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TITLE:
お金は自由に使ってしまった。
SUBTITLE:
〜 Paid my tax, then get me free. 〜
Written by BlueCat

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【お金お金ってうるせー】
 
 株価が乱高下しているとかで、急落した先日、予想どおりに弟子から電話が来た。
 彼は会計士だか税理士だかの事務所に勤務しており、子供の頃からソロバンなどを習っていたこともあり算術が好きである。
 何年前か忘れたがNISAを始め、僕が積立NISAを(銀行に言われるがまま)始めたら同好の士ができたとばかり、株価が大きく変動すると連絡をしてくる始末になっている。
 曰く「今のうちに一度利益を確定させた方が」やら「ここは一度損切りをして」やら ── 。
 
 彼は僕のことを相応に理解しているはずなので、僕がお金の話に大して興味がないことを知っている。
 自分の所有しているお金だってどうでもいいのだから、世相のお金の話など意識を向ける意味もない。
 積立NISAだって損失が発生する可能性があることは知っている。そんなものは最初から、口頭でも書面でも警告される。
 
 ちまちま小銭を弄るゲーム ── 株だろうがNISAだろうが僕には同じに見えるし、個人で些細な資産運用をする人も(当人たちは職業のつもりであろう)個人投資家も機関投資家も似たようなものだ ── に興じている人なら話は別だろうけれど。
 僕がヴァーチャルゲーム内におけるリソースの損得で一喜一憂しているのと本質は変わらない。
 
 だからリソースの損得ごときで騒ぐ(独り孤独に一喜一憂しているのではなく、誰かとそれを言い合ったり、皆で騒いだりする)神経が分からない。
 正直に「そんな用事で電話をしてくるな」と毎回言うことになる。
 何なら俺が今プレイしているゲームの、メインストーリィの演出上発生したリソース損失(素材や装備のほとんどを失う)について言い募ってやろうか。
 
>>>
【現実だからこうなるのか?】
 
 ゲームだったらどうするか。
 セーブデータのあるタイプならロードすればいい。不可逆的なデータしか持たないなら、再び稼げばいい。
 ストーリィの演出で発生したイベントなら、いずれ戻ってくる確率が高い。かつてのエアリスは復活しなかった(初代FF7)けどな!
 
 少々脱線するが、ゲームはIRL(現実世界)に比べ簡単にリソースが手に入る仕組みを持つ。
 この労力に対する報酬の係数がIRLに比べてはるかに高いことは、大人も子供も夢中になる動機のひとつとなっている。
 ゲーム中毒になることを問題視する人は、現実よりも報酬係数の低い(しかし夢中になるだけの価値を持つ)ゲームを作ってそれを与え「IRLのほうが効率が良くてラクで楽しい」と思い知らせるのが効果的である。
 
 しかしそもそもIRLはゲームではない。多くの人がそう言うだろう。
 実際、IRLではプレイヤ(たとえば僕)のデータ(主に肉体依存)はオートセーブかもしれないが常に不可逆的で、報酬係数は低い。
 おそらく人々がお金に執着するのは、それでもIRLではお金こそが報酬係数の高い存在だからだろう。
 
 たとえば野菜を作るのは大変である。
 あんなものがそんじょそこいらのマーケットで、数個数百円で売っていることには驚嘆する。お金を払えば、畑を耕すより簡単に手に入るのである。
 しかも畑を耕しただけで、あるいは種を蒔いて、ときに追肥をして、それで美味しい作物が必ずできるというわけでもない。
 職業農家のように高高度に効率化しない限り、あの価格であれだけの商品を市場に提供するのは不可能だろう。だから自作するのは非常に効率が悪い。
 
 多くの人が庭で作物も作らず、それどころか除草剤を撒き、あるいはコンクリートを打設するのはもっともである。
 労力ばかりで割に合わないから、効率の良い選択をし、邪魔になる(除草作業のような面倒な)ものは根底から回避策を講じるのがよい。
 僕はわざわざ庭の木を切り倒し、深く張った根を除去するような開墾を続け、痩せた土を肥やすために堆肥を作ったりし続けているが、これは例外である。
 
