キリストの十字架 〔テレーゼ・ノイマン〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・テレーゼ・ノイマンの幻視

 

 “当時の、あの世界と、その時の出来事を、ありのまま、現実として体験するので、あの国の気候のそのまま、気温もそのままに、救い主が逮捕された晩の凍りつく寒さも感知するのです。聖書の記事によって、私たちは夜おそく番人たちが司祭長の屋敷内でたき火をしているところへ、ペトロが、そのたき火のそばにすわっていたことを知っています。夜が更けてから、彼女に鶏の声がきこえると、ペトロが「この人を知らない」と誓う声もきこえます。カイファが姿を現わすと、そのひたいにいちじるしい札があるのを認めて、問われるままに、それをくわしくそのまま描写するのです。それはイスラエルの十二族の名を記されてある板、すなわちエポデです。司祭長がはげしい形相で自分の着物を引き裂くありさま、恐れ入っているペトロをかえりみられるイエズスのまなざしに気づくと、彼女の顔に同情の色が浮かび、ペトロとともにはげしく泣き入るのです。裁判するピラトが臆病にも不当な判決を下す段になると彼女の顔は怒りの形相に変わります。狂い騒ぐ群衆の嘲笑と憎悪に、おどろきの目を見張るのです。

 十字架の道行の幻視‥‥‥。それが始まりますと手足から、心臓から、頭部のいばらの冠のあたりから、血がしたたり始めます。主が初めて地面に倒れたもうのを見るや彼女自身も倒れでもするような様子を現わします。主が倒れたもう三度が三度ともを、彼女も体験するのです。路傍に泣く婦人や、主の御母が主に出会うのを見ては、限りない感謝とよろこび、悲しみのこもごもな心をとらえるうちに、見送るのであります。彼女の語る描写は現実のようにつづきます。カルワリオにいたるまでの街路と家々の様子、シレネ人のシモンが二人の息子とやって来ます。そして十字架をかつぐよう手伝わされそうになるとシモンに、ののしったり、さけんだり、拒絶したりするあらあらしい声がきこえ、主がやさしい目付きで見たもうや、シモンの心は一変して十字架の一方の重いはしを持ち上げてかつ上げます。シモンは彼女の幻視によれば他のユダヤ人の服装とは違っていました。ギリシャ人だったに違いありません。一人の女が進み出て自分の肩掛けを主に渡すと、主はそれでお顔をぬぐわれ、それにお顔の跡が印されるのを見ます。列の中を走る子供のことを彼女は私たち北部プフルツの方言で「小さいプツェルン」と呼びました。聖地の四月の日中の暑さでテレーゼは息苦しくなってきたようです。早朝六時過ぎに鞭打ちが始まりますと、いばらの冠が、かぶせられ、十二時ごろ、カルワリオ丘上では、十字架刑の用意がなされています。救い主は着衣を引き脱がされると、鞭打たれ、みみず腫れの跡がありありと残されたのを彼女は認めます。それと同時に彼女の鞭打ちの傷からはいっそうひどく出血してきました。主が十字架上にむざんにはりつけられるのを見て、彼女は絶望的に泣き、うめき始めます。主がはりつけられた時になりますと、彼女の手は痛みのためにまがり、その傷からは血がふき出します。槌で釘が打ち込まれる段には、彼女の全身、ことに両手両足はけいれんし始めました。

 受難が真実であったことはもちろん、その経過さえあやまりないことは、彼女の幻視における体験が、いずれの時においても同一で、その苦悩が新しく繰り返されても、その身振りは完全に同一であるということが、圧倒的証明の一つになります。

 フライヘル・フォン・アレッティンは一九三八年、しばらく不在の後、ふたたびテレーゼが十字架の幻視で忘我の境にあるとき来合わせ、こう報告しています。

 「両手が新たにはげしく出血しはじめた。あれから十一年を経過したのに、テレーゼ・ノイマンはキリストのご死去まで、どの段階にも私が一九二七年に見てからとても忘れることのできない同じ動作を繰り返した。今度も彼女はキリストのみ言葉に従って十字架のまわりから聖母の所へ行く聖ヨハネの姿を目で追う。今度も左側の、神を汚す悪人を拳でおどす。今度も刑吏どもの行為を注意深く目で追う」と。”

 

(カール・デンライトネル「[受難]の旅人 テレーゼ・ノイマン」(ドン・ボスコ社)より)

 

*テレーゼ・ノイマンについては以前にも書かせていただきましたが、パラマハンサ・ヨガナンダ師の「あるヨギの自叙伝」でも紹介されていますので、多くの方がご存じだと思います。ただ、ほとんどの方は、単に「不食の人」という認識でしかないと思いますが、テレーゼはホスチア、つまり御聖体(=救い主)を拝領することで生き続けたのであって、ただ何も食べずに生きていたというわけではありませんし、何も食べずに生きることを望んでいたわけでもありません。テレーゼに起こった数々の不思議な出来事は、彼女に光の中から語りかけた聖人、リジューの聖テレジアの言葉によれば、「より高い神の干渉が世に存在することを世界の人々に知らせるためである」ということでした。テレーゼ自身、「ラジオ、新聞、著書などによって私のところに押しかけることはどうか止めてください。そのかわり、その興味を十字架を仰ぎ見る方へお向け願います。どうかキリストのお訓(さと)しを実行してくださいますように」と語っています。テレーゼの望みは、人類が将来食べなくても生きていけるようにということではなく、皆がキリストを信じ、受け入れてくれることでした。

 

*ルドルフ・シュタイナーによると、復活祭の時期には、キリストは私たちに最も近づき、私たちのなかに溶け込み、浸透する、ということです。たとえクリスチャンでなくとも、今週末は聖書を読み、キリストのご受難を黙想してみるのもよいと思います。

 

 “……復活祭は、クリスマスの時期にキリストとの出会いによって、私たちの中に呼び起されたものが、再び私たちの中の物質的な地球上の人間と正しく結びつく時期であることがわかります。そして、更に復活祭の時期には、聖金曜日の大いなる秘儀が、ゴルゴダの秘儀を人間の前にありありと甦らせてくれます。聖金曜日の秘儀はとりわけつぎのような意味を持っています。即ち、私たちの傍へとやってくるキリストは、聖金曜日の頃、最も私たちに近づくのです。大まかに言えば、キリストは私たちの中に溶け込み、浸透し、……”

               (ルドルフ・シュタイナー「天使と人間」イザラ書房より)