親孝行の徳により神通力を授かる〔松下松蔵翁〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私は親孝行の為に力を得た、私は決して願をしたのでもなく、行をつんだのでもない。唯、生れつき親孝行をする事が好きである、一度も親に口答えせずそむいた事もなかった、元来人間は、親あってこそ自分の体がある。 生まれたのも、育ったのも皆、親の恩である、親あっての自分で、我が身が大切なら、親は尚更大切で、殊に親の子に対する愛情は無限である、それを思うなら、どうして親を大切に思わずにいられよう。 親孝行が人間の根本だ。

 今日、私が神通自在の力を、神様から授かったのは、親孝行の一事からである。

 如何に利口な人でも、偉い人でも、親孝行をする事を忘れたら、その人は無価値である。

 私は何神様を信ぜよとか、仏様は何様を信ぜよとか、決してそんな事をすすめるのではない、世の中は親孝行が第一で、親孝行さえするなら、成功もでき出世もできる。親孝行の心のない人は、病気もするし運も悪い。 これは現実のことだ、孝の功徳は広大無辺だ。「俺には学問がある、親は無学だ」と親を親とも思わぬ不心得者や、親は親、子は子だと西洋流の個人主義的思想にかぶれ、孝道の大徳を忘れている人が多いのは、実に嘆かわしい。 私の教えは 、孝行をせよ、その功徳は偉大であるという事にある。”(大正十四年)

 

 “どんな人でも、親の恩を受けない者はない。己の体も魂もみな親から得たもので、然も生長し成人するまで、その世話になる。親の恩は山より高く海より深い。大恩ある親に孝を尽くすことができない人が、盟友に尽くし、社会に尽くし、国家に尽くすことが、なんででできよう。 孝は百行の始めで人道の基礎である。どんな人も孝道を人間道徳の根本と心得ねばならぬ。 親より祖先、祖先より天地(神)へつながっている。人は天地(神)の分霊を頂き、親あってこそ我が身が存在する。親孝行は人にとって絶対の道で、人間の根源は至孝にある。私がこの様な神通力(天地の神霊と感応自在の力)を得たのも、ひとえに孝行の賜ものである。”(昭和二年)

 

 “私は、貴方達に神様を信ぜよ、松下を信ぜよとは勧めぬ。貴方がたは、親様から貰った体であって、親様から育てられた体であるから、親を大切にしなさいと、こればかりを勧める。人として親を忘れ孝行を怠るとその身、その家をほろぼす事になる。”(昭和二年)

 

 “私は、親に口答えせず、親孝行したが、親の言う事をきかなかったことが一度だけある。それは、塩田をやっていた時に、親がちょっと悪い事をせよと言われたのを、その通りにすぐにはしなかった。然し後で大変喜ばれた。

 

 “人間の恩の最大なるは、親の恩で、親あって人の五体も魂も出来る。親の恩が第一である。我々の親は先祖より、先祖の源は皇室より出ている。我々の一番大きな先祖は皇室である。故に親に孝、天皇に忠、人に真心、これが日本国民道徳の根本である。”(昭和三年)

 

 “人の為すべき道は、忠孝敬神崇祖の行いを実践する事で、この他に、神様の御心に適うものはない。”(昭和六年一月二日)

 

 “人は孝と崇祖の二大道の外に、皇室に忠、神様に敬神の二事を忘れてはならない。万国に冠絶する皇室が国民の上に君臨されているから国民は安心して生活できる、ややもすると大恩ある皇室を忘れるのは非国民だ。皇室は血統上、又事実国民の大先祖で、大宗家である上、天皇陛下は天照大御神の御直系で、お体こそ普通の人であるが、その霊的真体は宇宙大天皇の御分身、天津日嗣であらせられる。”(大正十四年)

 

 “私は病気を治す力は持っていない、神様が御治しになる、私は唯、その御取次ぎをするのみである。

 

 “私は神様ではない、神さまの御姿を見、神様の御声を聞き得るのみである。人間と神様の間を取り次ぐ通訳官である。

 

 “先の事は、十のもの九つ解かって居ても、後の一つで破れることがある。それ由、先の事は、いうことはできない。

 

 “人間は造られたものではなく、生み出されたものである。”(昭和六年)

 

 “‥‥‥祖神様は、父松下恵七、母松下チヨのご両親の間に松下家の長男としてお生まれになり、弟改平氏と二人兄弟でありました。父親は、正直者で勤勉努力家の篤行家で、その家業に熱心なあまり、外に対しては寛厚の長者であったのに対して、家長としては、すこぶる頑固一徹な厳格な性格の所有者でありましたので、祖神様の正直一途の家業ぶりを面倒がって、或る時は大声で叱咤し、或る時は鉄拳を揮って殴打されることすらあったのですが、至孝至順親孝行の権化である祖神様は、日常に於いて唯の一度として口答えをなさることがなく、嫌な顔色さえお見せにならないので、側目では気の毒なほどであったのであります。

 祖神様は、幼少頃から別段これと云った教育も受けられず、然も生まれつき余り強壮ではなく、病弱気味で医者からも見離されがちで、自分でも長命の程もおぼつかないと思われていたのであります。

 此の頃から普通の子供達とは異なり、腕白盛りであるべき八才頃から、村の老人達に交って好んでお寺に説教を聞きに行ったり、神社へ参拝に行ったり、まるでませ切った大人びた生い立ちでありましたので、子供心にも何となく俗界の事柄に興味少なく、信仰生活に心を傾けられたのでありますが、その有様を見た村人達からは、馬鹿正直と陰口をたたかれながらも、人生のことや来世のこと、そして神様のこと等に思いをはせられ、自分からお寺へ出向いて坊さんの説教を聞いたり、神社に出向いて神主さんから講話を聞いて、日夜真理の追究に励まれたのでありますが、何れも疑問と不足しか残らず満足な解答が得られなかったのであります。唯、そこに残るものは心の空しさだけだったのであります。

 十一才頃から自分に眼を向けられ、自己追及と徹底した親孝行に依る魂の修行と、神さまを求められ精進努力されたのであります。

 日常に於いては、早朝からワラを打ち、それでワラジを何足も作り、農作業の準備をされ、昼間は田圃一反五畝、田畑一反を鍬で耕し、汗水流して一生懸命に働かれたのであります。野良仕事の時は、何時も十時と三時頃になると、家から食物と飲物が運ばれて来て、皆んなは待ちきれんばかりに空腹を満たすのでありますが、祖神様は、何時も余り手をつけられず田圃のあぜを枕にして、大空を眺め思いにふけって居られたり、疲れをいやしておられたのであります。

 祖神様が仰せになるには「小さい時から、晩になると毎晩のように、食べた物を吐いていた。それで家内の兄弟と私の従兄の二人が、御祓いを奏上することになり、御祓いを奏上していたところ、三日目の晩私の口から突然「まて」と大声を発した。私も何の気が入っているのかと思った」とのことでした。祖神様はその当時二十二才でありました。

 此の様に病弱な祖神様も、信仰の力に依って少しづつ健康に成られ五人の子供をもうけられたのであります。長南松男、次男静男、長女リツ、次女サヲ、三女カヲの二男三女で、皆家業大事と幼少から両親と共に田畑を耕し、農作物を植え、その上に塩田の仕事にも従事されたのであります。

 祖神様は農閑期になるとかごを背にして十里、二十里と遠くへ塩の行商に出掛けられ、一晩泊まりとか二晩泊まりで商売に励まれ、その収入で一家の経済を支えられ、子供の養育にも心を注がれたのであります。

 ある時祖神様は、父親に対して言葉柔らかに「父上、私も本年は、四十五才に成りました、子供も既に五人あります。私を殴られるのは、私の至らぬからで致し方もありませんが、唯、子供の手前がありますから、子供の前では殴らないで下さい」と申されたところ、流石に一徹の父親も「うんそうか」とにっこり笑って、その後は打つ手を納められたのであります。この事は、又、大神様が祖神様の至孝を試された御事であります。

 祖神様は、毎朝夕には必ずその日の日課として、父親の教訓を受けることを怠らず、独断専行で、徹底的に実行されたのであります。そして自ら質素な木綿の着物を着用され、村人からは余りのみすぼらしさの為に、からかって綿布の袖を引きちぎられたのであります。然しながらその様なことには眼もくれず、偏に自己に厳しく精進され、家族の者達にも日々質素を強調され、気を配られていたのであります。

 平常近親者に対しても「人と争う時に、勝ったとて何れの利得があるであろうか、又負けたとして何れの損があろうか、俗に負けるが勝ちと云う事があり、人は出来るだけ我慢して、何時も人の下手にいて負けているのが宜しい。人は表面に立派な衣装を着てもその魂が汚れていては、誠に見苦しいものであり、仮に表面では汚い衣装を着ていても魂が立派であることを心掛けねばならない」と心掛けについて、常に申されました。

 祖神様は年とともに益々信仰心が深まり、白衣を着用なさり、連日、連夜御神前で御祈念を続けられ御信仰は頂点に達しました。

 大正八年十月七日の夜のことでありました。例に依って御神前に額ずいて祈念の心を込めて居られた一刹那、突然祖神様の口中から宛ら煙でも噴く様に、約一升とも思われる程の血が、十分間程もほとばしり出て昏倒し、そのまま絶息するかと思いの他、この突発的出来事の一瞬時から、祖神様の身体には異常な霊力が漲り、眼は不思議に物を見透し、耳は神霊の声を聞く、即ち霊眼霊耳が開かれ、神通力を得るに至り、種々異なった霊的現象、神的現象を現出披露され、三界を見透されるに至ったのであります。

 しかし、血を吐かれた時の有様は、物凄い光景で、家族の者、居合わせた人々の驚きと狼狽は、非常なものでありました。祖神様自身も「今、自分は死ぬるものではないかと思った」との事であり、祖神様の語られるところに依れば、「その吐き出された血こそ、肉身に残っていた悪血であった」とのことでありました。そして大宇宙の真理であり、大神様(天津神様、即ち天の神)の啓示であるところの忠孝敬神崇祖を喝破され、この時を以って、大宇宙に存在する大神様の御霊気と御神気が祖神様の体内に、大量にお降りになって、心身共に神様の世界の人になられたのであります。”

 

 “祖神様は、神様の御力で万病を治されたのでありますが、『私は神である』とは決して自称されなかった、又、考えても居られなかったのであります。唯、その霊力の偉大さ、愛情の深さ、人格の高潔無比なるが為に、誰云うとなく、「生神様」「祖神様」等と呼ばれるに至ったのであります。”

 

・祖神様の霊力

 

 “或る年の秋、熊本県下益城郡の某村長が肋骨を折り、病院では手術をするより外はないと診断されて手術怖さに参拝し御手数をお願いしたところ、

 よろしい、神棚から骨を出して、取り替えてやろう

と仰せになりニ、三分間御手数をされて、

 もうすっかり治った

と仰せになった。あまりにも簡単なのに村長は不審そうに胸を押さえたり、撫でたりしてから、「おかげ様で大変よくなりました」と喜んで帰った。傍でこれを見ていた人が、「骨の取り換えが、こう簡単にできるのですか」とお尋ねすると、神棚を指して

 あの中には何でも沢山予備品がある。ここは人間の修繕所なんだから

と、事もなげに言ってお笑いになった。”(昭和三年)

 

 “総てのものは、神様の気でできている、鉄の気を金の気に変えると、鉄は金になる。

と仰せになり、鉄の火箸一本をお付きの方に持たせて、それを金に変えられ、十日もこのままにしておくと全部金になるとの事であった。”(昭和九年~十一年の頃)

 

(松下延明編纂「神書」(祖神道出版部)より)

 

*私が最初に松下松蔵翁(祖神様)について知ったのは、宗教学・神道学者で本田親徳師そして長澤雄楯師の鎮魂帰神術を継承された渡辺勝義先生の著書「古神道の秘儀」(海鳥社)を通じてでした。もう二十年も前のことですが、興味をもち、わざわざ熊本県長洲町の祖神道本部まで訪ねて行きました。長洲駅から歩いて行きましたが、途中に松下翁の墓所があり、それがあまりにも巨大で、さらにすべてが石造りの立派なものであったのには驚きました。ちょうど十八日の月次祭の日で、参拝者が十名ほどおられ、祭典後に祖神様の実孫であられる松下延明管長が、松下翁が実際に「御手数(おてかず)」で使っておられたという「笏」を一人ひとり全員の体に当てて御祈願をして下さいました。それから色々と当時の話をお伺いしたのですが、参拝者の中には東京からはるばる来られたという方もおり、霊的な方々の間では、松下松蔵翁のことはよく知られていて、平成の時代となっても、祖神様の霊的な導きを受けておられるという方がいらっしゃることに感動しました。

 

*霊能力開発のために、瞑想や呼吸法を実践したり、セミナーなどに参加されたりする方は多いようですが、ここで紹介させていただいた松下松蔵翁(祖神様)は、ひたすら親に孝行を尽くしたことで、神様から超人的な力を授けられました。やはり「本物」というのは、こういうものではないかと思います。ただ、祖神様の父であった松下恵七氏は立派な人格者であったようですが、最近児童虐待が大きな問題となっているように、実際に毒親というのも存在するわけで、そのような親にまで無条件に従うべきだとは思いません。ここで紹介させていただいた祖神様の言葉にもありますように、たとえ親の命令であっても、明らかな悪事であれば行うべきではありません。