大洲の少彦名神社  | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “昭和十九年旧五月十三日の事です。出水氏が例によって、グループの代表でご機嫌うかがいに熊野館に参りました。聖師様は二名(ふたな)の島について盛んにお話をされました。そこで大洲には伊予の小富士とよばれる富士山(とみすやま)を中心にして、すばらしく姿のよい神南山(かんなんざん)という山があり、続いて少彦名命の御陵のある梁瀬山、次に壷神山、高山、金山出石寺山(別名矢野の神山)等々の霊山が連なり、大洲の市街地を取り巻いております。この大洲盆地の中央を清流・肱川がゆるやかに流れ、山紫水明の地でございます、と申し上げると、

「出水さん、その通りなんじゃ。それで大洲という地名はな、オオスといって、一旦急変時のある時は大きなスになる大事なところじゃわい。アハハハ」と笑われ、続いて、

「あのなあ、神南山は南でなくて太古には神奈備山(かんなびやま)とゆうて山そのものを御神体として拝んでいた。それで、少彦名の御陵のある山には遥拝所があって艮(うしとら)の方向に当たる神奈備山にむかい祭りをしたものだよ」

と申された。

 

 聖師様は何でもご存じなのだなあと感にうたれながら、

「それでは宇知麿先生が大洲の佐賀家から大本入りをなされたのも故のあった事でございますね」

と申し上げますと、聖師様は威儀を正されて、

「その様な大切なところだから敵に冒されてはならんのじゃ。出水さん、あんたに頼みがある」

と立ち上がられ、熊野館の御神体の三宝から、そら豆ぐらいの石を取られ、丁寧に半紙に包まれ、

「此の石を大洲の神奈備山に納めてきてくれ、聖地から霊線をつながねばならんからの」

と申されました。大命を拝し身の引き締まる思いで感激、御神命即実行と、お石を預かり懐にして早速お暇をしようとすると、少彦名命についてと、岡山の熊山についてのお話をされました。

 何やらピンときて、帰途岡山の熊山に立ち寄りたくなりました。当時、岡山の酒津に住まわれていた牧慎平先生を知っていたのでお訪ねしました。牧先生は八帖の部屋一杯になる程の大きさの日本地図の一部で京都府以西と四国の部分だけをひろげて、聖地から霊山・熊山に向けて直線で結び、その直線を延長すると、まさしく神奈備山と梁瀬山が線上に結ばれる。牧先生は全国に点在する霊山は皆聖地から結ばれた霊線上に存在するが、大洲の神奈備山は特に神界にては重要なのではなかろうか、気をつけて御神命達成を祈りますぞと申されました。‥‥‥(以下略)”

 

 “‥‥‥少彦名命の御陵のある梁瀬山は加藤家の持山であり、殿様の狩場であった。御陵のある山であることを秘密にし、入らずの山として入ることを止められていたが、明治、大正と少彦名命の崇敬者が増加してきて、薬局、医師、酒醸家等の知名人の参拝も増え、大正十三年頃から女人も入山するようになった所で、山の九合目の所にちょうど土饅頭の形に盛土した墓があり、前方に玉垣のある小さな宮社があります。そのまたすぐ下に約五十メートルほど行くと、祭壇石(ドルメン)と方位石(ストーンサークル)のある、神奈備山を拝したという神楽駄場がある。

 さらに真下に下りきると、肱川の流れで岩に当たり曲がって「ミコガヨケ」と呼ぶ深い淵があります。そこから千メートルほど川上に膝頭ぐらいの歩いて渡れる浅瀬のところがあります。昔からの言い伝えでは、少彦名命は梁瀬山の薬草を取りに行こうとされて、前日からの雨で少し増水しているのに、この川を渡ろうと考えられ、川向うで洗濯をしていた婦人に、

「この瀬は渡れるか」

と声をかけになった。その婦人は、

「今日は少し水がでておりますから、お危のうございます」

と答えたのをお聞き違えられて渡ろうとされた。

 少彦名命の神様は、阿波の国から粟の穂に乗りゆられ、ハジかれて跳んで来られたとも言われるほど小身の神様だったということですから、川瀬に足をとられ深みにはまられて溺れられる。それを見た婦人は、これは大変だと小倉(おぐら)という部落に急を伝えたので、サア急げと部落の老若男女が駆け付けたという。そのサア急げ、サア急げが転化して、現在「サイソゲ河原」という名がつき、河原で洗濯する時は、決して頬かむりをしない風習が伝えられています。

 少彦名命は高貴の神様なので冠を被っておられたが、その冠は逆流して、さらに千メートルほど上流の岩にかかっていたと伝えられ、その冠岩の前を通る荷船や筏のりの舟頭は何か一物を水中に投じてお供えとし、命のご冥福を祈るという風習がいまでも伝わっております。

 ところが、命の亡骸は少彦名の神様をお祀りした御陵の真下に当たる「ミコガヨケ」と呼ばれる淵にかかって上がった。御陵の発見は、定かではないが、藩政時代であったようです。故・鳥居龍蔵考古学博士の調査の結果出土した遺品等や伝説風習からしても、少彦名命の御陵に間違いなしとの折紙つきとなりました。

 また、大洲盆地の市街地を取り巻いて青垣山があり、標高二五〇~三〇〇メートルの処には、東洋一と言われるメンヒルやストーンサークルなど、出雲民族が残したたくさんの遺跡が点在しており、大洲盆地の中央にそびえる標高二二〇メートルの富士山の頂上では歌祭りをしたと伝えられております。”

 

       (「いづとみづ」№99 松田祐治『大洲から上った国魂石のお話』より)

 

*上に掲載させていただいた文章では省略させていただきましたが、出石千助氏が出口聖師から託された「霊石」は無事に神奈備山のある地点に納められ、また、梁瀬山の少彦名神社にて祈願し、授かった「国魂石」も、戦後天恩郷の月の輪台に納められました。

 

*実は、少彦名命の鎮まる国魂石が発見された翌日(昭和21年12月21日)の明け方に、南海地震が発生しています。国魂石発見者の湯浅仁斎宣伝使はかなりの霊能を持っておられた方でしたが、湯浅師によれば、国魂石の出現と南海地震には、霊的な関連があったということです。その後も、月の輪台の国魂石には思いもよらぬことが起るのですが、いずれにせよ不思議な因縁を秘めた霊石であります。

 

*「霊界物語」によれば、少彦名命とは、蛭子(ひるこ、えびす)のことでもあります。

 

*大洲の中心にある伊予の小富士、富士山(とみすやま)については、出口聖師は「木の花姫の姿」とお歌にされています。また、伊予の国(愛媛県)の聖地として、他に松山市高井の四国八十八カ所霊場四十八番札所、西林寺そばの「杖の淵」があります。出口聖師によれば、ここは諏訪湖の移写であり、近江の琵琶湖とも相通じているということです。この諏訪湖とは、霊界物語第24巻に登場する神界の「諏訪湖」のことであり、玉依姫(龍宮の乙姫)の鎮まる聖なる湖です。さらに「高井の郷にある諏訪の湖には春秋二回参拝せよ」との出口聖師のお言葉もあります(昭和2年2月10日)。尚、「杖の淵」の名は、弘法大師が杖を突き立てたら水が湧いたという伝承に由来するものですが、大本信徒は、出口聖師がここで杖を洗われた(霊的な意味があったようです)ことにちなみ、「杖洗いの池」と呼んでいます。

 

*岡山の熊山というのは、素戔嗚之尊の御陵とされる聖地です。熊山戒壇という遺跡があるのですが、それが御陵です。いずれこの「熊山」についても紹介させていただきたいと思います。