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// NOTE:なんかタイトルにも「。」って付けちゃうからさ、俺ってマルハラおじさんとしては相当優秀なんじゃね? とか思ったりするけど、別にアンタに嫌がらせするためにマル付けてるんじゃないんだからね! っていうかどんな興味関心の発露としてマルを使う嫌がらせなんて思い付くんだ? アタシあんたにそんなに興味ないんだけど? って思いません? もしマルハラ被害者が(マスコミが捏造している可能性もあるので)実在するなら問いたい。「自意識過剰じゃね?マル」 って。
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TITLE:
嗚呼、ケダモノよ。
SUBTITLE:
〜 Beastliest one, than humor beasts. 〜
Written by BlueCat

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240720

 5時頃から1時間ほど草取り。
 空調服を使うようになってから、体調維持管理が容易になった。
 草取りは僕にとって、ある種のジレンマである。

 民主政治的に、周辺住人や自身の身体やここに棲まう来歴のため、庭を管理している。
 虫を殺し、植物を殺し、木を切り倒し、その権利を侵す。
 振り返ると涙が出るほど哀れなのだが、これが人間を生きることだと理解している。

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【しないではいられない、となったらビョーキ】

 10日に姉の介助に出掛けてから、しばらく体調が悪かった。
 体温が安定せず37℃を超えることもあり、当然に内臓を含む粘膜系の機能低下があり、しばらく寝込んだ。
 今日はそれ以来、久しぶりの庭仕事ということになる。

 大雨と、その合間に照りつける日差しの影響で、日に日にぐんぐん伸びてゆく生命力豊かな植物や昆虫を見るたび、比してこの身体の生命力のなさを思い知らされる。
 梅雨空に翳る裏庭を窓越しに眺めては「あやつらはあんなに元気で活力に満ちあふれている。むしろ狂的ではないか」と嘆息を吐いたものである。

 数日前からようやく体調が安定してきて、1週間ぶりに喫煙をした。酒は2週間ほど呑んでいない。
 僕は酒も煙草も好きだが、体調の悪いときは不味く感じるので禁酒禁煙になる。我慢しているのではなく、身体が受け付けなくなるのだ。
 煙草屋ののぼりに「今日も元気だ煙草が旨い」というスローガンが掲げられているのを見た記憶がある。
 あれを見たとき「シンプルにその通りだな」と思ったのだったか。

 自覚がなくとも常喫している煙草や酒の、その味や香りが普段より劣って感じられるとき、その分解は過負荷になっていて数日以内に体調を崩す。
 体調が良ければ美味しく感じるものを、だから中毒者のように不味いと不満を漏らしながら摂取することはない。

 不味かったり、不味く感じそうだと思うとき(事前に分かる)は避ければ良い。同様の原理で食事を抜いたりする。
 美味しく感じられる空腹のとき、存分に飲んで食べればよいのである。
 時間だからと機械的に摂食したり、中毒的に止められなくなるのはいずれも病的である。前者は社会文化的な病気であり、後者は意識や理性の病気である。

 性犯罪が以前より増えたかのように報道されている(表出する機会が増えたのだろう、マスコミにとってもシンプルに金になるだろうから)が、あれらの犯罪も社会文化的、あるいは意識や理性の病的な発露だろう。
 刑罰を重くしろという意見もあるようだが、そんなことで止められる人は少数のように思う。

 煙草は身体に悪いと言われているのに、それを承知でお金を払って吸う人間がいるのだ ── そればかりか(種族自認)猫までいる。
 スーパーで買い物をしていても、尋常とは思えない体型の人が大量の食べ物を買い漁っている光景を見る。正直、恐ろしくなる。
 実のところ太っていることを病的だとは思わない(体質や病気や事情というものもある)。ただ、太るようなことを止められない精神が病的なのだ。
 煙草を吸うのと、あるいは性犯罪に手を染めるのと、何が違うだろう。

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【相対性自認論】

 僕は基本的に自分を猫だと思っている。たびたび取り上げているとおり、種族自認は猫である。
 しかしこの自認を他人に押し付ける気はないので、周囲の人は僕のことを人間の男性として接しているし、僕はそれを許容している(女性性の人格も持ってはいるのだが)。
 かつての恋人 ── シュレディンガーの仔猫(いるかいないか分からない僕の隠し子
)の母親にして僕の奥様(仮想)のモデルになった女性 ── だけは僕を猫として取り扱ってくれていた。唯一の例外である。

 ヴァーチャルワールド(とくにゲーム)では女性として振る舞うことが多かった。
 わざとらしい女言葉を使ったりはしないからか、ネカマとバレることはなかった。
 まぁ人格が違うから当然で、Web(とくにゲーム)上で男と称するときも「IRL上の男がヴァーチャル上のネカマを触媒としてネナベする」という、もはや構造不明な思考形態だった(俺の思考に性別はねえよ)。
 今はネットゲームですら他人と関わるのが嫌になったのでオフライン専門のフシはある(ちなみに日常生活でも相反する価値観群(人格)たちが僕の顕在意識の向こうでよく会話をしている)。

 そうしたことも踏まえ、僕は自分を狂人だと思っている。人としては狂っているだろう。
 これは僕が社会を狂っていると思うことがあることから、相対的に
類推している。

 僕が誰かを馬鹿だと思うとき、相手は僕のことを馬鹿だと思っている。
 ためになるべく相手を尊敬し、尊重し、親切に接するようにしている。
 僕が誰かから嗤われたり、蔑まれたり、悪用されたりすることを今の僕は許さないからであり、それはこれまで僕に対してそうしてきた人間に対する復讐でもある。
 上辺ではなく心から尊敬できる部分を見出し、相手に正しく敬意を持って接していると、どういうわけか僕に対して敬意を持ってもらえる(ように観察される)。
 それはつまり僕を蔑んだ人間の価値観が否定されるということでもある。ただ僕にはそれをした人間の名前も顔も思い出せないのではあるが。

 いずれにせよ僕が社会を狂っていると思うとき、社会は僕を狂っていると認識する。
 ために僕は(主観ではまともだと思っているのに、客観的には)狂っているのである。

 あなたはマトモですか?

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【アンチ狂気は正義か】

 しかし狂っていても問題はない。
 僕という円が社会という円に接し、あるいは内包されるとき、その境界面(あるいは境界線)において適切な緩衝さえ行っていれば、僕は社会において「危険な狂人」とは見做されない。
 煙草や酒を喫む狂気も、肥満に飛び込み続ける狂気も、社会に与える影響は取るに足らないものだろう ── 少なくとも僕は、望まない他者に喫煙や飲酒や摂食を(同時に禁煙も断酒も断食も)強要しないのだから。

 僕が自身を狂的だと思う証左のひとつに、殺人 ── 少なくとも殺意を持つことを忌避していない、というのもある。
 殺人だろうが強姦だろうが、なんとなれば小児性愛だろうが、それを人が欲すること自体を異常だと僕は思わない。
 たとえば学校の同級生に嫌な奴がいる、たとえば会社で自分より優れている奴が気に入らない、家族や友人や恋人が言うことを聞かないので思いどおりにならず憎い。

 そうした対象が自分の生きる進路上の邪魔になるので排除しようと思うのは自然なことだと思える。
 庭に花の苗を植え、雑草を刈り、害虫を殺すのと何ら変わらない。
 たまたま僕は運良くそうした劣情に支配されることが少ないものの、他人を ── あるいは自分自身を殺したいほど憎むことそのものを悪いこととは思っていない。

