トリックスター (ユング心理学) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “トリックスターは元型の一つ。その像は誰の心の中にも存在している変幻自在のトリック使いで、人をだます名人である。「名人」といっても、人間の姿をしているとはかぎらず、神話には獣として出てくることもあるし、神として登場することもある。神出鬼没で正体不明のことも多い。アメリカ原住民神話のコヨーテ、ギリシャ神話のヘルメス、北欧神話のロキなどがよく知られている。わが国の神話における素戔嗚(すさのを)も、八岐大蛇(やまとのをろち)を酒で泥酔させて退治したことなどからその一例とされる(河合・湯浅・吉田 1983、老松 1999)。

 トリックというと聞こえが悪いが、トリックスターのそれは、素朴な悪戯、善意の嘘から世界を混乱に陥れる策謀まで、その内容と質はバリエーションに富み、よきトリックも使うのだ。程度が低い場合は、ただ本人がまわりの混乱を楽しんでいたり罰を受けたりするだけの幼稚なものだが、高度になると、世界の旧習を根底から破壊して結果的に秩序の転倒や更新をもたらす。英雄として機能する可能性も秘めている。

 ユング(1954ⅽ)はトリックスターについて次のように述べている。ユング心理学になじみの薄い読者にはちょっとわかりにくいかもしれないが、さまざまな特徴を網羅的に記してあるので、いちおう押さえておこう。要所はおいおい説明する。

 

 このような転倒をもたらす〔トリックスター〕の両面性はまた、悪魔を「神のサル」として描いたり、民間伝説のなかでは、「だまされる」、「間抜け」な悪魔として性格づけたりする点に存在している。典型的ないたずらのモチーフの特異な結合が、錬金術におけるメルクリウスの像に見られる。すなわち、彼のだまし癖、時に陽気に時に悪意のある(毒性の!)いたずら好み、変身する能力、半獣半神の二面性、あらゆる拷問にさらされるものとしての存在、そして—― 最期になったが決して軽んずることのできないこととして—― 救世主の像との近似、が見られる。これらの特性は、メルクリウスをギリシャのヘルメースよりもなお古い、原始時代から復活したデーモンのように思わせる。彼のいたずら好きは、民間伝説の人物や、おとぎ話でよく知られている主人公たちと関係している。それは「おろかもの」、「おろかなハンス」、「ハンスブルスト」などであるが、ハンスブルストは一種の陰の英雄であり、他人がどんなに努力してもやれないことを、そのおろかさによってやり遂げるのである。グリムの童話(九九話。ガラスびんの中の化物)では、「メルクリウスの精」は百姓の若者に瞞着されて、傷を直す力をもった高価な贈り物を与えて、自由を買い取らねばならなかった(河合隼雄訳)。

 

 トリックスターには、善なる側面と悪なる側面の二重性、あるいは狡猾な側面と愚かな側面の二重性が備わっている。トリックスターは変容に不可欠な秘薬とさえ言えるのだが、同時に毒でもあり、邪悪で狡猾な側面とうまくつきあうのは非常に難しい。そもそも、その神出鬼没さゆえ、必要なときにはなかなか出会えない。にもかかわらず、思いがけないところでバッタリ出くわしたりもする。

 ところで、ユングの言葉の中に、「あらゆる拷問にさらされるものとしての存在」という箇所があった。ここにトリックスターとトラウマのひそかなつながりを見て取ることができる。みずからの死を垣間見るような苛烈な個人的経験もしくは集合的経験は、トリックスター元型を活性化する。その結果、一方ではトラウマ関連コンプレックスの疎隔による解離や多重人格が引き起こされ、他方ではそれを癒す呪術師や救済者の役割を生きる者を生み出す。”(P173~P175)

 

 “トリックスターには両義性があって、捉えどころのない不可解さが人を混乱に巻き込むのだが、その極端な例の一つとして、みずからの滅びを演出して見せるということがあるのだ。狡猾で用意周到、抜け目のないトリックスターは、そのプロットのなかに自分自身を否応なく破滅に追い込むような仕掛けをこっそり組み込んでいる。

