“キリスト衝動”による苦しみの克服(人智学) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ルドルフ・シュタイナー

 

 “紀元前六世紀、物質界に歩み入ることは人々にとって苦痛であった。ゴルゴタの秘儀以後、「生の苦」という真理はどのように心魂の前に現われるだろうか。ゴルゴタの丘の上の十字架を見上げる人々に、この真理はどのように現われるだろうか。仏陀が言うように、誕生は苦であろうか。ゴルゴタの丘の十字架を見上げ、その十字架と結ばれるのを感じる人々は、「誕生は人間を地球に導く。地球は自らの元素をキリストにまとわせることができた」と思う。

 彼らは、キリストが歩んだ地上に歩み入ろうとする。キリストとの結び付きをとおして、心魂のなかに力が生じる。この力をとおして、精神界に上昇することができるのである。そして、誕生は苦ではなく、救世主を見出すための門である、という認識が生じる。救世主は人体を形成する地上の素材をまとったのである。

 病気は苦であろうか。

 ゴルゴタの衝動を真の意味で理解した者は、病気は苦ではないと思う。今日、キリストとともに混入する霊的生命とは何なのかをまだ理解できないとしても、未来には理解できるようになって、キリスト衝動に貫かれ、内奥にキリストの力を吸収し、自分の中から発展させる強い健康の力によってすべての病気は克服される、ということを知るようになる。キリストは人類の偉大な治療家だからである。精神から真に強力な治癒力を発展させ、病気を克服しうるものすべてが、彼の力のなかに含まれている。

 病気は苦ではない。病気は、人間が自らの内でキリストの力を発展させるために障害を克服する機会なのである。

 老衰についても、同じように明らかになるにちがいない。身体が弱っていくにつれて、私たちは精神において成長し、私たちのなかに棲むキリストの力をとおして自らの支配者になることができるのである。

 老いは苦ではない。日々、私たちは精神界のなかに成長していくのである。

 おなじく、死も苦ではない。死は復活によって克服されるからである。ゴルゴタの秘儀によって死は克服されたのである。

 愛する者と別れるのは苦だろうか。キリストの力に貫かれた心魂は、愛はどのような物質的な障害も越えて、心魂から心魂に絆を結べることを知っている。精神の絆は引き裂かれない。誕生から死までのあいだの生、そして死から再誕までのあいだの生において、キリスト衝動をとおして精神のなかで道を見出せないものは何もない。キリスト衝動に貫かれているなら、愛する者と長い間別れたままでいるとは考えられない。キリストは、愛する者たちを結び付ける。

 おなじく、愛さない者と結ばれることは苦ではない。キリスト衝動を心魂に受け入れるなら、すべての人をそれぞれにふさわしい度合いで愛するようにキリスト衝動が教えるからである。キリスト衝動が示す道を見出せば、愛さない者と結ばれることは、もはや苦ではない。私たちが愛を抱かないものは何もなくなるからだ。

 キリストとともにあれば、欲するものを得られないことは、もはや苦ではない。人間の感情・欲望はキリスト衝動をとおして純化されて高貴なものになり、自分たちが得られるものしか欲しなくなる。欠けているものに苦しむことは、もはやない。なにかがなくて苦しんでいるときは、キリストの力は苦を浄化と感じる力を与える。だから、それはもはや苦ではない。

 ゴルゴタの秘儀が成就されたとき、ナザレのイエスのエーテル体とアストラル体に何かが起こった。イエスのなかに棲むキリストの力によって、イエスのエーテル体とアストラル体は何倍にも複写されたのである。それ以来、精神界にナザレのイエスのアストラル体とエーテル体のコピーがいくつも存在し、それらのコピーが作用を続ける。”

 

    (ルドルフ・シュタイナー 西川劉範訳「シュタイナー キリスト論集」(アルテ)より)

*最後の、イエスのコピー云々という箇所には、表現の仕方にちょっと違和感を感じるのですが、要するに、イエスのアストラル体、エーテル体のコピーが我々のアストラル体あるいはエーテル体に織り込まれることによって、我々はイエスと結ばれ、一体となることができる、ということのようです。仏教でいう感応道交と同じ意味のようにも思われます。正教会の聖体礼儀やカトリックのミサにおける聖体拝領、また、ヨハネ福音書14章のイエスの言葉「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」の聖句は、このような意味として理解されるべきなのかもしれません。そして「みことば=福音書」や「霊界物語」の拝読、「称名念仏」なども、同じように救世神との感応をもたらすものだと思います。

 

 “あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。”(ヨハネによる福音書14章)

 

 “徳本(とくほん)が仏になるのは難しいが、仏様のほうから徳本になってくださるので、仏にならずにおられない”(徳本上人(江戸時代の念仏の聖者))

 

 “瑞月が霊界物語を編纂するのも、要するに法すなわち経蔵または教典を作るのですなわち神を生みつつあるのである。また、自己の神をあらわし、また宣伝使といふ神を生むためである。ゆゑにこの物語によって生まれたる経典も、神言も、皆神であって、要するに瑞月そのものの神を生かすためであると確信している。”(「霊界物語」第40巻緒言)

 

 “「霊界物語」を拝読するとき、神の言葉を今承(うけたまわ)っているのだという心構えであれば、魂の中に入るけれども、何か小説でも読んでいるような心構えであれば、得るものが少ないのである。声を出して読めば、自分の耳に神のお言葉が直接響いてくる。神の御声を聞きつつあるという心で読めば内流となるのである。神は現実の世界に住む者に対しては直接内流はくださらぬ。そこで聖言に依って内流するのである。「霊界物語」は瑞霊の教であり、聖言なのである。これによって生命の糧は与えられるのであるから、物語を常に拝読するように心がけなくてはならぬ。物語の中に神は坐しますことをさとらなくてはならぬ。”(「愛善苑」昭和25年7月号「瑞言録」大国以都雄編)

 

*この本「シュタイナー キリスト論集」は、ルドルフ・シュタイナーがその著作や講演などでキリストについて述べていたものから、西川劉範先生がテーマを絞り、編訳されたものです。西川先生が「訳者あとがき」で述べておられるように、キリスト教についての霊的な理解が一層深まるような内容となっています。「キリスト体験へ至るための三つの道」なども紹介されています。