長南年恵 「諸人のためとしあらば……」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

* 一昨日、「何だコレ?ミステリー」というテレビ番組で長南年恵さんのことを紹介していたのを見ました。実は私は20数年前、彼女に興味を持って山形県鶴岡市を訪れたことがあります。番組では「おさなみとしえ」となっていましたが、山形では「長南」姓は比較的多く、正しくは「ちょうなん」と読むのだそうです。しかし、実弟の長南雄吉氏達親族が大阪に住んでいたときはどうした事情か「おさなみ」と名乗っていたらしく、どちらの読み方も間違いではありません。日本心霊科学協会の設立者で、雄吉氏に取材して「長南年恵物語」を著わした浅野和三郎氏も、「おさなみ」とルビを振っています。それにしても、番組ではただ何も食べずに生きた不思議な人、超能力者といった扱いでしかなかったのには些かがっかりいたしました。また、年恵様が呪文を唱えたとありましたが、これは裁判所で行なわれた「霊水出現」実験についての新聞記事に「何やらん呪文の如きを念唱する気合ありしが、……」とあるだけで、私の手持ちの資料からは、実際に「呪文を唱えた」という話は確認できません。何だか伝えられるべきことが伝えられておらず、年恵様が誤解されてしまうような内容だったことが残念です。

 

 “彼女は、

一、文字通り絶食絶飲の状態を十四カ年もつづけました。

一、大小便などの生理作用はまったくなく、またその生涯にただ一度のアンネもありませんでした。(こうした例は日本にも外国にも多数の例があるといわれます)

一、数分間神に祈願すると、何十本もの瓶の中に一時に霊水が充満するのでした。

一、冷水に手をかざすと、少しも薪炭を用いずに風呂の水が熱くなり、空瓶に手をかざすと、おいしいい甘酒がいくらでもできました。

一、四十四才で死にましたが、そのとき二〇才ぐらいの若々しい容貌の所有者でした。

一、何の教養もないのに、いったん入信状態に入ると、書に画に非凡な手腕を発揮しました。

一、世をまどわすという疑いで三度投獄されましたが、監獄の内部でもいぜん奇蹟的現象を続出させ、また裁判官の眼前で霊薬を引き寄せたこともありました。”

 

 “長南(雄吉)氏は蒲団の上に跪坐したまま、ときどき眼をつぶって遠い過去の光景を追憶しつつ、物語をすすめるのでした。

 「私はがんらい早く郷里を出ておりましたから、姉と同居した小供のことはよくは記憶しておりませぬ。ただ姉が人並み外れて寡黙(むくち)の性質であったこと、母や長上(めうえ)に対して従順で、いまだかつて命令に背くようなことのなかったこと。体質がすぐれて強健であったこと、それから無欲も無欲、ほとんど愚物(ばか)に近いほど無欲で、人が欲しいといえば羽織でもかんざしでもさっさとくれてしまったことなど、夢のように覚えているだけです。私の姉に対する正確なる知識は、明治二十五年の帰郷を境界として始まります。当時私は在京中でした。たまたま祖母が東京で没しましたので、私はその遺骨を奉じて郷里鶴岡町へ帰ることになりました。父は私の幼時に没しまして、当時郷里の生家には母と姉とが寂しく留守を守っていました。”

 

 “「……第一驚かされるのは姉の容貌の若々しさ、三十三才のくせにどう見ましても十五か十六の小娘の顔なのです」”

 

 “「だんだん落ち着いて調査してみると、姉の身体に神様がいざ御降臨(おくだり)となると、まず驚かるるのは空中に種々の音楽が聞こえることで、それは笛、ひちりき、琴、鈴等であります。心の中ではよもやと思っておりました。ところがいよいよ現場に臨んでみると、実際りょうりょうたる楽声が虚空に起こり、しかもそれがハッキリその場に居合わせる数十百人……警戒の巡査たちの耳にまで聞こえるのです。数日滞在の間に、私も五、六回それを聞きました」

 

 (高野寿鶴さんの渡部政三氏宛の手紙によりますと、長南年恵が一心こめて神仏に祈っているうちに、神前の間の上空に「天照大神はひちりき」「古峰ヶ原金剛山は笛」「大日如来は大きな鈴」「弘法大師は小さな鈴」の音《神によって楽器の音が異なります》が響き、一日に何回となく拝したといいます)”

 

 “彼女はいろいろな難病も治したと伝えられています。高野寿鶴さんから渡部政三氏宛昭和三十四年十一月十九日投函の書状によりますと、

 ……私十四才のとき胃をこわしましてなかなか治りませず、困りきって酒田から私の母が八日町の年恵様にお願いに参りまして、お薬のお水をちょうだいするのに、酒田と鶴岡の間を往復して、その水を飲むと頑固な胃弱がからりと治りました。本当に幸せいたしました。

