エンマ・クンツの ドローイングアート | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・エンマ・クンツ(1892~1963、スイス)

 

 “エンマ・クンツがスイスで初めて紹介されたのは1973年、アーラウ(Aarau)の町においてであった。エンマ・クンツ・センター館長のマイヤー氏の尽力で実現したものだが、実は、彼はクンツに小児麻痺を奇跡的に治してもらった幼児体験をもっている。つまり、エンマ・クンツという人物は常人ではない。修行僧のように暮らしながら霊的な治療や薬草学や精神界の研究に一生を捧げた人といえよう。ある人物の子供の病気を治したお礼に方眼紙をロールで受け取り、これを使って、すべて下書きなしにダウジングによって細やかにポイントを決め、定規と色鉛筆などで描いたという。但し、17歳頃のクンツのノートが現存し、そこに立方体の展開図や元素記号などが見られることから、科学的研究を独自に行っていた形跡が認められる。幾何学的な線描は同時代の絵画に起こった革新的な運動との比較において興味深い問題と思われる。

 死の二ヶ月前に描いた最後の作品にはこの言葉が添えられている。

 

 「この最後の作品で、私はピラミッドの第七の部屋を開けた。私の探求はここに完了した。」

 

(「静寂と色彩:月光のアンフラマンス」(川村記念美術館)より)

 

 

・アントン・C・マイヤー(エンマ・クンツ・センター館長)『アートを超えて』より

 

 “ハラルド・ゼーマン(1933 - 2005 / 20世紀のスイスを代表するキュレーター・美術史家)は、エンマ・クンツの美術作品をより広範な視点から見ている、「……ドローイングと予知によって精神界の教えを伝えてきたエンマ・クンツは、その作品を通して、人類を悟りへと導き、十字架による救済の手を地上の人々にさしのべたいと望んでいた。」

 ゼーマンは、近代インドの思想家シュリー・オーロビンド(1872 - 1950)の『生活すべてがヨガである』(1975年)所収の『ザ・マザー』を引用し、こう述べている。

 「芸術は手段であって目的ではない。芸術は表現のための一つの媒体なのだ。ここではアーティストの個性はもはや重要ではない。アーティスト自身は一つの道具、交信者(チャネル)となり、その作品は、彼と神とのつながりを表現する媒体となる。もしこのような視点からアートを眺めれば、芸術はヨガとなんら異なるところがない。

 エンマ・クンツの絵画を前にして感じることを、これ以上に適切に表現する言葉を見つけることは難しい。その絵画上では、エンマ・クンツという一人の人間の手によって生み出された(方眼紙上の)秩序が強調され、利用され、将来の治癒活動に供される。ここに引いた言葉は、イマジネーションがその媒介者の存在を反映し、なんら回り道することなく直接的に表現へと結びつくときに繰り返し言われることだ。

 このような包括的な芸術は、総合性を求める性格を示すものであり、エンマ・クンツの芸術はそのような考え方によってのみ理解されうる。

 

 数的要素どうしの相互関係は(アルフレッド・イェンセン〔1903 - 1981〕と図形幾何学の教えに従って)視覚的現象として定式化されているが、この相互関係はエンマ・クンツの絵画にも見いだされる。それは最大限に自由でありながら、同時に自然の内なる法則を尊重する混合状態にある。その絵画はユニークなものだ。シンボルのすべて、幾何学的な基本形態のすべては、彼女の考える〈体系(システム)〉と彼女の行う予測の内にあって、それ自体が正当性と重要性とメッセージを有している。彼女の絵が意図するのは、世界の調和を図に記すことであり、たとえどのような妨げがあろうとも、その調和を人類に届けることなのだ。