 僕が社会を「狂っている」と観察しているのは、こうした感情に対しては「負の感情」と勝手にバイアスを掛け、にもかかわらず視線の向きを変えればまったく同じ事を推奨しているという、理性を欠いたありようがあるからだ。
 シンプルに人間(社会、集団、あるいは個人)の都合や解釈で「良いもの/悪いもの」という対立構造を作り、あるいはそのように何につけ分割する価値観を醸成し、良いものを賞賛し、悪いものを非難しあげつらう。
「一人殺すと殺人犯、100万人殺せば英雄になる」とはよく言ったもので、ゴキブリや熊は殺すべきであり、猫やイルカは守るべきであり、女子供老人といった弱者は庇護すべき(にもかかわらずそうした態度を高慢に利用しないこと)であり、にもかかわらず家畜や作物は生み殺すのである。
 これが集団におけるシンプルなルールであり、それを矛盾と感じないのが狂気である。

 そしてそうした狂気に矛盾を感じて「熊を殺すな!」「家畜の過酷な労働環境を非難する!」という価値観を持つこともまた狂気であるから、動物愛護精神の持ち主やヴィーガンもまた狂気の尖兵である。
 このアンチ狂気という狂気は、昨今のポリティカルコレクトネスそのものだと考察している。

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【孤独なら引力が発生しない】

 かくして集団は矛盾をはらむ。その矛盾はときに狂的である。
 弱者を守るために作られたはずの集団や社会は、しかし結局のところ弱者を踏みつけにし、慰みものにし、抑圧して搾取している。
 ポリティカルコレクトネスとは、だから「その狂気を否定して排除すれば、健全な集団や社会になる」という身勝手な幻想を現実世界に押し付ける類いの狂気である。

 人口が減るのはよろしくないが、人間のために生き物を産んでは殺す仕組みはよろしくないと言う。
 人間はすでに飽和しているのだから、両方を実現することはできない。
 多数決と同じで、49:51の状況において、49人は(その本来所有している権利等に関係なく)51人のため、譲歩をしなくてはならない。
 これが民主的思想という狂気である。

 ゲーム理論やトロッコ問題のような効率化メソッドの帰結として、1:99の状況で、たった1人の身勝手に99人が従う専横的な狂気よりは数的/論的に「まし」なのが民主主義(なんといっても抑圧される側が99人からおよそ半数の49人に減るの)であって、100人全員が満足することを理想とし模索こそすれど、そんなことはそうそう実現しないのが現代の問題解決のプロセスである。

 我々は表向きの民主主義国家に暮らしているから「民主主義は正義」と思わされているものの、99人が殺されても文句を言えない社会から、犠牲を半分に減らす(人数も半分、損害も死に至ることなく、ついでに文句も言える)ことを理想として目指す集団の手法であり価値観なのだ。
 理想的に見積もっても半分は死ぬ(あるいは死ぬようなことがあるか、最悪死ぬよりひどいことを強制される)可能性はある。

 それでも集団である以上、権力は集中する。
 では社会主義にしたらどうかといえば、それでも集権は起こる。集団になる以上、集権はメカニズムとしてセットになっている。

 これは宇宙論と同様で、単一の物質(分子でも粒子でも小惑星でも惑星でも恒星でも銀河でもいい)が、ぽつねんといる分にはなんらの影響もないのだが、どれだけ離れていようと他の物質が存在すれば互いに影響を与え合い、それが無数といえるほどの複数になれば引力で影響し合いながら集合してゆくのと同じである。

 自然界は拡散による均衡と集中を繰り返している。
 僕の部屋は混沌なる均衡の法則に従い散らかり、引力によって秩序的に集中 ── 本は本棚に、テーブルの上の書類はフォルダに、フォルダはキャビネットに、ゲームのコントローラはその収まるべきフックに収納 ── させられ、これを繰り返す。
 しかし秩序や集中というのは、果たして必ずしも善良だろうか。

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【集団の中で論理的対立から身を守る手段】

 権力の集中を回避するため、資本主義にしようが、共産主義にしようが、とにかく力関係が発生することに変わりはない。
 民主主義の最良の理想は「1人を犠牲に99人の主張で弾圧する」というスタイルだ。なに学校の教室で似たような団結の構図を見るだと? 知るかそんなもの。