 その現れは、ちょっとした失策行為だったり、いきなりの暴走や爆発だったり、あえてさらけ出して見せる隙だったりする。新旧のトリックスターの験比べは熾烈なものになるのが常だが、闘争を繰り返しているうちに、あとから現れたほうが勝利をおさめるときが来るかもしれない。古参のトリックスターは、自分が新参者に取って代わられるよう、みごとなお膳立てをするからである。

 じつは、新旧のトリックスターは必ずしも別々の存在ではない。同一の元型の対立し合う二つの側面と見なすこともできる。矛盾をその本質とするトリックスターは、一方で自我を幽閉して保護しながら、他方でそこから解放しようともするのである。その行動は理屈で説明することができない。ときとして、首尾一貫しない離れ業もやってのける。

 ユングは、前に引用した箇所で、ポルターガイストを低級なものと見ていたし、別の箇所でも「トリックスターは‥‥‥子供っぽい劣等な性格を示す一種の第二人格を示している。この劣等人格は心霊術の集まりで話したいと申し出たり、『ポルターガイスト』の特徴である子供っぽい現象を引き起こすような人格に似ている」(Jung 1954c)と言う。しかし、トリックスターのヌミノースムに満ちた救済者的な性格についても明確に指摘している(Jung 1954c)。

 このトリックスターの理解し難い性質は何に由来するのだろうか。一言で言えば、その極度の無意識性による。そこには、意識の特質のひとつである一貫した方向性というものがない。その微妙な様相をユング(1954c)はこう語る。

 

 彼は救世主の先駆者であり、救世主のように神であり、人間であり、動物である。彼は人間以下でも以上でもあり、半神半獣的存在であり、彼の主な驚くべき特徴は、無意識である。そのために、彼は彼の(明らかに人間の)仲間から見棄てられるが、それは仲間の意識水準からの落ち込みを示唆しているのであろう。彼は自身について余りにも無意識であるので、統一性がなく、彼の二本の手は互いに争う。(河合訳)

 

 このような意味で、トリックスターは、きわめて未分化かつ原始的な衝動にも似た活動を見せる。わが国の神話における例として素戔嗚(すさのを)をあげておいたが、彼がそう見なされるのは、中つ国において酒を飲ませるトリックにより怪物から生贄を救出したからというばかりでなく、その前に高天原で大暴れしてみずからを窮地に追い込み追放されて(させて)いるからでもある。

 すでに説明したとおり、また素戔嗚の例からもわかるように、トリックスターは幼児的な劣等性を有していながら、神的な優位性も併せ持つ。その両面性の複雑さについてもユング(1954c)は指摘している。

 

 トリックスターは「宇宙的」存在で、半神半獣の性質をもち、その超人的特性の故に人間より優れており、他方ではその愚かさと無意識の故に人間より劣っている。彼はまた動物と比べると、著しい本能の不足と不器用さのために劣ることになる。これらの欠陥が彼の人間的性質のしるしであり、それは環境条件に動物よりも適応しないが、その代わりに、ずっと高い意識の発展への期待、すなわち、かなりの好学心をそなえており、それは神話を通じて相当に強調されている。(河合訳)

 

 その劣等性と優越性を通して世界は変わる。トリックスターは変容の秘薬。破壊と再建の秘密、生と死の秘密を知っている。ユング(1942,1944,1946,1948,1954a,1954b,1955/1956)は、錬金術が、人の心理学的な変容プロセスを物質の化学的な変容プロセスに投影したものであることを発見し、その研究にもとづいて、個性化のプロセスの成否の鍵を握っているのがメルクリウスなるトリックスターであることを指摘した。”(P180~P183)

 

                (老松克博「武術家、身・心・霊を行ず」(遠見書房)より)

 

