瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

出口王仁三郎聖師の霊界物語

 “聖師さまはかつて、

「物語を一頁でも多く読んだ者は、それだけ死後霊界での高い所に往ける」

とお話になったと聞きます。これは、物語が善悪の基準書であるため、私たちが拝読によって魂に糧をいただき、よき想念と行動に導かれるところから、また物語から流れ出る神の愛と智が私たちの魂を洗い清め真実なものにするからでありましょう。

 これに関連して、物語には、

『たとえ多くの善行を行うことが出来ない者でも』

という前提の上で、それでもなお、

『ひたすらに物語を信じ、礼拝し、教えを理解して歓喜の生涯を送るならば、死後は第三天国に復活し、その智慧証覚は第二天国の天人のようになる』

として、次のように示されています。

 

「又十方世界の諸天人民にして至心ありて天国浄土に大往生を遂げむと欲するものは、譬え諸の功徳を成す能はずといへども、常にこの物語を信じ、無上正覚を得て一向(ひたすら)に厳瑞二神を一意専念せば、神徳いつとなく身に具足して現幽両界共に完全十足の生涯を楽しみ送ることを得べし。この深遠なる教理を真解して歓喜し、信楽して疑惑せず、二心を断ち一向に神教と神助を信じ至誠一貫を以て天国に復活せむ事を願ふ時は、臨終に際し、正に夢の如くに厳瑞二神即ち日月の神を見たてまつりて至美至楽の第三天国に復活すべし。月神の信真によりて智慧証覚の光明を受くること、第二即ち中間天国の天人の如くなるべし」(物語第五十五巻序文)

 

 このように、物語の偉大さを示すみ教えは、全巻中に驚くほど数多く記載されています。”

 

(「おほもと」昭和63年9月号 出口斎『『霊界物語』の精神(中)』より)

 

 

 “また、

「霊界物語よんだ人ほど霊界の位置が高いぞ」

と言われた。

 これを心得なイカン。霊界物語の救いは、現界だけの救いじゃない。現幽神の三界にわたっての救いなんだから。

 「それを拒否するような身魂がなんで瑞霊の国土に入れるかい」

と言われた。”

 

(「愛善苑」昭和46年8月号 大国以都雄『聖師の血と肉霊界物語』より)

 

 

 “人が昇天して五十日間がいちばん大切である。その間の親族の供養が大切で、祝詞を上げてやったり『霊界物語』を読んであげることである。中有界に迷っている霊がそれを聞いて天国に救われる。”

 

   (三浦玖仁子「花いろいろ 出口王仁三郎聖師側近七年の記録」より)

 

 

・霊魂の糧

 

冨田 「物語を拝読しますとよい御内流を頂くのは、あれはどういう風に解釈したらいいもんで御座いませうか」

 

出口氏 「それは霊魂の餌食が殖えるからや。肉体に餌が要る様に霊魂にも餌が要るやろ。」

 

(「出口聖師座談会集」『昭和青年』昭和七年五月号より)

 

 

*出口王仁三郎聖師は、『地獄ミタマの者には天国天人の言葉は通じない』とも言われました。確かにその通りであろうとは思いますが、しかしそうすると地獄ミタマの者が救われる可能性はほとんど無くなってしまいます。これは以前、日本エドガー・ケイシー・センターの光田会長から伺ったエドガー・ケイシーの夢解釈についての話ですが、夢がしばしば象徴で示され解釈を必要とするのは、我々の無意識の底には大量の物質的欲望や悪想念が渦巻いているため、より深いところに存在する神的な意識、超意識からの高尚なメッセージは、そのままでは遮断されて表層の顕在意識まで上がってくることができないので、それで超意識は象徴的なものにカモフラージュしたメッセージを送って、その悪想念の層をすり抜けようとするのだということでした。そして、このことは反対のこと、つまり超意識、深層意識から表層意識へではなく表層意識から深層意識、超意識への逆方向へのメッセージについても当てはまるのではないかと思います。要するに、いくら天国天人の言葉、素晴らしい霊的な教えを聞いたり読んだりしても、悪想念の層に遮断されて意識の最深部の更に底にある超意識(=魂)のレベルまでは達することができず、それで地獄ミタマの者が聖なる存在と感応することは難しいのです。しかし、もしそれら天国天人の言葉が象徴的なものにカモフラージュされていれば、悪想念の層はそれらが何を意味しているのかがわからず素通りさせてしまうので、たとえ地獄ミタマの者といえども深層の超意識、神意識との交通が開かれ、自分でも気づかないうちに少しづつ神人感応が可能となってゆくはずです。これは私の個人的な考えに過ぎませんが、「霊界物語」が大量の馬鹿話や無駄話で溢れているのは、天国天人の言葉をカモフラージュして、知らず知らずのうちに人々のミタマを浄化してゆくためかもしれません。出口聖師は『あまり分かるものを出したら悪神に仕組みを取られる』とも言われましたが、これは『分かる内容にしたら、悪想念の層によって遮断される』という意味にも解釈できると思います。霊界物語は頭で理解する本ではないどころか、頭で理解してはならぬ本で、わざと理解できない内容になっているからこそ、地獄ミタマの者をも救う力があるのだと思います。

 

 

・熊野権現の神勅 「信、不信をえらばず、浄、不浄をきらはず」

 

 一遍上人(時宗の宗祖、平安時代末期~鎌倉時代)は、『南無阿弥陀仏』の六字の名号を刷った札を誰彼の区別なく人々皆に配りながら旅を続けていましたが、紀州の熊野権現へ参る途中、ある僧侶から、「疑っているわけではないが、まだ信心の心が起こっていないのに、起こったとしてその札を受け取ることはできない」と言われ、その念仏札を突き返されてしまいます。狼狽した上人は、「信心が起こっていなくても、とにかく受け取ってください」と、無理やりその僧にお札を受け取らせるのですが、この出来事によって、果たして自分の行っていることは間違っていたのではないかと悩み、答えを求めて熊野権現(本地は阿弥陀如来)の本宮に参籠し、神勅を請います。すると、夢に神が現われて、このように告げられました。

 「融通念仏すゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信、不信をえらばず、浄、不浄をきらはず、その札をくばるべし。

 (あなたの考えは間違っている。あなたの勧めによって、すべての人が極楽浄土に往生できるのではない。すべての人が往生できるのは、すでに十劫という遠い昔に、阿弥陀仏が法蔵菩薩といっていたとき正しい悟りを得て、南無阿弥陀仏と唱えることによって、極楽往生できると決定しているのだ。従って、信心があろうとなかろうと、心が清らかであろうとなかろうと、誰かれの区別なく、念仏札を配って結縁せよ。)

 

参考:栗田勇著「一遍上人」(新潮文庫)、河合隼雄著「明恵 夢を生きる」(講談社+α文庫)

 

*熊野権現=家津美御子(けつみみこ)はスサノオの別名です。霊界物語における主神とは神素盞嗚大神のことで、出口聖師は、神素盞嗚大神はキリストと同じく贖罪神で、世界万人の贖い主であると言われています。どうか一人でも多くの方が霊界物語をただ一巻だけでも音読し、主神と結縁して下さいますように。

 

霊界物語 第一巻 聖師のお話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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