スサノオの反逆 (皇大神の経綸の妨害) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・スサノオ(スサノォ)の反逆   (皇大神(スメオオカミ)の経綸の妨害)

 

・出口聖師の「古事記略解」から『(あま)岩戸(いわと)(びらき)』の解説 

  (天照大御神の経綸はスサノオによって妨害された)

 

天照大御神(あまてらすおほみかみ)忌服屋(いむはたや)(まし)まして、神御衣(かむはた)()らしめ(たま)ふときに、()服屋(はたや)(むね)穿(うが)ちて、(あめ)斑馬(ふちこま)逆剥(さかは)ぎに()ぎて(おと)()るるときに、(あめ)御衣織女(みそおりめ)見驚(みおどろ)きて()陰上(ほと)()きて(みう)せき』

 

 斯う云ふ事件が起つたので御座います。ここ機(はた)を織るといふことは、世界の経綸といふことであります。経(たて)と緯(よこ)との仕組をして頂いて居つたのであります。すると此(この)経綸を妨げた。天の斑馬、暴(あば)れ馬の皮を逆剥にして、上からどつと放したので、機を織つて居た稚比売(わかひめ)の命は大変に驚いた。驚いた途端に梭に秀処(ほと)を刺し亡くなつてお了ひになつたのであります。

 

   (「霊界物語 第十二巻 霊主体従 亥の巻」 『子生(こうみ)の誓(ちかひ)』より)

 

 

・主なる神へのサタン(S・TH・N)の反逆  (カバラと量子力学)

 

 “4月のはじめに、わたしは旧友から電話をもらった。彼は、自分がもらって読んだ神秘的な本についての感激を熱っぽく語り、わたしのために同じ本を発送したから、それを読んで感想を聞かせてほしいと言った。数日後にトーベンから届けられた本のタイトルは『創世の暗号』と言い、内容はカバラの思想についてだった。ご存知の通り、カバラとは、ユダヤ教の体系的神秘主義のことである。カバラの思想によれば、神が口にした創造の言葉から世界は生まれた。そして、創造の言葉に含まれるヘブライ語のアルファベットを組み合わせてできた言葉のそれぞれが、宇宙と人間のいっさいの秘密を内包する、深遠な象徴なのだという。

 文字と数字の神秘を研究することで神の認識に近づこうとするカバラの思想は、わたしには馴染みのないものであったが、いくつか興味深い点があった。著者のカルロ・シュアレスはパリに住んでいることがわかったので、試しにコンタクトをとってみると、意外にあっさりと自宅に招待してくれた。

 カルロ・シュアレスと妻のナディーヌは、エッフェル塔に面したアパートの7階に住んでいた。彼らはともに80歳代で、初めて会ったとき、わたしは祖父母のもとに戻ってきたような懐かしさを感じた。ところがわたしは、のっけから、

 「あなたの著作を興味深く読ませていただきました。正直言って、わたしの理解を越えるものだという印象を受けましたが……」

と言ってしまった。わたしには、初対面の人にも単刀直入な物言いをしてしまうという欠点がある。しまったと思ったときには、後の祭りだった。シュアレスは、気分を害した様子で言った。

 「どんなお仕事を?」

 「物理学者です。つい最近までは、ロンドン大学でコンピューターを利用した教育用映画を作っていました。今はパリ大学で量子力学を教えています」

 「物理学、コンピューター……。興味はありませんな」

 どうやら、理性を鼻にかけた学者が、ひやかし半分にやって来たと思われてしまったらしい。わたしがなんとか会話を続けようとしても、シュアレスはぶっきらぼうな返事をするだけで、まとまった話を引き出すことができなかった。頼みの綱のナディーヌも、取りつくしまもなかった。さすがのわたしも、自分が平和な隠れ家への時ならぬ侵入者のような存在になってしまったことに、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

 彼の機嫌をとるのはあきらめて帰ろうかと思いはじめたころ、部屋の空気が前ほどぴりぴりしていないことに気がついた。シュアレスは座り心地のよさそうな椅子にゆったりと腰かけたまま、しばらく前からもの一つ言わなかった。彼と心を通わせる最後のチャンスだった。老カバリストには理解できないだろうと思って遠慮していた話題に、わたしは踏み込んでいった。

 「あなたの本を読んだとき、わたしは物理学とカバラ思想の不思議な類似を感じたのです。今日は、宇宙の根本法則である不確定性原理について、あなたとディスカッションをしたいと思い、ここに来ました……」

 この先の会話を皆さんに理解していただくためには、まずは、シュアレスの著作に何が書かれていたかを、かいつまんで説明しておく必要があると思う。

 シュアレスは、「サタン」という言葉について研究していた。「サタン」は、口語のヘブライ語では、魔王、敵対者という意味だから、この点は英語と同じである。違いは、「サタン」という単語を作るヘブライ語の三つのアルファベット―― スィン・テット・ヌン―― のそれぞれが、固有の意味を持っていることだ。「スィン」は、物質の世界から神の無限に帰ってゆく神の息を、「テット」は、自分と同じものを繰り返し作り続ける、細胞の様な基本的な構造を意味する。「テット」は、女性的、自己言及的な概念だ。鳥が巣作りをするように、みずからを複製するためにエネルギーを囲い込む。生きた細胞も、神経の回路も、記憶痕跡(長期記憶を説明するために経験によって脳神経組織に生じると仮定される変化)も、「テット」である。最後の「ヌン」は、宇宙の不確定性の原理を意味する。

 シュアレスは、これらの三つのアルファベットからなる「サタン」という言葉に、二重の意味を読み取る。一つは、連続性や安定を粉砕し、不確定性を付与する者、文字通りの「サタン」という意味。もう一つは、神の息によって物質世界の中につかの間の生命を与えられ、自分を維持し、子孫を残そうと必死にあがいているわれわれ自身だ。こんな意味を内包する「サタン」という言葉には、創世の秘密のすべてが隠されているというのが、彼の主張だった。

 わたしは、この点に、非常に興味をそそられた。暗黒世界の元型としてのサタンのイメージに永らく魅了されていたこともあるが、それにもまして、不確定性という概念に関心があったのだ。なにしろ、不確定性原理と言ったら、量子力学の根本的な原理である。わたしは、シュアレスに言った。

 「ニュートンが作り上げた古典物理学によれば、リンゴが地面に落ちることから、月が地球のまわりを回り、地球が太陽のまわりを回ることまで、宇宙のすべての運動は、たった三つの運動法則に従っていました。ある時刻における位置と運動量(質量と速度の積)が分かれば、その運動体の過去も未来も詳細に知ることができました。世界は、巨大なぜんまい仕掛けの機械として理解されました。全体の仕組みを知るためには、バラバラの部品に分解し、それぞれのはたらきを調べた後、ふたたび組み立てればよかったのです。

 機械論的世界観に基づいた物理学の発達はめざましく、19世紀末には、ニュートン流の要素還元主義的な方法論で説明できないものはないと考えられるまでになりました。物理学以外の分野でも、世界を力学的に見るのが流行しました。その根底には、何らかの結果があるところには、それに先立つ、相応の原因があるはずだという「因果律」の思想がありました。

 初期条件、すなわち永劫の昔に機械を始動させた「神の最初の一撃」が決まれば、その後の宇宙の歴史は、必然的に決まってくるはずでした。過去は連続的に現在に連結し、未来は連続的に現在に連結していました。現在を完全に把握することさえできれば、数学によって過去を再生でき、未来も予言できるはずでした。人々は隠れた力を探し求め、数、位置、動きなどの一義的な客観的性質に世界を還元してゆきました。

 物理学者は、世界の根源的な構成要素と、そこにはたらく法則とを求めて、極微の世界に入ってゆきました。新しい発見は、すぐに新しい研究方法となって、さらに科学を進めてゆきました。けれども、それが行きつくところまで行ったとき、たいへんなことが起きたのです。

 

 ヴェルナー・ハイゼンベルグは、光を電子にぶつけると跳ね返るという現象を利用して、電子の位置と運動量とを知ることについて考えていました。この場合、位置の測定精度は、測定に用いる光の波長より小さくすることはできないので、小さな対象を見ようとしたら、使う波長をより短いものにしなければなりません。細かい絵を描くには細かいタッチが要求されるのと同じことですね。

 ところで、ド・ブロイの公式によって、光の波長が短くなると、その分、運動量が大きくなることが分かっていました。したがって、位置を正確に測定するために波長の短い光を当てられた電子は、大きな運動量を与えられ、運動がかき乱されるので、運動量の測定精度が粗くなってしまいます。運動量に影響を与えないために、波長の長い光を使うと、今度は位置の測定精度が粗くなってしまいます。つまり、正確な測定は、位置か運動量のいずれかについてしかできないのであって、二つの値を同時に正確に測定することは絶対にできないというわけです。これを、不確定性原理と言います。