 ではたった1人の権利や理想や妄執のために99人が我慢をするのですか、それは先に述べた専横政治と同じではないですか、ということになる。
 もはや何が正しいかなんて考えるのも馬鹿馬鹿しいくらい矛盾してしまう。
 倫理的(あるいは論理的)な正しさや正義も、1:99であろうと49:51であろうと、50:50であろうと、対立構造を取る以上は誰かが我慢することには変わらない。

 一番の解決策は、古来の日本における文化や美徳にあったように「混沌としたまま受け流す」という手法である。
 受け容れるのでも、否定するのでも、対立するのでも、同化するのでもなく、ただ受け流すのである。
 うやむやにして、なし崩し的に、何もしないまま時間が経過するのをぼんやりのんびり待てばいい。

 非常に省エネなスタイルだ。環境に優しいというのはこういうことさ。
 今の日本の執政者も増税以外の面ではそうした手腕にとても長けているといえる。僕ほどではないにしても。

 実のところ、そうした数値的バランスを崩してしまうのが、理想や権利というファンタジィに冒されたポリティカルコレクトネスだと思うのだ。
 対立すれば正義という剣は誰かの心臓を貫き、理念という熱は磔にされた誰かを灼く。
 その「正義理念」とやらの内容のいかんに関わらず。

 もちろん理想や欲や妄執を持つことは、決して悪いことではない。
 たとえそれが社会集団における正義や善良(公序良俗)に反することだとしても、そういう気持ちや感情や感覚を否定し抑圧する必要はないと僕は思う。

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【集合しているだけで「共生と共感」とかいうのはおかしい】

 過日、渋谷だか京都だかで、ウクライナだかパレスチナだかの反戦/反弾圧デモがあったように記憶している ── こんなに曖昧なものを記憶と呼ぶのか?
 一部の日本人が「遠く離れた日本でデモなんかしても意味はないだろう」とコメントしていたのが印象に残る。
 僕の一部もそう思うことに自分で驚いたからだ。

 日本はデモを嫌い、嗤うようになった。
 そういう公序良俗を国家によって刷り込まれたものと想像する。またぞろ学生運動なぞ始められたら、国家としては厄介だからだ。

 だから日本人の多くは群れることを好み、そこに含まれることを望み、排斥されることを恐れるわりに、目的意識を共有して団結することを嫌う。
「なにが共感と共生の時代だというのか、叫喚と強制だろう」と僕が揶揄するのはそういうことである。

 非常に民主主義的な矛盾を抱えた現代人のスタイルは、つまり国家が体現している民主主義のままに誘導したありようだろう。
 政治家だって群れることを好み、より大きな集団に含まれることを望み、政治という職場から排斥されることを恐れるわりに、とても団結しているようには見えない。
 呑み屋で中年の男ども(実のところ中年に限らず、また男に限られるわけでもない)が群れて騒いでいるのを見かけることがある。その風景に似ている。
 その是非を問う気はない。本人たちは楽しいのだろうし。 

 思想や目的意識を共有し、団結することは、いつから「みっともない」ことになったのだろう。誰がそれを決めたのだろう。
 自由を主張し、遠く離れた祖国の問題について他国の人に知ってもらうことは、そんなに馬鹿で幼稚で無意味なことだろうか。
 退屈しのぎにどうでもいいような奴らと集まって、上っ面の議論や分かりやすい共感を振りまくことでしか自身の存在をアピールできないほうが、よほどもみっともないではないか。

 他人の思いを否定する前に、オマエはオマエの本当の思いを言えよ。良いも悪いも関係なく。

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【丘海賊は男を殺して女を犯す夢を見るが正義を持たない】

 だから同じように僕は自分の中にある、あるいは僕以外の人の中にある理想も欲も妄執も、少なくともそれを持つことや、持っていること(あるいはそれを持っていること自体に逡巡すること)を吐露することは、悪いことではないと考える。
 邪魔なもの、嫌なもの、迷惑なものを殺したい、目の前から消したい、自分の認識する世界から排除したいと思うのは自然なことだし、ほとばしるリビドーに善悪良否の判定をするのは無粋ではないか。