 その効率の悪さを指摘されたらどうしようもない。
 庭の開墾だけでいくら使ったか、リフォーム用の機材や資材にいくら使ったか、それだけは考えないようにしている。
 今後も考えないとここに断言できる。だから追及しないでほしい。
 
 人々が騒いでいるお金というリソースも、結局のところ「何かを効率化して具現する」ためのリソースでしかない。
 優れた道具を手に入れれば、今までより楽に作業ができるが、そもそも優れた道具がなければできない作業かといえば(庭程度の開墾や、一般的な家事程度なら)そんなことはない。
 乾燥機付き洗濯機がなくても、桶かバケツと石鹸ひとつ(あるいは重曹数十グラム)とロープの1本もあれば洗濯と乾燥はできる。
 
 ただ労働が必要で、報酬と労力の効率が悪いだけである。
 深さ1メートルの穴を掘るとき、手でも掘ることは可能だが、シャベルの方が早くできる。
 手はタダだが、シャベルは作るか買うしかない。
 
>>>
【効率厨、おめでとう】
 
 現実世界に生きる限り、そこにある時間という概念の中で生きている限り、あるいは現代文明が、さらにいえば生命というものの本質がそもそも効率至上主義なのだと考えることも可能である。
 
「効率厨」という言葉はヴァーチャル ── 選択的ヴァーチャルの具現のひとつであるコンピュータゲーム ── の存在によって発生した。
 効率を最重視することの是非はもとあれ、IRLとの二重生活を送るすべてのゲームプレイヤにとって、効率を高めることは重要な関心ごとのひとつにせざるを得ない。
 
 もちろんウォーキングシミュレータ(あるいはオープンワールドタイプのゲームで「ただ歩いて景色を愉しむ」プレイ)の場合、損得の発生するリソースはプレイヤの時間程度のものにしかならないだろうけれど、時間に対する「楽しさ」「嬉しさ」「驚き」というような感動的要素も、その変化が平坦で、あるいは予想以下の振幅しか発生しなくなれば、単に退屈なゲームとしてプレイに値しなくなる。
 
 我々が生命体である以上、その生命に死という終わりが設定されている以上、主観によって体験できる時間は有限である。
 その中でより多くのコンテンツを、より濃密で享楽的なコンテンツを求めることは何も不思議ではない。
 食事であれ睡眠であれ、遊びであれ仕事であれ、果ては種の存続についてさえ、本来無感動的な活動(卵生生物の多くはそのように観察される)であったそれが、進化の過程で快楽という付加要素を与えられている。つまりそれだけの意義が種の保存の上ではあったのだろう。
 
 ヴァーチャルとリアルの境界が曖昧になった結果、既存の享楽の色は褪せつつあり、先進国では今後も出生率が下がり続けるだろう。
 享楽のためにセックスをしても構わず、子供が生まれることを社会は求めるが、同時に、いくつかのイデオロギィによって不幸な妊娠やセックスは忌避される。
 これらは同じコインの表と裏の問題で、不幸な出産を避け、不幸な出会いやセックス(端的にその可能性)を避ければ当然に、そのような帰結を迎える。
 幸福といわないまでも、不幸ではない出産や育児の撲滅を理想とするならば母数が減るのは必然と言えるが、それは果たして本当に悪いことだろうか。
 
 文化が成熟すればするほど、たとえば性別や職業や社会的地位のそれぞれの差異の中で、それぞれの権利や意義に理解を深めるほど、無思慮に相手を道具遣いすることはできなくなる。
 言葉は悪いが、男が女を道具遣いした結果、あるいは女が男を道具遣いするための口実として発生する妊娠だってあった。
 きっと今もあるだろう。そうした「不幸な、あるいは幸福ではない」妊娠や出産が減ることは、社会の幸福だと僕は思う。
 
 これは社会の生産力そのものが低下することを意味するが、社会の幸福の質を上げるために外せないステップである。
 1000円で買える材料を使って、とにかく沢山の人の空腹を満たせる料理を作るか、とにかく美味しいと思ってもらえる可能性の高い料理を作るかの違いに似ている。
 幸か不幸か、禽獣のようなイキモノが多いほど、空腹を満たすことに躍起になる。
 
