神なき世界に (キリスト者共同体) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “‥‥‥神々の黄昏を経験し、超感覚的な故郷を忘却するにつれて、人間は地上に住むことに慣れ、しだいにそこを自分の世界にした。それによって人間は個人としての意識と目覚めを手に入れたが、そのためには楽園の喪失という犠牲をはらわねばならなかった。

 地上世界は、いわば真空、つまり森羅万象に満ち満ちている神の現前の中にあるうつろな空間とでも言える意味合いを持つようになった。この神の現前から地上が、厳密な意味で、完全に脱落したというのではない。だが、神の遍在というあまり意味が無い抽象観念を、もっと生きたものとして把握し、その偏在にはいわばより多く存在している部分とより少なく存在している部分がありうる、という考え方をつくりあげる必要がある。例えば、神は犯罪者の生存を常に保持しなければならず、また神はその犯罪のことを承知している。そのかぎりにおいて神は犯罪者の中にも現前している、しかし神は善なる行為の中で、全く異なる意味で、より高い段階において現前している。もしこのような神の遍在の中に、いわば濃の違いのようなものがないならば、神の国の来たらんこと、神の意志が地上でも行われんことを願ういかなる祈りも、意味のないものになってしまうだろう。このような、「人間の意識にはほとんど分からないほどにまで弱まり、感じることのできないほどにまで薄められた神の存在」という考え方を取り入れるならば、地上世界を真空、いわば「神なき空間」と名付けることができよう。人間はその独立性を発展させるために、この特殊な存在領域の中に移し置かれたのである。

 かくも多くの、身の毛のよだつほどひどいことが地上で起こり得て、神がそれを許容しているのは、以上のことに関係している。人間は、ある程度まで神がいなくなったこのような世界の中で、本当に誤り、本当に失敗するという可能性に真剣に直面しなかったならば、自分の足で立つことは決してなかっただろう。そのような深刻な可能性がないならば自由はなく、―― そして神は何も言わない―― は、決して神の冷淡さや無関心から生じているのではない。それは反対に、人間に対する神の至上の愛の悲劇的な裏面なのであり、避けることができないと同時に必要であり、神さえも変えることができないものである。もちろんそれは、いつかはそうなるべき人間に対する愛である。未来の人間に対する神の愛は、私たちが死と悪の領域の中を通過していくことを、省略できないのである。神は、その全能によって悪を防ぐことを断念した。神は悪を許容したのである。しかし神はそのかわりに、別な仕方、つまりキリストを送ることによって人間を救うのである。”

 

(ルドルフ・フリーリンク「キリスト教の本質について」(涼風書林)より) 

 

*この本「キリスト教の本質について」は、以前にも紹介させていただきましたが、ルドルフ・シュタイナーが創立に関わった“キリスト者共同体”の司祭であり総代表でもあったルドルフ・フリーリンク博士によって書かれたもので、博士の著作で邦訳があるのは私の知る限りこの一冊だけです。Amazonでは取り扱っておらず、購入を希望される方は、直接出版社である涼風書林に申し込む必要があります。7世紀に中国に伝えられたネストリウス派キリスト教の教会では「聖霊」は「涼風」と訳され、それが社名の由来だそうですが、「涼風」とはまさに「神の息(プシュケー)を思わせ、素晴らしい訳だと思います。人智学に基づく(といっても定まった教義や戒律はありません)キリスト教会、「キリスト者共同体」は日本には2000年に創設され、東京や大阪、名古屋、札幌などで活動しておられるようです。

 

*聖書では、麦畑に悪魔によって撒かれた毒麦は、良い麦に混じったままで放置され、収穫のときにすべてがまとめて刈り入れられ、それからはじめて毒麦だけが別にされて束にされ焼き捨てられます(マタイ伝13)。良い麦を損なわないために、あえて毒麦は収穫のときまで放置され続けるのであって、その意味をよく考える必要があると思います。

 

・クリスマスについて (シュタイナー人智学)

 “……クリスマスは冬至の日とほぼ一致します。…〈中略〉… 闇がもっとも深まる冬至の日は、逆にこれから光が強まっていく出発点とみなすこともできるわけです。
 このような光と闇のバランスの変化は、人間の内なる魂にも影響を及ぼします。秋が過ぎて、寒くて暗い冬がやってくるにつれて、人間の魂は次第に自己の内面に向かいます。そして闇が深まる冬至の頃、人間の魂は、内面の一番深いところまで降りていくのです。
 しかし、人間は魂の奥底に到達したとき、今度は逆に光が蘇ってくるような感覚をおぼえます。もっとも闇が深まれば、もうそれ以上、闇が勝つことはありません。深い闇の底に到達したとき、人間は、おのずと「もうこれ以上闇が増大することはない。これから先は、少しずつ光が闇に打ち勝っていくだろう」という予感を抱くのです。
 闇は徐々に強まっていくときにのみ、我々を圧倒することができます。その強さが最高潮に達したら、あとは闇は後退していくしかありません。冬至の頃、私たちの魂は、このような闇と光のバランスの変化を、なかば無意識のうちに感じ取るのです。
 クリスマスのお祭りでは、ロウソクやランタンが灯されます。
 闇の中に輝く小さな灯りは、私たちの魂の中に灯った光の象徴です。ロウソクは私たちの魂の光そのものなのです。
 一年の中で、もっとも寒くて暗い時期にやってくるクリスマスに、私たちは、「もう、これ以上つらいことは続かないだろう」という予感を抱きます。クリスマスがやってくるということ、それ自体が、私たちにとっては恩寵なのです。そのために、キリスト教の洗礼を受けているかどうか、ということとは関係なしに、すべての人が、クリスマスというお祭りを通して、おだやかな慰めの気分を感じ取ることができるのです。”

