出口聖師と丸山貫長③ (如意宝珠とは) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・出口聖師と丸山貫長③ (如意宝珠とは何なのか)

 

 “出口王仁三郎師を「あなたこそ弥勒菩薩の化身である」と看破された竜門岳の丸山貫長師は、神業を完遂し帰途につく王仁師一行と綾部へ同行されている。子息の山本雨宝師(現・飛鳥寺住職)は「綾部で写された父の写真の背後に写った大きな光輪が本部でも話題をよんだと記憶しています」と言われる。丸山貫長師はさらに綾部の大本の至聖所・本宮山に登られ、「当山こそは高野山にまさる霊場であって、いわゆる蓮華台上であり地の高天原に相違ない」と感嘆された。

 

 ―― 大正九年五月十日綾部の宮に宿して丸山貫長詠――

 たまに来て泊まる綾部の神殿(かむどの)に はからずも聞く仏法の声 手をたたく声

 

 貫長師はブッポーソーと鳴く鳥は高野山でしか鳴かないものと固く信じておられたが、綾部で聴けたので一層驚かれたのである。しかも「高野山ではブッポーとしか鳴かなかった。それは本当のソー(僧)がいないからであろう」と時々子息の山本雨宝師に冗談半分に話されていたという。綾部でははっきりブッポーソーと聴かれたのであろう。

 その年の八月、つまり右より三ヶ月後には大本のもう一方の聖地・亀岡を訪ねられている。大正九年、亀岡で夏期講習が初めて開かれ、その講師として貫長師が招かれた。他の講師は王仁師をはじめ浅野和三郎(後に日本の心霊科学の権威者となる)、谷口正治(生長の家教祖となる)、水谷清(言霊学者)、水野満年などであった。

 

 丸山貫長師より王仁三郎師に渡された「如意宝珠」の玉は、現在何処にあるのかわからない。

 重要なことは、大正九年の竜門岳の神業完遂後からわずか一年後に口述が開始された「霊界物語=大本の根本経典」の中に神徳の結晶である顕国(うつしくに)の御玉、真澄の玉、黄金水の玉、太白星の玉、竜王の玉等々が登場し、それらを総称して「如意宝珠」といわれることである。さらにその神徳は王仁師が晩年(昭和二十五年頃)創られた三千六百個の耀盌として顕現し再現しているともいえる。

 大本二代教主・出口すみ子師は、「わしはこのごろ思うとるのやが、先生(王仁師)の楽焼(耀盌)なあ、あれが本当の如意宝珠やったのや」(「木の花」二十五年五月号『花明山夜話』より)と語られる。

 「霊界物語」によると、霊界での如意宝珠は、天津祝詞や神言(かみごと)等の清き正しき言霊、善言美詞の言霊、活殺自在の活用ある七十五声の言霊であると示されている。

 

 高鉾(たかほこ=竜門岳)の峰に登れば四方の国四隅の国も眼の下に見ゆ

 

 これは丸山貫長師の作。山本雨宝師(現七十四才)は言う。「父は家庭をかえりみずいつも神仏第一、芸術三昧に生きていましたので生活は苦しかった。暮らしぶりは良くなく私は時として反発を感じたものです。しかし父の名はその徳望のわりには世間ではあまり知られていないのが残念です。それでも亡くなってからちょうど五十年経た今日、ボツボツ父の散逸していた文献、宗教論、芸術論等を集めてまとめようとする学者や仏教関係者もあらわれてきているようです」と。そして筆者には「とくに貴方は大本側から詳しく調べて下さり夢のようです。わが父も大変に喜んでいるでしょう」と感激して下さる。

 

 中国の有名な竜門は黄河の上流にあるが、そこが鯉などが激流を登ることができれば竜になれるといういわゆる登竜門(=転じて立身出世の関門の意)の地である。そこにも竜門山という山名があるが、竜門はまた琴の材料となる桐の産地としても有名である。ちなみに万葉集第八一二首の題詞に「竜門の恩」という語があるが、これは「琴を送ってくださった恩」の意となる。日本の竜門山(岳)でも丸山貫長師が八雲琴を創って愛されていたのも不思議なことである。それを長男の山本雨宝師が受け継がれて、現在八雲琴の無形文化財となられている。”

 

       (「人類愛善新聞」昭和52年8月号 『竜門岳と丸山貫長③』より)