 エンマ・クンツにとって、完成したドローイングというものは存在しなかった。ただ彼女は、完璧姓を保ち続けたその才能ゆえに、すべての要素をその微妙なところでつなぎ合わせ、その眼に見えないネットワークを認知し、それを作品としたのである。そこでは、描かれたものが右回りか左回りかということも、まんじ(スワスティカ、卍)や逆まんじ(ヴォルフス・フック)の二つの鉤の向きや、多辺形(ポリゴン)やスケール、キリスト教のシンボルといった形と同様に識別されている。エンマ・クンツの一枚のドローイングは一つの具体的な主題をもつのではなく、彼女に助けを求める人々への助言に関わるものも含め、あらゆるメッセージを内包するものだ。たとえば、患者のための薬の調剤や、ベルリンの分割、原爆、教皇制度の終焉から、中国や東方の新興宗教が意図することまでもが含まれているのである。その意味では、エンマ・クンツは、彼女の精神的、霊的進歩の結果としてドローイングの中に描き出したことを、言葉というかたちにしようともしていた。そのおかげで、知覚的な存在であれば誰もが、あらゆるたぐいの霊的な体験を理解できることになる。彼女の作品は、思考、感覚、認識、行動の霊的な真実に向けられている。それは、正しい答えへと向けられているのだ……。彼女の芸術がはらむ2つ目の効果は、そこからあらゆる霊的な体験をなんらの制約も受けずに認識できるということだ。自己認識、神的体験、創造神である神の神通力体験、宇宙意識の体験、宇宙的な力や自然の森羅万象に隠された運動との直接的な接触(コンタクト)、心霊的(サイキック)な共振鳴や感情移入、内的コミュニケーション、そして他者や自然一般との、多種に及ぶさまざまな相互関係といった体験である。」”(P140)

 

 “エンマ・クンツの作品は、いつの時代にも、進化の一般的な流れからは独立した立場に立ち、物質と精神を一つのものとして理解できる独自のヴィジョンをつくり出すことのできる人々が存在していたということを見事に証明するものだ。もちろんエンマ・クンツは、自分の作品を〈予言(ヴィジョナリー)〉と言うことは決してなかったろう。彼女は、それを〈研究〉だと語っていた。しかし、2つの点について、ここで触れる価値があろう。エンマ・クンツは、しばしば言葉を尽くして詳細に絵の解説を行ったが、それを紙に書き留めることはいつも禁じていた。そのようなことは、急進主義(ラディカリズム)を誇示することであるというのだ。彼女が何を意図していたのかは、「私の作品は、21世紀に向けられている」という彼女の言葉の中に唯一答を見いだせるだろう。つまり、彼女のヴィジョンから感じられるのは、未来派的な態度ともいえるのである。

 もっとも、どんなに独立した思考であろうとも、それがまったく過去に根ざさないということはありえない。そして、彼女にとって過去の重要な人物はパラケルスス(1493 - 1541 / ルネサンス初期のスイス人医師・錬金術師)だった。エンマ・クンツが、読んで聞かされたパラケルススの作品から、引用を行っていたことが知られている。彼女にとっては、聞くこと、また感じることのほうが、読むことよりも価値が高かった。パラケルススは自然科学へと思考を向けるにあたり、一方では、この世界と、それを超越する世界との統一について中性的な理解をもっていた。だが、その一方で彼は、その理解に、自然についての近代的で好奇心旺盛な見方を結びつけてもいた。そのスタンスは、デカルト(1596 - 1650)の時代までにはすでに忘れ去られ、その重要性がようやく再び認められるようになったのは、それから数百年がたった今日になってからだ。パラケルススは、絶え間なく変化する〈創造的な力〉の感覚の中に、すべての事象にとって同じ〈光〉が姿を現わすと確信していた。東洋の神秘主義者であれば、これを〈道理(タオ)〉と呼ぶだろう-そしてこれは、振り子から霊感を受けて描いたエンマ・クンツのドローイングの中にも認められる。〈光〉を振動やヴァイブレーションによって、また〈創造的な力〉をリズムと韻律と数字によって置き換えるとしたら、そしてもし変化を形態の力学(ダイナミズム)としてとらえるとすれば、エンマ・クンツのドローイングはパラケルスス流の様式をもった20世紀の絵画的ヴィジョンであるということがわかるだろう。”(P144)

 “「私の絵は21世紀に向けられているのです!」同じ絵が、のちになって彼女の別の疑問に対する答として役立つこともありえた。つまり、1枚の絵はさまざまな側面からの説明をはらんでいるのだ。

