死者の霊魂の救済 〔ピオ神父〕 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “一九三六年一月、三人の平信徒が神父の部屋に入った。突然、ピオ神父は跪き、「神の審判席に間もなく着く一人の霊魂のため」祈るように三人に頼んだ。皆跪き祈った。

 皆が立ち上がった時、ピオ神父は訊ねた。「誰のために皆さんが祈ったか知っていますか?」

 「いいえ、あなたの意向に沿ってお祈りしただけです。」と彼らは答えた。

 「皆さんがお祈りしたのは、イギリス王のためでした」とピオ神父は言った。

 三人の訪問者の一人、サングイネッチ先生は言った「しかし、神父様。今日の新聞で、王は軽い流行性感冒にかかっただけで、重病ではないと、読んだばかりです」。

 「私の言った通りです」とピオ神父は主張した。

 真夜中に、アウレリオ神父は、自分の部屋のドアを誰かが叩くのを聞いた。開けるとピオ神父が立っており、「神の審判席の前にただ今出ることになっている霊魂のために祈りましょう。その人はイギリス王です」

 二人の神父はしばらくの間、共に祈った。次の日の午後、ピオ神父がアウレリオ神父の部屋にいた時、イギリス王ジョージ五世が死去したと、諸新聞が報道した。”(P126~P127)

 

 “煉獄の哀れな霊魂へのピオ神父の愛は大変なものである。「祈れ、祈れ、祈れ」と、いつも霊的子どもたちに話した。「煉獄を空っぽにしなければなりません。煉獄にいるあらゆる霊魂は、そこから解放されなければなりません」

 煉獄の霊魂のために祈ることによって得られる免償を教会が取り消した時、ピオ神父はびっくり仰天し、「今や誰が煉獄の聖なる霊魂のことを考えるでしょうか?その人たちのために大いに祈りなさい」と言った。”(P158)

 

(ジョン・A・シュグ「ピオ神父の生涯」(聖母の騎士社)より)

 

*聖パードレ・ピオ(ピオ神父)は、死者の霊魂、煉獄にいる霊魂たちの救済に殊の外熱心で、彼の霊的子供たちに、聖母マリアへの崇敬と、煉獄の霊魂のための祈りをすることの二つを義務として課しておられました。

 

*ここで意外だったのは、イギリス王ジョージ五世はイギリス国教会(聖公会)の信徒であり、カトリックではなかったことです。ピオ神父は、ユダヤ教など、他の宗教のことも尊重すべきであると語っておられ、第二次ヴァチカン公会議以前に、既にエキュメニカルな考えをお持ちであったようです。なお、ジョージ五世は航海好きで青年時代に来日されたことがあり、さらに大正時代に昭和天皇が英国を訪問されたとき、あたかも父親のように親身になって世話をされ、その後の昭和天皇に大きな影響を与えたと言われています。日本人にとっても恩人であったお方です。

 

 

 “私は、逝くなった両親のため今でも祈るべきかどうか、神父様に訊ねました。神父様は答えました。「両親が天国に居ても、私達は常に祈らなければなりません。両親が最早祈りを必要としないならば、祈りは他の霊魂に適用されます。」”(P107)

 

 “フィレンツェの偉大な大司教、聖アントニオは、成人の住んでいたドミニコ会修道院の偉大な友人であった敬虔な紳士が逝去したことについて打ち開け話をした。多くのミサやとりなしの祈りが紳士の霊魂のため捧げられた。これらすべてにもかかわらず、聖人は非常に困っていた。長い月日の後、哀れな紳士の霊魂が鋭い苦痛を忍びながら、聖人の前に現われた。大司教は叫んだ。「ああ、私の親友よ、あなたはまだ煉獄に居るのですか?」苦しみの紳士は答えた。「はい、私はこれからも長い間そこに留まらなければなりません。この世にいる間、煉獄の霊魂のためとりなしの祈りを捧げる事を怠ったからです。わたしのために捧げられた祈りを神が煉獄の霊魂にまわしているのは正当です。これらの霊魂達のために私は祈るべきでした。然し、私が天国に入る時、私の善行のあらゆる功徳を、神は正義の名に於いて私に下さるでしょう。然し、第一番に、他人に対する私の重大な怠りを償わなければなりません。」

 私達の主の言葉は真(まこと)である。「汝が与える尺度は汝が受ける尺度とならん。」(マルコ4・24)親愛なる読者よ、この敬虔なる紳士の恐るべき運命は、煉獄の霊魂のための祈りを怠り、助けることを拒否する者達全員の運命であることを心に銘じるように。

 

 或る日、ピオ神父は煉獄の霊魂達が私達のために祈れるかどうかについての議論にまき込まれた。或る著者は、それは必要でないと書いた。ピオ神父は言った。「その本を決して私は承知できない。その本を閉じなければならなかった。その本は私をとても混乱させた。いや、いや、煉獄の霊魂が私達の祈りに返礼しないことは不可能です。

 ピオ神父の霊的指導者、アゴスチノ神父も議論に加わるため、入って来た。午後二時、昼寝の時間で、自室へ行く途中であった。自室の入り口で立ち止まり、心からの熱心さを込めて主張した。「人々が何と言おうと、煉獄の霊魂のためいつも祈ろう。お返しに何かを必ず頂く。」”(P136~P137)

 

(アレッシオ・バレンテ神父「煉獄の霊魂は叫ぶ!「ピオ神父、万才!」」(近代文藝社)より)

*カトリックでは、煉獄の霊魂を救済するために最も効果的なのは「ミサ聖祭を捧げること」とされていますが、他にも煉獄の霊魂の救済のための様々な祈りがあります。

 

*福者シスター・コンソラータ(1903~1946)に御出現になったイエズス・キリストは、彼女に、

「イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救って下さい!」

という祈りを教えられました。短い祈りですが、この祈りを一回唱える度に、一つの霊魂が煉獄から解放されるといわれています。

 

*ちなみに、出口王仁三郎聖師は、「たとえ霊魂がすでに現界に生まれ変わっていて霊界には居なかったとしても、その霊魂への供養は、現界に居るその人物の元に届く」と言われています。

 

*確か心霊科学についての本でしたが、死者のための供養は、供養をする本人もまた恩恵を受けるということでした。生前に死者のために供養を行なっていた者は、例え身寄りがなくても死後にその自分の供養で救われた霊魂たちによって助けられる、あるいは生きている誰かからの供養を受けることが出来るのだそうです。また、霊界にいる先祖の霊と現界の子孫の間には霊的なつながりが有り、子孫が善行に励めば、それはそのまま先祖の供養にもなります。さらに、人の生死には「産土の神様」が深く関わっておられるので、産土の神様に亡くなられた方の霊魂の救済をお願いするとよいと言われる方もおられます。とはいえ、一方で喪が明けるまで神社には行かぬが良いと主張される方もおり(特に神葬式でなかった場合)、この点についてはケースバイケースでしょうし、私には判断がつきかねます。あと、神社に病気平癒を祈願した直後に容態が急変してお亡くなりになったということもあるようですが、神様が、その方の霊魂を天国へ救い上げるために、やむを得ず国替えさせたということのようです(病死もまた病気に対する勝利です)。

 

 

・小説「カラマーゾフの兄弟」から 〔ロシア正教、ゾシマ長老の説教〕

 “青年よ、祈りを忘れてはいけない。祈りをあげるたびに、それが誠実なものでさえあれば、新しい感情がひらめき、その感情にはこれまで知らなかった新しい思想が含まれていて、それが新たにまた激励してくれるだろう。そして、祈りが教育にほかならぬことを理解できるのだ。また、このこともおぼえておくがよい。毎日、できるときでよいから、『主よ、今日御前(みまえ)に召されたすべての人を憐れみたまえ』と、たえず心の中で繰り返すのだ。それというのも、毎時毎分、何千という人がこの地上の生を棄て、その魂が主の御前に召されていくのだが、そのうちのきわめて多くの人が、だれにも知られず、悲しみと愁いのうちに一人淋しくこの世に別れてゆくのであり、だれも彼らを憐れむ者はなく、そんな人たちがこの世に生きていたかどうか、それさえまったく知らないからだ。と、そのときおそらく、地球の反対の端からお前の祈りが、たとえお前がその人をまったく知らず、先方もお前を知らぬにしても、その人の安らぎをねがって主の御許にのぼってゆくにちがいない。恐れおののきながら主の前に立ったその人の魂にとって、その瞬間、自分のためにも祈ってくれる人がいる、地上にまだ自分を愛してくれる人間が残されていると感ずることが、どんなに感動的であろうか。そして神もまたお前たち二人を、いっそう慈悲深く眺められることだろう。なぜなら、お前でさえそんなに彼を憐れんでやった以上、お前より限りなく慈悲深く愛情豊かな神は、なおさらのことだからだ。そしてお前に免じてその者を赦してくださるにちがいない。”

          (ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」新潮文庫より)

 

 

・「霊界物語」による死者の霊魂の救済

 

 “「霊界物語」の拝読は、私たちのみたまの糧として大事なことはよく判っていますが、また亡くなられた霊にとっても、大事な糧であるという一例を申し上げてみたいと思います。

 綾部へ聖師さまのお供をさしていただいた時の話ですが、聖師さまはいつもお寝みにななる時は物語の拝読を聞きながら、お寝みになられるのですが、いつものように山水荘で物語を拝読しておりますと、誰もいるはずの無い二階からトントントントンと下りてくる人の足音がして、衣擦れの音と共に、私の横にチョコンと座る気配が致します。私は“アッ、気持ちが悪い”と思いましたが、“ナーニ聖師さまがおいでになるのだもの、こわいことはない”と思って、物語を読み続けていました。

 終わって見廻しましたが、もちろん誰もいません。聖師さまに「さきほどここに人の座る気配が致しましたが、あれは何だったでしょうか」とお聞きしましたら、「あれは中有界に迷っている霊が物語を聞きにきたのや。物語を聞いて、あれで天国に救われるのや、だからそこらに人がいなくても声を出して読めというのはそのことや」とお教え下さいました。”

 

(「おほもと」昭和47年10月号 三浦玖仁子『神は見通し聞きとおし』より) 

 

・四十九日間の供養

 

 “中有(ちゅうう)の四十九日間は幽界で迷っておるから、この間に近親者が十分の追善供養をしてやらねばならぬ。又これが親子兄弟の務めである。この中有にある間の追善供養は、生有(しょうう)(注:死後50日以後。霊魂の行く世界がほぼ確定する)に多大の関係がある。” 

 

 (「霊界物語 第一巻 霊主体従 子の巻」『第十四章 神界旅行の一』)

 

*死者の霊魂の救済のためには、「霊界物語」の第四七巻と第四八巻の「天国篇・霊国篇」の音読が特に効果があるといわれています。

 

*様々な供養のやり方がありますが、「地蔵流し」を行なうことで、自殺者やひどい死に方をされた方など、成仏が難しい霊魂ですらも救済できるといわれています。いくつかの寺院で行なわれているようですが、たとえば弘法大師生誕の地、香川県の屏風ヶ浦「海岸寺」でも「千枚地蔵流し」を行なっておられます。申し込めば開眼された千枚地蔵の護符を送って下さるそうなので、自分で行なうことが出来ます(代行して頂くことも可能です)。

 

 

 

 

 

 

 


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