女神でもあるスサノオ(主神の中の女性原理) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

  姫神のすがたたちまち(ます)良夫(らお)と なりて八束(やつか)(ひげ)を垂らせり

 

  よく見れば神素盞嗚(かむすさのを)の大神の 威厳そなはる御姿なりけり

 

  われこそは神素盞嗚尊なり (なれ)(みたま)に添ひてまもらむ

 

  いざさらばわれ天上に帰らむと (たちま)ち女神となり給ひたり

 

  むらさきの雲の階段(きざはし)ふみしめて 昇らす女神の姿のとふとさ

 

           (「歌集 霧の海」より)

 

 

 豊国(とよくに)(ひめ)神格化(しんかくか)して神素盞嗚(かむすさのを)の神 一名(またのな)(くに)大立(ひろたち)の命と(まを)す (霊界物語 第十巻 余白歌)

 

 

・出口聖師の本霊

 

 “昭和三年十月、天恩郷に参拝した折のことです。聖師さまは月宮殿の前でみんなが作業しているところを見て廻っておられました。その聖師さまの直ぐ後ろに若く美しい女の人がついて歩いておられるので私は不審に思い高木さんに話すと、そんな人は見当たらないと言われる。そこで鈴木満義さんに尋ねると、あのお方は聖師さまの本霊です。誰でもお見受けすることのできない御神姿にお目にかかれた貴方は幸せで、大変なご神徳を頂かれた、と言われ私は不思議でなりませんでした。

 聖師さまは後で面会してやると申され、改めてご面会をさせて頂きましたが、次々ご面会の方が来られるので高木さんと私は後ろの方で待っておりました。その時の聖師さまは、温和な人が面会に来られるとニコニコした笑顔で応対になり、きつい顔した人が来られると急に厳しい表情に変わられ、面会の方は泣きそうな顔で聖師さまに一生懸命何かお願いをしておられる。すると聖師さまの表情はもとの温和な姿にかえられる。その日は不思議なことを種々と見せていただきました。”

 

(「愛善世界」№8 佐山孝彦『〝最後の最後まで私についてくるんだ〟との聖師さまのお言葉に生かされて』より)

 

 

・聖母マリアについて (エドガー・ケイシー)

 

 “プロテスタントの人々はこのような話に反発を覚えるかもしれないが、ケイシーのリーディングは、マリアはイエスと同じく、「子宮に宿った瞬間から原罪を持っていなかった」と断言している(5749-8)。このことは「マリアの無原罪懐胎」を主張するローマ・カトリックがこの点で正しいことを裏付けるものである。”

 

 “リーディングは終始一貫してマリアを高く評価している。マリアは処女懐胎によって母体に宿っただけでなく、非常に神秘的・不可思議な概念であるが、「地球に関する限り・・・、主が地上に入られた際に、マリアは主と双子の魂(ツイン・ソウル)であった!」(5749-8)”

 

  (リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)

 

 

・聖母崇拝(崇敬)について  (カール・グスタフ・ユング)

 “・・・聖母崇拝は民衆信仰のレベルでは時代と共にますます強くなっていった。マリアが死後肉体のまま昇天したとする聖母被昇天の信仰は既に4世紀の外典から現われ、東方では4、5世紀ごろから、また西方では7、8世紀ごろから昇天祭の習俗が生まれた。
 ユングはある講義の中で、パリ郊外シャルトルの聖堂の由来についてふれている。シャルトルは中世の聖母崇拝の霊場として知られている。この街の聖堂は11世紀から13世紀にかけて建立された有名なゴシック建築であるが、聖堂の中心にクリプト(地下玄室)がある。ユングの説明によると、この聖堂のある場所は、もとはキリスト教以前の古代ケルト族の聖地だったところで、泉のほとりにケルトの処女神が祭られていた場所だったという。キリスト教が入ってから、この原始の地母神の神域はキリスト教の聖地に変わり、ケルトの処女神は聖母マリアに変身したのである。クリプトは地面より低い泉の位置に女神の祭壇があった痕跡らしい。ローマ時代のキリスト教寺院にはこういう例が多いという(西欧にキリスト教を布教した法王大グレゴリウスは、異教寺院を破壊せずに、キリスト教の寺院として用いよと命じている)。これらの例からみても、聖母信仰が異教の地母神信仰を吸収して、民衆信仰の底流を形成していったことが知られよう。つまりユングに言わせれば、キリスト教というものは、原始時代以来の民衆信仰の地層が何重にも重なって出来た大木のようなものであって、みえない地下の根には異教的要素がたくさん見出されるのである。ユングはそういう精神の底層が果たしている役割を重視しなくてはならないというのである。
 教義学の歴史をみると、聖母被昇天の信仰は8世紀ごろから論議の的になり、いわゆるマリア無原罪説が唱えられる。13世紀のトマス・アキナスらは、無原罪説は認めなかったが被昇天説は支持している。近代に入って、法王ピオ9世は、1854年無原罪説を教義として採用し、さらに1950年には、ピオ12世が聖母被昇天を教理として公布したのである。これらの教義はいずれも教会内部の神学論争から生まれたものではなく、民衆層から起こってきた要求を教会が受け入れたものである。この点に聖母崇拝の独特な性格がみられる。エロス的なるもの・女性的なるものとキリスト教の精神的伝統とは、論理的になじみにくい。しかし、カトリック教会がこの信仰を許容したことは、中世ヨーロッパの社会にみえない大きな精神的安定作用をもたらしたように思われる。聖母崇拝はグノーシス思想の流れをくむ中世の錬金術的世界観と深く結合しながら、精神史の底流として展開してゆくのである。ユングは、聖母崇拝が教義的疑問点を含んでいるにもかかわらず、古代から現代にいたるまで常に民衆信仰の大きな支えになってきたという事実を重視する。彼の言うところに従えば、聖母崇拝は非キリスト教的思想として退けるべきものではない。もし疑問があるとすれば、あらためるべきはむしろ教義学の方なのである。教義体系が人間の心理的経験の基盤を失い、魂の本性と相反するものになってゆくならば、それは信仰にとって有害な結果をもたらすであろうからである。ここでは、神学者の知的思弁よりも民衆の直観の方がかえって正しいのである。”

             (湯浅泰雄「ユングとキリスト教」人文書院より)

 

 

・聖母マリアと聖女ファーティマ(預言者ムハンマド(マホメット)の娘、カリフ・アリーの妻)

 

 “創造に関係する重要な神名は、ハーリク、バーリウ、ムサウウィルの三つである。

 ハーリクとは、万物の可能性を「(はら)む」創造の側面であり、ソフィア、すなわち永遠の知恵として知られている。スーフィーにおいては、処女マリアがこの役割を象徴している。処女マリアは、霊を妊んだ受容的形態だったからである。

 バーリウとは「生む」という創造者の側面である。処女マリアは御言葉(ロゴス)を生んだという点において、「神的なもの」のこの側面をも象徴している。

 第三の名前、ムサウウィルは諸形態を飾る創造者の側面である。この側面は、職人、工匠、建築家などと深い関係をもっている。これらの人々は、霊を妊み、生みおとし、それを可視的形態の中で育むことにより、処女マリアの創造行為を模倣している。

 ムハンマドの娘、ファーティマは、スーフィーによって創造的女性と呼ばれている。「『主であること』の秘密を握っているのは創造的女性の概念である(ムハンマドのハディース(言行録)「自己を知る者は主を知る」)。その秘密とは、神の滋養物を自らの存在の実体(サブスタンス)によって保持すること、自らの存在によって、自分が象徴している神名に実体を与えることである」(H・コルバン『イブン・アラビーのスーフィーズムにおける創造的想像力』)。

 ファーティマは、女性的なものの本質を象徴している。彼女は自分を創造した存在(ロゴス、すなわちムハンマド)の創造者だったからである。いいかえると、処女マリアがロゴス、つまり御言葉の母であるのに対し、ファーティマはロゴスの娘であり、さらにアリーと結婚することにより、イマームの中に顕現するロゴスを生みおとす。”

 

     (ラレ・バフティヤル「スーフィー イスラムの神秘階梯」平凡社より)

 

 ちなみに、聖母マリアの出現地の一つであり、ローマ・カトリックの聖地となっているポルトガルの“ファティマ”の村名は、中世にイベリア半島がムスリムの統治下にあったときに名づけられたもので、ムハンマドの娘ファティマの名に由来します。