 ひとたび仕上げ、検討をすませた絵は、壁に掛けられた。こうして結局10点から20点の絵が、次々に壁に掛けられることになった。助言を求めて誰かが来ると、エンマ・クンツはこれらの「検討をすませた」絵のうちの1点を選び、壁から降ろしてくる。彼女は、助けを求めている相手と自分との間にその絵を置き、振り子の助けを借りて、その人の生命線を絵の中に捜した。その人に関連する線を絵の中で追うことで、彼女はその相談者の過去と未来に関わる質問に答えるのだった。絵の最も高い位置にある領域が、精神界についての彼女の疑問や哲学的な質問に答えてくれた。これらの絵はまたエンマ・クンツにとって、絵画自体がもつヴァイブレーションが彼女に影響を及ぼすゆえに、瞑想の手本としての役割もはたしていた。”(P150)

 

 “われわれの知っている最も小さい単位の中にさえも、自身の存在を数学的な表現によって明らかにできる法則があるが、彼女はその明快で論理的でスピリチュアルな規則に通じていた。このことは、エンマ・クンツが抽象的な幾何学形態と線を記録するために、そのドローイングを行う素材としてなぜ方眼紙を選んだかの理由となっている。幾何学的な造形言語は、限定と無限定、パワーとアンチ・パワーといった両極性を、調整された新しい秩序として明快に表わし、それが視覚的なリアリティを生み出すのだ。エンマ・クンツの絵を見るときに重要なのは、形やかたまりとして見えているものは、一定の点どうしを結ぶことで現われる関係性のネットワークの中で、変化しうる要素であるということを理解することだ。彼女の絵のもつ普遍的な法則は、ある一つの手法に要約することができる。一定の点を明示的に結合することで構造の関係性が生まれ、その結果として多様な形が多数生み出されうる、ということだ。

 

 美学的に高い価値があるだけでなく、エンマ・クンツの絵は、芸術概念をはるかに超えたところに到達している。それは研究者として、また治療師(ヒーラー)としての作品表現だ。正しく理解されるならば、芸術はまさに科学に、とりわけレオナルド・ダ・ビンチやアルブレヒト・デューラーの時代以前からの研究や発見の世界に類似している。エンマ・クンツが語っていた次のような言葉が思い出される。「すべてのものごとは、ある法則に基づいて起こっており、私はじかにそれを感じることができます。それゆえに、私は決して平穏な気持ちではいられないのです」。このようにして彼女は、新しい知覚の拡張を求めるアーティストたちや研究者たちにとっての、基本的かつ必要な条件を明快に述べたのだ。彼らは常に超人格的な次元に生きるのである。”(P151)

 

(「静寂と色彩:月光のアンフラマンス」(川村記念美術館)より)

 

 “驚くべきことに、エンマはグーゲルマン夫人に一種の想像妊娠体験を打ち明けているのである。

「光のなかには幾十億もの小さな点が孕まれていて、これに逆光線が、つまりよい眼差しが当ると、これらの小点は増殖し―― 一種の妊娠みたいに、と彼女は表現した―― それがまたおのずから自己増殖して、これがまた物凄く沢山の良い胚芽を生み出して、その胚芽たちが空中をわんわん唸りながら飛び回るの。そうしてそれがどこかへ行ってしまうと、また一かけらの光の粒子が出てくるんだけど、それが地球にも宇宙にもとっても大切なものなのね……」

 

(種村季弘「愚者の機械学」 『ある女霊媒の想像妊娠』より)

 

*種村季弘氏の本によると、エンマ・クンツは、父親がアルコール中毒で自殺しており、学歴も小学校卒で高等教育は受けておらず、貧しく不遇な生涯を送ったようです。種村氏は彼女のドローイング制作について、「方眼紙の上に夥しいイメージを出産した」と書いておられますが、もしかしたら彼女の作品は、実際に生きているのかもしれません。

 

*ここには書いてありませんが、インドの聖者シュリー・オーロビンドは、エンマ・クンツをインドに招こうとして、三度にわたって使者を送っています。オーロビンドは、若い頃イギリスからの独立運動に関わって監獄に入れられたときに、既に世を去っていたスワミ・ヴィヴェーカナンダの声を聞き、政治運動と決別して霊性の道を歩むことを決心した人物ですが、何だかとてつもなく大きな神様の計画があって、エマ・クンツもそのために地上に現われた方々の一人のような気がします。ちなみにスワミ・ヴィヴェーカナンダは、1893年にアメリカへ渡る途上で日本にも立ち寄っており、1902年にマハーサマディに入られるまさにその日、「私は日本のために何かをしたい」と言い残しています。

 

 “あの偉大な、そして愛深い魂は、どれほど日本に来てこの偉大な国に何かの貢献をしたい、と思ったことでしょう!この地上を歩んだまさに最後の日、1902年7月4日にも、彼は「日本のために何かをしたい」ともらしました。彼は肉体に宿っている間にはそれを果たすことはできませんでした。

 しかし、彼ははっきりとこういったではありませんか、「私は、自分の体の外に出ようと―― 着古した着衣のようにこれを捨てようと―― 思うときがくるだろう。それでも私は働くことをやめない!この世界が、それが神と一つのものだということを知るまで、私はいたるところで人びとを鼓舞し続けるだろう」

 ですから私たちは、スワミジーは生前果たし得なかった日本での使命を今取り上げた、と信じたいと思います。西洋文明から生まれた病癖の在るものが現代社会にますます顕著になりつつある今日、それは日本にとって、緊急に必要なものとなっています。スワミジーは今まででも、この国の霊的福祉のために働いてきたのですが、彼は日本が完成という目標に達するまで、働き続けるでありましょう。”

 

(「不滅の言葉」スワミ・ヴィヴェーカーナンダ訪日100年特集号 スワミ・メダサーナンダ『日本で生きるスワミ・ヴィヴェーカーナンダの精神』より)

 

*クンツが研究者の立場から花の「分極化」を行ったマリーゴールド。クンツは振り子と言葉の力を用い、花のまわりに小さな「娘花」を咲かせたという。

 

*エンマ・クンツのドローイングには、何やら「霊界物語」と共通するものがあるような気がします。G・I・グルジェフは、「客観芸術」のことや、人体の中で通常は眠ったままの「高次の知性センター」「高次の感情センター」を目覚めさせねばならないことを説いており、ルドルフ・シュタイナーも「これからの人類の進化には芸術が重要な役割りを果たす」と語っているのですが、エマ・クンツの芸術は、まさにその人類の霊的進化に関わるもののようです。できればもっと情報が欲しいのですが、日本語の資料がほとんどないのが残念です。

 

・「霊界物語」による宗教と芸術の一致

 

 “……瑞月が霊界物語を口述したのも、真の芸術と宗教とを一致せしめ、以て両者共に完全なる生命を与へて、以て天下の同胞をして、真の天国に永久に楽しく遊ばしめんとするの微意より出たものである。そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、本書を出版するに至ったのである。

 

(「霊界物語 第六十五巻 山河草木 辰の巻」『総説』より)

 

 

・みろく出現の前提 

 

 “社会の一般的傾向が、漸く民衆的になりつつあると共に、宗教的信仰も強ち寺院や教会に依頼せず、各自の精神に最も適合する所を求めて其粗弱なる精霊の満足を図らむとするの趨勢となりつつあるやうだ。宣伝使や僧侶の説く処を聴きつつ己れ自ら神霊の世界を想像し之を語りて、所謂自由宗教の殿堂を各自に精神内に建設せむとする時代である。既成宗教の経典に何事が書いてあらうが、自ら認めて合理的とし、詩的とする処を読み、世界の何処かに真の宗教を見出さむものとして居る、今日広く芸術趣味の拡まりつつあるのは宗教趣味の薄らいだ所を補ふやうになつてゐる。従前の宗教は政治的であり専制的なりしに引替へ、現今は芸術的であり民衆的となつて来たのも、天運循環の神律に由つて仁慈(みろく)出現の前提と謂つても良いのである。

  

(「霊界物語 第四十八巻 舎身活躍 亥の巻 『序文』」)

 

 

・「霊界物語」の中の予言

 

B むかし桜井重雄氏にこんな話を聞きました。聖師から物語の中のここを読んでみよと言われ、何字目かを横に読んだら予言があった。その内容は今は言えないと、ちょっと教えてもらったのですが、必要な時になったらそこだけが光るんだと聖師はおっしゃったというのです。桜井氏はあとで、そこをなんぼ探してみても出てこないというんですね。

D H氏も同じようなことを言っています。むかし見せてもらったがあとでいくら探しても見当たらんと言うのです。それでもう一回調べ直すんだと調べ直しています。

C N氏は若い頃、本部奉仕を辞め帰郷しようと思ってオヤジに相談したら好きなようにしろと言われ、物語から悟らせていただこうと思って拝読したが、ある余白歌から私のようなものでもご奉仕せねばいかんのやな、と悟らせて頂き奉仕を続ける決意をしたというんですが、その余白歌をいくら探してみても、どこにあるのかいまだに分からんというのです。そんなこともあります。白煙となって消えてしまうというのですか。(笑)   

 

(「いづとみづ」№69 『摩邇の玉むかえ真心の花咲く祝歌』より)

 

 

・パラケルスス(15~16世紀)の「聖餐論」

 “パラケルススにとって人間とは他の被造物とは異なった矛盾的存在である。父なる神に創られた最初の人間は死すべきものである。生きとし生くるあらゆる被造物と同じく人間は生まれ、かつ地上での生の終わりには死なねばならぬ。しかしゴルゴダにおけるキリストの死と復活以来、キリストを信じる者には第二の可能性が生まれる。死すべき人間の中に滅びることのない人間が目覚めるのだ。
 パラケルススが「聖餐論」の出発点としているのはこの人間の二重性格 ―パウロによる古いアダムと新しいアダム― である。「さて、われわれの眼には一つのからだ、すなわち父なる神によるからだが可視的であり、他の身体は、やはり被造物ではあっても、不可視であり、御子なる神(キリスト)の創造になるものである。そして父なる神によるあらゆる御業は、食物やすべてのものも、可視的であるように御子の御業は不可視である。しかもいずれの場合にも一つの形の同様な『からだ』であるが、ただ死すべきものと不死なるものの差がある。……御子なる神はその被造物を彼の父と別様に創り給うわけではない。御子はそれを新たなものとされる。別なる肉を創られるがその形を変え給うわけではない。古き形はここ地上と天上にとどまるのである。」
 明らかにパラケルススの場合、聖餐の神学は復活の体の理解に関わっている。復活の朝のできごと、マクダラのマリアと使徒たちの体験……、それはパラケルススにとっても一つの大いなる神秘である。十字架上で死に、墓に葬られた地上の肉体が復活の体に変化すること、それはまたあの聖餐においてパンと葡萄酒とがキリストのからだと血に変化することに対応している。ともにいわゆる「化体(Transsubstantiation)と呼ばれるこの秘儀は ―このときパラケルススは錬金術の変容(Transmutation)を念頭においていただろうか―、 知的な理解ではなくてあくまで霊的な理解を必要とする。「復活においてアダムの肉が復活するのではなく、新しいからだが ―しかも単なる精神ないし魂がでなく― 復活するのである。」肉体の死後の霊魂の不滅というのではなくて ―それならば古代人以来、もろもろの宗教によっても容易に信ぜられ受け入れられていた思想にすぎない―、 キリストの復活は肉体の甦りなのである。「新しき体(ライプ)」魂(ゼーレ)や精神(ガイスト)と同じく不可視であり、霊の形に形どられている。復活の体は単なる悟性でもっては見ることのできぬのと同じく、キリスト者の新しき体は信仰の中で、聖霊の光の中で心情(ヘルツ)によってのみ認知することが可能なのである。
 このキリストの「新しい体」とその聖餐との関係はどうなるのか。「いかなる被造物もその創り主によって生きる。天使は天使のパンを、人間は人間のパンを、聖者はキリストのパンを食する。新しき人間は永久に人間のままにとどまり、その名を失うことはない。それゆえに彼は永久に新たなる食事を食することによって生きねばならないのだ。」”

