの何が分かるっていうの? って……思っちゃうんだよねぇ(苦笑)。
 
 いやでも僕はね、もちろん彼ら彼女たちの価値観を否定はしないよ。だから僕より年配の方(ほう、ではなく、かたと読んでね)が、あるいは若い方(ほう、でもいいけど、かたと読んでね)が、僕をして「まだ若い」「生きていればいいこともある」って言っても、それはそうだと思うんです。それは間違ってなんかいない。
 では僕の価値観、僕の認識が間違っているかというと、まぁ……仮に間違っているとしても、捨てたくないんですよね。
 ときどきいるところの「まだ使えるから捨てたくない」っていう、モノ溜め込みオジサン・オバサンじゃないんですが、価値観は何一つ捨てたくない。
 
 今まで生きてきた中で、そりゃ失敗もしたし、人に褒められるようなことばかりしてきたわけじゃない。
 不意に「通り魔殺人衝動」が発生したことさえある ── カミサマに誓って、今まで生きてきて一度だけですけれど、やはり嘘を吐く気にはなりません ── から、僕は、世俗の騒ぐ事件を見るたび「あれはいつかの自分じゃないのか」って、すごく、悲しいような、苦しいような気持ちになることもあります。
 それでも自分が間違えたという足跡を、自分くらいは大切にしていいと思うんです。べっべつにアンタに見てほしいとかじゃないんだからね!(本心です)
 
 どこかの作家も言っていましたが、恥の多い人生を歩む人もいると思うし、僕はそのタイプでしょう。
 恥のない人生にも憧れますが、取り返しは付かないし、来世があるなら畜生がいいですね。税金取られないし。
 それにまぁ、味わいの深さ豊かさで語るなら、恥はないよりあった方がいいように思います。
 だからいい人生(あるいは猫生)だったなぁ、と振り返るに思います。
 
 あ、ちなみに今日は特に目的もないし結論もないし、議論したい話題もないので、そういうのを求めてる人は、まぁ、Webニュースのコメント欄でも見ていると楽しめるんじゃないかと思いますよ。
 
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 それでWebニュースとかで時々ね「厳罰化を……」ってすぐ言い出す人がいるじゃないですか。
 そりゃ結構だと思いますよ。
 でも、すごく考えが浅いんだなぁ、って。そう思っちゃう。
 
 もちろん言い出した人はそれで正しいんだと思っていると思います。
 つまりその人にとって、罪が重くなれば重くなるほど、その犯罪に手を染める人が全体では減る、っていう認識があり、そういう価値観で生きているわけですよね。
 でもそれって、とっても怖いと思うんです。
 
 なぜってその人自身は罰が軽くなったり、あるいは罰がなかったら、どうするんでしょう。
 僕はよく「男は殺せ! 女は犯せ!」って言っていますけれど(IRLではまったく思ったこともないので、Web上で、だけね)、僕がそれを「本当に」しようと思ったら、刑罰とかそういうのは関係なしに実行するんですよ。だってそれが正しいのだから。
 でも僕は嘘ばかり書くから、男を殺したいわけでも女を犯したいわけでもないのに「丘海賊キャラ」という(自分で作った)謎設定を押し通すために、そんなことを書くわけです。
 
 罰があろうとなかろうと、それは僕にとっては正しくない。だから僕はそれをしない。
 他の人はどうかと考えた場合、まずは僕を基準に考えるしかないから、やはり皆「自分が考えて正しくないと感じたことはしたくない」と思うと思うんです。
 それでも衝動的に幸せそうな他人を殺したくなったり、色欲に理性が圧倒されちゃったり、金庫の中の金塊をポケットに入れちゃおうかな、って思うときが、あってもいいと僕は思うんです。
 つまり例外的な欲求 ── 衝動って、瞬発的な欲求です ── が発生して、それで自分の自我というか、自意識というかが、大きく揺れ動いちゃうことがあっても、ね。
 
 もちろんそういう「他者を害する/害しかねない衝動」は、ない方がいい。それはそうです。
 でもその一方で、そういう衝動があって、その衝動に突き動かされて、仮に一歩手前のところまで行動してしまったとしても、それでも未然に防げる人は多いと思うんです。
 単純に言えば「ああ。正しくないな」って自分で気付けて、自制できる人の方が多いと思うんです。
 絶対に、圧倒的に多い。
 
 そりゃ僕なんかは悪魔と取引をした憎悪の化身よろしく、人を憎んだり呪ったりなんて抵抗なくしますよ、ええします。しますとも!
 それじゃあ、ひもすがら、人を呪って呪って、憎んで憎んで、ホームセンタでバールやロープや釘やハンマーを買って……なんてしますか? できますか?
 僕にはそれはできない。
 
 人に対する怒りや憎しみは、たとえその対象が個人であったとしても、所詮は感情ですからね。
 その感情を「悪いものだ」って捨てる気にはならない。
 先に述べたように、それも僕の大切な感情です。押し込める気もなければ、人にひけらかす気もない。
 ただ自分のものだから「そんなものはないよ」って、嘘を言いたくない。自分の認識の上でも無理に隠す気はない。
 