(トマス・ベルガー/ヘルガ・マイヤーブレーカー「シュタイナー教育クラフトワールド vol7 クリスマスクラフト & ローズウィンドウ」イザラ書房より)

 

*ルドルフ・シュタイナーだけでなく、エドガー・ケイシーやスウェーデンボルグも同じようなことを述べていますが、キリスト教とは、単に数ある宗教のうちの一つではありません。キリストの降誕、十字架、そして復活の秘儀は、万物に影響を及ぼし、その霊性はあらゆるものに浸透したのであり、キリスト以後は、すべてのものが新しくされたと説かれています。ヒンドゥの神クリシュナの神話とイエスの生涯にみられる多くの共通点や、仏教が大乗仏教へと変化していったことなどは、決して偶然ではありません。そして、「わたしにはまた、この囲いに属さない他の羊があります。わたしはそれをも導かねばなりません。彼らは私の声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」(ヨハネによる福音書10章16節)とあるように、キリスト教徒ではなくとも、キリストの霊性を受け継いでいるという人々や宗教も存在します。また、ある時代の教会がその使命を終えるときには、主によって他の場所に新たな教会が興されるのであり、スウェーデンボルグの予言によれば、それは既存のキリスト教世界から遠く離れた、異邦人の地に創建されるとされています(とはいえ、私は大本・愛善苑がその教会だとは思っていません。「みろくの世には宗教はなくなる」ということですので、宗教の形態自体がこれまでとは異なるものになるのではないかと思います)。

 

・スウェーデンボルグの予言

 

 “霊界での自分の見聞や体験を描くさい、きわめて誠実であった彼は、『最後の審判とバビロンの滅亡』の最終ページに、「天使たちと語りあったこと」と前置きして、将来のキリスト教と新時代の宗教とについて以下のように付記している。

 
 「今後の教会の状態について、私は天使たちとさまざまに語りあった。彼らはこう言った。 『将来おこることは主のみに属していることゆえ、私達はそれを知りません。けれども私たちは、教会の人間が以前陥っていた奴隷と捕囚の常態が取り除かれ、今度回復された自由によって、教会の内的な真理を認めようと思えば、これをもっとよく認めることができ、またもっと内的な人間になりたいなら、そうなることもできるということを知っています。
 しかし、私たちは、キリスト教会の人々には依然わずかな希望しかもっていません。かえって、キリスト教世界から遠く離れ、そのために悩ます者たちから引き離されている或る国には多くの希望を抱いています。この国は霊的な光を受け容れ、天的-霊的な人間になされうる国です。現在、内的な神的真理がこの国に啓示されています。そしてこの啓示は、霊的な信仰をもって、つまり生命と心情をもって受け容れられ、その国民は主を礼拝しています。』」(「最後の審判とバビロンの滅亡」七四)

 
 キリスト教会の時代に続く新しい教会の時代に入ってすでに二百数十年が経過した。この天使たちが語ったという国とは、いったいどこなのだろうか。未来のことを知ろうとするのは「悪しき愛」であり、将来起こることは「主にのみ属する」とはいえ、現代の私たちは過去に語られた天使の言葉を検証する資格を有する。しかしそれは、あまりにも抽象的で簡潔な言明でしかないから、この国を特定することは不可能である。
 ただ、原宗教の循環の中で新しい教会は「異邦人」のもとに興るという、スウェーデンボルグの明確な言明がある。彼はこう述べている。

 
 「教会が教会でなくなるとき、すなわち仁愛が死滅して新しい教会が主によって再び創建されつつあるとき、新しい教会は、古い教会に属する者たちのあいだには、たとえ創建されるにしても、まれにしか創建されない。新しい教会は、以前に教会が存在しなかった者たち、すなわち異邦人のあいだに創建されるのである。」(「天界の秘儀」二九八六)


 この引用文に続いて、スウェーデンボルグは、原古代教会の終わりつつあったときの古代教会を始め、ユダヤ教会もキリスト教会も、すべてが「異邦人」のあいだに創建されたと述べている。そして他の個所において、キリスト教会に続く新しい教会は「今や異邦人のもとへ移されつつある」(同書、九二五六〔五〕)と明言している。「キリスト教世界から遠く離れた」「異邦人」の国とはいったいどこなのか。興味をそそる問題ではあるが、これ以上の深入りは慎みたいと思う。” 

   

         (高橋和夫「スウェーデンボルグの宗教世界」(人文書院)より)