 注意していただきたいのは、この不確定さが、測定技術の稚拙さに由来するのではなく、自然そのものに内包されているという点です。電子には、厳密に定まった―― これを、「現実の」と呼びましょう―― 位置や運動量がないのです。

 不確定性原理の発見によって、ニュートン物理学には当たり前であった、現在の電子の状態をもとにして、その過去を知り、未来を予測するという作業が不可能であるということが明らかになりました。われわれには、どんなことが起こりそうかという確率を議論することしかできなくなりました。そして、どんなことでも起こり得るというのです!

 すべての結果には原因があるという古き良きニュートン的決定論は、確定したものなど何一つないという非決定論に席を譲りました。客観的な神の秩序を解明しようとして物質の根源まで到達したわれわれは、不確定性というサタンを見出したのです……」

 わたしは、ふいに言葉を切った。目の前に、サタンの姿が見えたのだ。絵でも見るように、一つの幻が見えたのだ。それは、レーザー光が細胞に照射され、細胞がバラバラに吹き飛ぶというのものだった。無数の球形の光の波が生じ、個々の波の中には、細胞の残骸が入っていた。シュアレスにこれを語ると、彼は微笑んで言った。

 「それは、正しいイメージです。あなたは、カバリストになるかもしれませんよ。おっしゃる通り、サタンが意味するのは、不確定性です。そして、われわれはサタンを避けることはできません。われわれは、いつ、どんな危険が起きるか分からないという恐怖の中で生きています。けれども、サタンによる連続性の断絶は、別の見方もできます。サタンが介入しなかったら、われわれは存在せず、新しいことも何一つ起こらないからです」

 たしかに、シュアレスの言う通りだった。われわれの身体をはじめ、宇宙に存在する物質が、この大きさに保たれているのは、不確定性原理のおかげなのだ。物理の授業で、原子の中心にある原子核の直径が、原子の直径の約10万分の1しかないと初めて知ったとき、自分はそんなにスカスカなものからできているのかと、それで大丈夫なのかと、思わず自分の手を見つめたりはしなかっただろうか?

 物理学者も、それが気になった。原子の中で、電子はどのように存在しているのだろうか?

 はじめは、地球が太陽のまわりを回るように、電子も一定の軌道にそって陽子のまわりを回っているのではないかと考えられた。けれどもすぐに、そんな古典物理学的な描像は正しくないことが分かった。電子が核のまわりを回るということは、電子が陽子からの引力によって加速度運動をするということだ。そうであるなら、電磁気学の要請から、電子は絶えず光を放出していなければならない。電子は絶え間ない光の放出によって連続的にエネルギーを失い、最後には原子核にとらえられてしまう。電子がもし原子核に落ち込むようなことがあったら、どんなに恐ろしい収縮が起きることになるか、想像するのは容易だ。人間は赤血球ほどの大きさになり、地球はフットボール・スタジアム程度の大きさになる。計算によれば、この過程には、100マイクロ秒(1マイクロ秒は100万分の1秒)もかからないことになるが、もちろん、現実にはそんなことは起きていない。

 この心配を解消してくれたのが、量子力学における不確定性原理だ。量子力学の考え方では、電子はもはや行儀よく軌道をめぐる粒子などではなく、雲のかたちで存在するとされている。不確定性原理によれば、電子が原子核の近くに拘束されればされるほど、その運動量の不確定性は大きくなり、電子は逃げようとする。原子核とのあいだにはたらく電気的な引力と、不確定性原理による反発力のつり合うところに電子があるからこそ、原子はつぶれずにいられるのだ。

 不確定性原理は、われわれの目には、神による秩序の妨害ないし粉砕として見える。アインシュタインは、この非決定性を嫌った。彼は、秩序ある宇宙の概念に固執した。「神はサイコロ遊びをしない」というのが、彼の信念だった。しかし、神の最初の一撃によって、その後のすべてが決まってしまう宇宙など、ぞっとしない。不確定性原理は、新しいものが入り込む余地がまったくなかったニュートンの宇宙から、われわれを解き放ってくれた。完全な秩序を否定された代わりに、われわれは創造する可能性があることを知ったのだ。もっとも、その創造が成功するかどうかは、知ることができないが……。”

 

     (フレッド・アラン・ウルフ「聖なる量子力学9つの旅」徳間書店より)