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TITLE:
怠惰を包む雨に眠る。
Written by BlueCat

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240513

 昨日BPが遊びに来て0時を回る頃帰る。就寝は午前5時。
 このところ体内の炎症反応が徐々に強くなっている。
 計測していないが発熱はしていないはず。
 ただ粘膜が腫れて、呼吸が苦しかったり、皮膚や粘膜が乾燥して荒れやすいだけである。

 身体が全体に重くてだるい。
 天気が良ければ自転車で買い物に出掛けるようになったから、その影響だろう。
 身体が順応しようとしているが、まだ順応していない。

 筋肉痛未満の疲労でも内部で炎症は起こすようだし、煙草やカフェイン、刺激の強い食品を避け、とにかくよく眠って回復を待つ。
 くれぐれも人並みに活動しようなどとは思わないことが大事だと最近は思うようになった。

 たとえば数日前、どうしても食べたくて、久しぶりに玄米を炊いて食した。
 炭水化物の消化吸収でかなり疲弊する体質だが、米食が嫌いというわけではなく、特に玄米は味も香りも大好きである。
 ところが食べて満足したものの、気付くと翌日の昼近くになっていた。

 お酒を飲んだわけでもないのに満腹になった後の記憶がない。ベッドで寝ている自分に気付いて驚いたのだ。
 たしかに満腹になるまで食べたのは事実だが、他の食べ物でこんなことにはならない。

 目覚めても身体が重い。
 運動をした疲労ともまた違う倦怠感であり、内臓が疲れている感触もある。
 仕方ないので16時頃まで眠っていた。結果、昼夜の逆転が始まった。

 これらが炭水化物(とくに精製炭水化物)を避ける理由である。
 普段は豆腐と(精製レベルの低い)砂糖たっぷりのカフェラテが主食である。
 
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 これまでの観察の範囲で、人間の身体は脂肪/糖/炭水化物のいずれか、またはすべてで太ることがあるようだ。
 もちろんいずれの成分でも太らない人はいる(若い頃の僕はそうだった)。
 身体の代謝システムは年齢と共に変化する。
 僕の身体は子供の頃から炭水化物(の消化吸収)を苦手としており、20代で適応し、40代からは再び苦手になった。

 手軽に燃料として使うのは砂糖とたんぱく質だ。
 といって食肉も(品質によって)身体の負荷は高めなので、大豆製品を好んで食べている。
 消化吸収の負荷が特に高いのが加工レベルの高い食品全般で、増粘剤・香料・着色料・ph調整剤・乳化剤はかなり内臓の活動を低下させる。
 一方で、発色剤・酸化防止剤(多くはビタミンCかEだが)、保存料などはさほど影響しないように思える。
 まぁそれらを含むものは上記を含んでいることが多く、あまり摂取する機会がないが。

 おそらく特殊な身体なのだろうと結論している。自分でも理解できないことは多い。
 最近は身体の炎症反応(主に鼻や喉の粘膜の違和感や乾燥、粘液の異常、息苦しさ。皮膚の痒みや乾燥。内臓系では原因不明の胸焼け、吐き気)を確認して、身体を休めるようにしている。
 これらは極端な発熱に至らないことも多い。37℃より少し低い熱が出るのだ。
 免疫反応が強く起こっているわけではないのだけれど、疲労や需給バランスの崩れによって活発な活動に向かない状態で、ここで少しでも無理をすれば悪化してより重い症状になるから、無理をしないで眠るのである。

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【「ガツン」と食べると具合が悪くなるタイプ】

 身体が弱いのは昔からだが、食事も与えず眠らせておくと、だいたいの病気や感染症から早い段階で回復し始める。
 不調の時こそきちんと栄養を摂る人(そういう代謝/回復スタイルの人)も一定数いるようだが、この時期の僕に栄養を与えると、不調が長引いたり悪化する。

 一般に、栄養を摂って回復してゆく人は「身体が丈夫」と認識されている。僕もそう思う。
「ガツンと食べれば治っちゃうよ!」なんて言う人を見ると、老若男女問わず、格好いいな、とさえ思う。
 ガツンと食べたら寝込んじゃうタイプの自分にはないたくましさである。