 無論、殺人や強奪や強姦や戦争や暴動や専横政治を奨励しているのではない。むしろそれはしない方がいい。できればしないで欲しい。
 他人の権利を侵すということは、思考や価値観の自由を否定するということは、己のそれを自ら破壊することでもある。ロシアを見るまでもない。
 しかしその対価を理解した上で、一時的な激情や劣情でもなく理性的に、論理的に、それをしたい/する必要があると思うなら、僕はそれをするし、しようとする人を止めない。

 僕が今までそれをしない(できないまま)でいられたのは、単に僕が幸運だからである。
 この身体がもっと強靱で、僕の思考がもっと優れていたら、正しく誰かを殺していたはずである。
 あるいはそのどちらが幸せだというのだろう。

 酒を呑み、煙草を喫み「男は殺せ! 女は犯せ!」という丘海賊(丘サーファのような)として現代を生きてもいいではないか。
 程度は違えど(「内容も違う」と)誰もが己の正義を主張しては対立し、誰か(あるいは何か)を殺して、誰か(あるいは何かの権利)を犯して、善人ヅラして生きているのではないのか。

 なあにが正義だ! なあにが多数決だ! なあにが善良だ!

 僕はそういう狂人であるから、境界面で要らぬ波風が立たないよう、静かに暮らしているのである。


<ややおこ(の表情)>

>>>
【誰も殺さず生きてきたというのか】

 民主政治的に、周辺住人や自身の身体やここに棲まう来歴のため、庭を管理する。
 1時間でできることはわずかだが、それでも存分に虫を殺し、植物を殺し、木を切り倒し、その権利を侵す。
 振り返ると涙が出るほど哀れなのだが、これが人間を生きることだと理解している。

 身体も多少は疲れるが、アタマがヒマなのでついでに生きることや死ぬこと、殺すことを考えている。
 すると生きることの喜びももちろん、その悲しみに思いを馳せることになる。
 1時間もそれを思い続けるのは、なかなか心荒むものがあるのだ。

 なんのこともない。
 台所に立てばいつもの調子で綺麗に整えられた家畜どもの肉を切り刻み、火で炙り、舌つづみを打つのである(かっぽーん!)。
 生きると決めた以上、綺麗事は言っていられない。
 誰かを殺し、誰かを犯し、肉をもてあそび、血をすすり、骨までしゃぶる ── 肉食獣の日常として。

 もっと早く、もっと殺すに適切なタイミングがあったはずなのに。

>>>
【人間らしさは非動物らしさか】

 軽くシャワーを浴びて、店の開く時間を見計らい(豆腐が切れてしまったと奥様(仮想)から指摘されていたので)買い物に出る。
 昼前には戻ったのだが、予報どおりひどい暑さと湿度に辟易し、部屋で涼む。

 人間的だというならば、こうして部屋で涼んでいる方が、庭で生き物を殺すよりよほどもそうだといえる。
 人がましい顔をする奴をずいぶん見てきたし、自分もそう振る舞おうと努力した時期もあるが、結局駄目だった。

 政治とも経済とも距離をおいて放り出し、主義主張も信念も権利も忘れ、正義や倫理なんてなるべく考えず、お腹が空いたら狩って食し、暑ければ涼み、寒ければ暖を取り、日がな一日寝て過ごす猫こそが、人よりよほど人間らしいのだ。

 嗚呼、ケダモノよ。
 正義を取り扱う、狂気に満ちたケダモノたちよ。
 あなたはまるでこの私の子分。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Interface-Life-Maintenance-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Cat-Garden-Human-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
:家庭菜園ティストの狂気:
夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF