「霊界物語」による「みろくの世」の実現 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “みろくの世ともなれば現在のような交通機関は無くなって、非常に進歩したものとなる。かつて綾部に山上という人が、無限動力を発明するといって、生涯をかけていたが、どうしても判らないといって苦心していたことがある。それは天界からの内流を頂かないと駄目だといっておいたところ、内流を頂くにはどうしたら良いかと尋ねてきた。そこで霊界物語を常に拝読して、自己の想念が天界と相応するようになればよいのだと言っておいた。

 無限動力といっても、全然無から動力が起きるものではない。必ずものには原因があり、結果という動力が起こるのであるから、その原因を、石炭とか石油とかに依存せずに、もっと簡単なものを考えればよいのである。一例を言えば、時計の機械を見ると、人の力、すなわち動因によって、龍頭のネジを掛けると、それからは全部の機械が動く。動因は人の力にある。これをもっと進歩させると、なお簡単になる筈である。智能によって次第に動因が単純化され、簡易化されて来るのである。石炭に、または石油に依存する時代を過ぎて、無限に宇宙に存在する元素、霊素というようなものが活用され、それが日常の人間生活に応用されるようにならなくてはならない。飛行機でもまだまだ発展して来るし、ちょっと買い物に行くにも、小型のものを使用して、発着も僅かの場所があればよくなる。グライダーのようなものが、もっと発達しなくては、そこまでに進歩はできない。日本に初めてグライダーというものが輸入されたときから、わしはその発達を祈っていた。関西でグライダー倶楽部ができ、木津川の川原で第一回の試験をしたとき、お前(大国)に行って来いと行かしたのも、そのためであって、次第に発達して立派な交通機関となることを希望し、又みろくの世の交通機関としての第一歩となると思ったからである。霊界物語の十五巻に出してある天国の場面に、ちょっとその消息を洩らしておいた。交通機関が、その如くなる頃になれば、通信もまた発達して、宇宙の波動を利用し、実に簡易に通信を交換することもできるようになる。

 すべての智能の働きが、物に固着した考え方では、天界からの内流はない。飽くまでも霊的想念に立脚しなくては内流はこない。そのために物語によって、人間の神性を発展し、真智を受け入れさせようとしているのであるから、物語は悉く神界との連絡の綱として神本位、霊界本位となっている。これを読むうちに人の想念がそうした想念を持つようになると、それが基礎となって、外分的な面が次第に閉ぢ、内分的の方が上方に向かって開けて来るのである。そうして内分的の状態、すなわち意志想念がそうした状態となれば、真智が働くようになり、内流を受け入れる基本的地盤が出来上がるのである。

 みろくの世の文化は、そこから出発するのであるから、人間智の時代から神智の時代、天界の光明の流入する時代となる。それが天にある如く地に成るのであって、天と地が合わせ鏡のようになってくる。合わせ鏡とは天のすがたが、地に相応して現われるということであるから、天のそのままが地にも出現するというのではない。相応するのである。天界は霊的であり、地は物質的である。その相応は霊的真智が原因となって、物的形式が働くのであるから、非常に高度の文化となるが、人間もまた非常に智的とならなくてはならない。その智的根源は天界の光であるというのである。

 生命は神の霊の分魂がその真となっている。だから生命ある物は悉く神性を有しているのである。しかしその神性を容れるものは、形であり物である。ちょうど、水を茶碗に入れると茶碗の形となり、インキ壺に入れると壺の形となる。そこに差別が存在することになるのであって、現実の世界は物の世界であり、形式の世界である。その形式は千差万別であって、神の智によって創られているのであるから、神智というものは実に万有一切の組織形式のうちに現われている。宇宙一切のものを見るとき、神智の現われと直ちに理解することができるようになれば、実に美しく、且つまた偉大なるに感嘆する。そして、神性を容れ、生命が躍動していると見得るとき、そのままに神の国だと知ることができるのである。美の世界、真の世界、愛善の世界と感悟するとき、心の底から讃美と感謝の沸き起こるものである。娑婆即寂光浄土、荘厳なる神の国のすがたが強く心魂に迫ってくるものだ。

 

(「愛善苑」昭和25年6月号 大国以都雄 録『瑞言録』)

