瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

霊界物語の人物 depicted in Buddhist art

 “霊界のきびしさについておっしゃった話ですが、

『現界では心でどう思っていても、口先で上手に言ってごまかすことが出来るが、霊界では絶対にごまかしがきかない。知らず知らずに十なら十の罪を犯したとすれば、その善悪のはかりは一分一厘もまちがいがない。ごまかしが出来ない』

という意味のお話もお聞きしました。

『この世ではいろんな苦労も人に助けられて苦労が半減するが、霊界は自分が犯した罪は誰にも助けてもらえず、未来永劫にわたって自分ひとりでその責め苦にあわなければならない』

ということです。

 霊界物語に、蜂の室屋やヒルにたかられる場面がありますが、全くその通りだということです。

『信仰していて、いろいろと苦労が出て来た場合、それは結構なことである。それによって罪のつぐないが出来るし、お蔭である。そんな時には、その苦労をすべて神様にお供えして忘れてしまえ』

とお話くださいました。そして、

『どうぞ大難を小難にしてくださいと真剣にお願いをせよ。そうして罪のつぐないを済ませると、霊界に行ったときに天国に救われる』

とお教え下さいました。”

 

(「おほもと」昭和51年11月号 三浦玖仁子『折にふれての如是我聞』より)

 

*『知らず知らずに犯した罪』もカウントされるとは厳しいですが、聖書の中のパウロの言葉にあるように結局『正しい者はいない。一人もいない』(ローマ:3章9節)のであって、私たち凡夫には自力での救いなど不可能です。とはいえ、惟神中毒に陥らぬよう、自分でもできる限りのことはせねばなりません。

 

*日本心霊科学協会の霊能者の方々も言っておられますが、今世で犯した罪は死ぬまでに多少なりとも償っておかねば、死後の償いは過酷なものとなるのだそうです。世間には様々な悪事を行い多くの人を苦しめていながら、最後まで何の罰も受けずに生涯を終える者も実際にはおりますが、そういう連中は死後はかなり悲惨な目にあうようです。成功体験しかないので地獄での苦しみが罪の報いであることが理解できず、よって反省もなく、苦しめられてただ恨みに思うだけなのでそのまま奈落の底へと沈んで行くことになります。

地獄で苦しむ人々

 

山崎弁栄上人、法衣姿 

・浄土宗の聖僧、山崎弁栄上人

 

  “禅宗僧の小笠原師かねて上人の教えを受けるようになり、徳厚会に留守していた。この人が会を盛大にする善意からではあったが、相場かなにかに手を出して、預かっていた上人の伝道資材を七、八百円も使い込んだ。上人は猪狩氏方にこの禅僧を呼んでこんこんとその間違った点を教えられると、世知にたけ、酒量も多く、剛腹なこの禅僧は、上人のためにはかった失敗であるから悪くないといってなかなか強い。上人は理を説いて懺悔するようにと教えるけれども、どうしても悪いとはいわぬので、もてあまして、

上人「それでは法律に訴えますぞ」

 のちに温情玉のような上人のこの手強い態度を、「宗教家らしくもない」と是非する人に、

上人「宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません」

 その臨済僧はその後もどうしても改悛の色を示さず、ついに法律沙汰になり、証人として公けの場所に呼ばれた時、上人はいでてその悪い所を述ぶるに、なんの躊躇もされなかった。ついにその兄弟にあたる人がその悪用された三宝物の半金を出して示談になった。

 他日、

上人「監獄(刑務所)は個人の力では直せぬ罪悪を、国家の力で直してくれる所である」。

 また「人の心霊は本来は名刀のごとし、はなはだしいサビは荒砥を用いて除き去る」。

 また、「名誉とか利欲とかあればこそ、もろもろの憂れと怖れとはあれ、捨ててしまえば恐れも憂いもない」。”

 

 “少し前のことであるが、千葉浄光と自称する人、道心者を装い布鎌教会堂に身をよせて修行せんとし、五香にて上人に謁したる時、寒中単衣なのに左右の人が衣類を一二枚施しましょうかと請えば、見破っておられる上人は「折角の心願、妨げないで、そのままにしておいたがよかろう」と許されない。

 それにもこりず、この自称千葉氏は画会の見本等を持ち逃げして、各地に身柄を詐って高価に売りつけたり、金を借りたりして歩いた。九年夏京都の垣村家に来た時、ミオヤのひかり誌の警告で承知していた主人これを看破し、電報で九州の上人にその処置を伺うと、

「警察に届けるよう」

にとのご返電、集まった人皆でこれを諭し聞かせると同人は涙を流さんばかりに謝罪るので、爾来改心するならばとて旅費若干を与えて帰したところ、同人は改悛を誓って立ち去った。

(事実はその後も改悛しなかった)

 あとで九州よりご帰洛の上人にこのお話をすると、

上人「その時彼が涙を流したのは、決して空涙ではなく本当に改心しようと思ったのでしょう。しかし次の瞬間にはまたちがった思いがさしてくる。そんな性格上の欠陥ある彼のごとき者こそ、世の中に害毒を流さず悪心を引き出す縁に触れしめぬために、監獄などで保護すべきものです。監獄は国家が費用をかけてそのような人を保護する所です。教えても良くならない彼のごときは、警察で良くしてもらうのが本人将来身のためです」。”

 

(田中木叉「日本の光 弁栄上人伝」光明修養会より)

 

*「人間の本性は善」ではありますが、残念ながら現実には悪霊に狂惑されて、世の 人を食い物にしようとする悪人たちもおります。悪心を引き出す縁に触れしめぬために、また悪事を為す機会を与えぬために、悪い連中とはできるだけ関わらないようにするべきで、たとえ近親者であっても時には義絶することもやむを得ません。もし何か被害にあってしまったら、必要とあらば法的な手段に訴えることも選択肢の一つで、これは正義の執行であって、決して隣人愛の否定ではありません。犯罪者の魂の救済のためにも、できるだけ霊界に罪を持ち越さないように法による処罰は絶対に必要です。

 

*エドガー・ケイシーによると、せっかく才能や機会に恵まれていながら、それを活用せずに無駄に過ごした人は、来世ではいくら望んでも才能も機会も与えてもらえなくなるらしいです。おそらく死後も同じようになると思いますが、第二次大本事件のときに出口聖師は、『皆が霊界物語を読まないので、神様が取り上げてしまわれた』ということを言われており、今、霊界物語を読める環境にあるにもかかわらず読まないでいる人は、死後に霊となってから読もうとしても、もはやその機会は与えられないかもしれません。もちろん霊界物語でなくとも各宗教には様々な救済手段がありますが、少なくともこのブログを読んでおられる方々は、せめて一巻だけでも(できれば十二巻まで)音読していただきたいと思います。

 

 “また、

 「霊界物語よんだ人ほど霊界の位置が高いぞ」

と言われた。
 これを心得なイカン。霊界物語の救いは、現界だけの救いじゃない。現幽神の三界にわたっての救いなんだから。
 「それを拒否するような身魂がなんで瑞霊の国土に入れるかい」
と言われた。”

    (「愛善苑」昭和46年8月号 大国以都雄『聖師の血と肉霊界物語』より)

 

 

*出口王仁三郎聖師は霊界物語について、『肉体のある間に読んでおけよ』とも言われています。これはすべての修行について言えることで、生きている間に精進しないと、死後に肉体を失ってからでは霊的な進歩は難しくなってしまうようです。

 

 

・霊界での修行 (道院・紅卍字会での霊界通信)

 

“この人が死んだのですね。あたりが真っ暗になってしまってどこへ行ったらいいのかわからないのです。道が無いのです。その中に風が吹いてきて痛いんですね。陽に照らされると光が恐い。風と光が一番恐いのです。心霊は何処に行っていいかわからないので家へ帰ってみたのです。お母さんが泣いている。お母さんの所へ行こうと思うと入れないのです。陰と陽が隔たれて入れないのです。手が届かないのです。そういうことなのです。これはその人が老祖様の許しを得て壇に出て話した記録です。自分がどこにいるか分からない。非常に苦しんで恐怖にかられた時にフッと考えた。紅卍字会というものがあったな、あそこに行って至聖先天……後を忘れてしまった。何とか思い出したときに済仏様が現われ、すぐ手を差し伸べて連れて行って下さった。どこへ連れて行かれたか、洞穴へ連れて行って静坐をさせられた。我々が在世中求修して静坐が足りないと、死後、洞穴に行ってまた静坐をしなければいけないのです。この場合の静坐は、私たちが肉体を持っている間は一年か二年で相当の成果をあげるような練習ができますが、霊になると、分火導水の身体がないでしょう。火を分けて水を導く、肉体があればこそ、非常に早く気がまわるのです。肉体を失うと気がまわらないのです。それでたいてい洞穴へ行くと三百年くらい静坐しなければならない。勿論、現界の三百年は随分長いけれど、霊界の三百年はそんなに長くありません。洞穴に行って静坐をし、まずちらばった霊をかき集めて、少し形ができるようにする、霊界に行くとこういう記録はたくさんあります。”

 

(游篤慧講述「道慈のお話」東京多摩主院事務局)

 

ルドルフ・シュタイナーの肖像

・ルドルフ・シュタイナー

 

 “一体死者は、霊界で教え諭してくれるような霊的存在を見出すことができないのでしょうか?ええ、見出すことはできないのです。死者は、生前結びつきのあった霊的存在たちとしか関係が持てません。死者がこの世で知ることのなかった神霊や死者たちに出会っても、死者はその存在を素通りしてしまうのです。どんなに役に立ってくれそうな存在に出会っても、生前関係がなかったのでしたら何の役にも立ってくれないのです。

(1913年1月21日、ウィーンでの講演)”  

 

(「シュタイナーの死者の書」(ちくま学芸文庫)より)

 

*霊界では霊魂の救済のために様々な手段が用意されており、神仏を信仰されている方は死後に必ず救っていただけるようですが、何の信仰も持たず、供養してくれる人もいない方の死後はかなり悲惨なことになるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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