 そういうたくましいタイプの人が万一、食べられない状態、あるいは食べることが問題になる体調不良(消化器系や重篤な粘膜の異常を伴う病気)になった場合、ひどく衰弱し、場合によってはあっさり死んでしまう。
 一方、僕のような低燃費の虚弱体質者は、普段の体力がないわりに栄養の供給がなくても闘病し続けるので病中の生命力が高く、長引くにしても回復する。
 体力がないのに生命力があるのだ。

 たとえば植物でいうと、大きく育ったものは水も必要なら光も要る。実を付けるものなら肥料も要る。
 一方で種子はどうかというと、水も光も肥料も、ないならないでそのまま過ごせるが、枯れているのと同じくらい活動レベルは低く、花も実も付けないし芽も出さない。

 もちろん僕の身体がこれから芽吹くなどとは思っていない。
 この弱い身体のまま、低い活動レベルを維持して、病気に罹ってもしぶとく回復するのだろうと予測できる。
 どちらが良いとは思わない。
 僕は僕の身体に合わせて生きているだけだし、両極の(あるいは中間に位置する多くの)特性を持つ人がいるのは全体として良いことだと思うだけである。

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【不均質な社会のくせに生意気だぞ】

 そうした肉体的な特性を考えても、沢山の人を一箇所に集めて、等しく同じ事をさせ(同じ結果を出させ)ようとすることがいかにむつかしく、あるいは困難で、時に不可能であるかについて考える。
 時間あたりの効率を考えれば「ガツン」タイプの人に軍配が上がる。
 一方、長いスパンでだらだらとすることが好きで得意なら、僕のような活動レベルの低い個体の方が長期的には高効率なこともあるだろう。

 たとえば僕は短期に集中して考えたり活動すると、身体を壊しやすい。そして好きなことほどそうした過度の集中を起こしやすい。
 長期間ずっと同じテーマのことを考えたり、不満を感じることについてずっと解決策を練るようなところもある。

「ガツン」タイプの人は、とにかく短期間に、無駄になっても何らかのアクションをすることを重要視する。
 もちろんそれが素早く劇的な解決になることもあるので悪いことだと思ってはいない。
 しかしそのスピーディさが、無駄を生むことや、事態の悪化を招くこと、あるいは新しい問題を生むこともある。

 もちろん僕のようなのんびりタイプも、無駄や事態の悪化や新しい問題を生む解決策しか提示できないことがあり、それどころか何の解決もできず、それによって悪化することさえある。
 ただスローテンポで気力がないために、無駄をなくし、悪化を回避し、新しい問題を予測することが可能になるケースもある。
 目の前の問題は解決していないかもしれないが、それらをさらに拡大した「大きな問題」として対処することが可能な場合もある。
(雪だるま式に問題が大きくなっている可能性も高いが)

 どちらが良いというものではない。向き不向きがあり、適材適所な場面もある。

 卑近な例を挙げると、僕は20代の頃、身体は弱いしお金はないし親もいなければ人脈もなかったので、税金を10年以上滞納したことがある。
(差し押さえようとしたのかは不明だが、その財産すらなかった)
 目の前の問題を解決しないうちに、次々と問題が山積していったが、ひとつひとつに対して努力することもなく放置した。
 自分から招いた問題なら仕方ないが、向こうから勝手に発生する問題に対処する気力というものがまったくなかった(今もあまりない)からだ。

 しかしたまに気が向くことがあり、リソース管理上(税金ならお金がそれにあたる)でも問題なく対処できる見通しが立つこともある。
 たまたま今は滞納している税金はなくなり、毎年の固定資産税に怯える程度で済んでいる。

 僕がこんな怠惰な性格ではなく努力家で、明確な目標を打ち立て、それを実現するためにありとあらゆるリソースを注ぎ込む熱意があれば、今頃とんでもない成功者になっていたとは思う。
 しかし肉体的な特性や諸々の事情や背景や環境があり、僕はそうはならなかった。
 もし努力家だったら、かなり早い段階で自殺するか病死するか、とにかく生きていなかっただろう。
 結果論に過ぎないとは思うが、僕は怠惰であることによって生かされてきたのだ。

