二代さまの書 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私が千葉で経済調査官(総理府事務官)であった昭和二十五年の秋ごろ、二代教主が栃木県竜ヶ崎支部にお越しになるということを聞いて、初めて同支部に参拝した。

 教主に随行の方々は、出口虎雄先生や東尾如衣女史などであったが、そのとき二代さまは盛んに短冊などに揮毫され、私にも「みろくのよ」と書かれた短冊を下さった。

 そして私に『あんた、わたしの字をどう思いますか』と尋ねられた。「そうですなあ、天衣無縫と申しましょうか‥‥」と答えると、『てんいむほうとは、どういう意味ですか』「そうですなあ、天上天下畏れるものなし、という感じでしょうか」と申し上げますと、『なるほどなあ、そういわれるとわたしは、本当に天上天下こわいものはありませんな』とおっしゃられた。

 続いて『それでは聖師さまの字はどうですか‥‥』、「無欲‥‥即ち与えることを知って求めることを知らず‥‥というような感じをうけますが」と答えたところ、『本当に聖師さんはそういう人でしたなあ』とおっしゃられた。

 しかし後から考えてみると、お二方の書に対する私のお答えは、誠に不完全極まるものであった。その点私自身も十分承知していたが、とっさの場合のこととて、そうお答えするのが精一杯であった。

 その後、私は千葉市の登戸町から作草部町に移ったが、その団地に住んでいた書道の先生が、天気の良い日は必ずというほど、私の宅を訪れて来た。そして縁先に腰をかけて、さし出したお茶を飲みながら、言葉少なく世間話をしながら帰って行くのが常であった。

 しかし、その話の内容が別にそれほど重要なものでもないので、ある日私はその先生に「毎日のように来られますが、私たちとしては少しも迷惑とは思いませんが、どういう気持ちで来られるのですか‥‥」と尋ねてみた。すると先生は、奥の間に掲げられていた二代さまの「みろくのよ」の短冊を指差しながら、「あの字を見せていただきたいので‥‥どうもすみません」とのことであった。

 いささか驚いた私は、「あれは大本教主さまの書ですが、そんなに立派ですか‥‥」、「‥‥そうですなあ‥‥私の心の内を言葉で言い表すことはできませんが、あの書を見るだけで、何物からも得られない満足感が湧いて来るんです」との返辞であった。

 かつて聖師は「二代の書には、わしもかなわん」とおっしゃられたことがあったが、その頃は、それはいくぶん誇張のように私には思われたが、年とともに二代さまの書には、確かに一種独特のすばらしい、天賦の風格があることを感ずるようになった。

 また、その画も同様であって、二代さまの「救いの船」「夫婦雛(めおとびな)」「だるま」など、単に絵画としてだけでなく、その内に深遠な教理が説かれていることは、心ある人ならば、容易に悟り得るところである。”

 

        (「おほもと」昭和52年9月号 葦原万象『二代教主について』より)

 

 

・北大路魯山人の反応

 

 “昭和二十四年十月三十日、すみこは亀岡を出発、山陽路巡教の旅に出る。姫路、笠岡、岡山を経て、翌月四日、伊部の金重陶陽邸に着く。そのおり、半切、色紙など幾枚かを揮毫したが、その中から陶陽氏は〈よがかわり―― 〉の一枚を所望した。書いてある文句に、何ともいえぬ魅力があり、陶陽氏の心を離さなかったからである。

 昭和二十五年の初冬、鎌倉の北大路魯山人が伊部を訪れる。吉野、瀬戸、伊賀、信楽、染付、赤絵とあらゆる焼物を手がけた果てに、備前に意欲を燃やし、陶陽氏の工房で手ほどきを受け、制作を始める。

 

 その陶陽邸で魯山人は初めて刀自の書を見る。「よがかわり云々」の前引の書である。魯山人は天狗である。陶陽にいろいろ厄介になりながら例によって天狗の鼻を何かというとうごめかす。そこで或る日その刀自の書を、いつも二人で昼食をとる座敷の床の間にかけて見た。

 「魯山人は何気なくはいってきてすわった。そして、床の間に視線が向いた瞬間、魯山人の大きな体が二、三メートルも飛びさがり、それから長い時間、穴のあくほどにすみこの書に見入っていた。陶陽氏はその十分すぎるほどの手応えを見ながら、そしらぬ顔で心中快哉を叫んだ。やがて魯山人は長い就縛からようやく解放されたように、〈すみこというのはどなただ〉と、なかば放心の態でたずねた。そこで陶陽氏は、大本の二代、出口すみこの名を明かした。」

 魯山人はみずからも自負した万能の芸術家であった。陶芸をはじめ、書に絵に篆刻に。さては美味求心と至らざるはなき独歩の境地であった。しかし彼が世に出た最初は篆刻であった。だから所には特に自負心があり、また実際に世評も高かった。その魯山人をして二、三メートルも飛びさがらしたのだから、よほどの感動であったに違いない。

 魯山人は思い立ったら矢も楯もたまらない。陶陽氏をせき立て翌二十六年の正月早々、亀岡にすみこを訪ねる。魯山人はその出会いの感動を、彼が主宰した雑誌『独歩』の創刊号に記しているので要約してみよう。

 

 「備前伊部の金重陶陽氏君の所で、はじめて、すみ子刀自半切の歌を見ておどろいた。その字たるや魅力将軍太閤様ばりで実に天真爛漫、スケールが大きくて自由自在、こんな立派な字を書く人なら会ってみたいと云ったところ、陶陽君が案内しようということになり、同じ行くなら丹波の猪肉も喰いたいから正月にしようというわけで、正月の二日に陶陽君が京都で迎えてくれて一緒に行き、これからすぐ会おうということになった。刀自はちょうど正月で、信者の祝いをうけるため、綾部から亀岡へ来た所であった。」”

 

       (大本本部編集「でぐちすみこ作品集」谷川徹三『すみ子刀自の書』より)

 

 

*いくら何でも二、三メートルも飛びさがった、とはオーバーではないかと思いますが、魯山人は二代さまの書について「弘法大師にも匹敵する」とも語っておりますので、これまでに経験したことがない程の衝撃であったことは確かなようです。