宗教をもつことの意味(あるスブド会員の体験) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・宗教をもつことの意味(あるスブド会員の体験)

*スブドとは、インドネシアの預言者、バパ・ムハマッド・スブー(1901~1987)が受けた啓示によって始まった霊的運動のことで、会員たちはラティハン・クジワアンという霊的修練を行っています。G・I・グルジェフの高弟だったJ・G・ベネットによって世界中に拡まり、日本にも支部があります。

   

 “日本では、ほとんどの宗教が形骸化し、活力を失ってしまって、今では無宗教であることがむしろ正常と見られるようになっています。ですから、その面からも、私は特定の宗教をもつ必要を全く感じませんでした。

 一方、バパは、スブドに入っても自分の宗教を捨てない方がよいと会員にアドバイスしていました。バパはイスラム教徒として生まれ、終生イスラム教徒として過ごしましたが、宗教に優劣をつけず、ましてイスラムに勧誘するような言動は一切しませんでした。そして、宗教を求める会員に対しては、自分の魂の性質に合った宗教を選ぶようにと言っていました。しかし、私はその言葉を軽く考えていて、私にはラティハンだけで充分だと思っていました。

 ところが、十年以上たったある日、私の宗教に対する考え方を一変させるような出来事が起こったのです。

 夏のある日のこと、私はフランス系のカナダ人会員と話しながら、人ごみの中を真昼の大通りを駅に向かって歩いていました。話していたのは主に彼で、私は聞き役でした。そのうち彼は、ユダヤ教やイスラム教で伝統的に行われている割礼についての意見を述べ始めました。彼が何を言ったのか、実は憶えていません。しかし、彼の言葉を聞きながら、何気なく自分の胸のあたりを見た瞬間、私は自分の目を疑いました。何と、私に見えたのは、衣服をつけず、素っ裸で人ごみを縫って歩いている自分の姿だったのです。もちろん、客観的に言えばそれは一瞬の錯覚でしたが、まるで本当に裸で通りを歩いている自分を見た気がしたのです。つまり、そういう姿が意識の眼に映ったのです。それは、強い現実感と、その体験が何を示しているかについての直観的な理解をともなっていました。

 私が見た裸の体は、「内なる私」を表していました。長年のラティハンの結果、私の内部では「内なる自己」がすでに生まれて成長し続けていました。しかし、私が獲得したこのスピリチュアルな「内なる自己」は、それに対応する外側の装いをまだ持っていませんでした。

 眼に見えないこのスピリチュアルな自己が、この世でまとうべき装い、それが宗教だったのです。衣服をまとわず裸のままでいるのは、この世の人間としてはまだ正常ではないことを表しています。赤ちゃんは裸で生まれますが、この世では衣服をまとう必要があります。そしてその装いは、なるべくその人に合ったものでなければなりません。なぜなら、衣服は、その人が持っている性格を部分的にではあっても眼に見える形で表現するものだからです。

 ですから、私も、私自身の内面生活のためにはラティハンだけで充分だとしても、宗教を持たなければ、中身はあってもそれに対応する外側の表現を欠いた状態ということになり、死後はともかく、この世に生きる人間としてはまだ完全とは言えないのでした。

 これが、そのとき私が一瞬のうちに理解した内容でした。私は宗教を持つべきだと感じました。そして選んだのはイスラムでした。” 

 

           (建部ロザック「魂の究極の旅」たま出版より)

 

・エドガー・ケイシー・リーディング

 “これまで見てきたように、ケイシーのリーディングは次の事を主張している。すなわち、聖霊としてのイエス・キリストは、今もこの世界にとどまり、活動しておられるということである。特に、主を自らの内に招き入れようとする者の中においてそうである。イエス復活と昇天後の活動や、聖霊降臨後の弟子たちの活動についても、かなり豊富な資料がある。またケイシー・リーディングを読むと、イエス・キリストが教会に対して特別な関心を払っていたことが感得される。といっても主の活動が組織教会に限定されるわけではない。実際、「教会の長とされたお方そのものが教会である」(二六二-八七)と言われる。つまり、「人がかの御子、かのお方を仲介者としたことに気づくならば、それが教会であり、それが聖なる教会と呼ばれるものである」(二六二-八七)

 他にもこのような言葉がある。「真の教会はあなたの内にある。主もかくの如く語られた。『あなたにとって、私が教会である。王国はあなたの内にある』と」(四五二-七。参照ルカ17章21節、マルコ2章19節、ヨハネ3章29節)。したがって、ケイシーのリーディングは、キリスト教会に対して如何なる種類の絶対的な霊的意義を与えない。しかし何人かの人達に対しては、教会に参加する事を良しとしている。「ある種の教会組織は良い。というのも、それによって心が中心に定まるからである」(三三五〇-一)と。「教会組織に関して言えば、あなたの都合で選ぶのではなく、教会の名称はどうであれ、あなたが最も良く奉仕できるようなものを選びなさい……」(三三四二-一)「信条であれ組織であれ、その教会のものを奉じよ。しかし、どのような活動に加わろうとも、主のものである奉仕は、神に、キリストに捧げよ」(五五六-一)。「主が語られたように、真理は、どのような宗派、宗団のものであろうと、一つの源から出ている、ということがわかるだろう。樫の木、とねりこの木、松の木等、木にも色々な種類があるではないか。これらのものにも、それぞれ経験すべきものがあるのだ。これらの中から一つだけを選び、それをあなたの人生においてすべてのものとしようとするのか?すべてのものは、それぞれなりの場所を占めるのだ。他のものに欠点を見い出すな。むしろあなたという存在がどれほど素晴らしい松であるのか、とねりこであるのか、樫であるのか、ぶどうの木であるのか、それを示すがよい!(二五四-八七)。”

 

 (リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)