 

 

・音読は神業奉仕

 

 “聖師さまは「物語を拝読することがご神業の奉仕である」と示され、「物語を読まないのは、王仁に反対するのだ」とも申されています。

 

 “物語はすべて聖言神語でありますから、音読いたしますと、言霊となって時間と空間を超越して、宇宙一切に通ずるものです。その拝読の言霊は主神の神慮をなごめ、国魂神、産土神、氏神、祖先の霊魂が謹んで拝読して、向上されるものでありますから、物語を拝読する人たちは、これらの神霊が歓喜して向上され、その守護が加わるのです。一方、邪悪なる霊魂は、いち早く遠くに逃げ去るために、これらの邪霊の災難にあわないようになります。”

 

 “聖師さまが昭和十七年八月七日第二次大本事件で保釈出所されてからは、親しくおそばへ行き、物語の中の疑問についておたずねいたしました。聖師さまは一々物語の中の言葉のままにお答えを頂きました。「物語が一組さえあれば、これを種にしてミロクの世は完成する」と教えられました。ミロク神政は、霊界物語の音読の言霊から始まることを肝にめいじて、大本神業に奉仕させて頂きましょう。”

 

(「霊界物語のしおり」第16号 木庭次守『物語拝読は音読』)

 

*出口王仁三郎聖師は、「現界と霊界は合わせ鏡になっており、相互に影響を与え合っている」、「無数の霊界が存在する」、「霊界が移写してくる」などと言われており、関東大震災の時は、「地獄が移写してきた」と申されました。この地上を天国化するには、現界を天界に相応させ、天界を移写させねばならないということなのですが、聖師が、「まず相応する形式がほぼ出来ていなくてはならない」、「神界を現界に相応せしむるには、現界そのものが神界とやや形式が類似して来なくてはならぬ」と言われたように、そのための条件というものがあります。残念ながら、時代が経つと共に人心はますます悪化し、もはや現界を天界と直接相応させることは不可能となっていますが、それでも「『霊界物語』の霊界」を媒介とすることによってなら、間接的に現界を天界と相応させることは可能です。そして、「『霊界物語』の霊界」が、未来の「みろくの世」を実現できるものなのであれば、言い換えれば「みろくの世と時空がつながっている」のであれば、「霊界物語」の音読によってもたらされる内流によって、知識としてではなく直感によって、みろくの世の様々な情報を引き寄せることも可能なはずです。

 

*「宇宙一切のものを見るとき、神智の現われと直ちに理解することができるようになれば……」とありますが、これはそのまま「大本三大学則」となっています。宇宙一切、すべての人や物が神様の顕現であると理解できれば、多少なりともその意識を持てれば、犯罪も環境問題も、あらゆる問題が解決します。

 

*スピリチュアルに関わっておられる方々の中には、「『みろくの世』の実現のため……」とか言って、『みろくの世』に言及される方が少なからずおられますが、この『みろくの世』とは、もともと皇道大本で使われていた言葉です。そしてこの『みろくの世』を実現させるための手段として、出口王仁三郎聖師は、「霊界物語」の拝読を命じられました。にもかかわらず、「みろくの世の実現」を主張しながら、「霊界物語」に言及される方がほとんどいないのは不可解でもあります。また「みろくの世」の到来の前には「大峠」がありますが、その「大峠」を乗り切るためにも「霊界物語」の拝読は欠かせないもので、拝読していれば、その時に何をすべきか内流によって悟らせていただけるといわれています。そもそも出口聖師が言われたとおり、「霊界物語」は大本信徒だけのものではなく万人のために発表されたものであって、頭で理解するものではなくて、ただ素直に読んでおけば良いだけのものです。別に入信する必要もありませんし、どうか一人でも多くの方に、「霊界物語」を拝読して頂きたいと思います。

 

 

・「大峠」がはじまる時

 

