心のほかは何もない (仏教) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “‥‥‥法然上人はお弟子になさいました「逆修説法」の中で次のように言っておられます。

 大安寺の勝行上人という真言宗の行者がいました。三昧道場に入って一溜りの水となりました。お弟子が来て外から見ますと、師匠は居ないで一溜りの水があります。不思議に思って側にあった石ころを拾って、水の中へ投げ込みました。ポカッと音がします。変だなと思っておりましたが、そのまま居間の方へ下がってしまいました。しばらくしてから師匠が三昧道場から出てきて、「今日はどうも変だ、この胸の所が痛む」ということです。それでそのお弟子が、実は変だと思って石ころを投げたと言いますと、「ウン、道理で痛いと思った。今度火になるから、石ころをその中から拾ってくれ」とおっしゃいました。それから三昧道場に入って、火となりました。お弟子が拾ってしまうと、三昧道場から出て来て、「これでいい気持ちになった」ということです。

 また弘法大師もよく修行を積まれました。支那からお帰りになると、さっそく時の天皇に召されました。その時、弘法大師は直ちに如来様になりました。あたりを赫奕(かくやく)として照らします。天皇は目のあたりにこれを御覧になりましたので、弘法大師に御帰依遊ばされたということであります。

 また真言宗には古義と新義とありますが、その新義の開祖を覚鑁(かくばん)上人(一〇九五~一一四三)と申しますが、よほど生前から御修行を積まれていたと見えまして、まだある寺の小僧をしていた時に、風呂焚きをしていながら不動様の三昧に入りました。かわいい御一体の不動様となりました。たまたま師匠がそこを通りかかって、「ウン、小僧、やっとるな」と言われたという事です。

 空間も心であります。アインシュタインは、空間は心だと言っております。ゼロも心であります。刺激の本源は三昧中の観念であります。境の本源も刺激も三昧中の観念であります。心に麻痺したと思うと麻痺する。もしそれが心でなければ、心でどう思っても何ともなるはずありません。見と見縁は根、境であります。三昧中の観念であります。そうしますと、我々には身体と心があるが、心のほかは何もない。根も、境も、知る主としての我だという事になります。では、只今はこれまでにいたしとうございます。”

 

(笹本戒浄述「真実の自己」(光明会本部聖堂)より)

(笹本戒浄上人)

*笹本戒浄上人(1874~1937)とは、浄土宗の聖僧、山崎弁栄上人の高弟の一人です。若いころ信仰を失い、東京帝国大学で心理学を研究されたりもされましたが、その後、弁栄上人のお弟子となられ、修行に精進し、ついに念仏三昧の境地、「我というは絶対無限の大我なる無量光寿の如来なりけり」という境地を達成されました。以後は浄土宗の僧侶として、また光明会の初代総監として、多くの人々を導かれました。鈴木大拙氏や西田幾多郎氏とも交流があったそうです。

 

*タイトルを「心のほかは何もない」としておりますが、仏教においては、「最終的には心にも実体はない」とする「唯識思想」が説かれており、決して「唯心論」というわけではありません。笹本上人は、「今までは心と名付くる事実を捉えずに、ただ心という言葉の持つ概念によって心を扱っていたのだという誤りに気付きました」(「笹本戒浄上人全集中巻」)と述べておられますので、おそらく「心」について、一般とは異なる概念をお持ちであったのではないかと思います。

 

*笹本上人の師であった山崎弁栄上人は、一つの米粒に「南無阿弥陀仏」の名号をお書きになられたことでも知られていますが、目撃した人の話によると、普通の大きさの筆で、一粒に書くのにわずか一秒しかかかりませんでした。なぜこのようなことができるのかを訊ねると、「(米粒を)お盆の大きさにして書いているのでわけはない。華厳経の悟りを我がものとしたならばできる」とお答えになったそうです。当然のことながら、傍で見ていても米粒の大きさに変わりはなかったのですが。さらに、笹本上人の兄弟子で、川崎市生麦の安養寺の住職であった宮本契善上人も、様々な神秘的な体験をされていた方でしたが、宮本上人は、「一粒の米粒も全世界、然し全世界が小さくなったわけでもない、米粒が大きくなったわけでもない」という言葉を残されています(笹本戒浄上人「偲び草」光明会聖堂教学部)。

 

・ミラレパ (チベットの偉大なヨーギ)

 

 “これまで述べたことは、公然の秘密であり、誰でも、自分自身で見いだすことができるものだ。私たちは、いわば「裏表逆にして」生きている。外の世界から切り離された「自分」という存在を投影し、今度はその外の世界を操作して、満足を得ようとしているのだ。だが、二元論的な状態にとどまるかぎり、その経験の深部には、つねに喪失感や恐怖、不安感、そして不満が横たわっている。

 これに対して、二元論のレベルの彼岸に至れば、どんなことでも可能になるのである。

 ミラレパの洞窟の近くには、非常に学問を積んだチベット僧が住んでいて、自分のことをとても知的だと思い込んでいた。彼は、自分の知性をもってすれば何でも克服できると考えていた。ところが、奇妙なことに、みんな、なんの学問もないミラレパのところに教えを請いに行き、この僧のところには、誰ひとりとしてやって来なかったのである。僧は、非常に嫉妬して、ミラレパと議論するために出かけて行った。彼は、選び抜かれた短い言葉を示して、ミラレパと議論しようと思った。そこで、こう尋ねたのである。「空間は物質か否か?」―― ミラレパの答えは、「物質だ!」であった。僧は、「こいつは、とんでもないおろか者だ」と心の中で思い、同じやり方でもっと議論しようと準備し始めた。するとミラレパは、棒を取り上げ、何もない空間を、まるで太鼓のように叩き始めたのである。僧は、今度はこう尋ねた。「岩は物質か否か?」すると、ミラレパは口で答えるかわりに、岩に自分の手を突き通してみせた。驚いた僧は、彼の弟子となったのである。”

 

(ナムカイ・ノルブ・リンポチェ「虹と水晶 チベット密教の瞑想修行」(法蔵館)より)

*長野市の坐禅道場、活禅寺を開かれた異次元の怪僧・徹禅無形大師(中曾根元総理の禅の師匠でもあった方です)についても、屋外での法要のとき、線香を石に、まるで豆腐に箸を刺すようにプツリプツリと刺してしまわれた、という話が伝えられています(参考:「活禅」活禅寺無形会)。

 

*あと、カルロス・カスタネダによって紹介されたメキシコのヤキ・インディオの呪術師の世界観においても、我々が普段意識している世界は、本当のありのままの世界ではない、ということが説かれています。世界がかくかくであり、しかじかであるのは、我々が常に世界はかくかくであり、しかじかであると自分自身に言い聞かせているから、なのだそうです。そこでこの『内部の対話』を止めること、言い換えれば『世界を止めること』が、呪術師としての修行の課題となります。禅の教えとも通じるものがあるようです。

(外園昌也「ワイズマン1」講談社)