夢かうつつか誠か嘘か ホンにわからぬ物語 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 宇宙( うちゅう)(そと)()()いて  五十六億七千万歳(ごじゅうろくおくしちせんまんさい)

 年遡(としさかのぼ)霊界(れいかい)の  ()しき神代(かみよ)物語(ものがたり)

 赤道(せきどう)直下(ちょっか)(ゆき)()り  太平洋(たいへいよう)真中(まんなか)

 (たて)二千(にせん)七百浬(しちひゃくり)  (よこ)三千一百浬(さんぜんいっぴゃくり)

 黄泉(よもつ)(しま)(りゅう)宮城(ぐうじょう)  (わけ)のわからぬことばかり

 羽根(はね)()えたる人間(にんげん)や  (つの)()えたる(ひと)()

 (ゆめ)(うつつ)(まこと)(うそ)か  (うそ)ぢやあるまい(まこと)ぢやなかろ

 ホンにわからぬ物語(ものがたり)。   

 

      (「霊界物語」第九巻 霊主体従 申の巻 『総説歌』より)

 

*この「総説歌」の中で、出口聖師は太平洋の真中にあったという黄泉島(よもつしま)に言及されていますが、ジェームス・チャーチワードが、イギリスでムー大陸に関する本「失われたムー大陸」を出版したのは一九三一年(昭和六年)であり、この「霊界物語」第九巻が出版されたのは、大正十一年で、チャーチワードより九年も前のことになります。また、出口聖師は、ポナペ島(ポンペイ)にムー大陸の最高至聖所があったと語られ、将来のムー大陸の浮上を思わせる言葉を遺されています。  

 

*私がはじめて「霊界物語」を読んだときに感じたのは、実は失望感であり、正直「なんじゃこりゃ?」という思いでした。第一巻に登場する閻魔さまや狐憑きの話などは、巷の拝み屋さんが口にしているような話で、あまりにもレベルが低く思われ(今にして思えば偏見でしかなかったのですが)、なぜこんな低級なものが聖典になるのか、とても理解できませんでした。神々の戦争の話についても、沢山の神名がウジャウジャと出てきてわけがわからず、さらに登場人物たちの会話では、大して面白くもないダジャレや特に意味があるとも思えない無駄なやりとりばかりが延々と繰り返され、なかなかストーリーが前に進まずもどかしく、まさに「ホンにわからぬ物語」「アホダラに長い物語」で、いったいこれに何の意味があるのか、これを読んだからどうだというのかと、それ以上読み進めるのが馬鹿らしくなってしまいました。出口王仁三郎聖師は驚異的な霊能を持っておられただけでなく、歌人としての評価も高く、当然ながら文学的な才能もかなりのものがあったはずであり、さらに書画や陶芸など数々の素晴らしい芸術作品を創り出された方で、加えて皇道大本の教義は、スウェーデンボルグ神学とも共通するものであって(取り入れたというべきかもしれません)、出口聖師の宗教は、ロシアの盲目の詩人エロシェンコが言っていたように、決して既存のキリスト教や仏教などに劣るものではありません。しかし、これほどの人物が「世界経綸の一大神書」として世に出した至高の聖典だというのに、このギャップが何なのかが理解できず、しばらく読むのをやめて放置していました。しかし、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの講演録を読み、普遍宗教というものがあれば、それは各人の霊性の様々なレベルのすべてに対応できるものであって、ゆえに土俗的な迷信のようなものから、高度に洗練された神学まで、あらゆるものを含むものでなければならず、よって、むしろ土俗的なものをも含んでいるからこそ、霊界物語は普遍宗教の聖典としての条件を充たしているのではないか、ということに気づき、よくわからないながらも再び物語を手にするようになりました。そうすると神々の戦争の話についても、何やら得体のしれないエネルギーが迫ってくるような、言葉ではうまく説明できませんが、自分の潜在意識の中で何かが共鳴しているような不思議な感覚を感じるようになりました。スウェーデンボルグによれば、通常の我々が使用している言語とは異なり、霊界の言語は、たとえ短いセンテンスであっても膨大な量の情報を含んでいる、ということであり、また「ベルゼバブの孫への話」の著者であるロシアの神秘思想家G・I・グルジェフは、「人間の中にあり、ふだん我々が使用している『知性センター』では、『高次の知性センター』の言語を理解できない」と語っています。禅の公案についての本でも、通常の知性が混乱に陥り限界に達したときに、そこで初めて閃くものがある、と読んだことがありますが、内容がわかるもわからないも、この「霊界物語」は、そもそも頭で理解すべき本ではなかったのでした。そして、本格的に拝読(音読)を再開し、さらに読み進めているうちに(十二巻の終わり頃でした)、神秘体験とまではいきませんが、不思議な夢を見たり、身の回りに奇妙な偶然、シンクロニシティが立て続けに起ったりして、ある種の手ごたえが感じられるようになりました。さらに他の複数の拝読された方々からも、何かしらの霊的な体験をされた話を聞き、今は、霊界物語を拝読する者は、必ず神界からの何らかの働きかけ、導きを受けるであろうことを確信しております。そしてそれだけでなく、拝読と共に感じる充実感は、まさしくこれが「霊魂の食物」であることを実感させ、さらに出口聖師が「霊界物語を音読する者は神業に参加しているのだ」と言われたように、音読によって発せられる言霊によって「『霊界物語』の霊界」を現界に作用させ、この世界をミロクの世へと向かわしめることが出来るのではないかと考えるようになりました(この考えが正しいかどうかはわかりません)。ただ多くの方が誤解されておられますが、「霊界物語」は万人のためのものであって、決して大本・愛善苑の信徒だけのものではなく(むしろ今の信徒はあまり「霊界物語」を読んでいません)、よって教団に入信する必要もありません(30巻10章、54巻12章などにそう書かれています)。どの宗教を信じていようと、あるいは特定の宗教を信じていなくとも、誰が読んでも問題はありません。どうか一人でも多くの方が「霊界物語」を、せめて一巻だけでも(できれば十二巻までを)音読され、預言された新しい天と地新しいエルサレムと結ばれること、それが今の私の願いです。

