アブラクサス(神であり悪魔である至高の存在) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “一九一九年といえば、一九一四年に始まった第一次世界大戦が五年間の戦乱を経てようやく終結し、ベルサイユ条約が結ばれた年である。この年、敗戦直後のドイツでシンクレールという無名の新人作家の小説『デミアン』が発表され、異様な反響を巻き起こした。新人作家シンクレールはフォンターネ賞を受賞するがいっこうに姿を現わさず、やがてこの新人作家がヘルマン・ヘッセにほかならないことが新チューリッヒ新聞紙上で論証され、ヘッセもついにこれを認め賞を辞退した。この小説は、精神的な危機に直面していた四十歳前のヘッセが、ユングの弟子ラングの精神分析を受け、それから得た内的洞察をもとに、少年シンクレールの魂の苦闘と成長の物語として描いた小説である。ヘッセはこの小説を一九一七年に激しい勢いで数か月のうちに書いた。ここにはエロスと霊性の肯定とその自己成長の道が、内なるダイモーンであり、母でもあり、愛人でもあり、悪魔でも神でもある霊的至高存在「アブラクサス」の導きの下に成し遂げられる過程が力強くも静かにうたわれている。このヌミノーゼ的な存在であるアブラクサスを、ヘッセは、「神的なものと悪魔的なものを結合する象徴的な使命を持つ一つの神性の名」、「歓喜と戦慄、男と女が混じ、最も神聖なものと最もいとわしいものとがもつれあい、このうえなく柔らかい無邪気さの中に深い罪が痙攣している。‥‥‥(中略) ‥‥‥それは天使と悪魔、男と女とを一身に兼ね、人と獣であり、最高の善と極悪であった」(高橋健二訳)と表現している。ヘッセは渾身の力をふるってこの小説を書きあげることで危機を脱した。象徴的に戦いと死を体験し、それをくぐり抜けることで新生へ達したのである。

 ほぼ同じ頃に、四十歳前後のユングも精神的危機にぶつかり苦闘している。一九一二年、問題作『リビドーの変容と象徴』を書いて完全にフロイトと訣別したユングは、この後数年間、強烈な方向喪失感と崩壊感情に悩み、チューリッヒ大学私講師の職も辞任して自宅に閉じこもりがちになる。この頃しきりに、恐るべき洪水に襲われたり、真夏に凄まじい寒波に襲われたヨーロッパ全土が凍結してしまうというような夢やヴィジョンを見ている。時あたかも第一次世界大戦に突入しつつあった。自己と世界のシンクロニックに重なり合う二重の危機が、ユングの無意識に波動攻撃をかけてきたのである。こうしてユングは、夢や空想や幻想(ヴィジョン)となって噴出してくる無意識の力と対決せざるをえなくなり、苦闘の末に、光と闇、善と悪、神と悪魔という相反する極性を包摂する統合神「アブラクサス」の姿を描き、熱烈な讃歌を捧げることを通して危機を乗り越えようとする。その苦闘の記念碑が『死者への七つの語らい』と題された古文献の偽作(フィクション)である。ユングは一九一六年にこの小冊子を私家版で出し、親しい友人たちに贈った。その中に次のような一節がある。

 

夜、死者たちは壁に沿って立ち、叫んだ。

われわれは神について知りたい。神はどこにいるのか、神は死んだのか、と。

神は死んではいない。今までと変わらず生きている。神はクレアツールである。 ‥‥‥(中略)‥‥‥アブラクサスは力、持続、変化である‥‥‥

アブラクサスは知ることの難しい神である。‥‥‥

アブラクサスは太陽であると同時に、虚空の永遠の吸い込み口であり、非難するもの、切断するもの、悪魔である。

アブラクサスの力は二面的である。しかし、お前たちの目には、その互いに対向する力が相殺されてしまうので、それらを見ることができない。

太陽の神の語るところは生であり、

悪魔の語るところは死である。

アブラクサスは、しかし、尊敬すべくまた呪わしい言葉を語り、それは同時に生であり死である。‥‥‥

それは地下の世界の怪物であり、千の手を持ったくらげ、翼のある蛇のとぐろ、狂気、である。

それは原初の両性具有である。

それは水中に住み陸に上がり、真昼にも真夜中にも合唱する蛙やガマの主である。

それは空虚と結合する満ちたるものである。

それは聖なる交接である。

それは愛であり、その殺害者である。

それは聖者であり、その裏切り者である。

それは昼の最も輝かしい光であり、狂気の最も深い夜である。‥‥‥

                                     (『自伝』2 河合隼雄他訳)

 

 魂から奔り出る異形の叫び声や無意識の流れを、それ自体としてユングは肯定し見つめようとしていた。彼は晩年に、『自伝』の冒頭でこう語っている。「私の生涯は、無意識がそれ自身を意識化していく物語だ」と。だとすればこのときユングは、無意識の龍蛇であり、「原初の両性具有」であるアブラクサスがおのれ自身の姿を見、意識化してゆくその最も困難な目覚めのさ中を生きていたに違いない。すなわち、彼の言う「個性化」の過程、認識による浄化の道を。

 一方、一九一九年、大正八年の日本では、『友情』(武者小路実篤)や『大正維新の真相』(浅野和三郎)が出版され、白樺派や大本教の世の立替え・立て直し運動が国民的注目を集めていた。一九一八年十一月六日、第一次世界大戦が休戦となったその日、大本教の開祖出口ナオは息を引きとった。変性男子(厳霊(いづのみたま、男霊女体でナオのこととされる)の死に直面した変性女子(瑞霊(みづのみたま、女霊男体で出口王仁三郎のこと)は、この後、厳霊=火と瑞霊=水の両者を統合した霊性を持つ者「伊都能売霊(いづのめのみたま)」と呼ばれることになる。反対物の一致、統合の思想、エロスと無意識と霊性の発現。この時代に、西洋と日本には因果律を越えるシンクロニシティがはたらいているかのようだ。そしてこのことは第一次世界大戦の勃発とその長期にわたる戦乱と無縁ではない。わが国では霊学や霊術や心霊主義(スピリチュアリズム)の流行期であり、武者小路実篤の「新しい村」や皇道大本の「大正維新」運動のように、理想主義的でユートピア的な精神運動の高揚期でもあった。”

 

       (鎌田東二「神界のフィールドワーク 霊学と民俗学の生成」(創林社)より)

 

 “その時、私はふたたび先生の声を聞いた。大きな声で先生は「アプラクサス」と言った。

 その説明の初めは聞き落としてしまったが、ドクトル・フォレルンは話しつづけた。

「われわれは古代のあの宗派や神秘的な団体の考えを、合理主義の観点の立場から見て素朴に見えるように、それほど素朴に考えてはならない、古代は、われわれの意味での科学というものはぜんぜん知られていなかった。そのかわり、非常に高く発達した哲学的神秘的真理が研究されていた。その一部から魔術と遊戯とが生じ、しばしば詐欺や犯罪になりさえした。しかし魔術でも高貴な素性と深い思想を持っていた。さっき例にひいたアプラクサスの教えもそうであった。人々はこの名をギリシャの呪文と結びつけて呼び、今日なお野蛮な民族が持っているような魔術師の悪魔の名だと思っているものが多い。しかしアプラクサスはずっと多くのものを意味しているように思われる。われわれはこの名をたとえば、神的なものと悪魔的なものとを統合する象徴的な使命を持つ、一つの神性の名と考えることができる」

 小男の学者は鋭く熱心に話しつづけたが、だれもたいして注意していなかった。あの名まえはもう出て来なかったので、私の注意もまもなく自分自身の心の中にもどってしまった。

「神的なものと悪魔的なものを統合する」。そのことばがあとまで私の耳に残った。そこに話がむすびついていた。それはデミアンとの交わりの最後のころの対話以来親しんできたことだった。そのときデミアンは、われわれはあがめる神を持ってはいるが、その神は、かってに引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全体をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をもはじめるかしなければならない、と言った。―― さてアプラクサスは、神でも悪魔でもある神であった。”

 

               (ヘルマン・ヘッセ「デミアン」(新潮文庫)より)

 

*このアブラクサスとは、古代のエジプトやペルシャに存在したグノーシス派の神々の一人です。この異形の神の姿を刻んだ護符が出土していますが、不思議な、魔術的な印象を受けます。グノーシス派は、一般に極端な善悪(霊肉)二元論を主張するものと理解されていますが、このアブラクサスのように善悪を超越した神性も存在していたことはあまり知られていないようです。もちろん、ヘッセやユングの言うアブラクサスが古代のグノーシス派で実際に崇められていたものと同一なのかはわかりませんが、いずれにせよアブラクサスという存在によって、彼らが精神的な危機を克服することができたのは事実です。神であり、悪魔であり、男であり、女である、この神秘的な神格の神には、何やらスサノオと共通するものを感じます。出口聖師が明らかにされたスサノオ、神素盞嗚大神の本来の神格は、救世主としての主神、最高神の顕現であり、至高の存在であって、単なる八百万の神々の一人ではありません。またグノーシス派における『救済』には、単なる倫理的な教えのみならず、その特殊な神話を受け入れることが決定的な意味を持っていたとされています。鎌田東二氏が言われるように、百年以上前、日本で出口ナオ開祖と出口王仁三郎聖師が活動を始められた頃に、ヨーロッパでもアブラクサスが無意識の底からユングに語りかけていたことは、単なる偶然とは思えません。果たしてスサノオ崇拝とは、アブラクサスへの崇拝でもあるのか、そもそも大本神話で説かれる、封印された神が復活するとはどういうことなのか、ユングは自伝で「私の生涯は、無意識がそれ自身を意識化していく物語」と語っていますが、無意識の意識化とはどういうことなのか、私の個人的な考えですが、霊界物語を音読する者には、無意識下に存在する聖なる存在が次第に姿を現わしてくるのではないか、つまり封印された神々の完全なる復活は、霊界物語によって為されるのではないか、という気がしてなりません。そうなると霊界物語とはいわば神々を「召喚」するための本でもあり、ある種の魔術的な力を持った本だとも言えます。そして、実際にこの本の「霊力」は、多くの人が体験されています。

 

*ちなみにヨハネ福音書はキリスト教グノーシスの聖典ともみなされており、以前紹介させていただいたマニ教もグノーシス派から発生した宗教です。

 

 

 “今日では、この特殊な思想について、さらに多くの事が知られている。一九四五年の暮に、上エジプトのナグ・ハマディというところで、パピルスに書かれ、乾燥した砂漠の地下に埋もれていた、かなりの量のグノーシス派の古文書が発見されたからである。それはおそらくギリシャ語からコプト語に翻訳された古代の写本のようであるが、さまざまな理由から、この発見はすぐには公表されなかった。”(P33)

 

 “‥‥‥この文献がユングの手に入るまでには、まださまざまな冒険談があったようだが、彼が何よりも驚いたことには、ユング・コーデックスに欠落した部分があるのを知り、あわててカイロのコプト博物館に飛んで、写真版を借りだしたときに、彼の眼に最初にうつったのは、これは隠された言葉であって、生けるイエスが、彼の双子の兄弟のトマスに語ったものであるという一文だった。

 キリストにははたして本当に双子の兄弟がいたのだろうか。そして隠されたイエスの言葉が、まだあったのだろうか。

 それこそ、ユングが長い事、キリスト教に欠けたものとして、探し求めていたものではなかっただろうか。そこにはまた「あなたがたの中にあるものを引き出すならば、それがあなたがたを救うであろう。あなたがたの中にあるものを引き出さなければ、それはあなたがたを破滅させるであろう」とも書かれてあった。これこそ、ユングが心の深奥にひそむ力の源泉として語り続けてきたなにものかの証明ではないだろうか。

 今世紀前半には、死海文書や、その他の古文書の発見が相次ぎ、特にこのナグ・ハマディ文書が公表されてからは、グノーシスの諸宗派を異端と考える人は少なくなった。それはキリスト教にとってこそ、異教であったかもしれないが、キリスト教と前後して生まれた独立した宗教運動であって、キリスト教はたまたまその中から傑出して成長し、世界宗教となったと考えるのが妥当であろう。

 キリスト教の影のような形で消滅していったこれらの諸宗教の中に、ユングはキリスト教には欠けている多くのものを見出し、彼が秘かに抱いていた同じような考え方を発見したのだということも出来よう。”(P34~P36)

 

       (秋山さと子「ユングとオカルト」(講談社現代新書)より)

 

*「デミアン」の中の「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」、そして「ナグ・ハマディ文書」の中の、「あなたがたの中にあるものを引き出すならば、それがあなたがたを救うであろう。あなたがたの中にあるものを引き出さなければ、それはあなたがたを破滅させるであろう」という言葉は特に印象に残りました。我々の救済は、我々の無意識下にあるものを引き出せるかどうかにかかっているのかもしれません。

 

   姫神のすがたたちまち(ます)良夫(らお)と なりて八束(やつか)(ひげ)()らせり

   よく見れば神素盞嗚(かむすさのを)の大神の 威厳そなはる御姿なりけり

   われこそは神素盞嗚尊なり (なれ)(みたま)に添ひてまもらむ

   いざさらばわれ天上に帰らむと (たちま)ち女神となり給ひたり

   むらさきの雲の階段(きざはし)ふみしめて 昇らす女神の姿のとふとさ

 

         (「歌集 霧の海」より)

  

 “豊国(とよくに)(ひめ)神格化(しんかくか)して神素盞嗚(かむすさのを)(がみ) 一名(またのな)(くに)大立(ひろたち)(みこと)(まを)す” (霊界物語 第十巻 余白歌)

 

 “大六合(おほくに)(とこ)(たちの)大神(おほかみ)は独一真神にして宇宙一切を主管し給ひ(いづ)御魂(みたま)の大神と顕現し給ひました。()(いづ)御魂(みたま)に属する一切の物は悉皆(しっかい)(みづ)御魂(みたま)に属せしめ給うたのでありますから、(みづ)御魂(みたま)は即ち(いづ)御魂(みたま)同体(どうたい)(しん)と云ふ事になるのであります。故に(いづ)御魂(みたま)太元(おほもと)(がみ)と称へ奉り、(みづ)御魂(みたま)救世(きゅうせい)(しん)又は(すくひ)(のかみ)と称へ又は()の神と単称するのであります。故に此物語に於て()の神とあるは、神素盞嗚(かむすさのをの)大神(おほかみ)様の事であります。”(「霊界物語 第四十七巻 舎身活躍 (いぬ)の巻」 『総説』より)

 

*宇宙の最高神は、古事記では天之御中主神、日本書紀では、国常立神とされていますが、その最高神の顕現である厳の御魂に属する一切は、瑞の御魂=神素盞嗚大神に属するものでもあり、故に「霊界物語」において、主(す)の神とは、神素盞嗚大神のことであると説かれています。

 

 

 “つまり日本人にはアマテラス的側面とスサノオ的側面がある。別の言い方をするなら、アマテラスとスサノヲが日本人の自我を通してこの世のものになりたがっているということである。最も普段は前者の方が表に出ていて、後者はもっぱら隠れたまま機能しているのだが。
 しかしスサノヲ(とその末裔)は、ときとしてたたり神になって表舞台に顕れてくるのが特徴であった。どういう場合にそうなるのかというと、ここで先の第一点との関係が出てくる。変容を促すスサノヲの機能が働いた状況を思い出してみたらよい。それは、アマテラスに非常な誇大さ、ないしは自我肥大(インフレーション)が生じている場合ではなかったか。
 垂仁紀の皇子ホムチワケにまつわる物語なども、やはりそうであった。彼は出雲の大神(オホクニヌシ)に祟られていたが、天皇の宮殿と同じ規模の社を造営することによってその怒りは鎮まったのである。神話の中では、ここでバランスの崩れが是正された。また国譲りに関しても、『日本書紀』の「一書(あるふみ)」には、やはり出雲の大神に同じ規模の社を造営してようやく平和裡にことが実現された、と伝えるものがある。
 スサノヲは高天原、中つ国、根の国の三界を往還する神だけあって、これらを相互につなぐ存在である。顕界の罪やけがれを幽界へと運び去り、また顕界が肥大すれば、闇の力を解き放つ。北欧神話では、世界の終末に勃発する戦いをラグナレク(力の滅亡)という。神々も世界もことごとく水中に没するが、わずかに残された生命から世界は再生していく。スサノヲもこれと同じように、すべてをいったん原点へ、ふりだしへと戻す力なのである。” 

         (老松克博「スサノオ神話でよむ日本人」講談社選書メチエより)