「救世主」と「蛇」の数値 (ゲマトリア) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……ゲマトリアとは、それぞれの文字が持つ数字としての値から単語に秘められた意味を見出す技術なのである。その手順の方法は、ヘブライ語のそれぞれのアルファベットが数字としての明白な値を持ち、数字としても用いられているという事実に基づいている。どんな単語でも、その単語の文字の値を総計したものが、別の単語の文字を総計した数字と等しい時、その意味や訳語がどれほど異なっていようが、二つの文字に近しい相当関係と共通が見出されるのである。

 例えば、נחש Nachosch、「蛇」の総計は358である。 ש300 + ח8 + נ50 = 358。また、משיח 「救世主」の総計も358である!358 = 8 + 40 + 300 + 10。理論的には、何か確かな関連があるといえようが、その関連はどうやって見出されようか?

 「蛇」はクンダリニーの象徴であり、クンダリニーは、それぞれの人間に備わる霊的創造力であり、訓練された意識によってその力が発現した時、その人間は完全に再構成されて「神の如き人」となるのである。かくて古代インドの「秘儀参入者」は自らをNagas すなわち「蛇」と呼んだのであり、すべての時代のすべての国にある「蛇崇拝」は(単なる男根崇拝とは異なって)考古学者達にとって問題となり続けているのである。ナーガNaga、もしくはナージャNajaという言葉もまた、私の知るところでは古代エジプトの神殿にある楔形文字の書かれたタブレットの上に見出されるという。その神殿においては、オシリス、「太陽神」が始原の深みより昇る時に歓呼されるという。「新参者」は、秘儀参入にあたってオシリスに献じられ、三日間続く深いトランス状態になるのだが、太陽光線が彼の縛られている十字架にあたる時に栄光をもって報われ、ウレウス・ナージャ Uraeus Naja 即ち大宇宙の意義と霊的知識の紋章のついた頭飾りを与えられるのである。

 さらに、3と5と8の数字を加えると16になる。十六番目の「径」の照応事項を見れば啓発的な帰属物をいくつか見出すことができる。それはテトラグラマトンの「息子」――ディオニュソス=ザグレオスである。また、「秘儀の司祭」即ち「救世主」、存在の神秘を解くことが可能にしてまた贖罪の奇蹟を成すパルシファルである。

 このように、我々は、カバラが明かすことを可能にした「蛇」と「救世主」との間にある明白な共通点を理解することができるのである。”

 

(イスラエル・リガルディー「柘榴の園」(国書刊行会)より)

(江口之隆/亀井勝行「世界魔法大全1 黄金の夜明け」(国書刊行会)より)

 

*ヘブライ語のゲマトリアによる解釈で、人類を堕落させた「蛇」と人類を救済する「救世主(メシア)」の数値がどちらも同じ「358」であり、両者はイコールの関係にあるというのは、かなり衝撃的なことだと思います。また「パルシファル」とは、聖杯伝説に登場する人物で、苦しみを共有してくれる「聖なる愚か者」のことです。

 

*旧約聖書の「民数記」には、出エジプトの後、イスラエルの民が葦の海の途中までやってきたときに、長年続く流浪の苦しみに耐えかねて不平を言い始め、そのために主なる神が怒って地上に炎の蛇を送られ、蛇にかまれて多くの人が死んだ、という話があります。後悔した民はモーゼにお願いして、取りなしをしてもらうのですが、そのときにモーゼは神の言葉に従って青銅で蛇を作り、それを旗竿の上に掲げます。不思議なことに、たとえ炎の蛇にかまれても、この青銅の蛇を見た者は死なずにすみました。つまり「創世記」では、地を這う蛇によって人類は罪に陥りましたが、「民数記」では、モーゼによって旗竿に掲げられた蛇は死すべき人々に命を与えました。一体何が「蛇」にこの変容をもたらしたのか、「掲げ上げられた」ことに意味があるようですが、いずれにせよキリスト教においては、この旗竿に掲げられた青銅の蛇は、十字架に掛けられたイエス・キリストの予型であったとみなされています。

 

 “民は神とモーゼに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れのぼってこの荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーゼのところへ来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーゼは民のために祈った。すると、主はモーゼに仰せられた。「貴方は燃える蛇を作り、それを旗さおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」 モーゼは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし、蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎみると、生きた。”(「民数記」21.5-21.9)

 

*そして、イエスご自身も、自分をこの「青銅の蛇」に例えています。

 “「モーゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」”(「ヨハネ伝」3:14)

 

*イスラエル・リガルディー氏の解釈によると、聖書に登場する「蛇」とはインドの神秘主義において説かれる炎の蛇「クンダリニー」のことです。ヨーガでは、クンダリニーは通常は尾骶骨の底(先端)で眠りについており、そのときは我々はまだ低次の欲望の支配下にありますが、クンダリニーが覚醒し上昇を始め、体内のすべてのチャクラを目覚めさせ、頭頂のサハスラーラ・チャクラにまで到達すれば、解脱の境地に至る、つまり梵(ブラフマン)との合一の体験を得ることができるとされています。しかし一方で、クンダリニーの覚醒を達成してもそれが上昇しないならば、反対に低次の欲望のとりことなり、人格は崩壊するとも言われています。

 

*もしかしたら、太古において龍体であった艮の金神国祖国常立尊が、いったん根の国底の国に封印され、三千年後に御再現になられて世界の主宰神の地位に着かれるという「大本神話」の内容、さらにスサノオが八岐大蛇の尾の中にある天叢雲剣を得て、これを天上の天照大御神に捧げることで五六七(みろく)神政が成就されるという「霊界物語」の内容もまた、この人体の尾骶骨の先に眠っている霊的器官クンダリニーの覚醒と上昇のことを意味しているのかもしれません。

 

・「霊界物語」第一巻 霊主体従 子の巻 『序』より

 

 “この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁せる八岐大蛇を寸断し、つひに叢雲宝剣をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七(ミロク)神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまひし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来ることも、あながち否み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。”

 

 

 

 

 

 

 

 


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