芸能の神様 (王仁三郎のパフォーマンス) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “明治三十一年(一八九八)十月八日、稲荷講社所属の霊学行者上田喜三郎は、神懸かり状態になって、審神者(サニハ)の判断を求めていた六十三歳の小柄な老婆、出口ナオに初めて会っている。立派な霊学の先生がやってきてくれると思いきや、陣羽織を着て口におはぐろを塗り、手にコウモリ傘とバスケットをさげた、まことにキッチュな二十七歳の田舎青年であった。このロートレアモンも大笑いする、異様でポップ、かつユーモアなコーディネート感覚には、さしものナオもあきれかえったにちがいない。事実、このときナオは、自分が待ち望んでいた東方からの来訪者がこのような人物だとは到底納得がいかず、失望して別れたという。”(P123 )

 

 “このようなぼんやりしたボケた感覚はかれの生涯の活動に一貫して、たえることのない陽気な活力をもたらしていた。ちなみに王仁三郎の名の由来は、神界からナオに鬼三郎に改名せよとのお達しがあったにもかかわらず、なんぼ神様でもそれはあまりにひどいと文句をいって、王仁三郎に改変したというが、この一件アナーキーともみえる異装ぶり、人の意表をついたユーモラスな大仰さを思うと、まさしく零落した神々としての「鬼」の末裔だと思われてならない。「鬼三郎(おにさぶろう)」とは、甲賀三郎や風の又三郎がそうであるように、龍蛇神や山人の住む異界を探訪することを運命づけられた名であり、三郎の系譜を継ぐ異装のマレビトなのだ。実際かれは、高天原を追放されたスサノヲ神におのれの霊的淵源を見、その変化身として行動し、国家権力による二度の弾圧に耐えながら、零落し封印された神々をふたたび世に出し、蘇らせていったのである。

 王仁三郎の異装ぶり、変装好みは、列挙していけばきりがないが、大正時代には、肩までのびた、ヒッピーやヘヴィー・メタルのミュージシャンも顔負けの長髪、あるいはその長髪を結って頭頂にのせ、まげのようにもりあげてヘア・ネットをかぶるという珍奇なスタイル、自分でデザインした宣伝使服、豊雲野神や木花咲耶姫神に扮した姿など、鬼面人を驚かす類であった。こうした異装・変装を如実に示しているのは『百鏡』と題されたかるた集である。このかるた集の表紙には、表題のほか「瑞月師肖像御百態入 瑞野神歌 一人百首かるた天声社」と印刷されている。さまざまな衣装に身をまとって百変化した王仁三郎の写真百葉の上に、自作の歌百首が印刷されているが、なかんずく、「丸山の台(うてな)に起るかみうたは四方の国々響きわたらん」と詠まれたかるたの女神姿の写真など、かれがみずからを女霊男体の「変性女子」と自覚しているのがごく自然にうなづけるほど、鬼気迫るシャーマニックな巫女像になっている。それに関連して言えば、昭和十年以前に録音された王仁三郎による大本祝詞の奏上は、とうてい男の声とは思えないほどに巫女的(シャーマニック)な声であった。神々の出現(ミアレ)を恋い求めてすすり泣くような巫女的な声であった。ニナ・ハーゲンもパティー・スミスも都はるみも戸川純も形無しなほどである。この声はいったいどこから出てきたのか、そしてどのような「かみうた」の声を四方の国々に響き渡らせたのか。

 大正九年(一九二〇)八月に当時の一流新聞であり、朝日、毎日のライバル紙であった大正日日新聞社を大枚五十万円で買い取り、天之岩戸開きの大イラスト入りで、九月二十五日二復刊第一号を四十八万部も発行し、その巻頭言に

一、本紙は資本家に媚びず、俗衆におもねらず、また権勢にへつらわず、真に社会の木鐸として普通新聞紙の模範たることを期す。

一、本紙は行きづまれる現代思想を指導開発し、暗黒世界の灯明台たることを期す。

一、本紙はとくに宇宙の神機を漏らし、世界人類に一代警告をあたうることあるべし

とぶちあげて大獅子吼した王仁三郎であってみれば、新聞はもちろんのこと、映画やレコードという当時のニューメディアをフル活用したのは当然の理であった。かれは青年会組織に音楽部をつくり、サブ・グループとして、シンフォニー・オーケストラ部、コンサート・オーケストラ部、ブラスバンド部、ハーモニカ・バンド部、声楽部、作曲・編曲部などを設け、「青年の歌」「昭和の女性」「昭和青年行進曲」「青年神軍歌」「気をつけろ」「月の宮」などの歌を次々とつくらせ、さまざまな集会やイベントの際に華々しく演奏させ、それらの歌をはしからレコード化した。自分では、祝詞ばかりか、説法、宣伝歌、音頭にいたるまでレコードに吹き込んだ。それはかれにとって「言霊戦」であった。

 昭和五年には日活の伴淳三郎、衣笠淳子らを支部員として、京都の嵯峨に大本神動支部を設立し、昭和七年には映画班をつくって映画製作に乗りだした。「皇軍と少女」「昭和七福神」「王仁三郎一代記」などをつくり、みずから主演した。東京の多摩川に映画部玉川研究所をつくり、亀岡の天恩郷には映画神劇部や撮影所を設けたぐらいである。王仁三郎は自作自演の映画「七福神」のなかで、「吾こそは言霊清き蛭子なり国のあちこち歌碑(うたぶみ)建つるも」とうたっているが、かれが自分を異形の蛭子―― 異形のスサノヲと同定していたことは興味深い。ここでは蛭子は事代主神(ことしろぬし)であるとされるが、日本神話では事代主神は大国主の子神とされ、スサノヲの子孫神である。このように、かれをして次々と変身にかりたてる異形の「鬼三郎」とは何であったのか。

 芝居気狂いであった王仁三郎は、大正十年以降に、当時の大衆文芸や大衆芸能の手法や素材をふんだんに用いて、猛スピードで口述筆記した『霊界物語』を劇化している。原作自体が気宇壮大な霊界探訪と神人の大活劇を演劇的に表現したものであったから、上演は容易だったろうが、それにしても自作・自演・演出・進行とオールラウンド・プレイヤーぶりをいかんなく発揮した。神聖歌劇と号する歌劇をふくめ、「天国と地獄」「紫微天国」「玉泉の月」「神聖踊」などが上演された。神劇とか神聖歌劇とはいっても、古代の大和ことばが朗々と吟じられたあとに、いきなり芸者の口説が飛び出したりで、状況劇場や夢の遊民社にも優るとも劣らぬ演劇カオスモスをつくりあげた。その八方破れで世の常識を大きく打ち破る自由奔放なハレ・パフォーマンスのなかに、かつての陣羽織とおはぐろ、コウモリ傘とバスケットという「田舎のプレスリー」もあきれかえるほどのとぼけたいでたちの大きな子供(翁童)が見え隠れしているのを、われわれは認めることができるだろう。

 王仁三郎にとっては、伝統的な鎮魂帰神法や言霊学がおのれ一個の意識と身体を被き、感覚の門を開いて神人合一の境位に入る技法であったとすれば、このようなニューメディアの活用は「宇宙の神機」を社会化し、いわば共同意識化・共同身体化していくための技法であった。かれのなかでは、日本語七十五声を宇宙最高の言霊だとする一種の霊的民族主義と、その一方でエスペラント運動に力を注ぐといったインターナショナルな普遍主義の両極が何の苦もなく融合を遂げている。そのいいかげんとも、貪欲ともいえるようなシンクレティズム。昭和二年、「芸術は宗教の母」ととなえて、明光社を設立した王仁三郎は、宗教と芸術の統合を掲げながら、短歌、冠句、俳句などの文芸、書、画、演劇、楽焼などにわたるじつに多様な宗教芸術運動を展開した。昭和十年十月には、スサノヲ命が開いたという「歌祭り」を敢行し、一種のお神楽イベントを敢行した。その記録を掲載した「明光」十二月号が出た直後の昭和十年十二月、皇道大本は第二次弾圧を受け、潰滅的な打撃を蒙り、この大衆芸術運動も終わりを告げた。”(P126 ~P131)

 

            (鎌田東二「神界のフィールドワーク」創林社より)

*戦前の出口聖師の膨大な数の作品は、第二次大本事件でそのほとんどが破壊、焼却されてしまいました。しかし、平成になって、映画「昭和の七福神」のフィルムが無傷のまま発見され、八幡書店からビデオ化、DVD化されています。