瑞霊に倣いて -2ページ目

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “昭和七年の春、霊界物語で真名井ヶ嶽の所を拝読してゐると、丁度その時突然友人が訪ねて来て、日出麿様の処へ連れて行き、随行することになって思ひがけなく真名井神社に参拝したことがある。

 この春も、大阪分院蒼雲閣で御口述されたといふ霊界物語を拝読した時に、一寸来いと呼び出されて大阪方面への宣伝を命ぜられた。面白い符号である。そこで素直に大阪に出かけて行ったが、広い大阪を月の中僅かな日数しかゐないので一体どうしたら最善を尽くすことが出来るだらうと案じてゐたら、大阪分院へ落ち着いた日、フト取り上げて読んだ霊界物語に、

 「何も理屈は云ふ事は要らぬ。唯私は阿呆で御座います。神様にお祈りする事より外には、いろはのいの字も存じませぬと、謙遜(へりくだ)って宣伝を致すがよいぞよ。生兵法は大怪我の基だ。」

と教へられた。お陰で安心を得、その方針に従って先づ六十程の大阪聯合会内の分所支部を二十日間で巡拝して廻り、皆と親しみを持つことが出来た。誠に霊界物語は重宝なものである。

 色々な疑問も煩悶も苦悩も、その日その日に拝読する神書の中にすらすらと解決を与へられて行く体験は一人私ばかりでは無く、大本信者の誰でもが日常体験されてゐることである。

 

    世の中の一切万事この霊界物語(ふみ)に

             真心こめて記(しる)しおきたり

 

といふ瑞の神歌があるが、この神書(ふみ)を仕事の間暇に毎日拝読さして頂けるやうになったらその人は既に歓喜の光明に浴し得る人である。神の大慈悲心も、智慧証覚も艱苦に打ち克つ大勇猛心も凡て瑞の言葉によってのみ悟り得られるものである。だから神書を敬虔な態度で読み得られるやうな境地に迄導くことが最上の宣伝だと思っている。”

 

(「神の國」昭和10年11月号 比村中『宣伝餘話』より)

 

 

 “お前たちは信者をつくるとか、教えをひろめるとか云っているが、それが間違っているのだ。世界の人民は元々神様の氏子であって、忘れてゐる人に知らせに行くのであるから、信者をつくるなど云はないように。(明治末期)”

 

(木庭次守編「新月のかけ 出口王仁三郎玉言集 霊界物語啓示の世界」より)

 

*「霊界物語」を日々拝読していて、拝読箇所と同じ様な、あるいは関連した出来事が身の回りに実際に起こったりなどの奇妙なシンクロニシティを体験された方は相当数おられるはずです。「霊界物語」の霊界が、音読の言霊によって現界に移写して来るのだと思います。

 

*おそらく、今の時代に神界の側が求めておられるのは、『一人でも多くの人に神仏と結縁してもらうこと』であろうと思います。そして結縁の後で、神教を受け入れるか否か、どの宗教を選択するかは各人の自由意志によるべきであり、拒む人に強制はできませんし、既に何かの宗教をお持ちの方には、それがカルトのようなとんでもない邪教でないかぎり改宗は求められていません。

 

・スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

 

 “……東ベンガルのダッカにはヴィラジャーナンダとプラカーシャナンダの二人が伝道のために派遣された。伝道について、ヴィヴェーカーナンダは、つぎのように言っている。――ヴィラジャーナンダが「スワミジー、わたしは何を説けばよいのでしょうか。何も知りません!」と言ったとき、ヴィヴェーカーナンダは「それなら、何も知りませんと説きに行きなさい」と叫んだ。「それだけで偉大な伝道なのだ!」。だが、弟子はまだ信じようとせず、サーダナー(解脱に達するための修行法)の実践をし、まず自分自身が悟りを得ることが第一にしたいとたのんだ。その時、ヴィヴェーカーナンダは怒鳴りつけて言った。「君自身のための救いを求めるなら、地獄に落ちるだろう。至高の神を求めるならば、他人を救うことを願いなさい。個人の解脱への欲求を捨てよ。それこそがあらゆるサーダナーの最高のものだ」。そして、やさしく言った。「働きなさい。きみ。全霊をこめて働きなさい。他人のために働いて地獄に落ちても何だというのだ。自分の救いのために天国を求めるよりもましだ」。……『東西の弟子の著述・ヴィヴェーカーナンダの生涯』”

 

(スワミ・ニキラーナンダ「スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯」(法律文化社)より)

 

 

・熊野権現の神勅 「信、不信をえらばず、浄、不浄をきらはず」

 

 一遍上人(時宗の宗祖、平安時代末期~鎌倉時代)は、『南無阿弥陀仏』の六字の名号を刷った札を誰彼の区別なく人々皆に配りながら旅を続けていましたが、紀州の熊野権現へ参る途中、ある僧侶から、「疑っているわけではないが、まだ信心の心が起こっていないのに、起こったとしてその札を受け取ることはできない」と言われ、その念仏札を突き返されてしまいます。狼狽した上人は、「信心が起こっていなくても、とにかく受け取ってください」と、無理やりその僧にお札を受け取らせるのですが、この出来事によって、果たして自分の行っていることは間違っていたのではないかと悩み、答えを求めて熊野権現(阿弥陀如来と同体とされています)の本宮に参籠し、神勅を請います。すると、夢に神が現われて、このように告げられました。

 「融通念仏すゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信、不信をえらばず、浄、不浄をきらはず、その札をくばるべし。

 (あなたの考えは間違っている。あなたの勧めによって、すべての人が極楽浄土に往生できるのではない。すべての人が往生できるのは、すでに十劫という遠い昔に、阿弥陀仏が法蔵菩薩といっていたとき正しい悟りを得て、南無阿弥陀仏と唱えることによって、極楽往生できると決定しているのだ。従って、信心があろうとなかろうと、心が清らかであろうとなかろうと、誰かれの区別なく、念仏札を配って結縁せよ。)

 

参考:栗田勇著「一遍上人」(新潮文庫)、河合隼雄著「明恵 夢を生きる」(講談社+α文庫)

 

・G・I・グルジェフ (アメリカでのムーブメンツの公演の後で)

 

 “公演後、私はグルジェフに言いました。「観客席を見渡しましたら、半分は関心がなさそうで、眠っているようでした。なぜこういう人たちに見せるのですか?関心のある少数の人だけに見せた方がよいのではありませんか?」するとやや怒りさえ混じえて彼はこう答えたのです。

 「そんなことを判断できるのか?今日眠っているように見える人たちの内面に、ニ十年後に何かが目醒めるかもしれない。今あんなにも熱心な様子の連中が、十日のうちに忘れるかもしれない。あらゆる人に聞かせなければならない。結果は、時が来ればわかる。」

 

(トーマス・ド・ハートマン/オルガ・ド・ハートマン「グルジェフと共に」めるくまーる社より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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