 “もう一つ、昭和五年の御巡教の折、信者の一人が「大峠とか最後の審判とか言いますが其の時には本部から通達が来ますか。」と尋ねました。聖師様は「そんなものが来るかい。又、そんな余裕も無いわい。」とおっしゃる。「其の時はどうしたらよいのでしょうか。」とお尋ねすると聖師様は、「時期やその時どうすればよいかは全て内流を受けて悟るのだ。御内流を受けられるだけ普段からみたまを磨いておく事だ。或いは夢で知らされる者も居る。各地にそれぞれ御内流を受けるみたまをまくばってあるのでみんなはその時はその人の所に集まればいい。又、その前には神様は新聞やラジオなどで知らされるから、主神の御教えに基づいて新聞をよく見、ラジオを聞き、神様の御意図に添って活動することだ。何と言っても神さまの御教えに従い、しっかりみたまを磨いておくことだ。」とお示しになりました。”

 

(「愛善世界」№28 『聖師様の島原ご巡教を語る 大津清翁に聞く』より)

 

*出口聖師が「物語を読まぬ者は私に反対するのだ」と言われたとおり、「霊界物語」を読んでいなければ、「結縁」がされていませんので内流は期待できないでしょうし、そのときに何処へ行けば良いかもわからないと思います。また、これはあまり知られてはいませんが、かつて出口聖師は「お筆先」の焼却を口にされたことがあります。「わしが書いたものを無視して大本の救いというものはない」とも言っておられますが、これは「神諭」だけでは不充分であることを示されているということです。「神諭」は散文で「物語」ではなく、その内部に空間的広がりも時間の流れも存在しないがゆえに「霊界」を創成、あるいは反映するものでも、その「霊界」への入り口となるものでもありません。「神諭」はあくまでも警告を述べ、指示を与えるものであって、「救い=みろくの世の実現」のためには、あくまでも「霊界物語」を拝読せねばなりません(これは他には救いがないと言っているのではありません。「因縁のミタマ」へ呼び掛けています)。

 

大国 だから、厳御魂の神諭(筆先)と、瑞御魂の裏の神諭とこういうものを全部包含して完成したものが霊界物語で、これが本当の救いの教である、という解釈以外には成り立たないのです。これは大本の歴史をみたら歴然としてる。

  木庭 物語がすべての基本にならないと分からない。筆先は俳優のセリフ書きであるから、神がかりの言葉です。全脚本が霊界物語ですから、教もあれば経綸もある、宇宙創造もある今後の世界の予言もあり、霊界物語を基本にして拝読すれば裏の神諭もはじめて分かる。”

 

 (大本教学研鑽所編「別冊 大本教学」昭和51年8月6日発行 『裏の神諭をめぐりつつ』より)

 

 

・拝読によるミタマ磨き 

 

 “お仕えする祭員はどういうふうに潔斎させていただいたらよいでしょうか。

 

 すると聖師様は「場所もないし、先ず、心構えが大事や、それには霊界物語をしっかり拝読さしてもらえばよい、それが何よりの潔斎じゃ」とおっしゃられた。

 聖師様の瑞御霊(みづのみたま)の潔斎は、火の洗礼の潔斎である。先ず、精神を清浄にすることが何より大切である。そして勿論現実的にこちらも肉を食べたり、いろんな穢れたようなことを勿論してはいけないが、一番大事な心構えを、そういうことで教えて頂いた。”

 

(「大本教学」第二号 浅井道郎『大本の祭式について』)

 

 

・出口王仁三郎聖師の遺言『錦の土産』より

 

 “伊都能賣(いづのめ)の御魂、霊国の天人なる大八洲彦命(おおやしまひこのみこと)の精霊を充たし、瑞月(=王仁三郎)の体に来たりて口述発表したる『霊界物語』は世界経綸上の一大神書なれば、教祖の伝達になれる『神諭』と共に最も貴重なれば、本書の拝読は如何なる妨害現れ来るとも不屈不撓の精神を以て断行すべし。例え二代三代の言と雖も、この事のみは廃すべからず。邪神界殊に八十八派の兇徒界の妖霊は一応尤もらしき言辞を弄し月の西山に入りたる際(王仁三郎の死後)、得たり賢しと聖地へ侵入し来たり、先ず第一に二代、三代の身魂を誑惑せんと雄猛び襲い来るべし。然して、自己の霊系の暴露するを恐れて教祖の血統を楯に、数多の信徒を魔道へ誘わんとするは火を見るよりも明白なる事実なり、注意すべし。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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