 “……イエスはこういわれたのだ。私があなた方から去った後も、あの聖金曜日の最後の晩餐と同じく、あなた方の手でもってパンと葡萄酒を私の見えざる体、見えざる血に変えなさい、と。「父なる神が地上の食事を与えてくださるのと同じく、キリストはわれわれの血となり肉となるところのみ言葉によって、われわれに食事を与えてくださるのだ。」
 パラケルススはこうもいう。「ここ地上において神の国が始まるのだ。聖者たちの本質とは何かというに、彼らはすでに死すべき体に不死なる養分を味わった、ということである。」それだけではない。「この世においてこの聖なる食事に養われなかったものは、彼の死後もそれを味わうことはないのだ。」キリストにおいて新しい人間の生誕を体験すること、これが聖餐の意味なのだ。”

                          (大橋博司「パラケルススの生涯と思想」(思索社)より)

*「ここ地上において神の国が始まる。」このパラケルススの言葉は重要だと思います。

 

・「(霊界物語は)肉体のあるうちに読んでおけ」

 

“私事になりますが、聖師様にお会いしたのは新婚旅行の聖地参りの時で昭和二十二年の六月ごろでした。麦秋というのでしょうか、麦畑のそよぐ中を、夫と連れ立ちてゆき、森良仁さんのおとりはからいで聖師様にお会いして、

 「ようきた」

 とおっしゃった時は、二十才の心でわけもなく涙がこぼれました。その大きなお声は今も私のおなかの中に入っているようにおぼえております。

 あくる年、聖師様は一月十九日昇天なさいました。その時、夫はたたみに額をつけて泣きました。私も始めてお会いした聖師様に二度とお目にはかかれませんでした。でも霊界物語には聖師様の地と肉が込められていて、永遠に生き続けられていられる事の重大さを思わねばなりません。

 手をとるように、或る時は俗界の言葉をも連ね、最奥に到る美と慈しみの世界を残されていますご神書です。逆境にある時は胸にこたえてひびき、また倖せの時は有難さに頭下がり、よませていただけます。

 ここに「力」と云う字があります。この字は聖師様のことたまの解釈によりますと『血と身』となり、血は霊ですからすなわち心と身体によって始めて力が出るという事を読み、びっくりして何時までも心に残っています。物語を世界の言語学者が正しい心をもって関心を持ち始めたら、どんな大きな事柄がかくされているかも分かりません。

 芸術は宗教の母とも示されるように、神わざといわれるような美の極致と云うものは点か線のようなもので、そんな何人の心をもゆすぶる、きわまれるものが神様のお姿の一部であるのかなあとこの頃思っています。

 私共の先代谷前貞義は、大阪で鉄工所を営んでおりましたが、聖師様が『火の雨が降るから綾部へ移住せよ』とおっしゃり、大正時代に綾部に移り住みました。そして前の戦争で焼夷弾が雨のように降り、大阪の松島区はあとかたもなくなったということです。そして姑になる母は、山住みの年老いたおばあさんとなり、モンペ姿で私を綾部に迎えて下さいました。

 その母は三味線を弾いてよく物語を語られたと聞きます。そして数年して昇天されましたが、臨終の言葉は「こんどは国へかえりますで」といわれ、安らかな、すずやかな往生でありました。

 きっと聖師様や夫貞義の待っていられる天国をふるさととしておられたのだと思います。神様を一途に信仰した人の自信に満ちた死を見ました。

 無駄な言葉を出来るだけ捨て簡潔な写生をする事によって心を伝える短歌のきびしさ、謡のいいがたい味わい、心打つ絵の美しさ、まろやかなやきものの手ざわり、贅沢でない茶の持つ味わい深い心、地上天国建設の大本の神様に帰依した私共は、大きな使命の一端を少しでもになわせていただかねばと思います。

 そして、本気で霊界物語を拝読させていただかねばと思っています。私は先ほど用があって綾部の家にいってきましたが、聖師様にお仕えしていた姉の話によりますと「物語は無心でよんだ方がよい」「肉体のある間に読んでおけよ」とおっしゃったということです。”

 

(「おほもと」昭和51年3月号 谷前国子『霊界物語に学ぶ』より)

 

*「神わざといわれるような美の極致と云うものは点か線のようなもの」とは、まるでドローイングのことを言っているようです。

 

 

 

 

 

 


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