*ユング派の精神分析学者であり精神科医でもある老松克博先生については、リブログ先の記事「占いの神(スサノオは共時性の元型的イメージ)」でもちょっと書かせていただきましたが、ここで紹介させていただいた「武術家、身・心・霊を行ず」は、副題に『ユング心理学からみた極限体験・殺傷のなかの救済』とありますが、ある高名な武術家の数十年にわたる修行の過程において、ご自身が体験された様々な霊的な現象、不可思議な出来事について、深層心理学の立場から、その意味を解き明かそうとするものです。この本の中では武術家の名前は明らかにされてはいませんが、ある程度の知識がある方なら、誰の事なのかはすぐわかります。Q師範(本名のイニシャルはQではありませんが)の数々の凄まじい体験は驚くべきもので、一気に読み終えてしまいました。ここで紹介させていただいた文章は、ユング心理学でいう「トリックスター」について述べられている箇所なのですが、老松先生によれば、トリックスターの概念は、霊能や霊性修行とも密接につながっているということで、確かに日本の古武術の中には、天狗のような異界の存在をその開祖とするものが少なからずあり、武術修行とは、結局は霊性の修行でもあるように思われます。これまで拙ブログでは何度か合気道に関するものを紹介させていただきましたが、合気道の植芝盛平開祖は出口王仁三郎聖師のもとで霊的な修行を積まれましたし、植芝開祖が建立された茨城県の岩間にある合気神社の御神体は、実は出口聖師に由来するものと聞いております。また、開祖の内弟子の一人で、現在はフロリダで合気道の道場を開いておられる五月女貢先生によると、開祖は「合気道が強くなりたければ霊界物語を読め」と言っておられたのだそうです。

 

*ユングはトリックスターを、救世主の先駆者であり、救世主のように神であり」と述べていますが、そのトリックスターをはっきりと救世主とみなして、主なる神の顕現の一つとして位置づけ、礼拝の対象としている宗教は、他には無いのではないかと思います。ここにもスサノオという神の神格の完全さ、出口聖師の宗教の独自性が現れているように思います。

 

・天にまします神の排便 (ユングの幻視体験) 

 「生ける神は教会のくびきに縛られてなどいない」

 

 “ユングは十二歳のとき、決定的な神体験をした。それは次のようであった。ある晴れた日、彼はバーゼルの大聖堂の広場に行き、その光景の見事さに圧倒されて思いにふけるが、そのとき神の偉大さと共に、よこしまな考えが浮かび出ようとし、これは聖霊に対する罪で、絶対に許されることのない最も恐ろしい罪であるので、その考えを懸命に抑え込もうとした。そして「考えちゃいけないんだ!」とかなり興奮して家に帰ったが、この考えが、強迫的に憑きまとって脳裡から離れなくなった。三日目の晩には、その強迫観念に苦しくて耐えられなくなり、彼はいろいろ考え抜いたあげく、地獄の火の中に飛び込むかのような勇気をふるい起して、考えの浮かぶがままに任せた。

 すると自分の眼前に青空を背景とした大聖堂が見え、神は地球の上の遥か高い所で玉座に坐っておられ、その玉座の下から夥しい量の排泄物が大聖堂にしたたり落ちて、その屋根や壁を破壊するのであった。

 この不敬な幻視体験は、ユングを奈落の絶望感におとしめるどころか、彼は名状しがたい救いをおぼえ、心が軽くなるのを感じた。そして神の恩寵を体験し、かつて経験したことのないほどの幸福感を味わい、感謝の涙を流すのであった。このバーゼル大聖堂の幻視体験は、ユングにとって「生涯の決定的な体験」であったという。

 この体験によってユングは、神は聖書と教会を超える存在であり、生ける神は神聖とされてきた伝統さえも拒絶することがある、ということを知った。と同時に神は自身の教会をも汚される方であり、ユングにとって神は恐ろしいものであると感じるようになった。神は一人子イエスを十字架にかける方であり、善人ヨブに苦難を与える神(「ヨブ記」)であり、アブラハムに対して人身御供を命ずる神(「創世記」十二章)であり、大聖堂に排泄物を落とす考えをユングに起こさせるというような、人間を圧倒する恐ろしい神でもある。ユングにとって神は愛と善なる方であると同時に、人間を圧倒し畏敬を起こさせるという二面性を持つ方であった。

 大聖堂における体験以後、ユングは「自分がもはや人間の間にはいず、ただ独りで神と共にいるのだという気持ちをしばしばいだくようになった。ところが父や牧師たちは教会に集まり、そこで図々しくも大声で、神の意志や行為について語るが、そこには生きた神の体験が欠けていた。しかしユングが自身の体験によって知りえた神はまさに生ける神であり、たとえ伝統的キリスト教からアウトサイダーとされても、生ける神の確信は強固で不動となったのである。”

 

           (久保田圭俉(桜美林大学教授)『ユングの宗教体験』より)

           (「季刊AZ 27号 ユング 現代の神話」新人物往来社に掲載)

 

*このユングの幻視体験の話を読んだとき、古事記にある、スサノオが天照大御神の神殿で 『屎まり散らした』 話が思い浮かびました。スサノオはまさにあらゆるものを圧倒する「生ける神」です。

 

・ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」    「『笑い』には真理を暴く力がある」

 

 *ネタバレがあります。

 “観念したホルヘはウィリアムに本を差し出します。革手袋をはめて読み始めるウィリアム。ページの端に毒が塗ってあること、すなわち、ページをめくるために指を舐めると毒がまわって死ぬこと、この本を手にした者は皆それが原因で死んだことを見抜いていたからです。彼はホルヘが施療院から持ち出し、塗ったものでした。本には、ベンチョが証言し、また目録にも記載があったように、まずアラビア語の写本があり、次にシリア語の写本があり、三つ目にギリシャ語の『キュプリアーヌスの饗宴』の注釈が綴じられていました。そして四つ目が、『書き出しを欠いた書物で、娘の乱交や娼婦の情事について記したもの』、すなわち、アリストテレスが『詩学』の第一部で悲劇について語ったのち喜劇について書いた第二部でした。

 ウィリアムは、ここでアリストテレスが笑いを「いわば有徳の力として、認識的価値さえ備えうるもの」とみなしていると解釈します。笑いは、「機知に富んだ謎や予想を超えた隠喩を介して、事物をあるがままと異なるかたちで、まるで欺こうとでもするかのように、わたしたちにつたえることによって、実際には、わたしたちが事物をもっとよく見るように仕向け、なるほど、確かにそのとおり、知らずにいたのは自分のほうだ、と言わざるをえないようにする」と、その効能を説くのでした。

 喜劇についての本がほかにもあるなかで、なぜこの一巻だけを隠し通そうとしたのかを問うウィリアムに、ホルヘは「なぜなら、あの哲学者の手になるものゆえ」と答えます。アリストテレスの哲学思想はキリスト教世界にとって基盤となるものであり、それゆえにとびきり危険な影響力をもっており、そのアリストテレスの喜劇論が流布すれば、ついには神のイメージが転覆を免れられず、人々は笑いによって神への畏怖を忘れてしまう、とホルヘは嘆きながら述べます。そして、「この書物は、間違えば、平信徒たちのことばには何かしらか智慧がふくまれているという考えを是認しかねないものだ。それは食い止めねばならぬ。…〈中略〉… ホルヘがアドソからランプを奪い、床に積まれた本の山に投げました。たちまち火の手が上がります。ホルヘはそこにアリストテレスの本も投げ入れます。燃え盛る炎はやがて建物全体にまわり、長きにわたって世界中から集められてきた膨大な本は、巨大な迷宮とともにすべて失われてしまいました。

 ホルヘが隠しつづけてきたもの、それはアリストテレスが喜劇について記した書物でした。ホルヘはなぜそれを隠したのか。ここでは笑いと真実の関係をめぐる議論というものが中心にあると考えられます。これはエーコという作家、そして哲学者にとって生涯にわたり中心的なテーマでもありました。つまり、真実とはどこにあるのか、どこから来るのか、という問いがエーコにとって生涯変わることのない問いであり、その問いをめぐって理論書がかかれ、小説が書かれ、エッセイが書かれてきた。そして真実と笑いの関係の考察を小説において最初に実践したのが、この『薔薇の名前』という作品でした。

 焼け落ちた図書館から脱出したあとのウィリアムに、エーコはこう言わせています。

 

「ホルヘがアリストテレスの『詩学』第二部を怖れたのは、もしかしたら、その説くところがあらゆる真理の貌を歪め、ほんとうにわたしたちがみずからの幻影に成り果てかねない点にあったのかもしれない。おそらく人びとを愛する者の務めは、真理を笑わせ、真理が笑うよう仕向けることにある。なぜなら唯一の真理とは、わたしたちみずからが真理に対する不健全な情熱から解放される術を学ぶことであるからだ」

 

        (「NHK 100分de名著『ウンベルト・エーコ 薔薇の名前』」和田忠彦)