イエス・キリストの贖罪と復活 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・スウェーデンボルグの贖罪論

 

 “スウェーデンボルグの贖罪論をもう少し明確にするためには、イエスの人格のうちで起こった、内部の神的霊魂とマリアから取った外部の人間性との合一のプロセスについて述べなくてはならない。

 イエスのうちで神性と人間性とが順序を踏んで合一し、ついにその人間性が「神的人間性」となるプロセスを、スウェーデンボルグは「栄化」と呼ぶ。そして、このプロセスは聖言の霊的な意味として、特に「創世記」の第一二章から最終の第五〇章までに詳細に記述されているという。『天界の秘儀』で彼は膨大な釈義を展開してこれを明らかにしているが、ここでは「栄化」について要点だけを述べておく。

 スウェーデンボルグは、生前のイエスは、神性と一時的に合一した「栄化された状態」と、まだ神性と離れていた「卑下の状態」という二つの状態を有した、と説く。「卑下の状態」とは、イエスが自らの内に在ます神的霊魂と分離し、他人に祈るように、内面の父なる神に祈るといった状態である。これは、多くの聖書学者が「イザヤ書」第五三章に預言されていると指摘する「苦難の僕(しもべ)」としてのイエスである。

 神ヤハウェは救済伸として人類を救うべく、マリアから取った自らの人間性の中に、つまりイエスの人間性の中に、人間の脆さと交流できる基盤を形成した。この意味では、イエスはマリアから取った罪に汚染された人間性のうちに、人類の罪を集中的に負ったのである。

 しかしイエスは、身代わりになったのではなく、内なる神的霊魂から来る力によって人類のさまざまな罪と現実に戦い、これをみずからの内で征服して秩序づけたのである。その苦悩、苦痛、悲しみ、嘆きは、そのまま、ひとりの生きた人間の実存的な精神的葛藤であった。十字架の死も現実の戦いであり、最後の試練であった。イエスはそれにも打ち克って自らの人間性を内部の神性に合一させ、人間性を完全に神化して、神的な人間と成したのである。こうしてイエスは、その生涯にわたる悪や罪との戦いの全戦全勝の勝利者・征服者となって人間性を栄化し、永遠の救世主となったのである。

 スウェーデンボルグは、「私たちを創ったのと同じ神が私たちを贖い、新生させ、救うということを、健全な理性を持つ誰が承認しないであろうか」(「新教会教理概要」Summaria Expositio Doctrinae Novae Ecclesiae 37)と述べ、救済は唯一の神の全人類への無限の愛からなされた全能の業(わざ)であった、と説いている。“

 

(高橋和夫「スウェーデンボルグの思想」(講談社現代新書)より)

 

・エドガー・ケイシー


 “肉体的にだけでなく霊的にも死を克服する必要があるという認識は、これまで見て来たように、人間を肉体・精神・霊(魂)の三身と見るケイシーの見解に一致している。またイエスのこの体験は、次のような意味において各人の体験するものと同類のものであるという。「すべての魂はいつか、自分が心と体で為して来た行為をもって、造り主の御座の前に立つことになる。そして慈悲の御座の前に、造り主、創造主、さよう神の御座の前に、自分の霊体を示さなくてはならないのだ」(五七四九-六)。”

 

 “……復活の神秘は「人間の肉体を聖なる肉体へ変化させる」(二五三三-八)ことにあるか、という質問に対して、眠れるケイシーはそれを否定して次のように言った。「これは肉体の変化ではなく創造である……」と。”

 

(リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)

 

・われらが神キリストの救いをもたらす光栄ある御復活の、聖なる輝かしき日を祝して朗読される、われらが教父聖ヨハンネス・クリソストモス(4世紀)の説教

 
“敬虔なる者、神を愛する者はみな、この美しく輝かしき祝典を享受せよ。忠実なるしもべはみな、おのが主の喜びの中に入れ。断食の苦しみを味わいし者は、今その代償を受けよ。1時より働きたる者は、今その正当なる報酬を受けよ。3時以後に来たる者は、感謝の気持ちもてこの祝典を祝え。6時以後に来たる者は、ためらうことなかれ、何も欠けたるものなきゆえに。9時になりて来たる者は、ためらうことなく近寄れ。11時になりて来たる者さえ、その怠慢を恐るるなかれ、主は寛大に最初の者も最後の者も受け入れ給うゆえ。主は最初の労働者と同様に、11番目の労働者にも休息を認め給う。主は最後の者に慈悲を与え、最初の者を保護し給う。最初の者には恩恵を与え、最後の者には恩恵をなし給う。主はその成果を受け、愛もてその熱意を歓迎し給う。その行為に敬意を払い、その志を称賛し給う。さればみな、主の喜びの中に入り、初めに来たる者も後に来たる者も報酬を受けよ。富める者も貧しき者も混じり合え。節制したる者も怠惰な者も、この日を讃えよ。断食をしたる者もせざる者も、今日は楽しめ。食卓は食物に満たされたるゆえ、みな底意を持たずに味わえ。肉も用意されたるゆえ、再び空腹となる者なからん。みな信仰の祝宴を味わえ。みな美徳の豊かさを味わえ。貧しきを悲しむ者なからんことを、すべての者の王国が現れしゆえ。おのが罪を嘆く者なからんことを、免罪が墓より現われしゆえ。死を恐るる者なからんことを、救い主の死がわれらを解き放ちたるゆえ。主は死にとらわれ給いし後、死を消滅させ給いぬ。主は冥府に降り給いて、冥府より自らを奪い給いぬ。主は苦しみもて冥府に満たされ、肉体を試し給いぬ。イザヤがかく叫び給いし時に告げたるごとく。冥府は、地下にて御身と会いし時、苦しみを受けたり。冥府はその力を破られしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は滅ぼされしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は支配力を失いしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は鎖につながれしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は遺体を受けんと思い、神を見たり。冥府はちりを期待し、天に向かいたり。見たるものを受けんと思い、見ざるものにつまずきたり。おお死よ、汝の棘はいずこにあるや。冥府よ、汝の勝利はいずこにあるや。キリストはよみがえり給い、汝はちりの中に沈みぬ。キリストはよみがえり給い、悪魔は倒れぬ。キリストはよみがえり給い、天使は歓呼す。キリストはよみがえり給い、生命が支配す。キリストはよみがえり給い、墓にはもはや誰も横たわらず。キリストが、死よりよみがえりたる死者の初めなるゆえ。キリストに永遠に栄光と力を。アーメン。”(今谷和徳氏訳 LP「アトス山の復活祭」の解説文より)

 

*東方正教会(オーソドックス)の典礼はユリウス暦のため(カトリックはグレゴリオ暦)、今年の復活大祭(パスハ)は5月2日になります。エルサレムの聖墳墓教会内にある「イエスの墓」での「聖なる火」の発火の様子は最近ではYouTubeでも中継されています。