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TITLE:
輪郭を撫ぜて。
SUBTITLE:
〜 Blow your frame. 〜
Written by BlueCat

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 このところ情緒が安定している。
 熱中症と勘違いしているナニか(体温調節不全をはじめとする、身体能力の不調)は相変わらずだが、ここはひとつ童心に戻ったつもりで「こういうものだ」と受け入れている。
 子供の頃なんて、それこそ自分では意味も分からず不調になっていることが当たり前だったので、大人になって振り返ると、つくづく寝込んでばかりいたな、と思う。

 子供の頃といえば、自分でも驚くくらい視力に優れていた、という話は以前も書いたと思う。
 蛍光灯に付いている豆電球のような常夜灯の明かりがあれば、6畳間の隅にいても岩波文庫のルビが読めた。
 反面、太陽光やその反射光が痛いほど眩しくて、目を細めながら過ごしていたから目が細くなってしまったという逸話まである。

 その視力が急激に衰え始めたのは3年ほど前か。
 スマートフォンゲームのほとんどについて、テキストを読むことが苦痛になった。いまや完全に判読不能である。
 はてゲームのしすぎか、など当初は考えたが、改善される気配がないことを思うに身体の組成が変わってきたのだろう。
 人間の肉体の耐用年数は50年ほどという説もあると聞く。

 戦国時代の平均寿命は(しょっちゅう戦ごとをしていた影響もあり)35歳前後だったとか。
 その年齢で死ぬと思って幼少時代を過ごせば、果たして10代半ばにして相応の人格を持つことも不思議ではないだろう。
 今は「人生百年」などと拷問のようなファンタジィを耳にすることもあるが、およそ社会が認める寿命の1/3を使って人間が「成人としての人格」を醸成すると考えれば、果たして成人年齢を引き下げたのは逆方向だなぁと思ったり。

 もともと人間は成長が遅いイキモノだ。
 脳に特化して進化した影響か、肉体が未熟な状態のまま出産を迎えないと、発達しすぎた頭蓋が母胎に過度の負荷を掛け、母子ともに死ぬ。
 それでも出産を安全に終えるためのいくつかのメカニズムがあって、ために我々の頭蓋は(生まれた)当初、いくつかのパーツに分離している。
 もしかしたら人間以外の霊長類にも似た傾向があるかもしれない。

 未熟に生まれた人間の子供というのは、他の野生動物 ── たとえば鹿 ── のように、生まれたらすぐに立ち上がることを要件とはされない。
 草食動物にとって、それは誕生時から必須の肉体能力の要件なのだが、人間のそれに求められる肉体要件は非常に少ない。
 消化して、吸収して、呼吸できればとりあえずOKである(咀嚼はもちろん、消化能力の有無さえ疑わしい)。
 科学技術の進歩も後押しした結果として、僕のように、本来なら生存に適さない個体も肉体寿命まで存えることが可能になってしまった。

 僕が(極端ではないにせよ)優生思想を持っているのはそういう理由である。
 生命はより強く、よりしなやかで、たくましく、美しくあるべきだと思うし、潜在的にであれ、生命体としての脆弱性を持つことが予見される場合、子孫を残すべきではないと、自身に課した。他者のことはどうでもいいけれど。
 果たして僕は(合併症を含み)重篤な発症を(いまのところ)してはいないが、血液の脂質バランスが異常である。

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 そのような諸々を考えていると、つくづく「自分は平均以下であるな」と自覚し続ける人生だった。
 子供の頃から同世代と比して肉体能力は(免疫力をはじめ総じて)低く、身体能力の低さに応じて欲求というものの発生が低かったように思う。
 たとえば胃腸が弱いのに食欲が旺盛では、早晩、体調を崩してしまう。
 僕の場合、この(先の理想的な基準に照らすと)不出来な肉体にあわせて、食欲を少なく、睡眠を多く求める身体になっていたようだ。
 肉体を大きく動かせないぶん、何か感じたり考えたりすることも多かったようで、豊かな精神世界が醸成されたと信じたい。信じたいだけで実際どうかは疑わしいのだけれど。

 とにかくそんなわけで、僕の身体は振り返ると生きるのに不適な出来なのだ。
(これからは公称「永遠の百歳」だが)40代半ばまで、よくあの視力が保ったと思う。
 実際問題、僕は一日に12時間くらいTVゲームをし続けることが今もあるし、かつてなら20時間くらい連続でプレイすることもあっただろう。
 PCの前に12時間くらい居座るのも普通だし、外出先ならスマートフォンのゲームをし続けた。

 それでも読書に必要な視力(かつての判定基準でいうと1.2〜1.5)を維持し続けていたし、今も自動車の運転は裸眼で支障がない。
 今は細かい文字や精細な焦点調整が必要な場面において100円ショップで大量購入した老眼鏡を掛けるくらいである。

 しかしずっと眼鏡など必要としなかったので、その動作の習慣がなく、不快なこと極まりなかったのである。
 そうしたストレスにも慣れてきた。
 この肉体は耐用年数が終わりなのだ。メーカの保証期間も過ぎ、型落ち甚だしく交換部品の生産も終了していると思えばいい。

 なればなるほど30℃を超える外気の時は家でクーラで涼むのがよろしい。
 お風呂上がりの体温が(37.5℃を超えたままのことがあり)下がらないなら、あずきバーでもかじっておればいい。
 庭仕事は天気が良くて、予定もなくて、気の向いた早朝だけ(夕刻は面倒なのでしない)。

 とまぁそのような自堕落次第に落ち着いたのが昨年であったか。

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 定年を迎えた年配の人々が、どのような心持ちであるのかと、不思議に思うこともあった。
 年齢的な部分でいえば、僕は企業で定年退職を迎えるポイントに至っていないのだが、実質、日々の暮らしは定年退職者のそれである。
 当然、年金などは受給していないものの、仕事をしなくても糧食やインフラ代金に困らない収入がある。

 世俗の多くの人との関わりを断って5年ほども経ったと思うが、社会性を是とし、そこに溺れ、埋もれるように生きてきたイキモノたちにとって、このありようは異様に映ることもあるだろう。
 人間というのはその多くが我が儘なもので、孤独になれば寂しいといって他者を求め、集団に居れば窮屈だ息苦しい思いどおりにならないといって、そこを離れたがる。
 己の理想の地は、自分で作るしかないのだが、誰かが与えてくれると思っている罰当たりが少なからず居る。
 罰当たりという言葉を使ったのは、シンプルに、それが矛盾に対する報いであるからだ。

 なるほど風呂に張られた湯が冷たければ文句を言い、熱ければ文句を言うものである。
 風邪をひくのも火傷をするのもよろしくないし、御免被りたいと思うのは本能的にも自然なことだ。
 ところがそれに対して、自分でしない人ほど他人に文句を言うのである。
 自分で張った風呂が(最近は自動化されているのでそんな「事故」は起こりにくいと思うが)冷たかったり熱かったりすれば、それは自分のせいである。
 けれども誰かに風呂を洗ってもらって、湯を張ってもらうような人間ほど、やれ湯加減がどうだ、やれ風呂桶が汚れているなどとのたまうのである。
 気付いたら自分で対処すればよい。

 少し脱線したが、定年退職というのはシンプルに社会との接点を失う(少なくとも少なくなる)ことである。
 人間たちがそこで不安を感じるのは「己の輪郭が分からなくなる」からだろう。

 勤務先に出掛ける。与えられた(あるいは自分ででっち上げた)職務をこなす。職責を果たす。目標を達成する。タスクを消化する。
 やがて賃金を受け取る。それを必要なことに使い、好きなことに使い、欲しいものに使い、あるいは貯蓄に使う。
 それらをして「何かをしている自分」を認識する。
 何かをし、何かを為し、何かを成し、何らかの貢献を果たし、何らかの評価の結果として対価を得ていると勘違いする。

 いやもちろん確かに何かを為し遂げ、何かを成し、誰かに対する貢献によって感謝され、その誰かから直接、対価を受ける人も居るだろう。
 しかし多くの人はそんなことはないはずだ。
 すべてはシステマティックに不透明化され、自分が何を成して、それがどのように通帳に記帳される数値に転換されるか理解していない人間は少なからず居る。
 国会議員をはじめとする公務員などはいい例だろう。

 もちろんその「システマティックなブラックボックス」には相応の利便がある。
 現金支給では、支給する側が不正を働くことが容易だっただろう。
 末端から中央、中央から末端まで、現物/現金のまま、かつ透明化されないシステムでは、どこかで不正が起こる。

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 折良く大手リサイクルショップの不正が問題になっているようだ。
 店頭に持ち込まれた不要品に値を付け(あるいは無料で引き取り)市場価格より廉価に転売するアレである。
 買取りも売却も基本的には現金だろうが、透明化が足りなかったのだろう。
 店員が「架空の買い取り」を発生させて、組織から現金を抜き取っても誤魔化しきれる抜け道があったのだろうと想像する。

 現金取引が悪いわけではないし、管理(一般に「ガバナンス」などと知った風に使われる単語がそれにあたる)に余計な手間が掛かることになるので好ましいとは思えないが、結局のところ「人間は疑わしいので、仕組みで不正の発生を防ぐことに人間の手間と時間を使う」ことになる。
 その費用は最終的にユーザに転嫁される。
 ちなみに僕はゲーム業界の衰退に心を痛めて以来、心を入れ替えて、中古ソフトや古本(絶版等を除く)は購入しないことにしている。
 リサイクルショップの存在意義が必ずしも悪いとはいえないのだが、市場を縮小させ続けている理由の一端ではある。

 なぜといって(また脱線するが)我々は基本的に「新しいものを作る」ことをして業務にしている。
 コーヒーショップの常連に「昨日も同じコーヒーを作ったから今日はいいでしょう? でもお金は払って」と言ったら問題になる。

 家電品ならどうだろう。新しいものを開発しなければいけない部門もある。
 せっかく新しいものを開発したのに市場に出しても売れなければ、その部門は不要と見なされ、会社は「開発部門を縮小せよ」と動くことになる。
 市場で売れない原因が「中古品で間に合う」というのであれば、確かに開発された新技術が、価格に見合うほどの魅力(付加価値)をもたらしていなかったのかもしれない。
 しかし一方で「安ければ安いほど良い」という価値観に染まっている人もいるのだ。
(このあたりの話は何度も繰り返しているので、割愛)

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 不透明なおかげで、果たして本当に、誰かのために何かを為しているのか、それがどれくらい相手や、社会のためになっているのかを認識しにくい社会になっている。
 たとえば定年退職を迎えた人や、昔から専業主婦をして暮らしていたような人が、隣組など(区分所有のマンションなら管理組合、公営住宅でも管理自治会などがあると聞く)で「昔からその土地にいる」程度のことをして、無用なことまで他人に口を出したり、学生のイジメのようなことをして愉しんでいる話はよく聞くところである。
 良いも悪いもない。人間とはそういうイキモノなのだ。
 そうやって、自分の輪郭を必死になってなぞって「私はこういうものだ」という安心を得たくて仕方ないのだ。

 それを「悪い」と断ずればまた、そこに発生する価値観の高低差で余計なエナジィが発生し、図らずも誰かに差別的な発言をした程度のことで叩かれる結果になったりする。
 みんな優秀な政治家みたいに、うかつな発言を恐れているが、問題は、何を発言するかではなく、何をしているか、だろう。
 リスクを恐れて何も言わず、何もしなければ、物事は悪い方向に向かう可能性だってある。

 僕などは他人に家屋(住居)を貸しているだけで、固定資産税を数百万支払う羽目になる(それを経費として払っても暮らしていける)ような生活をしているが、そこで得ている収入は果たしてそんなに感謝されているのかといえばそんなことはない。
 皆、必要に迫られ比較した結果、妥当と判断して対価を支払っているだけだ。
 誰も不動産オーナの私には感謝していないだろう(管理会社を挟んでいるので個人の特定はむつかしいだろうし)。
 収支の部分で、誰に迷惑を掛けているわけでもないが、誰に感謝されているわけでもない。つまり僕の収支と僕の素晴らしさには相関性がない。

 しかし世の中には、ほかに自分の輪郭をあきらかにする手段を持たないイキモノだっている。
 一時期流行った個人高額転売で年間1000万円儲けてしまえば、それだけで「自分すごい」「賢い」「オカネモチー」と誤解する者もいるだろう。
 新品転売とリサイクルショップの差異については各自で考えていただきたい。

 不動産オーナにしても同様で、○○銀行の頭取と付き合いがある、とか、○○会の会合に出掛けて、などともっともらしく言うような人はだいたい中身がすっからかんである。
 しかしその人には他に自分の輪郭を確認する術もなく、ために自身がなぞっているその輪郭をして他者に「私はこういう者です」と説明しているのである。
 残留した社会性のゆえに。
 税金を滞納するような人間を「義務を果たさない愚図」と断ずる人は、税金を滞納せず払っている自分の素晴らしさの輪郭を撫ぜることで快感を得ているのだ。でなきゃあんなもん払っていられるか。
 なぜ税金を払わなくてはいけないのですか、と訊ねると憲法まで持ち出す輩がいる。その憲法の内容についてこちらは承認しないまま関与させられている。つまり単純に強制されているのだが、そういう認識は許されないらしい。俺の人権を返せ。猫ですけどね。

 お金が(より大きく)動いているから、それが誰かや社会のためになっているというシンプルな誤解は、単純な悪意に転化する。
 昭和の時代から続く「私がこんなに稼いでいるおかげで暮らしていけるのだから、オマエたちは言うことを聞け」というのと同様、何かを為すことと、経済がそこに発生(介在)することは、まったく別の問題なのだけれど、どうもそこを勘違いするのが人間の仕組みというか。まぁ、分かりやすいですものね、数字って。

 それよりは誰かと話をしているときに「今日はね、お花が咲いていますね。恥ずかしながら名前を知らないのですが、あの花は可憐ですね」などと言う方がかっこいいではないか。

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 人間の輪郭という意味でいえば、家族や恋人、友人に至るまでそのすべて、自分の輪郭を確認するためのツールだという考え方も可能である。
 僕など飼い猫が(諸般の事情で)一匹も居なくなってしまったので、定期的に発生する「誰か(何か)を餌付けしたい欲求」に悩まされる。
 かつては恋人を呼んで料理を作って食べてもらうことでその欲求を満たしていたのだが、今は人間型の恋人という恋人のすべてが忙しいので、食事を振る舞う機会がない。
 この「餌付け欲」というのも、ある種の承認欲求であり、自己顕示欲である。それによって自分の輪郭を確認し、快感を得ているのだ。

 たとえば飼っている犬や猫や鳥が、自分の手から餌を食べてくれたら、これはとても嬉しいことである(そう思わない人は、まぁ、そういう欲がないのだと思う)。
 絶対に自分の手からは食べてくれない、という状態は相手から不審がられていると僕は思ってしまうし、信頼されていない状況に傷付く。
 害意があったらお前なんかとっくに殺してるぞ、とさえ思う。傷付いている、と言っていた繊細なイメージが台無しだよ!

 身近に誰かがいる、その人との関係がある。あるいは人間以外の動物や植物、無機物、ヴァーチャルな存在の場合もあろう。
 そうした存在の不在をはじめ、様々な理由から関係性が減少するとき、人間はおそらく自分の輪郭を見失って不安になるのだ。

 僕は9歳の夏休みに、初めてその不安に駆られた。
 当時は同世代の友人も2人ほどしかなく(今もそうか)、遊ぶ約束もなく、家が近いわけでもなく、僕はいつもどおり自堕落に(ほとんど眠って)暮らしていたので、自宅の誰かに会うこともほとんどなかった。
 不満はない。食事は自分で作ることもできたし、あるいは誰か(主に姉)が作ってくれることもあったし、父が買い置きしてくれることもあった。
 しかし目覚めたとき、それが日中なら眠っている父以外誰もいないことが多かったし、夜なら、寝ている妹以外誰もいないことがあった(父は仕事で、姉もなぜか ── 今は理由が想像できるが ── 不在だった)。

 他人がどうこう、ということではなく、孤独であることに起因して発生する「自分というものの輪郭のなさ」に愕然とした。
 もちろん言葉でそのように感じたのではない。
 ただ以前から感じていた「自分が居ても居なくても、世界は変わらない」という事実を肌で感じたと言えばいいだろうか。

 もちろん本当に僕が不在になってしまえば、家族は悲しんだり不安になったりするだろう。
 しかしそれとて、結局は「それだけのことでしかない」。

 学校に行こうが行くまいが、友人と親しくなろうがならなかろうが、寝ていようが起きていようが、この世界に求められているモノなどないし、この世界に求めるモノもない。
 その静かな、心情の寂寞を「なるほどこれはすこし寂しいというのかもしれない」と思ったのだったか。

 だからといって何かをする気にはならなかった。
 友人に電話を掛けて遊ぶ約束をする気にもならなかったし、仕事に忙しい父を起こして「遊びに連れて行け」などとけしかける気にもならなかった。
 それで本を読んだり、TVを見たり、いつものようにゲームを作ったりして、お腹が空いたら何かを作って食べ、そして思うさま眠った。

 孤独だったとは思うが、充実していたと思う。飛び上がるほど楽しいわけではないが退屈はしていなかった。
 寂しかったけれど、それが心地よかった。
 輪郭が曖昧なまま。どういう状態が自分か不定なまま。
 何を押し付けるわけでも何を押し付けられるわけでもなく、海の底とか、宇宙の果てとかに、ぷらぷらと宙ぶらりんになっているようで、不安で、心地よかった。

 あるいは子供の頃から、家族関係がそれほど希薄であったり、崩壊していなければもう少し人間や、人間関係というものに執着することができて、そうすれば社会性をもう少し獲得できて、会社員として優秀になれたり、社会人として立派にいられたり、あるいは恋人と家族を構築するということを思い描くこともできたのだろうと思う。そして思い描けたら、きちんと実現できたろうと思う。

 けれども僕はすでに自分が生命体として脆弱であることは心得ていたので、さても明るい未来など思い描けない自分自身とその時間をして、途方に暮れていたのではある。


>>>

 社会性を正しく手放して放牧ついでに放逐されたような日々を送っている僕だけれど、自分に関してはこれで幸せである。
 情緒が安定している、というのは、この状態を肯定的に思えるようになったということでもある。
 数少ない友人たちは、ときどき勝手にアクセスしてくるし、あるいはこちらから勝手にアクセスすればたいそう嬉しそうにする。そのメカニズムを僕は心得ている。
 おそらく恋人たち(何故か複数形)もそうだろう。彼ら彼女たちの存在の、その輪郭にわずかに発生する穴を、他の誰にも塞げないありようで、僕はなぞることができる。

 たとえばBPは、
── 大人になって、夫になり、親になり、趣味でも仕事でも経験を重ねているから、先輩だとか先生だとかとして扱われることもあって、そういう立場に置かれたなりの対応も身に付けたけれど、じゃあ青猫と出会って馬鹿なことばかりしていた頃の自分から、大きく変わったかというとそうでもない。だからときどき、変な感じになる。こうして目的もなく、一緒にゲームでもしていると、自分に安心するよ。
 などという。

 たとえばTUは、
── 青猫は出会ったとき(14歳)から世捨て人みたいなことを言っていて「こいつ遅かれ早かれ自殺するんだろうな」と思っていたのだけれど、そのまんま生きているから面白いよな。ほっとするよ。
 などという。

 僕はそうやって、社会不適合なまま生きてきて、たぶんそのまま死ぬだろう。
 人がましいカオをして「こういうのが人間としてあるべき姿です!」「発展と進歩! 日本の未来は!」「我々のォ! 時代に奪われたリソースをォ! 今こそ我々の手でェ!」とか、そういうスタイルを否定する気はない。それが人間であって、人間の社会だから。
 しかし僕は猫であるから、僕の今のありようでいいし、これがいいな、と思っている。そういうイキモノにしか打ち明けられない話も、人間にはあるみたいだし。

 すべての人にそうあれかしとは思わない。

 やはり多くの人は、孤独に不安を覚え、寂しく感じ、誰かと繋がっていたいと思う方がいいだろう。
 そこでときどき不満を覚えたりしながら、それを誰かのせいにして正当化しつつ、不安定だけれど転ばないようなバランスを保つのだ。それが歩むことだから。
 彼らが彼らなりに、自分の不安定な輪郭に怯えたりしながら、自分の知っている輪郭に安堵しながら、それでも社会の求める、コミューンが必要とする姿を体現することを選んだことは、愚かなことではなく、勇敢であり、挑戦であり、成長と成功の姿だろう。

 その上で、僕についてはこのままでもいいだろうと思っている。
 外作業は(庭があるから仕方なくしているが)もともと好きではない。
 身体が弱いのも、思い返せばずっとそうで、弱くない時期が比較的直近(それでも20年近く前)に、数年あったというのにすぎない。
 無理をせず、無理をさせず、頑張らず、頑張らせない。

 お金で解決できることはお金で解決して、自力で解決できることは自力で解決する。
 その上で余った(実に余る)リソースを、誰かに使えばそれでいい。

 誰に感謝されなくても、自分が何かを為した気になってそれを噛み締めれば、それが自分の輪郭を撫ぜることになる。
 何のことはない、シンプルな自慰行為だ。しかしそれは否定されるようなことだろうか。
 他人の手を使わないと背中も撫ぜられないような不遇は、不完全は、つまり社会性の糸口でもあるが、僕はそれを好まない。

 世の学生諸君は、そろそろ夏休みになるのだろう。
 自分の輪郭の撫ぜ方や、その意味や、自分の輪郭を撫ぜたくなる欲のメカニズムを、早く理解できれば苦しくないのにな、と思う。



<雨の日は途方に暮れちゃうわけよ>

>>>

 身体を撫ぜていて気付くが、やはり原因不明の蕁麻疹が、かすかに出るときもある。

 食品に気をつけて、食べ過ぎや飲み過ぎ(無理にあたる)を避けて、直射日光や高温を避けて、ダンゴムシのように暮らせばいいのだ。
 先日、半年ぶりくらいに堆肥場を切り返したのだが、いやぁダンゴムシが沢山棲んでいる。
 苦手な人も居るようだが、堆肥に枯れ葉だけでなくガーデンシュレッダで裁断した木の枝などを入れているため、セルロースを分解できる昆虫類は多いほどいい。ダンゴムシはその筆頭である。

 かつてなら、こんなに大量の昆虫類がいる環境には悲鳴を上げて逃げていただろう。
 今年の春は家の中でやたらとヤモリを見かけたし。
 もともと僕は、そういう環境を忌避しなくてはならないくらい、身体が弱いのだから。
 けれど。

 それもあって筋肉痛になって、丸一日くらい眠り続けていた。
 エアコンを入れ替えたので、部屋を涼しくした上でワークアウトも少ししている。とにかく身体を過熱させないことに徹しながら。

 栄養による精神状態の変化について子供の頃から考えることが多いのだが、今の状態は、筋肉の状態を維持できているのももちろんだが、摂取しているサプリメントによる影響もあるのだろうと思う。
 とにかく不味くてひどい匂いの複合アミノ酸なのだが、最近は水で溶いて飲むことにも慣れた。
 少量で空腹を満たせるし「何かが足りない」とカラダが感じているときに発生する過食も防げる上、肉体的に疲れにくく、疲れが残りにくい。
 おそらく肉体疲労というのはある種の精神的ストレスになるのだろう。
 そういえば「私も疲れている」「俺だって疲れている」という「お疲れ合戦」で不仲になるコミューンもあると聞く。共感と共生の社会とは、叫喚と強制に紙一重の社会なのだろうか。

 皆が皆、無理をしないでのんびりぼんやりできる社会だといいのにな、と朝の庭を眺めて思う。絵空事だろうか。
 草取りをしようか、それとも今から眠ろうか、少し悩む。






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Form-Life-Link-Maintenance-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-
 
[Object]
  -Friend-Garden-Human-Koban-Memory-
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF