霊魂の糧 (永遠のいのちに至る食物) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・霊魂の糧 (永遠のいのちに至る食物)

 

 “「飯を食うことは忘れんのに霊魂の糧(かて)である霊界物語は案外食わんでのう」と聖師様のおっしゃったお声が耳の底にこびりついていて、たとえ一行だけでもと毎日拝読をつづけさしていただいています。”

 

     (「霊界物語のしおり 第三号」大国清香『病人には天国篇を』より)

 

冨田 「物語を拝読しますとよい御内流を頂くのは、あれはどういう風に解釈したらいいもんで御座いませうか」

出口氏 「それは霊魂の餌食が殖えるからや。肉体に餌が要る様に霊魂にも餌が要るやろ。」

 

     (「出口聖師座談会集」『昭和青年』昭和七年五月号より)

 

 

・エドガー・ケイシー・リーディング

 「私にはあなた方の知らない食物がある」(ヨハネ伝4:32)

問30 この関係において、「主の祈り」をどう使えばよいでしょう。

答30 各部の意味の流れを、いわば、全身で感じとることによる。このすべての精神的写しに感応するものが精神体にあるので、あなた方の主、兄であるイエスが、「私にはあなた方の知らない食物がある」と巧みに表現なさったその方法で、肉体にもそれが形成されるのである。

 

  (林陽訳・編「エドガー・ケイシー文庫 黙示録の解読」中央アート出版社より)

 

 

・不死の霊薬(エレクシル) 〔パラケルスス(15~16世紀)の聖餐論〕

 “パラケルススにとって人間とは他の被造物とは異なった矛盾的存在である。父なる神に創られた最初の人間は死すべきものである。生きとし生くるあらゆる被造物と同じく人間は生まれ、かつ地上での生の終わりには死なねばならぬ。しかしゴルゴダにおけるキリストの死と復活以来、キリストを信じる者には第二の可能性が生まれる。死すべき人間の中に滅びることのない人間が目覚めるのだ。
 パラケルススが「聖餐論」の出発点としているのはこの人間の二重性格 ―パウロによる古いアダムと新しいアダム― である。「さて、われわれの眼には一つのからだ、すなわち父なる神によるからだが可視的であり、他の身体は、やはり被造物ではあっても、不可視であり、御子なる神(キリスト)の創造になるものである。そして父なる神によるあらゆる御業は、食物やすべてのものも、可視的であるように御子の御業は不可視である。しかもいずれの場合にも一つの形の同様な『からだ』であるが、ただ死すべきものと不死なるものの差がある。・・・御子なる神はその被造物を彼の父と別様に創り給うわけではない。御子はそれを新たなものとされる。別なる肉を創られるがその形を変え給うわけではない。古き形はここ地上と天上にとどまるのである。」
 明らかにパラケルススの場合、聖餐の神学は復活の体の理解に関わっている。復活の朝のできごと、マクダラのマリアと使徒たちの体験・・・、それはパラケルススにとっても一つの大いなる神秘である。十字架上で死に、墓に葬られた地上の肉体が復活の体に変化すること、それはまたあの聖餐においてパンと葡萄酒とがキリストのからだと血に変化することに対応している。ともにいわゆる「化体(Transsubstantiation)と呼ばれるこの秘儀は ―このときパラケルススは錬金術の変容(Transmutation)を念頭においていただろうか―、 知的な理解ではなくてあくまで霊的な理解を必要とする。「復活においてアダムの肉が復活するのではなく、新しいからだが ―しかも単なる精神ないし魂がでなく― 復活するのである。」肉体の死後の霊魂の不滅というのではなくて ―それならば古代人以来、もろもろの宗教によっても容易に信ぜられ受け入れられていた思想にすぎない―、 キリストの復活は肉体の甦りなのである。「新しき体(ライプ)」魂(ゼーレ)や精神(ガイスト)と同じく不可視であり、霊の形に形どられている。復活の体は単なる悟性でもっては見ることのできぬのと同じく、キリスト者の新しき体は信仰の中で、聖霊の光の中で心情(ヘルツ)によってのみ認知することが可能なのである。
 このキリストの「新しい体」とその聖餐との関係はどうなるのか。「いかなる被造物もその創り主によって生きる。天使は天使のパンを、人間は人間のパンを、聖者はキリストのパンを食する。新しき人間は永久に人間のままにとどまり、その名を失うことはない。それゆえに彼は永久に新たなる食事を食することによって生きねばならないのだ。」”

 “・・・イエスはこういわれたのだ。私があなた方から去った後も、あの聖金曜日の最後の晩餐と同じく、あなた方の手でもってパンと葡萄酒を私の見えざる体、見えざる血に変えなさい、と。「父なる神が地上の食事を与えてくださるのと同じく、キリストはわれわれの血となり肉となるところのみ言葉によって、われわれに食事を与えてくださるのだ。」
 パラケルススはこうもいう。「ここ地上において神の国が始まるのだ。聖者たちの本質とは何かというに、彼らはすでに死すべき体に不死なる養分を味わった、ということである。」それだけではない。「この世においてこの聖なる食事に養われなかったものは、彼の死後もそれを味わうことはないのだ。」キリストにおいて新しい人間の生誕を体験すること、これが聖餐の意味なのだ。”

       (大橋博司「パラケルススの生涯と思想」思索社より)