 そう考えると、国家がやたらと(しかも今さら)出生率の低下を気にすること自体ナンセンスとも言える。
 高効率の状態に近づいたというのに「我々の文明は量より質のステップに到達しました。人口についても同様です」と、誰も言わないのは何故だろう。
 野蛮で未熟で無思慮な思春期は、まだ過ぎていないと思っているのだろうか。
 
 青春とは心の若さである、というタイトルの物語があったと思うが、それならこの国の青春は、とうの昔に終わっている。
 
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【非効率に生むことの意味】
 
 IRLでさえ、あるいは生命の本質を突き詰めると「効率厨」になるのだとしたら、そもそもの言葉の発生はともかく、効率厨という概念はIRLから生まれたと考えるべきだろう。
 そもそも昔から(おそらく今でも)ヴァーチャルコンテンツを「悪いもの」あるいは「あまり良くないもの」と考える向きは存在する。
 なぜといってヴァーチャルなコンテンツのすべては、IRLにおいて基本的な生産行為をもたらさないからだ。
 
 TVゲームをしてハイスコアを取ったところで、その時間を使って庭の草取りでもした方が生産的なのだ。
 IRLは立派な、そして残酷な効率厨である。
 
 同じく高度な数学を学び、あるいは哲学書を読み、大ヒットした映画を観ても、それらは生産行為をもたらさない。
 僕のようなシンプルなゲーマは、だから勉強を嫌うのだ。
 大人が「ヴァーチャルに意味(生産性)は無い」というそれがそのまま、彼らの押し付ける理想に含まれている。
 
 勉強が何になるだろう。高度な概念や体系的な認識プロセスを身に付けることに何の意味があるだろう。
 抽象的なことより具体的で、カタチがあって、空腹を満たせるモノにこそ意味がある、というなら「現実主義者」の求めるどれほどがそれに該当するだろう。
 そしてその残酷で、冷徹で、利己主義的でさえある現実主義は、どれほどの非情によって理想を切り捨ててきたのか。
 
 一転して、ヴァーチャルは感動的であり、物的なそれはなくとも精神的な豊かさをもたらす、ある種の「生産行為そのもの」だと考える向きもある。
 
 たとえば畑を耕すように数学を学び、肥料を作るようにしてゲームを作り、種を蒔くように哲学的な思想を読み、様々な虫や他の植物が果たして害となるかどうかを観察するように様々な事象を眺め、良否を己の観察と経験によって決定するのは ── 。
 
 確かにこれは効率が悪い。僕が断言する。
 優れたライブラリがパッケージされた(UnrealEngine のような)開発環境が無償で手に入る昨今にあってなお、思った通りのゲームを作るだけでも苦労する。
 またライブラリが充実していればいるほど、そのライブラリによって生産物が限定的になり、つまりは生産行為そのものが限定的になるという弊害もある。
(たとえば特定の言語を使って一から作るよりは手軽だけれど、3Dの精細な描写に特化しているライブラリが主流であれば、2Dの荒いドット描写による表現方法が意味を持つ演出をしづらくなる)
 
 人間は(あるいは生命は)効率を求めるわけだから、Webで(書籍を読むより手軽に)情報を入手し、どの除草剤が有効で、あるいはどんな肥料が良いかを知るだけでも、よりよい作物を作ることができる。
 堆肥を作りながら、未だに解明されない事ばかりの土壌細菌類の働きや相互作用をもたらす系について学ぶことは、見ようによっては無意味だ。
 
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【結果がすべての効率厨】
 
 僕は元々「結果がすべて」と断言するタイプのイキモノである。
 これは効率至上主義の極北であり、過程を無視する哲学の発露である。
 僕がそれをなるべく言い切るようにしている(してきた)のは、実のところまったくそうは思っていないからである。
 
 たとえば会社組織のような営利団体であれば、お金というリソースを作るために人材を集め、技術を高めるための教育(あるいは洗脳)を施し、入力されるリソースをラクに転換して出力リソース(お金)に換える装置である。
 結果(出力=売上)がすべてであって過程(努力とか苦労とか)は評価しないのが、最高効率を求める上で必要な価値観であり認識傾向である。
 
