凶党界の誘惑 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・凶党界の誘惑

 

 “兇党界は、肉体的精霊の団体であるから、人間から見て不思議と思ふいろんな事をして見せる。假(たと)へば誰も居ないのに机が自然に持ち上つたり、椅子が歩き出したり、空中から仏像が降つて来たりする。かういふ現象を見る人は、不可思議千万と思ふであろうが、何も不思議は無いので、皆肉体的精霊たる兇党界の仕業である。だから机などが持ち上つた時に其下の所を刀にて切れば、血を滴らして逃げて行く、無論姿は見えぬ。日本に於ける兇党界の頭は山本五郎衛門と云ふので、本拠は筑波山である。五郎衛門が最近人間として此世に姿を現はしたのは、今より百五六十年前であつて、それが最後である。山本五郎衛門御宿と書いて門に張り出しておくと悪魔が来ないと云はれて居る。それは親分の宿であるから乾児の悪魔共が遠慮して来ないのである。私もいろんな不思議な事をした時代がある。其火鉢をそつちに持つて行けと命ずると、火鉢は独り動いて他に移る。お茶を注げと命ずると、土瓶が勝手に空中飛行をやつて、お客の茶碗にお茶を注いで廻る。そんな事は極容易いもので、其外いろんな不思議な事をやつたが、神様がさういふ事ばかりやつて居ると、兇党界に陥つて仕舞ふぞと仰有つて固く戒められたので、断然止めて仕舞つた。”

 

              (「水鏡」より)

 

 

・アーリマン(悪魔)の受肉 〔ルドルフ・シュタイナー〕

 「アーリマンを受け入れれば、誰でも簡単に霊能者になれる」

 “もし人間がアーリマンへと続く流れを正しい方法で理解し、洞察し、つい先日お話ししたような正しい軌道へと向かうことがないならば、なにが起こるでしょうか。そうなれば、アーリマンが特定の時期に西欧世界に受肉するとすぐに、人類の文化はアーリマン化されることになります。アーリマンはなにをもたらすのでしょうか。アーリマンはみごとな技術を用いて、霊視的な知識に関して、それまでは大変な苦労と努力と引き換えにすることによってのみ獲得することができたあらゆるものをもたらします。それがいかに計り知れないほど快適なものになるか、考えてみて下さい。人間はなにもする必要がなくなるのです。人間は物質的に安心して生きることができるようになるでしょう。人間は戦争の破局(訳注 この講演は第一次世界大戦直後に行われた)がやってきた後ですら、食べたり飲んだりすることができるようになるでしょう。そして、何らかの精神的努力について、心を煩わせる必要もなくなるでしょう。アーリマン的な流れは、「美しく、善く」進行していくことでしょう。正しい時期にアーリマンが西欧世界に受肉するならば、アーリマンは巨大な秘儀の学院を創設するでしょう。この秘儀の学院ではきわめて壮大な魔術が行われ、かつては苦労することによってのみ獲得できたすべてのものが、人類の上に注ぎ込まれることになるでしょう。わたし達はここで、地上に降りてくるアーリマンが一種の悪魔のような姿をして、人間に対してできるかぎりの悪を働く」などと、俗物的なことを考えてはいけません。そうではないのです。「私たちは精神科学について何も知りたくない」という不精な人たちはみな、アーリマンの魔力に負けてしまうのです。というのも、アーリマンは壮大な方法で、魔術によって非常に多くの人を霊視者にすることができるからです。アーリマンは個々の人間を恐ろしいほど霊視的にするでしょう。しかし、どのように霊視的になるかは、個々の人間でまったく異なっています。一人の人間の見る者は、二番目の人間には、そして三番目の人間には見えないのです。人びとは混乱し、霊視的な知恵の基礎を受け取ったにもかかわらず、互いに争ったり、喧嘩したりするようになります。なぜなら、さまざまな人間が見る者は、それぞれきわめて異なったものになるからです。しかしながら最終的には、人びとは自分の霊視能力にとても満足するようになるでしょう。というのも、かれらはそれぞれ霊界を覗き見ることができるようになるからです。しかし、その結果、地球の文化はすべてアーリマンの手に落ちることになるでしょう。自分の力で身につけなかったものをアーリマンから受け取ることで、人類はアーリマンの手に落ちるでしょう。「いまの状態にとどまりなさい。きみたちが望むなら、アーリマンはきみたちを全員霊視的にするだろう。なぜなら、アーリマンは大きな力もつようになるのだから」というのは人間に与えうるもっとも悪い助言になるでしょう。その結果、地球上にアーリマンの王国が建設され、地球全体がアーリマン化されるでしょう。そして、それまで人間の文化によって築かれてきたものは、いわば崩壊していくことになるでしょう。現代の人間が無意識的な傾向の中で欲しているよくないことが、すべて実現されることになるでしょう。ここで問題となるのは次のような点です。つまり、霊視的な種類の未来の知恵を、再びアーリマンの手から取り去らなくてはならないのです。私たちはここで、「本は一冊しかない。知恵は二つ存在しない。一冊の本だけが存在するのだ」と、いうことができます。ここで問題となるのは、その本を持つのはアーリマンなのか、キリストなのかという点です。人類がそのために戦わないならば、キリストはその本をもつことはできません。そして、そのために戦うことができるようになるためには、人類は「わたしたちはアーリマンが地球上に現われる時点までに、自分自身の努力を通して精神科学の内容を獲得し終えていなくてはならない」と、みずからに向かっていう必要があります。これが、精神科学の果たすべき宇宙的な仕事の内容です。精神科学の果たすべき宇宙的な仕事の本質は、「未来の学問は、このままアーリマン的であり続けることはないだろう」という点にあるのです。〈GA191 274〉”

 

      (渋沢賛+松浦賢「ルドルフ・シュタイナーの大予言」イザラ書房より)

 

   

・悪の戦略 (シュタイナー人智学) 

 

 “私の恩師で、日本に非常に縁のあった、フリードリヒ・ベネシュ博士という方がいらっしゃいます。1991年に84歳で亡くなられましたが、日本に三度ほど来られて講演会をされたことがあります。その方が70年代に話されたことで、私も当時聞いたことがありますが、おそらく今世紀末あるいは21世紀の始めには、もう核戦争だとか第一次、第二次世界大戦のような世界的規模での戦争は起きないであろう、人類の危機の在り方が180度変わってくるであろうというのです。”

 

 “このベネッシュ博士という方は1907年に生まれた方で、私が唯一といっていいほど体験できた、本当に人智学とキリスト教を体現できた方でございます。自然界に通暁している方で、彼が近付くと動物が反応するのです。彼が一度、京都の金閣寺の池に行った時のことですが、彼がカメラを向けますと、それまで背を向けていた亀が一斉に彼の方を向きましてね(笑)。面白い人だなあと思いました。

 それから名古屋の熱田神宮に行ったら、鶏が何十羽も寄って来るのです。あそこは鶏がいるのです。名物です。あそこの鶏は鳴かないので有名なのだそうです。ところが朝日が昇る時のようにコケコッコウと鳴くのです。そして案内してくれた人が、「おかしいな。ここの鶏は鳴かないので有名なんですけれど」と言っていました。または、馬がついてきたり、そういう非常に面白い方です。非常に洞察力があって、日本の霊的な文化を見抜かれていた方で、私は日本の霊的な文化を理解するうえで、非常に彼の影響を受けているのです。

 そのベネッシュ博士の一つの認識が、悪の側が今後戦略を変えていくであろう、というものでした。ですからおそらく全世界を巻き込むような戦争は起きえないだろう。そういうことをやってしまったら、悪の方が困ってしまうわけですね。自分たちの意図が達成できないということになるのです。どういった戦略に変わってきたかというと、人間が地上にいる間に、人間たちの魂すなわち心を無能にしてしまおうというものです。つまり、霊的な世界に対して無気力、無能、無感動にしてしまおうとするのです。以前は物質を破壊することで人類を脅かして、そして人間の存在を無能にしてやろうと考えたわけですが、今度は人間の内面が攻撃対象となるのです。ですから、大きな戦争はないといって安心してはいられません。ある意味ではそれ以上に恐ろしいことがこの世の中で進行しているのです。

 子供の世界を見てもテレビゲームなどがあります。恐いですね。あれは子供の麻薬みたいなものです。それから私がいちばん驚いたのは、バーチャル・リアリティです。ご存知ですか?ここにテレビ画面のくっついているメガネを付けまして、ここに電線が付いていて、自分が動くと、中にロボットのような映像が見えるわけです。そうすると自分の存在感がだんだんと、ここのロボットの映像と一体化してしまうのです。・・・”

 

 “・・・無神論的かオカルト的センセーションかという極端な傾向が最近目立つようになってきました。それによって中心の力がだんだんと弱くなってきています。なんとかしないといけません。まず、第一にしないといけないのが幼児の教育です。一歳から三歳までの子供の教育です。そのために必要なのは親御さんの教育の問題なのです。そうした意味で宗教の問題を考えていかないといけません。それは本当に教育の問題と非常に密接に関わっているのです。

 人間にとっていちばん大事な能力は、畏敬の念です。畏敬の念がないと学ぶことができないわけです。美しいものを見ても感動できない、聖なるものを見てそれを敬うことができないということがあります。その畏敬の念ができあがるのが、だいたいお母さんが妊娠してから、生まれて三歳までの間なのです。もちろん三歳を過ぎていても遅すぎるということはありません。宗教の世界に遅すぎるということはないのです。ただ、ちょっと面倒くさくなるだけです。私も教師をしていますので、子供のことで胃が痛くなったり、頭が痛くなったり、三日ぐらい眠れなくなったりする状況があるのです。それは実際ありますけれども、だからといって絶望的ではないということです。もし絶望的だったらこんなことはしません。一歳から三歳までで決まってしまうのであればです。そうではありませんが、ただ、いちばんいい条件を作ってあげられるのが三歳までの間であるということです。”

 

          (小林直生「悪を救済するキリストの力」涼風書林より)