 

*戦後刊行された「霊界物語」は、出口聖師が昭和十年に校正された『校正本』をもとにしています。しかしどういうわけか、聖師が校正で削除された部分(社会主義を肯定しているように解釈できるところなど)がそのまま掲載されたり、一方で削除しておられない部分(皇室を讃美されたり、昭和神聖会について書かれているところ)が勝手に削除されたりしており、残念ながら出口聖師が校正されたそのままの「霊界物語」ではありません。更に現在大本教団本部から発行されているものは、いわゆるポリティカルコレクトネスに配慮したもので文章が変えられております。この点については様々な意見があり、決して否定する気はありませんが、私としては、現在入手できる霊界物語で最も聖師校正本に近いものは、愛善世界社から発行されている文庫版サイズのもので、これをお勧めします(Amazonからも購入できます)。しかし、この愛善世界社版も他と同じように聖師が削除されたにも拘らず掲載された部分と、聖師が削除されていないのに勝手に削除された部分がそのままであり、さらに一部の余白歌が「第二次大本事件回顧歌」の中の歌に差し替えられてしまっており、その点が残念でなりません。また、「霊界物語」は長大なため、「あらすじ」が作成されたりもしておりますが、それが決して悪いわけではありませんが、もし「あらすじ」だけを読んで、それで事足れり、と思っている方があれば、そのような態度は神様のお気障りになるだけだと思います(参考:54巻『序文』)。それよりはむしろ、出口聖師は「一巻だけでも読んだら救われる」と言われておりますので、第一巻「霊主体従 子の巻」の全文を、そのまま素直に音読されることをお勧めします。

 

・必要な時に、「霊界物語」の中の文字が光る

 

B むかし桜井重雄氏にこんな話を聞きました。聖師から物語の中のここを読んでみよと言われ、何字目かを横に読んだら予言があった。その内容は今は言えないと、ちょっと教えてもらったのですが、必要な時になったらそこだけが光るんだと聖師はおっしゃったというのです。桜井氏はあとで、そこをなんぼ探してみても出てこないというんですね。

D H氏も同じようなことを言っています。むかし見せてもらったがあとでいくら探しても見当たらんと言うのです。それでもう一回調べ直すんだと調べ直しています。

C N氏は若い頃、本部奉仕を辞め帰郷しようと思ってオヤジに相談したら好きなようにしろと言われ、物語から悟らせていただこうと思って拝読したが、ある余白歌から私のようなものでもご奉仕せねばいかんのやな、と悟らせて頂き奉仕を続ける決意をしたというんですが、その余白歌をいくら探してみても、どこにあるのかいまだに分からんというのです。そんなこともあります。白煙となって消えてしまうというのですか。(笑)   

 

          (「いづとみづ」№69 『摩邇の玉むかえ真心の花咲く祝歌』より)

 

 

・「霊界物語」を真剣に拝読した者は、額から霊光を発する

 

 “霊界物語は単なる人為の書物ではなく、真の神が出口聖師に聖霊をみたして述べられた、神伝直受の教典であります。

 霊界物語の神秘について先輩の故成瀬言彦先生から昭和四十五年頃に、次のように伺いました。

 先生が四国へ派遣されていた昭和初期の頃、大本の徳島分所で、五、六十人の信徒に、霊界物語拝読のすすめを内容とした講演をされた時に、話終わって壇を降りると、分所長が礼を述べに来て「徳島の信徒は、皆、熱心な方ばかりで、物語拝読も皆さんがなさっていると確信いたしております」と付け加えられました。

 先生は、そうですかと言って再び昇壇して、皆に、

 「今、分所長から、お聞きの通りのお言葉がありました。しかし、私の見るところ、皆さまの中で拝読なさっている方は三人しかいない。今から私がその三人を当てます」と言って指し示したそうです。

 そのあと言をついで「今示した三人以外に読んだことのある人は、遠慮なく手を挙げてください」というと、皆下を向いて、答える人はなかったそうです。

 先生はさらに、その三人が、それぞれ何巻まで読んだかを言い当て、皆を驚かせたそうです。

 「真の神に祈り、心を込めて物語を拝読すれば、一巻を読み終えると額から蛍火のような霊光が、十五、六巻では懐中電灯のように、月の光を強くしたような霊光が出ている。さらに三十五巻以上ともなれば、さながらヘッドライトの如く強烈な霊光が発しているもので、自分はその顔を見ただけで、何巻の拝読をしているかがわかる」と話しておられました。”

 

          (「人類愛善新聞」昭和63年1月号 松平隆基『万民救済の神書』)


 “‥‥‥物語は神様が出せとおっしゃるのですから、何が何でも出版しなければなりません。さきほど申しましたように私自身も理解できませんでしたが、しかし、これが本当の教えだとおっしゃるのですから、そう信じるよりありませんでした。

 ある時、私はあまり皆が分らんというので、聖師に「もう少し分かりやすいのを出してください」と申し上げると、聖師は「あまり分かるものを出したら悪神に仕組みを取られる。五十年か六十年先になったら、こういう官憲の圧迫もなくなるし、時代がどんどん進んでものの考え方が広くなり、物語も必ず理解されるようになるから、それまで辛抱せい」とおっしゃいました。”

 

         (「おほもと」昭和52年2月号 大国美都雄『聖師と霊界物語』より)

 

*出口聖師の時間観によれば、まず大過去(神代時代)、大現在(今の我々の時代)、大未来(ミロクの世)があり、それぞれの中に過去・現在・未来があるとされます。そして大過去の過去(「天祥地瑞」(73巻~81巻)の世界)は大現在の過去、そして大未来の過去へ投影され、同じように大過去の現在は、大現在の現在、大未来の現在へ、そして大過去の未来は、大現在の未来、大未来の未来へと投影されます。「霊界物語」(1巻~72巻)は大過去の現在と未来が述べられたものであって、それが大現在の現在・未来、大未来の現在・未来へと投影されることになっています(単になぞるのではなく、質的にも向上する)。

 

*浄土宗、浄土真宗の教義では、極楽浄土とは阿弥陀如来が過去に法蔵菩薩であったころ、凡夫たちを救うために四十八の誓願を立て、その修行を成就して阿弥陀如来となられた時に出現した世界です。よって、常識的に考えて法蔵菩薩が阿弥陀如来となられる以前には極楽浄土は存在しなかったはずですが、それでも極楽浄土は「永遠の世界」として創り出されたのであり、永遠であるがゆえに過去の時間軸をも貫き、無限の過去から無限の未来にかけて存在するとされます。結局のところ、「時間」もまた「宇宙」と同じく主神の創造物にすぎず、絶対のものではありません。私の個人的な考えにすぎませんが、同じように「霊界物語」とは、「大過去」の時間軸に設定されて、大正から昭和初期にかけて出口王仁三郎聖師が「宇宙の外に身を置いて」「年を遡り」、つまり時間と空間を超越した神人合一の境地において、人為的(神為的)に創造された「霊界」そのもののことであり、それが大現在・大未来に投影されるということではないでしょうか。

 

   「物語が一組さえあれば、これを種にしてミロクの世は完成する」