 僕は当時、会社員であったため、こうした価値観や認識を意図的に利用していた。
 本心は真逆だが、それを言い出すと僕は絶対に反抗してしまう。
 その頑固な性質を熟知していたので、本音を押し殺すようにして別の人格として駆動していたわけだ。
 
 思ってもいないことを口にするなんて僕には造作もない。
「愛してる」なんて嘘も「男は殺せ! 女は犯せ!」なんて妄言も、何度となく口にした。
 人間の思考というのは便利なもので、言うだけでそれをしているような気持ちになる。
 テスト勉強について考えただけで勉強した気分になれるし、これまでの人生は苦労の連続だったと言うだけで苦労してきたような気持ちになれる。
 愛してると言えば愛しているようなそうでもないような気持ちになるし、男は殺せ! 女は犯せ!と言っているとなかなか破天荒で気分がよろしい。
 
 しかしまぁ結局のところ、効率を求めるはずの組織が、案外そうでもない(運営者の思考や欲求や理想や傾向が、あるいはその存在そのものが非効率という)ケースに直面して、僕のそちら側の価値観は自己矛盾による崩壊により終焉を迎えたといってもいい。耐用年数が過ぎたのかもしれないが。
 
 それに嘘を吐くのは簡単だが、嘘を真にするのは簡単ではない。
 まして己が真逆のことを真として信じているならば、口にする嘘も、口にしない真も、等しく体現することになる。
 結果としていずれの立場の者にも、僕は嘘つきだと断ぜられ、嗤われるだろう。おかげで恋人にフラれるケースが後を絶たない。
 
(いくつかの犠牲があったにせよ)その道筋は豊かで滋味深く、痛みも苦味もあったかもしれないが、スパイスの風味も抜群だったといえる。
 まぁ、嘘は言わないにこしたことはないのだが、社会や集団や恋人に言わされたりするからね。
 だからといって本音を言うわけにはいかない場面もあるわけで。みんなも気をつけてね。
 
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【リソースは自由に使ってしまった】
 
 つい脱線してしまった。お金の話であった。
 
 さても株の乱高下で僕の積立金を運用している誰かが損失を生んだとして、僕にどんな損失があるだろう。
 せいぜいのところが数万円、あるいは仮に今までの積立ぶんまでまるっとなくなったとして、僕の生活に影響しない範囲の(実際、それがなくても僕には影響しなかった)お金なのだから、無くなったとしてどうでもいい。
 
 効率厨には大問題だろうが、あいにく僕は人生に効率を求めるようにできていない。
 それどころか無駄を追求しているようにさえ見える。
 僕が最も求めて、果たして手に入れたのが自由である。
 
 この国は民主主義であり、そのイデオロギィによって、それを明文化した憲法によって、国民の自由と権利は保障されていると言う人もいるだろうが僕はそんなものを信じていない。
 資本主義であるが故の不自由を、その辛苦を、多くの人が味わっているはずである。
 
 
 不貞は無くならず、それに噛みつく義憤が正義だと疑わない貧しさも無くならない。
 貧困は無くならず、最低限の保障を受けようとする人を疑い非難する貧しさも無くならない。
 犯罪は無くならず、そこに至る幼稚さを生むシステムの改善に思い至らない無思慮も無くならない。
 善良は無くならず、悪意を持たなければ悪い結果は生まれないという無知も無くならない。
 
 なあにが自由だ、なあにが権利だ。
 口当たりの良い嘘を吹き込むのはやめてよ〜、と誰も言わないのは、等しく皆が犠牲者だからか。
 自分がそれをより強固に誰かに吹き込めば、自分は少し自由になれるからか。
 
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【自由は眠りに使っている】
 
 目覚めると、その日の最初の(そして最後の)咀嚼中の食事が口の中にあるような、眠る時間も無い状態は今思うと少々不幸だった。
(もちろんそれよりひどい不幸を僕は知っている。だからそのときは不幸と感じなかったのだ)
 思うさま眠り続けたい、という些細な欲を満たせるようにネコノカミサマにお願いした結果、眠り続けられるほどの自由が手に入った。
 その自由を邪魔する人間も、取るに足らない行事も、本当にわずかしか存在しない特異点のようなこの場所で、これらの寂寞を僕はお金で買っていることになる。
 