 それは大きく拡大した社会という「沢山の人を一箇所に集めて、等しく同じ事をさせようとする」フィールドでは、不協和音のもとでもあるが。

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【脆弱な者の屍と恵まれた者の伝説】

 努力は賞賛されるべきであり、勤勉であることは美徳だと思う。
 ただしそれはある程度、何らかのリソース(資源や資質)に恵まれた者が獲得できるトロフィなのではないだろうか。

 事情や背景や環境によって、持つべきものを持たず、あるべきものがなく、与えられるべきを与えられず、為すべきも知るべきも知らない者がいる。
 お金のない者は塾には行けず、それどころか進学できず、独学のための学術書を買うこともできず、バイトをするための履歴書を買えないどころか履歴書そのものを知らない可能性だってある。
 誰かに褒められたことで育つ情熱もなく、誰かと温めて育った未来への希望もなく、誰かの背中を見て生まれた憧れもなく、口にする疑問を聞き届ける耳はどこにもない。
 井戸の底のような暗闇から微かに差し込む星明かりのような未来を予見したら「ああ、自分はここで野垂れ死ぬためにのみ生まれ、こうして生きるのか」と、ただ諦めるしかないだろう。

 僕は自身に降りかかったそれらの暗闇を不遇とは思わない(おそらく星明かりも降っていたからだろう)。
 野垂れ死ぬかもしれない井戸の底から、あがきもせずに丸くなり続けたのは「何もしない」という、ある種の選択の結果だ。
 怠惰がその選択を決定づけ、諸々の不運は最終的に味方になってしまった。

 僕は暗闇の中で、静かに息をしていることに適応してしまった。
 僕はあまりにも幸運に過ぎるのだ(多分ネコノカミサマのおかげで)。

 おそらく不運を抱える者のすべて、怠惰である者のすべてに、同じような幸運が降り注ぐことはないだろう。
 選択の先延ばしは良くないこととされており、境遇の不幸に果敢に立ち向かって勝利を勝ち取る数々の美談が語り継がれている。

 ── そしてその陰で、多くの脆弱な者たちが力尽き、息を引き取っている。

 僕が思うのは、広く社会で悪しきこととされることについて、果たしてそれが本当に悪いことなのか、ということだ。
 美徳とされるすべてについて、それは恵まれた者しか掴みえない賞賛ではないのか。

 怠惰であることそのすべては本当に悪なのか。
 選択の先延ばしは本当に悪なのか。
 何でもかんでもベストを尽くさなくてはいけないのか。


<なぜベストを尽くさないのか、にゃー>

 そんなことをベッドで横たわりながら思う。
 成功は素晴らしいものだし、努力は結果の如何に関わらず賞賛されるべきだ。
 怠惰な眠りに身を任せるしかなく、社会にたいした貢献をすることもなく終わる自身の価値など計るだけ空しくなるだろう。

 自身を悲観しているわけではない(先に述べたとおり、とんでもなく幸運なので)。
 ただまぁ身体の上に個体の精神であるとか自我が宿っている以上、身体に無理をすれば、最終的に自身に返ってくる。
「故意の怠惰」もあれば「不可避の怠惰」もあり、その線引きをするのも、最終的には自分自身である。

 僕はもう「怠惰にしか生きないんだカンナこのやろー」と開き直って静かに生きている。
 努力など、この記憶には荷が重い。
 勤勉など、この肉体には荷が重い。

 あまり甘やかさないように。
 けれど身体に合わない無理はしないように。

>>>

 18時頃、近所の老婦人がやって来た。
 申し訳ないと思いつつ今年の抱負を守り、面倒なので無視して眠り続ける。

 ねむれねむれと、外は優しい雨音が続いている。
 不遇なる者にも、不幸なる者にも、幸福な者にも、賞賛される者にも、ひとしく冷たく降り注ぐ。







 

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[NEXUS]
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[Engineer]
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[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Ecology-Form-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Resistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Memory-Rain-
 
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[Cat-Ego-Lies]
:暗闇エトランジェ:いのちあるものたち:
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
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