機械文明と芸術 〔ルドルフ・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “高次の神々との共同生活は、現代の技術環境の発達によって、非常に困難になっています。人間はいわば神的・宇宙的な関連から引きちぎられ、宇宙の精神的・心魂的なものとの関連を維持するために発展させるべき力が、人間の内面で弱く、暗くなっています。

 瞑想生活に着手した人は、現代の機械の影響が、人間の精神・心魂に入り込んでいることに気づきます。それが人間のなかで多くのものを殺していることに気づきます。この破壊によって、内的な力を本当に発展させるのが特別困難になったことに、その人は気づきます。その内的な力によって、人間は正規の高次の神々と結び付くのです。

 瞑想生活を始めた人が、現代の鉄道列車や蒸気船のなかで瞑想して、神霊世界への没入を試みるとしましょう。そうすると、神霊世界へと上昇する透視力を自分のなかで発展させようと労苦するのですが、アーリマンの世界が、神霊世界への帰依に逆らうものを人間のなかに詰め込むのに気づきます。  

 この戦いは、ものすごいものです。これはエーテル体のなかで体験される、消耗し、押し潰されるような、内的な戦いです。瞑想的な生活をしていない者も、この戦いを体験します。両者の違いは、瞑想的な生活をしている者は、これを意識的に認識するという点です。だれもがこの戦いを体験し、その作用を体験します。

 「現代生活のなかへ技術がもたらしたものに反抗しなければならない」と言うのは、最も誤ったことです。「アーリマンに警戒しなければならない。現代生活から引退しなくてはならない」と言うのは、最も間違ったことです。それは、ある意味で、精神的な臆病を意味します。

 心魂を弱めたり、現代の生活から隠遁するのではなく、心魂の力を強くして、現代生活に耐えられるようにするのが、本当の救済手段です。現代の生活に対する勇敢な行為が、世界のカルマによって必要とされるものです。ですから本当の精神科学は、前もって、多かれ少なかれ集中的な努力を人間の心魂に要求します。”(P28~P29)

 

 “現代人が世界のカルマにしたがってアーリマン的な霊性の下で体験するものに対して、あらかじめ備えがなされていなかったら、恐ろしい不幸が地球進化のなかで生じたことでしょう。生はいつも振り子のように経過します。それ以外の経過はできません。生は振り子のように、二つの側に揺れて体験されます。

 「アーリマンを避けよう」と、言うことはできません。アーリマンを避ける手段はないからです。できるだけよい色の部屋に引きこもり、工場もなく、鉄道も近くにないところに隠棲しようとしても、アーリマン的な霊性が人間の心魂のなかに入る別の道がたくさんあるのです。現代生活から引退しても、その人に到る道を現代の霊性は見出します。

 人間には芸術が与えられました。芸術は自然から素材を取り出して、自然を砕きます。第二段階で、素材を組み合わせて、新しいものを作り上げます。そこに、単なるイメージ的な生命ではあっても、たしかに生命を吹き込みます。過去の芸術衝動をとおして与えられたこの生命は、物質をルシファー的な霊性で貫くのに適しています。ルシファー的な霊性、美しい仮象、芸術のなかで人間に作用するものは、人間を物質から霊的なもののなかへと導き出します。

 ルシファーは、物質から逃げ去る霊であり、人間を不正な方法で精神生活に運び込もうとします。私たちは今回の受肉では、工業的な環境のなかを生きていかなくてはなりません。そうすることによって、アーリマンと関連することになります。また、私たちは芸術的なものに沈潜できた前世のあり方と関連できることになります。そうすることをとおして、私たちはルシファー的な力を、今日のアーリマン的な力に対抗させます。生の振り子が、昔と今では別の側に振れて、双方の力を均衡させます。”(P31~P32)

 

(ルドルフ・シュタイナー「シュタイナーの美しい生活 建築から服飾そして言語」(風濤社)より)

 

*スピリチュアルに関心のある方々のなかには、霊的な生活を求めて都会から田舎へと引っ越しをされる方々もいらっしゃるようですが、シュタイナーは、「『現代生活から引退しなくてはならない』と言うのは、最も間違ったことです。それは、ある意味で、精神的な臆病を意味します」と述べています。私は過去に、このように霊的精神的な生活を送るために、収入が激減することを覚悟して都会から田舎に生活の拠点を移し、有機農業を行ない、環境問題にも熱心に取り組んでいる方々が、たとえば反原発運動やダム反対運動などに参加し、電力会社の職員に罵声を浴びせ、建設予定地に無断で入り込み測量のための装置を破壊して警察沙汰になったり、自分たちの考えを認めることを周囲の者に強要してトラブルになったりするのを実際に見たり、関わった本人から直接聞かされたりしたことがあります。「美しい自然を守りたいんだ」と言っておりましたが、ある工事について私が知り得た内容は、かなり周囲の環境にも配慮したもので、発生する汚水も適切に管理・処理されることになっておりましたし、とても深刻な自然破壊を引き起こすものとは思えませんでした。確かに環境問題、自然環境の保護は重要であり、私もそういったことを否定する気はありませんが、それでも彼らの過激な行動や明らかに必要な開発をもヒステリックに反対する態度に対しては疑問に思わざるを得ず、連中は自分では社会に存在する様々な悪に立ち向かっているつもりで、実は反対に田舎へと引っ越した時点で既にその悪魔的な存在に屈して取り込まれていたのではないかという気さえします。出口王仁三郎聖師も、戦前から日本全国に大道路を建設し張り巡らすよう主張され、必要な開発であれば積極的に進めるべきであることを説かれており、決して国土開発・土木工事イコール悪というわけではありません。

 

*出口王仁三郎聖師によると、芸術の祖神は素戔嗚尊さま」です。シュタイナーの言うように、芸術が我々を霊的に救済してくれるものであるのなら、救世神が芸術の神でもあるというのは当然であり、そうでなければならないはずです。

 

・スサノオは芸術の祖神  〔出口王仁三郎〕

 

 “私の流儀は、みずから称して神代派といっているが、神素盞嗚尊を心に念ずるとき、ああした絵が描けるのである。私の絵画展覧会を見た人が『一々描き方がかわっていて、一人の人がかいたとは思えない』と評したと聞くが、まことにそのとおりで、私の想念が応挙にある時、その画風が応挙とあらわれ、月樵を思う時、その筆法が月樵と出てくるので、私の想念しだいで、千種万態の画風が生ずるのであるから、一人の人が描いたと思えぬという評は、私の絵を知るものの言である。一流一派に拘泥する必要はないと思う。

 私は近ごろ、山水と漫画との調和を思いたち、筆をとってみたが。あんがいうまくいって、ちょっとおもしろいものが出来た。これはおそらくレコードであろうと思う。

 そもそも、芸術の祖神は素戔嗚尊さまであるから、心中この大神を念ずるとき、絵画といわず、陶器といわず、詩歌といわず、あらゆるものに、独創が沸くのである。

 

(「出口王仁三郎著作集 第三巻」『絵について』読売新聞社より)

 

 

・「霊界物語」による宗教と芸術の一致

 

 “……瑞月が霊界物語を口述したのも、真の芸術と宗教とを一致せしめ、以て両者共に完全なる生命を与へて、以て天下の同胞をして、真の天国に永久に楽しく遊ばしめんとするの微意より出たものである。そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、本書を出版するに至ったのである。

 

      (「霊界物語 第六十五巻 山河草木 辰の巻」『総説』より)

 

 

・これからの信仰のありかた

 

 “社会の一般的傾向が、漸く民衆的になりつつあると共に、宗教的信仰も強ち寺院や教会に依頼せず、各自の精神に最も適合する所を求めて其粗弱なる精霊の満足を図らむとするの趨勢となりつつあるやうだ。宣伝使や僧侶の説く処を聴きつつ己れ自ら神霊の世界を想像し之を語りて、所謂自由宗教の殿堂を各自に精神内に建設せむとする時代である。既成宗教の経典に何事が書いてあらうが、自ら認めて合理的とし、詩的とする処を読み、世界の何処かに真の宗教を見出さむものとして居る、今日広く芸術趣味の拡まりつつあるのは宗教趣味の薄らいだ所を補ふやうになつてゐる。従前の宗教は政治的であり専制的なりしに引替へ、現今は芸術的であり民衆的となつて来たのも、天運循環の神律に由つて仁慈(みろく)出現の前提と謂つても良いのである。

  

(「霊界物語 第四十八巻 舎身活躍 亥の巻 『序文』」)

 

・出口聖師と書道

 

 “戦後、芸術という言葉が流行したために、古来からの‶真の美‶を追求することを怠り、ただ奇狂に走り、何が何だかわからないものを芸術だと称し、展覧会を見ても、われわれ老人には理解しがたいものが、だんだん増えてゆくような気がします。古典も古筆も習わない若い人達が、前衛書道といって書いているものには見るに耐えないものが多くなってきております。

 かつて聖師さまは『芸術は宗教の母なり』と申されましたが、この大宇宙を創造されたことこそ、神の芸術であり、世界を救済する宗教も、その大芸術から生まれたものであります。われわれが追及し、勉強する書道も、宗教と同様に、この神の大芸術に基づいたものでなければなりません。

 霊界物語第一巻が発行されたとき、聖師さまが、まだ学生であった私のために、

 

  矢さけびの沢ぎのこゑを静めつつ 弘むる道のいち次郎きかな

 

  瑞月憑虚空照破萬界暗

 

と、お歌と詩を、霊界物語の表紙裏に書いてくださいました。それまでの私は、聖師さまのお作品は、神霊界等の写真版を見ただけで、真筆を見るのは初めてでした。丸やかな中にも厳しい書体に感激しました。その後、亀岡の高天閣にご面会にあがりました時に、聖師さまがお習字をしておられる姿を、時々お見かけいたしました。聖師さまは、『書は王羲之が一番よいのじゃ。わしも王羲之の書を練習して、何か書き物をするときも間違いのないように、こうして調べて習っているのだ』と教えてくださいました。

 今日、書道をいくらかでも心掛けるようになって、その当時のことが懐かしく、聖師さまでさえも何か物を書くときには、ていねいに古典を調べて、お習いになっておられたことに、深く頭の垂れる思いがします。”

 

     (「おほもと」昭和56年1月号 矢沢弘雲『書道と私の体験』より)

 

*初期キリスト教会の教父、アレキサンドリアのクレメンスは、「キリスト教以外にも真理はある。すべての善と美は神のものだ」と語っています。確かに、神的な存在が顕現される場には、必ず何らかの『美』が顕われます。現在、カルト教団の危険性について盛んに報道されていますが、この『美』があるかないかということは、カルトを見極める一つの判断基準になるのではないかと思います。カルト教団にはいかなる『美』もなく、ただ金に飽かせて虚栄心丸出しの、やたら派手なけばけばしいショーを開催できるだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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