 いろいろの難病を治していただいたことを伝え聞きまして、近い所からも遠い所からも病気を治していただきたくお願いにくる人が多くなりました。病気を治していただきたい人は、各々名をつけて瓶を差し出して願っておりますのですが、多いときは一度に三十本以上も一緒にそれぞれ別の色をしたお水を瓶いっぱいに下さいました。

 重い病人を代理でお願いに参りました場合には、その人が年恵様の家の敷居をまたぐと同時に年恵様のお体にその病人と同様の苦痛が始まりますので、じつに見ていてお気の毒に堪えないように思うのでございました……。

 

 “……久米倉恵(七十八才)が鈴木徳太郎氏に口授させて出状した手紙には、

 ……鶴岡市銀町に萱屋という屋号の染物屋があった。そこの婦人鈴木栄は明治三十九年頃、お腹の内部に大きな腫れものができ、化膿して医師に診てもらったが、この腫れものはお腹の中で破れるに相違なく、命はないものだろうとのことで、医師に見放され悲観していたところ、年恵様のことを聞いて信者となり一心に信心しているうち、ある夜中の午前二時頃、表面には何の口も見られなかったのに、突然刃物で十文字に切られたように、中から洗面器に半分ほどの膿が出て、その後数回少しずつ出たくらいで薬をつけずに全治しました。

 

 この事実があってから、一命を助けてもらったことがありがたく、年恵様が亡くなられてから、生前お祭りしていた近郷の信者たちと相談の結果、大正四年三月鈴木で引き受けて銀町五番地自宅の屋敷内にお宮を建てて祭ったのである。昭和六年お宮を南岳寺境内に移転した。「淡島大明神」がこれである……。”

 

 “鳥海山などに何回も登られましたが、非常に足が早くて、一緒に行った人たちが追いつくのに骨が折れたと聞きました。

 神前の間に年恵様がおられるとき、まれに誰かと話し声がすることがございまして、後で「誰か来られましたか」と年恵様の母上などがお聞きすると「今山王様の家守はんが来て話して行きました」と仰せられましたが、いろいろ未来のことなど話されたようでございました。

 また「家守はんと一緒にどこそこに行って来た」とも言われることがございました。短時間のうちに遠方まで行って来られたこともございました。年恵様ご自身、お山王様や井岡の観音様、下川善宝寺の池などよくお参りせられました。

 遠い所までいつのまにか行って参って来られることもございました。私は日々お世話になっておりますうえに、何かと心づかれて、行く先ためになる心得など懇切にお教えいただいたものでございます。

 ある一首の歌をお示しになりました。

 

   諸人のためとしあらば 我が身こそ

         水火の中も いとうものかは

 

 誠に年恵様のお気持ちをよく表わしていると思います。末久しく世に伝えたく思われます。”

 

 “『大講義長南年恵刀自集(第三版)』の「千葉直操遺稿」には、年恵様の葬式の模様を次のように記している。

 

 長南家の墓地は般若寺である。贈大講義長南年恵刀自の大講義贈位は、長野県の木曽御獄神社から贈られたるものにて、故に神葬式であったので、般若寺の寺の前庭に御獄教の神官が来られ神式にて葬儀せられた。なお、土葬ならんという。”

 

(山本健造 / 山本貴美子「神通力の発言 宥明上人と長南年恵の神変の数々」(たま出版)より)

 

*神仏によって楽器が異なるとありますが、年恵様を最も多く訪問されたのは、「小さい鈴(他の資料には「風鈴」とあります)」つまり弘法大師であったことが伝えられています。

 

*淡島大明神のお堂のある南岳寺では、「年恵観音」のお守りをいただくことが出来ます。また、南岳寺では、鉄龍海上人の即身仏がお祀りされています。

 

(般若寺にある長南年恵刀自の墓所)

(南岳寺の長南年恵霊堂(淡島大明神))

 

*丹波哲郎氏の本には、南岳寺境内に移転の時に、当時の住職が「淡島大明神」と命名されたとあります。また、昭和31年に南岳寺は火災に遭っていますが、そのときも「鉄龍海上人の即身仏」と「淡島大明神」は無傷だったそうです。

 

(丹波哲郎「霊人の証明」(中央アート出版社)より)

 

 “小竹繁井女――この人は年恵女より十歳あまり若く、今年は五十一歳ですが、最初長南一家の人達と同居した関係もあり、長南家が八日町に移ってからも、再々泊りがけで遊びに行き、年恵女から非常に可愛がられた人だとかいひますから、その談話も甚だ貴重な参考資料であります。繁井さんの直話。――

 「年恵さんは、最初は鶏卵位食べたか知りませんが、私の知っている限りでは、水の外一切飲食物を摂らず、又、便通も大小とも全然ありませんでした。私はよく一緒に歩きましたが、年恵さんは躯が軽いのか、足か迅くて追ひつけないで困りました。

 「年恵さんは、自分の部屋に他人の出入を一切厳禁してゐましたが、私丈は例外で、よく遊びに行きました。平生は別にこれと言って変ったこともないが、やがて田圃の方から(干葉家の裏は北向きの田圃)風鈴の音のような音楽が聞えて来ると、今、何の神様がお出でになられるから、と言って私はその室から出されたものです。神様によりて、音楽の音色が異るのださうですが、私には、その区別がつきませんでした。室の中では、神様と年恵さんとが、何やら談話を交へて居られたが、それは一切きき取れませんでした。ある時は大黒様がお出でになり、縁側で大黒舞を舞はれました。姿は見ることができなかったが、さらさらという衣擦れの音は、手に取るやうに聞えました。時とすれば、叉障子の孔から金米糖などが、部屋の内へパラパラ投げ込まれ、私はそれを載いて食べたことがあります。

 「年恵さん達が八日町に移ってからのこと、ある日善宝寺へ参詣すると言って、酒田の人と、私と、年恵さんと三人連れで出掛けたことがあります。池の奥の方へ行くと某所には三つの小さいお宮がある。年恵さんは、私達をお宮の側へ待たせて置き自分だけ一番奥のお宮へ入りましたが、やがてお宮の内部でドタンバタンという大きな音がつづいた。不図(ふと)気がついて見ると椽の下から、大きな茶盆大の畸形の頭に金色の眼のついた、不思議な姿のものがチョコチョコと二、三度顔を出しました。少時の後年恵さんがお宮から出て来て、今何か見なかったかと申しますから、これこれの姿のものを見たと話しますと、それは神様がお歓びのあまり、あなたに姿を見せたのだ。内部(なか)でドタンバタンと音を立てたのは、矢張り神様がお歓びになり、私と相撲をとったのだと話されました。ただ不思議なことには、私の眼にあんなにはっきり見えた神様の姿が、酒田の人には少しも見えなかったことです。神のお姿というものは、見える人にのみ見えるものだと思はれます。

 「年恵さんとは、井岡の観音様にも、一緒に参詣したことがあります。その時も矢張り私どもを、お堂の前面に待たせて置き、自分一人で内部に入り、何やら賑かそうな話声だけ聞えました。出て来てから年恵さんは、神様がお歓びだったと話されました。

 「私が勝手元で働いて居る時、不意に、今洗ったばかりのドンプリが見えなくなったりします。私が困っていると、年恵さんが勝手へ出て来て、何か困ったことがないか、と訊ねますから、これこれだと言ひますと、それはそこにあると、上の方を指します。見るとチヤーンと棚の上にドンブリが載ってゐます。これに類した事は、他にもちょいちょいありました。

 「年恵さんの神通力にはいつも驚かされました。部屋の内に坐ったままで何でも判るのです。親戚に不幸があるにも係わらず神様に参詣するものでもあると、すぐにそれを指摘して追ひ返します。又経水のある婦人なども即座に譴(とが)められました。その外何も彼も見通しのようでした。”

 

 “高野氏の報告

 「年恵様の身体に異常現象を起したのは、自分にははっきり申上兼ねますが、たしか明治二十五年頃最上町の干葉家に同居してゐられた頃かと記憶します。最初食物が胃に収まらぬので、年恵様の母上は心痛のあまり星川医師の診療を乞ふたというやうな事を耳にして居ります。その頃から夜間睡眠中に同家の祖先の霊が年恵様に憑り、その口をかりて、丁度寝言のように、いろいろ物語をするので母人は大へん驚かれたさうです。その話をきき伝へて次第に神仏のお告を乞ふものが増加し、後には睡眠中でなくとも一心に念ずれば容易にお告を受けるやうになったさうです。”

 

