不動岩と瑞霊苑 (熊本県山鹿市) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

(不動岩)

 

魔軍(まいくさ)言向(ことむ)けやはし(あめ)(した) (ゆたか)にあれと(いの)神岩(かみいわ)

 

(うご)きなき千代(ちよ)のかための不動岩(ふどういわ) (むかし)(かみ)のみたまこもれる

 

                   (出口王仁三郎『西遊雑詠 八』より)

 

 

 “出口聖師は国祖国常の大神の大精神を実現するために、大陸宣教の準備として大正六年から乗馬の練習を始め、大正十二年八月に筑紫島の国魂純世姫(すみよひめ)の霊場、熊本県阿蘇郡小国の里の、神功皇后ゆかり深き杖立の霊泉にミソギをなし、八月二十三日旧七月十二日の誕生日に名産の竹の杓子の表に『万有の身魂をすくうこの釈子心のままに世人す九へよ』裏に『この杓子わが生まれたる十二夜の月のかたちによくも似しかな』と染筆して鎮魂され、これを大本の神器御手代(みてしろ)と神定められた。

 九月一日、山鹿町の松風館に到着された時に、霊界物語第七巻第四二章「分水嶺」に示された(大正十一年二月二日口述)エトナ山の大爆発すなわち東京大震災がおこった。聖師は『世界改善の狼火は天地の神霊によりてあげられたり』と語られた。九月二日には物語第二巻第三章「美山彦の出現」のところで、言霊別命(こたとまわけのみこと)が『岩をもってわが姿をつくり、また諸々の従臣の形をも岩にて作り、これをロッキー山の城塞に立てておいた』『石像より常に火を発し』たので曲神(まがかみ)は退却してしまったと示された上、絵葉書を同巻の口絵に掲載された霊場――熊本県鹿本郡三玉村蒲生(現山鹿市蒲生字福原)に巨人のような岩石のそそり立つ不動山(不動岩)に参拝されることとなった。

 麓の聖観音を安置する通称凡導寺に休息されると、不思議なことに聖師と尊像は寸分も違わず酷似していた。聖師は礼拝のあと尊像の肩に手をふれられると前後に激しく動き出し、しばらく静まらなかったという。聖師は石像を糠袋で清めさせられたが、胸には月の姿がハッキリと現われていた。『これは観音さまではなく最勝妙如来で弥勒さまである』と教えられ、『このミロクさまを外の清浄なところに、しかも不動岩に向かいあわせて祭ってくれないと活動することができない』と語られた。聖師は尾形太郎作氏の案内で山にのぼられ不動岩に参拝して聖地に帰られた。

 尾形氏と山鹿町長衛藤寛治氏らの努力がみのり大正十三年三月三日、蒲生の地元の協力により、堂の裏側の壁を破りミロクの尊像をいためないために筵で包み、縄で巻いて運び出し、敷地内の清所に移し、三月五日地元と大本側との共催でめでたく遷座祭を執行した。

 尊像の遷座の契約の報に接した聖師は、言霊別命の神霊に守られて、二月十三日突如綾部を出発して入蒙の途につかれた。満蒙の各地で神徳を輝かし、言霊の威力によって風雨雷霆を叱咤された。六月二十一日張作霖の兵に逮捕された時も、聖師は思わず「大成功だ」と叫ばれたという。翌朝鴻賓旅館に泊まっていた日本人が「みてしろ」を発見し、直ちに領事館にとどけたために、聖師一行は無事に救出され、日本へ送還されることとなった。三千世界の神人禽獣虫魚を救済するための大本の神器「みてしろ」は出口聖師自らをも救ったのである。

 三玉村のミロクさまの神霊は、入蒙のため保釈取消で大阪若松拘置所へ九十八日間収監された聖師のもとへ煙草「朝日」をもって慰問されたという。このため聖師の『三玉村のミロクの大神の祭典には必ず「朝日」を供えてほしい』とのお言葉により、三玉のミロクの大神の祭典には必ず「朝日」をお供えすることとなった。

 瑞霊(ミロクの)大神の神霊の鎮座される不動山一帯は、ミロクの大神の尊像を中心として救世神の神蒐苑霊場であるが、大正十四年六月三十日に神命によって、高熊山、沓島冠島、高砂沖の神島とならぶ神域と神定められ「瑞霊苑」と名づけられた。不思議なことには瑞霊苑の北方には「朝日照り夕日輝く云々」という高熊山とほとんど同文の伝説が伝わっている。”

 

(「おほもと」昭和45年12月号 木庭次守『「瑞霊苑」建碑』より)

 

(ミロク神像)

 

 

*「岩戸開きは神剣の乱舞に始まる」という神示があります。まず「修祓」として、地震や火山の噴火、風水害が多発するということなのですが、最近日本各地で多発する地震や豪雨災害などが気になります。出口聖師は桜島、阿蘇山、浅間山の活動は、「日本国の興隆」「世界統一」「神政成就」の曙光であるとも教えられました。数年前から熊本県でも多くの地震が発生し水害も起こっておりますが、もしかしたらミロク様の御発動と関係があるのかもしれません。

 

 

 “二代様は御着の翌日こんな事を仰いました。

 『私はな、此の神前でお礼をして居ると昨夜も今朝もあっちの方向からドエライ神様が来られるがなあ、サアーと来られる』

と仰った。其の方向は不動岩である、私共は顔見合わせて、

 『左様でございますか、分かりました、屹度さうでございませう』

と私はここで不動岩の事、それにまつわる伝説と因縁及び霊界物語との関係の事をお話しました。

 すると二代様は、

 『そんな所なら是非お参りさせて頂こう』

と仰り、若先生も直ぐ御賛成になった。十月十八日、即ち霊界物語御口述の第一周年記念日にあたって二代教主は親しく不動岩に登られ言霊別命の神像に対せられた。

 御肉体では御存じの筈がない、幾十万年の昔、『我が姿ぞとして作られた御像』に対し、今し言霊姫命は御なつかしげに見入って居られます。どんな霊感がお有りになったか、私共の敢えて窺知し得る所ではない。やや暫くあって、

 『ミロク様だなあ、ほんとにミロク様だ、あれあのお顔、お姿、そっくりだ、見えんかい』

と仰って頻りに眺め入っておいでになる。それは第一石像の次の岩である。全くダルマ様そっくりのお姿で、それはありました。”

 

 (大本小国支部発行「小天国小国」 加藤明子『二代教主九州巡教随行記』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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