 ではだからといって、実行しますか、って自問しても、やっぱりしませんよ。
 それは憎しみの対象を物理で攻撃して生命を沈黙させるとして(多分、とっても気分は良いでしょうけれど)それが法的に罰せられるから、ではなくて(とっても気分が良くても)正しいことではないから。
 気持ち良くても道ならぬことだから、です。
 憎悪の対象たる人や行為があったとして、そういう行為をする人は、そういう行為をするだけの権利(自由)が、やはり同じようにあるのだと僕は思いたい。
 
 たとえば通り魔殺人があったとする ── もちろん、ない方がいいに決まっていますが。
 でもそのとき、その人は、とうとう自身の「正しさの声」が聞こえなくなっちゃった人なんだろうな、と思うのです。
「良心の声」といってもいいでしょう。
 実際にそうした大掛かりな不正行為を実行しようと思えば、いくつものハードルがあり、ステップがある。
 
 僕は通り魔の衝動とは別に人を殺そうと思ったこともあります(ちょっとした問題発言です)が、どんな道具が必要か考えたり、手段をどうしようかと考えたり、接触手段や経路を考えたりと、なかなか忙しいんです。
 で、そういうことを現実的に考えると(僕の場合はすぐに)我に返る。
 多分、みんなそうなるんじゃないかな、って思うんです。
 
 もちろん「誰を憎んだこともない」という人が多い方がいいけれど、人を憎んではいけない、という拘束力は、結局無自覚な憎悪を人の意識の陰に作るんですよね。 
 憎いけれど、憎んではいけないという、二律背反みたいな状況が「すべての人を愛する私の知る私」と「すべての人を憎む私の知らない私」という二人の人格を抱えるようなものです。
 だったら最初から憎めばいいし、憎んだ自分も認めてあげればいい。憎んで憎んで、それで晴れる気持ちもあるでしょう。
 その気持ちを無理に殺す必要はない。だから同じように、ほかの誰かを殺す必要もない。
 筋が通っているというのは、そういうことでしょう。
 
 憎んではいけないと自身の気持ちを「正しさ」で殺しているから、誰かを殺したくなっちゃうんじゃないかと思うんです。正しさで。
 
 だとしたら「正しさ」で殺さず、邪悪に染まって、それで自分で我に返るところまでがひとつのセットであれば、それでいいと思うんです。
 実行しちゃったらアウトなので、実行しないで欲しい。
 でも実行スレスレのところ、誰かを害する直前のところまでは踏み込む権利があるし、踏み込んで引き返す価値もあると思うんです。
 
 危険だからしない方がいいし、そういう権利を行使したくなるような状況にならないのが一番良いのですが。
「一線を越えてしまう」のは結局、その人の性質だけじゃなくて、環境や社会がどんな状態か、という中で醸成される気がするのです。
「正しさ」を意識しすぎている(そうしてきた)からこそ、道を外しちゃう人も中にはいるんじゃないかな、って。
 
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 厳罰を望む人は「正しい」側にいるのだと思います。
 おそらく一生「そちら側」にいられるのだとしたら、それは幸せなことです。ずっとそのままでいてほしいし、そのままでいられる社会であってほしい。
 一方で、その思想は「罰が軽かったり、そもそも罰がないなら、自分もそれをする」という潜在的な価値観を投影した意見でもあります。
 彼ら彼女たちは「罰さえなければ」猛り狂うケダモノのように振る舞う自身の価値観を肯定している独裁者かのように思えて、だから僕は怖いと思うのです。
 
 罰がより重くても、人は自身の欲求を「正しいもの」「悪いことではないこと」と認識している場合、それを実行します。
 通り魔殺人だろうと、詐欺だろうと、強姦だろうとパワハラ/セクハラだろうとテロだろうと、加害者にとっては「必要なこと」「正しいこと」なのです。
 眠いけれど朝起きて、面倒だけれど仕事や学校に出掛けるように、仮に死罰が相当しても「必要」あるいは「正しい」と判断された場合には、その行為は実行される。
 
 そしてその「必要」と「正しい」は、理性とは別のところ、その人の人格や普段使っている価値観とは別のところで判断されてしまう可能性もある。
 
 ひとくちに厳罰化を望むという人たちを浅慮だと思うのは、そういう理由です。
 彼らは「正しさ」について、自身の思う「正しさ」しか知らない。あるいは考慮しない。
 正しさって簡単に歪んでしまうから、戦争を仕掛ける国には仕掛けるだけの正しさがあることを理解しようとしない。
 べつに特定の戦争における、特定の国家を擁護しようというわけではなく、いかなる時代のいかなる戦争も「よくないな」と思いながら始まったものなんて、きっとない。
 
 人殺しも強姦も人身売買も搾取も、仮に欲から発生したのだとしても、それを「正しさだ」と錯誤するシステムが人間には備わっている。
 人間は、自分の立ち位置にとって都合のいい理屈を「正しさ」と認識する、それだけのことなのです。
 だから「本当に正しい道筋はどこなのか」と、その場面場面で考え続けるとき、ほんの一筋、微かに光る隙間が正しさだったりする。
 
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「正しさ」って突き詰めると、ヴィーガンみたいになっちゃうんです。
 ヴィーガンの人がいたらごめんなさいね。それは崇高な倫理で、正しさだと思うのです(私はそれを否定したいわけではありません)が、人間からケダモノの領域を排除したあとに残る倫理観のように思えます。
 
 なるべく人間以外のイキモノに対してもその権利を尊重した、そういう生き方をしよう、という思想だと私は思っています。(ファッションみたいな食生活を指しているものとは思っていません)
 すごく正しい、のだけれど、それで病気になって死んでしまう人もいる。
 つまり自身の健康を維持できなくなる人もいる。それは自身の正しさで自身を殺しているのと同じです。
 
 生きる正しさがあって、死ぬ正しさがある。
 これは生が死への過程であり、死が生の結果である以上、どちらも同じことを言っています。
 
 正しくあるために生きるというのは崇高ですが、それはときに周りも本人も苦しい。
 経済や価値観の摩擦や、人が生きるという本質的な疑問に対して、苦しいビジョンしか提供できない可能性がある。
 それでも正しいんですよね、ヴィーガンって。
 
 もっと広く「ゆるヴィーガン」みたいな感じの文化が広まればいいのにな、って思うくらい。
 その正しさを僕なりに理解して(そしてなるべく実行しないで)いると、やはり自分は「正しくはいられないし、正しいと思うなんておこがましい」とは思います。
 
 僕は人こそ殺しませんが、家畜を間接的に殺します。魚も殺します。間接的かつ長期的に鶏に不遇な死を強要していることでしょう。
 この正しさの境界線を、よりアウトロー側に寄せていけば、人間も ── 他人なら ── 有用なリソース(あるいはそれを入手する手段)として殺すようになる。それが正しさです。
 そしてより善良な倫理に寄せていって、そのギリギリをチキンレースのように攻めているのがヴィーガンのように思えるのです。
 
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 僕は精神的潔癖症がとても強い人間だった(過去形)なので、こうした思考に慣れ親しんでいます。
 何が正しいのか、何が善良なのか。
 ただ悪徳を憎むだけではなく、あたかもその悪徳について寄り添うように、その悪徳の中にある正しささえ(現実世界に存在する他者に害を与えない範囲で)価値観として集めていたい。可能なら体験したい。
 
 でもそうやって「正しさ」のパターンを拾い集めることは、とても精神的にはキツい部分もあるんだろうな、って(他人事のように)思います。
 なぜ他人事のようになるかというと、僕には自分の精神が、具体的にどこにあるのか分かりません。
 なんというか感情や気分がすぐれないことはあっても、必要なことに対して身体を適切に動かすことはできるし、感情や気分を制御することもできる。
 
 みんなそうでしょう。
 眠いけれど会社や学校に行き、怒っても仲直りをし、面倒くさくても他の人に親切にする。
 どっちが自分か、なんて切り分けて考えようとする僕のようなイキモノにとっては、苦痛ですよ。
 どちらも自分だとしたら、どちらも自分ではないかもしれないわけで。
 
 肉体も同じ。
 みんな自分の身体について「私のものだ」みたいなカオをしていますが、本当にそう思っているのだとしたらすごいな、って思います。
 僕もこの身体しか知りませんが、ずいぶん勝手が悪い。設計が悪いと言ってもいいかな。
 
 べつに死んだ親に不満を言いたいわけではありませんよ。
 ただ複雑すぎる。
 広く一般に語られるのとおなじメカニズムを完全に再現できるなら良いのだけれど、皮膚粘膜さえ弱いために、頻繁に不調を起こす。
 
 たとえば僕は他の人と同じものを同じくらい食べて、他の人と同じように活動できないカラダなんですね。
 では他の人が僕と同じようにすると、低血糖を起こしたりする(驚きの低燃費、かつ低出力です)。
 
 100年も前なら生後数ヶ月で死んでいたであろうはずなのに、結局こうして生き存えている。
 死ぬはずの遺伝病も、時代背景によって延命制御に成功している。
 肉体の方がよほども制御できなくて、子供の頃から難儀しています。手足も不如意ですし。
 
 だから私は自分の価値観や人格を使って、エミュレートするように、正しさや倫理や良心を体験しています。
 結論付けるとして、邪な気持ちを抱え続けるくらいなら、善良な方がやはりよいですよ。
 
 でも生きることは論理じゃない。だから善良とばかりにいかないときもある。それも体験したから分かるのです。
 褒められるような生き方だけしてきたわけではありませんからね。
 
「正しくあること」って、いいことだけれど、それだけを突き詰めると息苦しいっていう、まぁ、それだけの話ですね。
 また同じ話をしてしまいました。
 
<醜い野良猫は死ねっていう正しさもあるし、野良猫を救いたいっていう正しさもある>
 
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 ところでWebニュースでもそのコメントでも「正しさ」については皆が語るのに、「良心」については誰も語らないのはなぜなんだろう、って最近思います。みんな忘れたのですかね。
 
 
 
 
 
 
 

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  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
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[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
:夢見の猫の額の奥に:
:Webストリートを見おろして:
 
 
 
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