 “「私が長南家に同居することになったのは明治三十年頃であります。私は他の信者達と一緒に、よく年恵様のお供をして、市内では三日町の本部皇太神宮、荒町の日技神社、井岡の観音堂又は下川の善宝寺池畔の竜神社等に参詣しました。いつも徒歩でしたが、年恵様は身軽で足早で、誰でも遅れ勝ちで弱りました。下川の池には鯉を放したこともあります。
 「年恵様が神社に参拝される時には、私共は社の後方で拝してゐましたか、いつも竜神様その他の神様の姿がお現はれになったらしく私どもの耳にも笛、簫(しょう)等の楽声が、はっきりと社の上方と思はれる所に聞えました。私はお供しなかったが、鳥海山、湯殿山等の高山にも数回参詣され、その同行者の話によれば、年恵様の足の迅いには驚いたと申して居りました。”

 

 “「私が長南家に居りましたのは明治三十年から同三十四年までですが、その間近郷近在の難病者で救を求むるものは隨分沢山参り、母人はその応対にいつも忙殺されてゐました。病人が来ると、年恵様の躯には病人の病苦そのままの苦痛が起りましたので、実に並大低の苦労ではなかったのです。又物忌がきびしく年恵様はこれにも絶えず苦しまれました。心なき人達が汚れた躯でお願いに来ると、その咎を年恵様が引受けて了ふのです。それでも一心に助けを乞ふ人達を不憫に思はれ、厭な顔一つせず、神様に願ってあげるので、いつとはなしに依頼者が集まり、少き時も数人、多い時は二三十人に及ぶことがありました。

 

 “「年恵様が祈念なさる時に出現されるのは神様と仏様と両方でした。その際上空に聞ゆる音楽は、天照大神は簫、古峰ヶ原金鋼山様は笛、大日如来様は大きな音の鈴、弘法大師様は風鈴で、この風鈴が一ばん頻繁に現われました。
 「年恵様はよく突然姿を隠しました。今まで神前に居られたのが、いつの間にか見えなくなる。しばらくすると又いつの間にか帰って居られるのです。”

 

 “「私が実地目撃した中で、今でも不思議に思ってゐるのは、茅葺きの物置小屋の突然の怪火でした。これは酒田町鵜渡川原の一信者の火難を引き取ったものださうで、小屋の内部は一面の猛火で、私は子供心にブルブル慄へながらそれを見物してゐました。火は今にも屋根裏へ燃え移りそうに見えながら、やがて何事もなく鎮火し、そして小屋に格納された品物も何一つとして焼けなかったといふことです。”

 

 “年恵様の慈悲深いのはまことに天禀で、あんな心の美しい方が現世に又とあらうかと思はれる位でした。貧しき者には金品を与へ、病める者には、ご自身の躯をささげて病苦を引受け、毎日のやうに死ぬほどの苦しみをつづけられました。衆生済度といふ言葉をよく耳にしますが、年恵様のやうに如実に之を実践躬行された方は、めったにないのではないかと思はれます。若い者に向かってはよく言葉短かに学問をすすめ、道を説き、不心得を戒められましたが、それが不思議にも深く深く聴く人を動かしました。

 

(笠井鎮夫「近代日本靈異實録」(山雅房)より)

 

*それにしても、出口王仁三郎聖師も一時期「御嶽教」に籍を置かれ、大阪の教会長になっておられた時期があるのですが、長南年恵さんも御嶽教に関わっておられたとは、少々驚きました。おそらく鳥海山や湯殿山など各地の霊山に登って行をしておられたということなので(富士山にも数ヶ月籠っておられます)、そのあたりのつながりがあったのではないかと思います。ただ現在の御嶽教では、私が知らないだけかもしれませんが、特に年恵様の神霊はお祀りされてはいないのではないかと思います。本来、部外者が口を出すことではありませんが、顕幽一致の法則により、いかに高位の神霊でも、現界で『型』が行なわれなければ、たとえ祠のような小さなものででも祀ってもらわなくては、力を発揮することはできませんし、「御成敗式目(貞永式目)」には、「神は人の敬により威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ(神は人から敬われることによって霊験があらたかになって益々その威力を発揮するようになり、また人は、神を敬うことによって、より良い運を与えられる)とあります。年恵様の神霊は、今なお多くの人々を助けたいと願っておられるはずだと思うのですが、お祀りしているのが全国で南岳寺の淡島大明神のお堂しかないというのは、その霊性の高さ、多くの人を救われた多大な功績を考えるとあまりに残念な気がします。長南家は既に子孫が絶えているということでもあり、また「大講義」を贈呈されておられるということであれば教導職でしょうから、特に御嶽教信者の方は年恵様のご神霊に導いていただけるはずです。もし可能であるなら、ぜひ御嶽教のどこかの支部ででも長南年恵刀自の御霊をお祀りして、年に一回でも祭典を行なっていただきたいと思います。

 

(善宝寺の池の奥のお宮)

 

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング