「雨ニモマケズ」のモデル 斎藤宗次郎 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「雨ニモマケズ」のモデル 斎藤宗次郎

 

 “賢治の死後に発見された手帳に記されていた「雨ニモマケズ」の詩は、「法華経」に示されている大乗仏教の「利他」の思想、あるいは彼が理想とした行き方が表現されたものであると考えられてきた。しかし最近になって、この詩の内容通りの人生を送った人物が実在したことが指摘され、研究者たちの関心を集めている。というのも、「雨ニモマケズ」の詩のモデルと目されたその人物は仏教関係者ではなく、キリスト教の信仰者だったからである。

 そのキリスト教徒の名は斎藤宗次郎(1877~1968)。岩手県花巻市で禅寺の三男として生まれた彼は、やがて地元の里川口尋常小学校の教師となり、一時は国粋主義に傾くが二三歳の時に内村鑑三の著書に触れて改心し、花巻で最初のクリスチャンとして無教会派の洗礼を受けた。

 宗次郎の苦難の人生はここから始まる。「ヤソ」と毛嫌いされて親からも勘当され、道を歩けば石を投げられる日々がつづいた。迫害の手は彼の家族にも及び、同級生に腹を蹴られた長女は九歳の若さで天に召された。そして、内村鑑三の非戦論に共鳴して日露戦争に反対したことが元で教職を追われた彼は、家族を養うために「求康堂」という新聞取次店を営み、新聞配達を始めることになる。その仕事は、雨の日も風の日も早朝三時に起きて、汽車が着く度に駅に新聞を取りに行き、その重い束を背負って毎日四〇キロの道のりを走るという過酷なものであった。

 しかもその配達の仕方は一風変わったものだった。時々立ち止まっては路上で神に祈り、大雪が降った朝には小学校の雪かきをして、長女を死なせた学童のために通学路を作り、雪に足をとられて動けない小さい子を抱いて校門まで送ることもしばしばあった。またある時には配達の途中で地域の病人を見舞って励まし、貧しい家の子には小銭を与え歩いたという。過労で一時は結核を患うことになるのだが、不思議にも彼の体力は衰えることなく、そんな生活は二〇年間も続いた。

 五〇歳になって、彼が内村鑑三の伝道活動を手伝うために上京することになった時、駅には町長をはじめ、町の有力者、神主や僧侶、学校の教師、多くの生徒や町民たちが見送りに来ていた。彼の犠牲的な奉仕の心はいつの間にか、宗教の違いを超えて花巻の人々に大きな感銘を与えていたのである(小学館『創造の世界』100号:山折哲雄「デクノボーの世界」、1996年)。”

 

 ”宗次郎は内村鑑三の臨終に立ち会い、その後は師の伝記をまとめる仕事に携わり、奉仕と伝道の生活を貫いて九二歳の長寿を全うした。その彼が書き遺した日記から、賢治との密接な関係が浮かび上がってきたのである。

 宗次郎は賢治より一九歳年上で、賢治の父とは旧知の間柄だった。したがって賢治もまた宗次郎を知っていてその生き方に共感を覚え、賢治が農学校教師時代に詩集『春と修羅』を自費出版した際にも宗次郎の意見を求めたことがわかっている。花巻を去る宗次郎を駅で見送った賢治は、その後も東京の宗次郎と文通をつづけた。……”

 

      (瀬上正仁「仏教霊界通信 賢治とスウェーデンボルグの夢」春風社より)

   (宮沢賢治)