人が龍であったころの記憶  | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “トロント大学のポール・マクリーンは、人間にはひとつどころか三つの脳があると指摘している。三つとも、機能、構造、生化学的作用において互いと異なる。まず、食肉動物、クジラ、霊長類、そしてヒト、といった高等動物に異なる容量で存在する、発達の進んだ脳である新皮質がある。この「思考帽(キャップ)」の下には、もっと古い大脳辺緑系があって、これが多くの鳥や原始哺乳類とわれわれに共通の、より強い方の感情を司っている。これらのさらに下には、脊髄の先端が膨らんだような、爬虫類的な部分があり、これこそ数億年来このかた、ほとんど変わることなく生きのびてきた部分だという。

 つまり、われわれはいちばん上の脳で考え、中間の脳で感じ、なおかつその奥底から響いてくるどよめきや擾乱(じょうらん)に、とりわけ眠っているときや意識の働きが抑えられているときに、ふりまわされてしまう。ドラゴンは生きている―― コモドにばかりではない、われわれひとりひとりの、頭の奥底にひそむ暗部に。

 ユングは、虐げられた民衆に代わってドラゴン退治をする原型的な英雄が登場する民話が、とりわけ西欧においておびただしく存在する事に着目していた。これらの話は、彼の解釈によれば、人間が新しく発見した意識が古い、もっと本能的な無意識によって再び吞み込まれてしまうという恐怖を、われわれが抱いているということの証左と見ることができる。暗黒の怪獣を打ち負かして救いの光が射し込むようにするのが英雄の役目であり、ドラゴンを殺すことが、英雄すなわちわれわれ自身が、意識を十全に開花させることの象徴となっているのである。

 これは多分に西欧的な解釈で、長所もあるが危険もあるように思う。ドラゴンを単に罪悪な暗黒の力と見てしまうと、話の眼目を見失う恐れがある。むしろドラゴンを力の象徴、善と悪の力にもどちらにもなりうる嵐の化身ととる東洋の見方の方が、真実に近いのかもしれない。また、ドラゴンを制圧はしても、まるきり追放してしまっては、かえって自滅行為になるとも考えられる。そんなことをしたら、まだ有益な役割をもつわれわれの中のある部分を、みすみす破壊することになってしまうだろう。

 数あるドラゴン譚でもいちばん痛快なのは、ヒーローがドラゴンを打ち負かすばかりでなく、ドラゴンにとらえられて今にも呑み込まれそうになっていたか弱き乙女を救い出すことにも成功するというくだりだ。これの近代版では、多くの場合、ハンサムなカウボーイが登場して火炎を噴く鉄の機関車の前に立ちはだかり、線路に縛られている少女を救い出す。

 神話はこうわれわれに訴えている。今やわれわれの新しい、より意識的な自己が、旧い無意識的な部分を正面からとらえ返そうとしている。その過程で、大地を潤す、われわれの中のより優しい、創造的な人格である女性的な部分が解放されつつあるのだ、と。

 われわれにはドラゴンが要るのだ。人類の歩んできた道を、人類が未だ完璧でないことを、とことん思い知らせてくれるドラゴンが必要なのである。ドラゴンよ永遠なれ。”

 

(ライアル・ワトソン「アースワークス」『ドラゴン無限』(ちくま書房)より)

 

*「大本神話」では、太古の天地創造の時代においては神々の姿は龍体であったと説かれています(しかし、いったん人体化された上は、もはや元のお姿に還元されることはなく、そのことを云々するのは神様に対して御無礼であるとも)。「古事記」や「日本書紀」とはあまりにも異質な内容に、多くの方から荒唐無稽と評されてしまうのは仕方のないことかもしれませんが、私には、実はこの説はかなり本質をついているように思えます。

 

 “天地万有をみづから創造したまひ、絶対無限無始無終の神徳を完全に具有したまふ宇宙の大元神たる大国治立命にして、固有の神力を発揚し、太古の初発時代の神姿に還元して活動したまふにおいては、如何なる大神業といへども朝飯前の御事業なるべし。されど大神は一旦定めおかれたる天則をみづから破り、その無限の神力を発揮したまふは、みづから天則を造りて自ら之を破るの矛盾を来すものなれば、大神は軽々しくこれを断行したまはざるは、もつともなる次第なりけり。

 神諭にいふ、

 『艮の金神が、太古の元の姿に還りて活(はた)らき出したら、世界は如何様(どのよう)にでも致すなれど、元の姿のままに現はれたら、一旦この世を泥海に致さねばならぬから、神は成るだけ静まりて、世の立替を致そうと思ふて神代一代世に落ちて、世界の神、仏、人民、畜類、鳥類、昆虫までも助けてやらうと思ふて苦労を致して居るぞよ』

と示されたる神示は、我々は十分に味はひおかざるべからず。万々一国祖の神にして憤りを発し、太初の神姿に復帰したまひし時は、折角ここまで物質的に完成したるこの世界を破壊し終らざれば成らぬものなれば、大神はあくまでも最初の規則を遵守して忍耐に忍耐を重ねたまひしなり。アヽ有難き大神の御神慮よ。

 常世彦をはじめ、さすがの暴悪無道の神人といへども太古のままの元形に還り、神変不可思議の活動をなすことは知りをり、かつ又その実力は慥(たしか)に保有してをれども、その神人たるの神格を失ひ、根底の国において永遠無窮に身魂の苦しまむことを恐れて、容易にその魔力を揮はざりしなり。この真理を悟りし神人はたとへ肉体は滅亡するとも、決して根本的に脱線的還元の道は選ばざりしなり。アヽ犯し難きは天則の大根元なるかな。”

 

(「霊界物語 第四巻 霊主体従 卯の巻」『隠忍自重』より)

 

*文中に、「今やわれわれの新しい、より意識的な自己が、旧い無意識的な部分を正面からとらえ返そうとしている」とありますが、野口整体の活元運動は、錐体外路系の運動、つまり大脳新皮質、旧皮質よりもさらに原始的な脳である、ドラゴン=爬虫類脳から生じる運動であり、まさに今の時代が必要としているものだと思います。もし、人間の潜在意識、無意識の部分に存在する諸々の衝動が、活元運動などによって徐々に昇華されることなく、一気に噴出して来るようなことがあれば、その人の人格は崩壊しかねません。最近、鬱や統合失調症など、精神的な病気が増えているようですが、活元運動によって、それらの精神的疾患の多くを防ぐことが出来るのではないかと思います。

 

*この本「アースワークス」の著者であるライアル・ワトソン博士は、1978年に亀岡天恩郷を訪れ、信徒向けに講演をされています。

 

 “『スーパー・ネイチャー|』、『生命潮流』などの世界的ベストセラーの書で知られるライアル・ワトソンは一九七八年夏に亀岡の大本本部で開かれた第三回大本日本伝統学苑に学苑生の一人として参加したが、その間三回にわたり学苑生に講話した。その中で、大本三大学則についてふれている。

 

 「皆さんご存じのように天思郷万祥殿の裏に二つの石碑があります。そのうちの奥まった所にある石碑には、大本三大学則が刻まれております。これはいうまでもなく大本教祖出口王仁三郎師が唱えられたものですが、私はこの学則を拝見し、その英訳文を読んで、たいへん感動しました。そこには、私がこれまで探究しつづけた万象の心理を究める方途が端的に表現されていたからです。この大本三大学則との遭遇は、自然科学者である私に今後の進路を明示してくれたといっても、決して過言ではありません。私のみならず、世界のすべての学者に物事を研究、観察する上での基本的な姿勢をうち出しているといってもよいでしょう。私がなぜ大本へ引き寄せられたのか、この学則に遭遇してはっきりと認識できたわけです。」(『おほもと』昭和五四年三月号「自然科学と三大学則」)”

 

(十和田龍「出口王仁三郎の神の活哲学」(お茶の水書房)

 

 

 

 

 

 

 


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