 この自由だけあれば、実のところ僕は何も要らない。
(いやいるかな。イルカな? たとえば美人でエッチでショートヘアのガールとか? いるか? 見えない自由が欲しくて撃ちまくるための見えない銃とか? いるかな。いるか? そもそも自由って目に見えるか?)
 この自由をサブスクリプションのように買い続けている日常に満足している。
 一日は24時間しかなく、これ以上の自由を買えるとも思っていない。
 増やせるなら買いたいが、増えないので買うためのお金も必要ない。
 
 ただし効率のことを考えると非常に悪い。
 無駄なことばかりで、生産性の低いことばかりして、その生産行為が何も生み出さないこともある。
 
 それを非難する他人もいない。
 そういう孤独に耐えられない人もいるとは思うが、改善の余地を感じるなら改善すればよいだけである。
 僕は集団の引力が嫌いで隠棲しているので、まるで冥王星のような、非生産的な日常を愛している。
 
 なるほど生命は生産的なのだ。
 生きることがそれほど生産的だからこそ、僕は死の側にいるのだろう。
 日なたぼっこをするように、まんじりとしてばかりで、その実、何もしていないのだ。
 
<アヲが帰らぬまま約1年が過ぎ、我が家の猫塔は妹に委譲された>
 
>>>
【眠りは死に似ている】
 
 夏は嫌いだ。
 あれもこれも生命を謳歌する、その歌声が煩い。
 わかよたれそつねならむ。
 
 惰眠を貪るうちにも時間は過ぎ、浪費され、僕の冬眠は冬までの眠りとして機能する。
 冬になったときのことは、冬になってから考える。
 
 他の人は知らないが、僕はそうやって、無計画に無責任に生きてきたのだ。
 アリとキリギリスの寓話で言えば、明らかにキリギリスのタイプ。
 僕の孤高さは、アリにたかるくらいなら死をも辞さないという姿勢 ── それを夏の頃から持っていたこと ── にあるが、そんなものこの社会では嘲笑のネタにしかならない。
 
 予測し、備え、労働し、蓄えるという美徳はしかし、資本主義における奴隷洗脳にうってつけの商材だ。
 ならば社会よ、のうのうと冬を越すキリギリスに震えろ。
 
 微分積分の手法を現実世界への還元として用いる場合、過去の情報と現在の情報を照合し、単位時間あたりの変動から未来を予測し、それに対応することであり、それ自体を「賢くない」と否定できるものではない。
 賢いかもしれないが、しかし少なくとも愚かではある。
 その手法は現実世界を生きる上で、ないよりはあった方がよい手段ではあるが、絶対視するのは危険だと考える。
 必要条件と十分条件の違いであり、それ以外の手法があるならそんなものに拘る必要はない。
 
 株価や為替の乱高下は、僕の自由や不自由に(ほとんど)まったく(と言っていいほど)関係しない。
 春に植えたジャガイモの出来の良さ(Webに公開していないが、いいジャガイモが育った)やら、千萱の過剰繁殖やら、家の中を徘徊するヤモリ(ときどき見かけてどきどきしている)の方がより強い関心事である。
 
 夏の間の歌や演奏など、一体誰の役に立っただろう。
 それでは夏の間の労働が、一体誰の役に立つだろう。
 
 キリギリスに分け与えるタイプのアリならば、それは社会への貢献であり、平和的な理想の実現と考えることもできる。
 しかし「アリとキリギリス」教典に毒された者は、キリギリスを愚かで強欲な悪と見做し、自分あるいは自身のコミュニティの正義によって断罪するだろう。
 
 僕は何かを訴えたいわけでもないし、寓話から教訓を知らしめたいわけではない。
 ただ僕に関係の無いことで(自分が不安を感じるからと)僕の不安を煽ろうとしたり、僕に関係の無い法則を持ち出して僕を罰する(ように仕向ける)ような教典はめんどくせえな、と思うのである。
 
 わたくしはご自由にしておりますので、皆様も、よしなにご自由にご自愛ください。
 特に弟子、おまえな。オマエのことな。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Love-Moon-Season-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Friend-Garden-Human-Koban-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:
:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
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