「ヨハネ黙示録」の解読 〔エドガー・ケイシー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

ケイシー氏 会として、個人としての「喜びの奉仕者」と、彼らのしてきた『黙示録』の研究がここにある。各自は、愛する人が、なぜ、どのようにして、そのような性格のメッセージを使ったかを考えるように。まず、キリストの体は、世界に対して、父への通り道、扉、瞑想を表した。そのため、これは、物質世界、精神世界、霊世界との関係で自分を研究する材料になる。それは、ひとり一人が、その経験の中で、この書とキリストの生活を応用できる道として設けられたものである。

 

問1 「七つの教会」を「体内の七つの霊的センター」と解釈してさしつかえないでしょうか。

答1   よい。  

 

問2    それらは正しい配置になっていますか。読み上げますので、各中枢に関係すると各自の発達と経験について述べて下さい・生殖腺-エペソ。ライデン線-スミルナ。太陽神経叢-ペルガモ。胸腺-テアテラ。甲状腺-サルデス。松果体-フィラデルフィア。脳下垂体-ラオデキヤ。

答2   説明するより、これらが正しい配置になっている必要がある。ひとり一人が得てきた私的経験は異なる。ある中枢の解放や活動が、これこれのものを誘発し、意味し、応用すると説明すれば、機械的なものとなる。

 すべての人の中で、すべてを通して、自己の働きは水路に過ぎないと知りなさい。神が、個人にもっとも相応しい方法で、そこに理解と向上を加えてくださる。決まった活動や結果が型どおりに期待されるのではない。そのどれもが、個人の理解に応じて解放される機会を表わし、提供すると解釈すべきである。

 人には自由意志が与えられているので、どう活かすかは各自の問題である。父の意志のまま、完璧に、活発に活かされるときこそ、まさしく、キリストの生き方に等しいものとなる。

 

 

問11  「七つの封をした巻物」とは、七つの霊的中枢を持つ人体のことですか。

答11 正しい。

 

 

問30 この関係において、「主の祈り」をどう使えばよいでしょう。

答30 各部の意味の流れを、いわば、全身で感じとることによる。このすべての精神的写しに感応するものが精神体にあるので、あなた方の主、兄であるイエスが、「私にはあなた方の知らない食物がある」と巧みに表現なさったその方法で、肉体にもそれが形成されるのである。

 

(林陽訳・編「エドガー・ケイシー文庫 黙示録の解読」(中央アート出版社)より)

*この林陽氏による「エドガー・ケイシー文庫 黙示録の解読」は、市販されているケイシーの黙示録解釈について解説した本としては、最も詳しく、よく纏まっていると思います。

 

 “なぜこの黙示録は理解しにくく書かれたのか読者は疑問に思うかもしれない。しかし、理解できなくても声に出して読むだけで、神様を知り、共に歩み、より親密な交際を経験できるのである。幻や経験、人の名前、いくつかの教会、さまざまな場所、龍、都市は、すべて人間の中の戦っているフォース(力)の象徴である。人間が物質的な世界を通じて旅をする時、永久の栄光、天国に入ろうとする時、またはどっちでもない時(アストラル体で目覚めた時)は、フォースたちの戦いを抑えなければ、精神性を高めることはできないのだ。教会は人の第五感の影響力を象徴する。人の意思によって物質的な世界の活動に合わせなければいけない。長老たちと聖羊は象徴的であり、彼らは一般の人たちの経験の中の拒否や肯定の影なのである。

 読者が見えるように、幻や幻の中の経験が紹介され、現実化された念力はすべて源からきている。人の魂は人物の意思であり、強力な影響を受けどんどん物質的な世界に精神的状況を現実化するか、その反対となる。

 なぜこの話は象徴的になっているのだろうか。過去の人が行い、未来の人がこれから成すように、あなたが現在において努力し、活動することで栄光の理解に至ることができるだろう。” (NO.281-6 1933年3月13日)

 

(クリストファー・アーンショー「聖なる「黙示録タロット」カード」(BABジャパン)より)

*著者のクリストファー・アーンショー氏は、日本に長く滞在され、日本エドガーケイシーセンターの元監事でもあった方で、この「聖なる「黙示録タロット」カード」のセット(タロットカード+解説書)は、ケイシーの黙示録解釈によって明らかになった数々の象徴の意味をタロット解釈に応用するものであり、なかなか興味深い内容でした(日本語が少々わかりにくいのですが)。ここで引用させていただいたのは、ケイシーの黙示録リーディングNO.281-6の一部ですが、この解説書にはその全文が掲載されています。

 

*エドガー・ケイシーは、一般に世界の終末、最後の審判について記されているとされる「ヨハネ黙示録」とは、実は聖ヨハネが自分自身の霊的覚醒に伴って体験した様々な心理的、生理的な現象のことを象徴をもって記録し、同時に読み手にも霊的覚醒をもたらすことを目的として記述したものであると述べています。七つの教会とは封印された状態にある人体内の七つの内分泌腺(チャクラ)であり(パラマハンサ・ヨガナンダも同じことを言っています)、七つの封印が解かれることによって、つまり七つのチャクラが開放されることによって、我々はキリスト意識の世界、新エルサレムへと導かれます。何年か前に、「ナルト」という少年忍者の漫画があって世界的な人気になりましたが、主人公のナルトの体内には、巨大な九尾の狐の妖怪が封印されていて、彼が危機に陥り、かつ意識を失うとそれが出現するというような話でした。同じように私たち一人一人の体の中には神様が封印されているのであり、もしこの七つの封印を解くことができるなら(黙示録では、封印を解くことができるのは「屠られた子羊=キリスト」だけです)、自分の中の神様が表に現われてくださるはずなのです。

 

*出口王仁三郎聖師も、「霊界物語」を「最後の審判書」であると言っておられ、また「臍下丹田」と書いて「あまのいはと」とルビをふられており、このことからも、「天之岩戸開き」とは「ヨハネ黙示録」と同じく、体内のチャクラ、内分泌腺の開放のことを意味していると考えてよいように思えます。もちろん、「霊界物語」の断定的な解釈は誰にも許されておらず、あくまでも私個人の考えにすぎません。

 

*「霊界物語」の中の、宝玉をめぐっての神々の戦いの話などは、まさにこのフォース達の戦いです。また、全巻を通じて、やたら泥棒や強盗、女好き、大酒飲みなどのロクデナシばかりが数多く登場し、どいつもこいつも救いようのない悪党でしかないのですが、どういうわけか宣伝使たちは彼らを滅ぼすようなことは決してせず、ひたすら回心させようとします。さらに宣伝使たちが各地の神館(かむやかた)、を訪れるシーンが度々あるのですが、なぜかどこの神館も門番には馬鹿しかおらず、しかもたいて到着が夜になるため面倒くさがられ、そのために宣伝使はいつまでも外で待たされて中に入るのに苦労します。ケイシーの説くヨハネ黙示録解釈のように、「霊界物語」に登場する神々や人物が我々の中の様々なフォースの人格化であり、音読することによって神界からの内流がもたらされ、喚起された高次の力によって内部にのさばっている低次の諸力が次第に制圧されてゆく、あるいは高次の力との接触によって低次の力が変容されてゆくということであれば、このようなストーリーになっていることにも納得できます。さらに「霊界物語」には、肛門期の幼児達が好きそうな糞や小便などの下品な話がやたらあり、また猿蟹合戦や浦島太郎、カチカチ山などのいくつもの日本のおとぎ話が形を変えて出てきますが、これも我々の深層意識、集合的無意識の中に存在しているものが汲み上げられていると考えれば、音読すれば感応があるというのも当然だと思います。

 

 “わたしにその癖があったからでしょうが、「学校で学級的に研究するように読んでも霊界物語はわからん、もっと素直に受けとれ」と聖師は言われる。「霊界物語には特別に上品なところから、下劣きわまりないところまでいろいろある。だからすべてを素直に受けとるわけにはいかない」と私がくい下がると、聖師は、「上品なところから下品なところまで一切を網羅してあるのが霊界物語だ。お前の心身にしてもそうだろう。非常に高貴な面もあれば下劣な面もあるが、すべてが寄りあってお前の人格となっているじゃろ。それと同じように考えて霊界物語を読めば、立派な神書だということが理解できるはずだ」 というようなことを言われた。”

 

(「いづとみづ №103」『大国以都雄に聞く・全時空を包含する霊界物語』より)

 

 

 “霊界物語は人間の臓物をならべて書いてあるのぢゃ。(昭和二年 教主殿にて佐藤章子氏拝聴)”

 

(木庭次守編「新月のかけ 出口王仁三郎玉言集 霊界物語啓示の世界」より)

 

 

 “私は、朝から晩まで物語を読んで、一体何を得たんやろうと考えてみたことがあった。当時照明館の御神前で、大きな声で一生懸命拝読していた。聖師さまが来ちゃったらしいが、気がつかなかった、面白くて……。あとで聖師さまが、

 「大国、あの状態になったら神さまと相応するわい。そこまでいったらわからんでもいいわい。天国はその状態だ。その状態を体験し、それをつみ重ねていったら最高に行けるぞ。神の意志想念と人間のそれが一致するという状態になり、人間の世界を忘れてしまう。そこにはじめて救いがある。それを一生懸命やったらいいぞ」

 と言われた。”

 

(「愛善苑」昭和46年8月号 大国以都雄『聖師の血と肉霊界物語』より)

 

 

 

 

 

 

 


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