最後のアダム 〔エドガー・ケイシー・リーディング〕 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・最後のアダム 〔エドガー・ケイシー・リーディング〕

 

 (問) イエスはいつ、自分が救世主となるべきことを知ったのでしょうか?

 (答) アダムとして、彼がエデンで堕落したときである。

 

 “……神学的には、六八〇年及び六八一年にコンスタンチノープルで開かれた第六回宗教会議の立場と共通したものがある。その宗教会議では、いわゆるキリスト単位論を説く異端に対立する形で、イエス・キリストの中に神と人間の二つの意志があった、とされたのである。しかしケイシーは人間の意志に対してもまたイエスの個性に対しても、その宗教会議がおそらくは付与したであろうもの以上の意味と豊かな背景を与えている。その証拠に、イエスは最初のアダムでもあったと、ケイシーはきっぱりと述べているのだ。

 使徒パウロが「アダムは来るべき者の型である」(ローマ人への手紙5章14節)と書き、アダムとキリストを等号で結んだことはよく知られている。またアダムとキリストを対比させて「最初のアダムは生きたものとなり、最後のアダムは命を与える霊となった」(コリント人への第一の手紙15章45節。15節22章参照)とある。かくしてキリストは、最初に予示された最後のアダムと見なされるのである。すなわち神に対する最初の不服従の結末を、服従によって解消したのである。しかも、より大いなる善果をもってである(ローマ人への手紙5章12~21節)このテーマはイレナウスの『総括』神学においても展開されている(彼は二世紀に活躍した)。彼はイエス・キリストをアダムの堕落の『総括』として、ただしその方向と質を逆にしたものとして叙述している。

 現代の聖書解釈者らはほとんど例外なく、パウロの言葉を比喩的なもの、つまりキリストの人物と業(わざ)を比類ないものとして強調するための修辞法に過ぎないと考えている。それゆえ、ケイシーのリーディングが、イエスを「エデンの園で堕落した」アダムそのものとしているのを読むとたいていのキリスト教徒はショックを受ける(二〇六七-七)。そして正統派のキリスト教徒にとっておそらく最もショッキングなのは、彼らがこれまで無原罪であると信じていたイエスが、罪を負っていただけでなく、長い間、人間の罪の創始者と見なされていた人物そのものであると、リーディングがほのめかしている点であろう。否、はっきりと述べていると言った方がよいかも知れない。

 しかしケイシーのリーディングを更に読み進みなら、ケイシーの驚くほど巧妙な論理によって、そのショックの大半は取り除かれるであろう。私の知る限りでは、キリストとしてのイエスに罪があると述べた箇所はない。キリストの段階に達したイエスにおいては、服従の点でもまったく欠点がなかったし、父なる神との関係においても完全であったのだ。それゆえ、「あらゆる実体が彼によって、彼を通して父なる神との真の関係を理解できるよう自らを世に与えた時、イエスという人間は創造の諸力、すなわち神、父なる神との完全な関係を達成したのである」(三三五七-二)。したがって、「ある時の地上生活では律法を成就しそこなったが」(二〇七二-八)それと較べて、ナザレのイエスとして到来した主は、あらゆる律法を完全に成就したのである。

 しかしながらケイシーのリーディングはさらに次のように語っている。すなわち、救世主となるにふさわしい者はただアダム一人であり、そのアダムがイエスとして最終的に現われた、ということである。つまり創世記第一章(1章28節)でアダムが神から「生めよ、ふえよ、地を治めよ!」と命じられたように「アダムは世界の救い主にならなくてはならない……。最初のアダム、最後のアダムは、そうして地を治める力を与えられたものである……」(三六四-七)。”

 

 (リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)