油井真砂(ゆいまさご)禅尼について | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “房州保田の日本寺における参禅会には、色々な事がありました。此の時の一駒を、今東光氏は「今昔物語入門」(光文社刊昭和四十三年四月十五日発行)の四十頁の処で「現実にいる魔女」と題して書いております。それを原文のまま転載させていただきます。

 

 この話は、現代人が読むと、でたらめしごくのばかばかしい話として受け取りますが、現実にこんなことも出来る人は居るんですね。わたしはちっともふしぎとは思わない。たとえばいまはなくなっていると思いますが、油井真砂という女性がいました。この油井女史は、戦前の枢密顧問平沼騏一郎さんとか、いろいろな人にかわいがられ、東京の大久保のお寺にいました。わたしなんかも、よくそこへ行って座禅をしたり、仏教の話を聞きに行ったことがある。この油井さんという人は、一種の魔女で、霊力を持っていた。透視なんかもするんですな。そのかわり、この人は、人間の低劣な物質的欲望をみたすようなことは決してやらなかった。たとえば「金山を掘り当てようと思うんですが、どうしても出ない。何かいい金脈はないですか」「見えていますよ」と言うけれども教えませんよ。金をどれだけ積んでも「だめ」という。そうさせないために、平沼さんだのいろいろな人が、金を出して生活の保障していました。悪事に使われないように‥‥‥。

 ある時、房州の保田の、もう焼けましたが、ある寺へみんなで合宿に行ったことがある。そのうち、保田の町の人なども遊びに来るようになったが、あるときたまたま、霊力の話をしたところ「そんな迷信があるか」と言う。油井さんは「あなた方は言ってもわからないだろうから、ひとつ実験してみましょう」ということで、本堂にちゃんとすわって、ジッと祈念したのち、手ぬぐいを何本もよじって、その片方を自分は指二本で持つ。そして反対のはしを漁師の若い、いかにも力の強そうな男が思い切り引張った。ところが手ぬぐいはビクとも動かない。そこでこんどは、ニ、三人でウンウン言いながら引張ってみたが、それでも手ぬぐいを取れない。みな青くなっちゃった。それも油井さんはうんと気張っているんじゃない。すわって、にっこり笑いながら二本の指で持っているだけなんだ。「あなた方は、大の男のくせに、なによ、わたしが、あなた方をドンと突いたら、穴があくわよ」ほんとにそんな気がするんだな。それ以来、漁師たちは、はいつくばって彼女の護衛していたよ。こんなことが出来るのも、油井さんに霊力があるからなんだな。もう一つ、こんなこともありました。彼女は全然泳げないんだ。波がサッときて足に当たると、キャーッと言って気味悪がる。それでみんなで、さすがの油井さんも海へ突き落されたらだめだろうというので、船で沖へ連れて行き、海水着を着ている彼女を、みんなでかつぎ上げて海へほうりこんだ。ところが沈まないんだよ。すまして波の上にすわっている。これにはみんな一言もなかった。この話はほんとにあったことです。また油井さんは、いろいろなものを透視するんですな。「おたくはご先祖を供養しなければいけない。あなたのところの何代目のどういうおばあちゃんは、どこの家から来て、性根の悪い人だった。何年何月何日に悪いことをした。それから金持ちになっているけれども、その金があなたの家の身につかない」と言う。そこで調べてみると、ちゃーんと、その日に悪い事をしているんだな。そういうことをピタリと言い当てて、そりゃ、井戸を掘るなんっていうのは、もうわけないんだ。わたしの家でも、井戸を掘った時に、油井さんに来てもらって、一発で水を掘り当てたよ。だから霊力をもった人は、現実にいるということを知ってもらいたい。その上で、ここに紹介された話などを読むと、よりいっそう興味深く味わえると思うのです。

 

 以上は今東光氏の文です。”

 

 “「‥‥‥でも御経中、あなた方の頭の中に出てくる事は見えますね。読経中は何も考えない様にした方がいいですよ」

 そう言われた時、聞いていた者は一せいに水を掛けられた様に冷々と致しました。筆者などはその時以来、読経中は無心にならねばならぬと、一心にそればかりを念じました。習慣というものは恐ろしいもので、法衣を着けて法堂に出ると、もぬけのからの様に無心になる様になりました。

 ある日のお経の時、

 「今日は一寸難しいから、気をつけてください」

 と言われ緊張して読経に入りました。施餓鬼文の雲集鬼神招請陀羅尼に入った時、丼に入れてある水子の中の野菜の刻んだものが、ちょうどオタマジャクシの様に、上になり下になり、泳ぎ廻っております。これを見た時、筆者は頭から血が全部下がってしまう様な気がしました。常識では考えられないこの事実が、続く五つの陀羅尼が終わって五如来に入った時、ぴたりと止まってしまいました。此の時のお経は震災の時、被服廠で一家六人の四、五人が焼死された家のお経だったのです。お経の後で入定から醒めた真砂の右手に大きな火傷のあとが残っていました。

 「気をつけていましたが、つい不手際をしました」

 と言っておりました。”

 

 三十三年一年間は、真砂も初台時代の様に張り切って多くの会員の方々の、あらゆる質疑に応答したり、経典の講話、回向、遠隔治療等、連日多忙をきわめておりました。八月の或る日真砂は、

 「常福寺の聖徳太子様は、今年からは一人でも多くの方々にお詣りしていただき、太子様のお徳をひろくひろめる様に勤めて下さい。それには大祭を行ってゆかねばなりません。お祭りを盛り立てるには、河村さんが適任ですから、河村さんにたのみなさい」

 と言いました。住職がこの由を総代の河村さんに伝えますと、河村さんは怪訝そうな顔をして、

 「大先生は、太子殿は道元禅師の教えの様に、一箇でも半箇でも、真に道を求める者の為にのみ開くのだと言われていたのに、どうしてそんな百八十度の転換をされるのでしょう。私には解かりません。方丈のお言葉だけでは引き受けられません。私は日吉にお伺いして、大先生から直接伺って参ります。それに私は、その他にも質問が沢山あります。それをメモして何時か伺いたいと思っていた所ですから、すぐに言って聞いて来ましょう」

 とその日のうちに日吉の分身院に、真砂をたずねたのでした。”

 

(油井真砂述「わが見神記 『この人生』『信心と坐禅』」(山雅房)より)

 

*油井眞砂禅尼(1887-1959)は数々の霊能で知られた方ですが、本来は禅門の尼僧として、仏道を極められた方であり、大正三年に上野の寛永寺や奈良・法隆寺の夢殿で行われた、名だたる学者や高僧たちの前での霊覚応現の実演で、古代インドの仏教教典や華厳経についての講義を原語(おそらくンスクリット語)で行われ、出席者を驚愕させたことが伝えられています。禅尼ご自身はサンスクリット語はおろか、外国語は何もご存じなかったのですが、特殊な意識状態に入定されると、知らない言語をも正確に話すことができたいうことです。パラマハンサ・ヨガナンダ師についても、初めての渡米の時に、まだ英語を話せなかったにもかかわらず、完璧な英語で講演をされた話が「あるヨギの自叙伝」に載っています。

 

*油井禅尼は、一時期「太霊道」という霊術の団体に籍をおかれ、そこで活動しておられた時期もありましたが(大正三年の霊覚応現の実験もそのころです)、永平寺六四世貫主、森田悟由禅師に諭され、彼等との縁を切り、以後は仏道修行に精進されました。禅尼は当時のことを回想して「自分は外道にいた」と言われています。実は、出口王仁三郎聖師も太霊道を曲津神(まがつかみ)呼ばわりされており、やはり、まるで人間自体が無限の力を秘めているかのように、潜在能力の偉大さを極端に強調し、あたかも神仏は不要な存在であるかのように説いているのであれば、それは外道に他ならないと思います。無限の力は神人合一の境地においてのみ発揮されるものであって、人間単独で発揮できるものではありません。低次のエゴが神になろうと企てるのは、まさに悪魔がやっていることであり、高次の力が我々を使うべきであって、その逆ではありません。

 

・出口王仁三郎歌集「東の光」より

 

 神と言へば今の世人はきらへども太霊道と言へばよろこぶ

 いかめしき太霊などと名を替えて世人をあざむく曲津(まがつ)(かみ)()

                           

*油井真砂禅尼は、戦時中、近衛文麿氏や東条英機氏らから「敵国降伏」の祈願を要請されましたが、あくまでも「国家安泰の祈願を致します」と言って毎日の行事を変えるようなことはされませんでした。戦後には「今後の一番の問題は青少年の教育の事です」と言っておられ、また皇太子殿下(今の上皇様)のご成婚の日(四月十日)から九月十日まで、「皇室の為に。一天万乗の大君は十全界を完うされた方でなければなりませんから」との御心願をたてて断食行に入られ、それを成就されて九日後、九月十九日に国替えされました。正座したまま息を引き取られ、その姿のまま座棺に納めて葬られたということですので、土葬であったと思われます。お墓は禅尼が晩年を過ごされ、実弟の正智氏が住職をされていた常福寺(青梅市富岡)にあります。ちなみに常福寺の中の太子殿の聖徳太子像は、住職であった正智氏が開眼し、真砂禅尼が入定して入魂されたものです。文中にあるように、油井真砂禅尼は禅僧であるにもかかわらず、なぜか聖徳太子の御徳が広まることを願っておられましたが、聖徳太子については、馬小屋で生まれたことや大工さんたちの信仰対象となっていることなど、キリスト教、特に景教(ネストリウス派キリスト教)との関係が指摘されています。

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング