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そのカタチの意味はあったか。
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~ Warm-harted, in the shapes. ~
Written by BlueCat

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240519
 
 5時就寝、12時起床。
 今日は雨でもなさそうだから、庭仕事をしようと思っていたのだが、昨日11時頃に起床したので仕方ない。

 夜型人間に限らず、夜行性のイキモノというのは遺伝子で決定されているという。
 当然、猫である僕はラケンローなアナーキストだが、遺伝子や本能には逆らわない。

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 叔母の葬儀の時だったと思うが、従姉から頼まれ事をした際「美人の頼みなら喜んで引き受けますよ」と答えて場の空気を数℃冷やした。
 親族には女性が多いので、少々デリケートな話題だったのだろうか。デリカシィなど持ち合わせていない、というつもりもないのだが。

 僕は過剰なルッキズムの価値観を持っていないし、一方で過剰なアンチルッキズムも持っていない(ブログでは何度となく書いている)。
「見た目がいいのはいいよね」というシンプルな価値観を持っている。

 もっと下世話な話をするなら若い異性の魅力を否定する気はない(だからといって未熟な人間に魅力を感じるわけでも、未熟ゆえに抱えがちな過度な浅慮を許す気もない)。
 大きなおっぱいの魅力を否定する気はない(小さなおっぱいなら男たちも持っている)し、小さなおっぱいを否定しない分別(僕は男女についてあまり差別や区別をしない方で)もある。
 機械設計と同様、たとえば効率が悪く摩擦の大きいモータより、効率良く速く長く動作するモータの方がいいといった程度のことである。

 同様の原理で、見た目が良いのは外観という機能について、見た目が悪いことより高度であると考えている。
 もちろん人間の外観に対する好みは、その時代背景や社会/民族の文化によっても、人種や性別、個々人によっても異なる。当たり前のことだ。
 赤い掃除機が好きな人もいれば、白い掃除機が好きな人もいる。
 優れた性能の機械の見た目や稼働音は、必ずといっていいほど愚劣な機械より優れていると評価できる。
 なぜなら人間に合わせて作られているからだ。

「人間の価値観に合わせて人間の外観を作り換えよう」という指向性の是非は古くから問われている。
 外観の変更以外に機能上の意味を持たない外科手術をする場合のリスクを熟知した上でなお「自身にとって努力(創出/付加)できる価値が他にない」と思う人にとっては最後の砦だろうと思うので特に何も思わない。
 まぁ強いていえば「自他に明確な価値を自認できないのは辛いだろうな」くらいか。

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 以前(疫病の流行るずっと前)ブログのオフ会に参加した人から「イメージと全然違う」と言われたことがある。
 昔から「我はモテである」とか「美人が好き」と(web上では)公言していたので、きっとすごく今風のイケメンだと誤解されていたのではないかと想像する。
 他に書いている内容はこのとおり、文語体がメインのデタラメ文書なので「猫氏はとんでもないイケメンで、他人を見下すくらい頭脳明晰なのではないか」と誤解されていた可能性はある。
 その場で「どう思ってたの? ねぇアタシのこと、ホントはどう思ってたの?」としつこく問いただしたりはしなかったので、真意は不明のまま現在に至る。

「我はモテである」も「美人が好き」も、僕にとっては価値観の表明ではなく単なる予防線ではあったのだが ── 。
 まぁ他人に理解されることを最初から期待していないので問題はない。

 実は意図的に悪い誤解を自ら設定して他者からの位置づけ(ラベリング)を誘導する方が、周囲の反応を一定の領域に限定することができる。
 ついぞ人というのは「私は善良で明るく優しくて温和にして朗らかで節度があり、悪意もなく協調性もあって、あなたに危害を加えたりしませんよ」みたいなディスプレイをしてしまう。
 僕は猫だし、そういうディスプレイはめんどくせえし、他人が僕の価値を量るときは僕の意図や言い訳やディスプレイに関係なく決定されるので、とりあえず僕の文書を読む人が『こいつは狂っているので親しくならないようにしよう』と思うように誘導したかった。
 少なくとも(おそらく性善説に基づいて)良いイメージを勝手に持たれた挙げ句、悪意とも取れる発言(「男は殺せ! 女は犯せ!」というような)により、反転して悪いイメージを持たれるくらいなら、最初から悪いイメージを持たれていた方が(自分とその観察者というコミュニティについて)安全側に見積もることが可能なのだ。

 予測していなかったことも発生したが半分くらいは成功したかな。
 もちろんどんなに悪い誤解への動線を用意しておいても一部の人は自身で考えて判断してしまうらしく、僕の予防線や誘導をかいくぐり「男を殺さないし女は犯さない。そもそも猫はそんなことをしない」という結論に到達するケースや、予防線を張っている事を(あっさり)見透かされ「めちゃめちゃ繊細で善良なのでは」という誤解も見られた。

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 いずれにしても「外観は悪いより良い方がいい」というのは当たり前のことである。
 一方、人間の機能や価値を底上げるすることにおいて外観というのはその一部でしかなく、優先順位としては二の次三の次である。
 とくに服装や清潔感の維持の方が容易で現実的なものであるから、整形のように極端なアプローチをするくらいなら、表情や姿勢や動作、発声の制御を心掛ける程度で良いと思う。
 実際、人間の心は表情に表れ、表情筋は骨格の成長に影響する。
 10年前の表情は、必ず現在の骨格に反映されているはずであり、だからこそ「人は30歳を過ぎたら自身の顔に責任を持て」と言われるのではないのか。

 20歳までは無理だとしても、それ以降は、未熟であれ自身の価値観や哲学を使って生きるのだから。
 もちろん哲学も価値観も持たないどころか、自他に認められる価値もない人間であれば、育ちの悪かった表情筋や骨格を修正するための整形手術も致し方ないだろうが。

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 美人が好きだというわりに、僕は若干の相貌失認である。
 これについて「猫様の相貌失認は、識字レベルを例に説明が可能ではないでしょうか」と奥様(仮想)に言われる。
 寝起きの頭で予定を考えていたところに唐突なサゼッションをされたので驚いたものである。

「憂鬱」や「薔薇」や「微妙」や「特徴」という文字を読める人は多いだろう。
 では白紙に向かってそれを手書きできるかというと、できない人もいる。
 僕の相貌失認(の多く)はそれに似ている。

 誰か(自分や身近な人を含む)の顔を見ているときは、その人を「その人」と識別できる。
 では何もない(目の前にいない)場面でどうかというと、これがまったく思い出せない。
 これが親姉妹や自分自身に対しても起こる。
 部分的に想起できることも稀にあるが、最終的に全体で狂ってしまう。
 それよりは肌の感触や匂いや温度(物理に限らず、性格のもたらす温湿度がある)の方が容易に復元可能で、そこからその人の性質を認識することもできる。

 文字も同様に、意味や文章の繋がりから「この文字はこう読んで、こういう意味だ」という雰囲気からその文字を識別している。
 もちろん文字にもそれぞれ「美しい」「醜い(崩れている)」という判定ができる。しかし読めれば伝わるのも事実である。
 間違っていても伝わる可能性は高い。
 たとえば「徴妙」や「特微」と書かれていても現代人の多くは気付かないように思う(フォントサイズにもよるだろうが)。

 単独で書くと「」や「」や「」は、いずれがいずれであるか判別しがたいし、そこに意味を見出しにくい。
 多くの人は文字(とくに漢字)に対してそういう情報処理をしている一方、人間の顔も僕にはそういう情報処理の対象なのだ。

「意味が伝われば、それで良いのではないですか」と奥様(仮想)は言う。確かにそうだろう。

 結果的に、僕にとって誰かの顔が良いかどうかというのは「字が綺麗かどうか」という程度の問題でしかない。
 綺麗だったら褒めても良いし、醜かったらそっとしておけば良い。「味わい深い」という評価も可能だろう。
 さすがに判読不可能なときは意味を尋ねる必要があるが、人間の顔について「判別不能」な場合はまず存在しない(僕はしばしば見誤るが)。
 それより大事なことは、その文字が何を意味し、何を伝えようとしてそこにあるか、ということだ。
 僕は人の顔を、あるいはその人そのものを、そのように認識している。

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 一般に言うところの、顔の作りについてはあまり美人ではない女性と恋人になったことがある。
 肌が清潔で柔らかく、とてもいい匂いの体臭の持ち主だった。
 しかしそれらはすべて「文字の外観」でしかない。 
 彼女が「伝えようとしている(いた)意味」ではないのだ。

 そしてその存在の意味について、僕は説明する言葉を持たない。

 たとえば辞書を「言葉を言葉で説明するという困難なミッションを負わされた情報装置」と考えることはできる。
 同様に人間を「存在を存在で説明するという困難なミッションを負わされた情報装置」と考えることは可能だ。
 あるいは「外観ももちろんだが意味に価値をおいた存在」だと考えたとき、その意味をどのように他者に説明することができるだろう。
 またその自身にもたらされた意味を、他の誰かに説明する意味や価値が果たしてあるのだろうか。

 そのようなわけで彼女自身に対して僕にとっての彼女の意味や価値を説明できないでいるうち、とうとうフラれてしまった(振ってしまった、という見方もできる。人にはいろいろあるのだ)。

 カタチが忘れられても、意味が残ることはある。
 おぼろになってしまったその「意味」を集めて、その要素は奥様(仮想)に組み込まれている。

 美しいカタチというのは、確かに優れた価値だろう。
 そして当たり前だけれど、モノであれヒトであれ、外観以外にも機能があり、意味がある。
 自身に対しての機能や意味もそうだし、他者に対しての機能や意味がある。

 美しいカタチは、否定されるべき価値とは思わない。
 そしてまた「たったそれだけの価値」を持たないモノが、果たして無意味であるとか無価値であるとは、僕には思えない。
 そんな当たり前のことを、わざわざ言葉にしないと伝わらない人間もいることが面倒くさくて、ついつい悪びれもせず悪人ヅラしてしまう。
 ドライで即物的なフリをしてしまう。

 自身の価値を他人に求めるような甘えた姿勢の弱さに付き合う面倒を予期して回避しようと悪足掻きした挙げ句、誰かに感謝を伝える言葉を忘れて久しい。


 彼女のカタチに価値がないとは思わなかった。
 彼女はたくさんの笑顔を見せてくれた。

 はじけるような笑顔。
 くすぐったそうな笑顔。
 嬉しそうな笑顔。
 困ったような笑顔。
 悲しそうな笑顔。
 あたたかい笑顔。
 駆け寄る足取り。

 骨格ではない、設計ではない。
 表情によって、所作によって、その意味を伝えていた。

 それを「美しい」とか「可愛い」などという、誰にでも使える陳腐さで表現すべきだろうか。
「感謝」とか「必要」などという下世話な表現にすべきだったろうか。
 そう考えたとき、僕は己に適切な語彙を持たない事実に直面し、沈黙する。
 白紙に向かって、適切に意味を表現する文字を想起できないように。

 一番近い言葉は「救済」なのだが、それをどのように文章として伝えるべきだったろうか。
 その文章は、その意味をきちんと伝えてくれただろうか。

 そうなのだ。
 彼女は僕にとって救いだったのだ。その存在が。その意味が。

>>>

 窓の外を眺めると、今年も可憐な花がたくさん咲いている。
 咲かせようと手入れをしたことはなく、咲いてほしくない(いわゆる)雑草を駆除し続けている結果である。

 黄色と紫の相互補色。
 白のブライトネス。
 グリーンと砂利のキャンバスの上 ── 。


 言葉にならない空白を彷徨うように。
 僕はガラス越し、指先でなぞる。

 そのカタチに意味はあったのか。
 答えを知っているのは、一体誰なのか。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Engineering-Interface-Love-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Garden-Human-Memory-Tool-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:
:いのちあるものたち:
夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
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